21:尊氏と劉邦
天正四年(1576年)、六月。
朝、明智家京屋敷を出発する。
本能寺の前を通り、下京を通り抜け、七条大路を西へ向かい、丹波口へ。
桂川を渡ったところで浅黒い顔の中年男が馬を止め、一同を睨め回す。
「ここから山陰道だ」
顔に似合わず、よく通る、澄んだ声だ。
「内畑殿。護衛のほど、よろしく頼む。先方に訪いは告げてあるが、それゆえに待ち伏せもあり得るでな」
「相わかった。任されよ」
日之介が大声で答える。
伴をする足軽は、四人。いずれも油断なく街道の前後左右に目を配っている。
日之介が「武吉、前を見てきてくれ」と言うと、あばた顔の足軽がニヤリと笑って山陰道を先に駆ける。
「秦創殿。今回の普請役は、そなたの帳簿が頼りだ。抜かりはないな」
男は顔をやや俯かせ、上目遣いで睨めつけるように金造を見た。
金造は内心で「うひい」と思ったが、こくこくと頷いた。
「よし。では行くぞ! 丹波へ!」
意気揚々と馬を進めるのは、斎藤内蔵助利三。
美濃出身で、稲葉一鉄に仕えていたが、大喧嘩して稲葉家を飛び出す。その後、光秀に引き抜かれて明智家の家臣となった男だ。
(なんで、利三殿なんだ……)
光秀はまだ療養中なので丹波まで動かない方がいい。これはわかる。
それでも、明智左馬助秀満なり、明智二郎四郎光忠なり、光秀の親族を代理として出し、実際の交渉や説明を金造が行う形ではなぜ駄目なのか。これが金造にはわからない。
稲葉家の一件からみて、利三は優秀だが性格に難がある。本人に悪意のあるなしは関係なく、相手が誤解するような言動をしがちである。しかも、狙ってやっている。
金造には理解できぬ精神性だ。
金造は明智家の勝手方である。数字に基づいた約束が役目だ。相手との認識が正しくないと仕事が滞る。相手の誤解を誘う言動は、それだけで害悪だ。
光秀も、利三の性格は理解している。だから引き抜いた後は手元に置いて使っていた……そのはずだ。
それが今回の丹波普請への抜擢人事である。
(何かいらぬ揉め事が起きねばよいが)
気が重い金造だが、ちら、と視線を日之介に向けると、太い腕を曲げて力こぶを作ってみせた。何かあれば日之介が金造を守る、という暗黙の合図だ。
少し気が楽になった金造は、これから向かう西の方角に目を向ける。
街道の、かなり前方に武吉が持つ槍の先が見える。待ち伏せ、不意打ちを防ぐための前方警戒だ。
その先には、山がある。丹波は山がちな地形だ。
嵐山を右手に見つつ、斜面を登っていく。
大枝山を周り込むようにして山陰道は老ノ坂峠を越える。
昼過ぎには、田畑が広がる細長い盆地に着いた。
道なりに約五里(21km)を進んだことになる。徒歩の旅であれば、京から半日の道程だ。そろそろ宿を探す頃合いである。
利三は、警備を日之介に任せているのをいいことに、物見遊山がごとく、のんきに景色を楽しんでいる風であった。
一行が到着したのは、篠村八幡宮だ。
事前に使いを出してあるので、今日はここに周辺の国衆が集まっている。
境内にたむろしている若い連中は、護衛役だろうか。目つきと柄が悪い。互いに「なんやこら」「やるんかこら」と無言のまま威嚇しあっている。
「惟任日向守様が名代! 斎藤内蔵助利三である! 亀山の国衆の方々、お集まりいただいたこと、我が主に代わり、感謝するっ!」
利三のよく透る美声に、意表を突かれた男たちの視線が集まる。
利三が唇に、してやったり、という得意げな笑みを浮かべた。
金造は、そういうところやぞ、という目つきで利三をみた。
「道の普請、ですか……」
「そして、いずれは城も……」
拝殿で行われた会合は、丹波国衆の猜疑と警戒の空気に満ちていた。
普請役というのは、どう割り振ったところで、割り振られる側には負担である。
国衆は、領民に負担をかけることを好まない。
領民の苦しみを思いやって、ではない。領主と領民の関係は、取引である。
領主が庇護し、領民が年貢や労役で支払う。新たな支払いを求めれば、不満が溜まる。
領主である国衆からすれば、自分の都合で領民に苦役をかけて不満が溜まるなら享受もするが、外からきた明智家のせいで領民に不満が溜まるのは納得がいかない。領民を宥めるなり、脅すなりの手間は、自分のためにとっておきたいのだ。
だが、それを国衆が口にしてしまえば、上位権力への明白な敵対行為となる。
国衆が口にするのは、もっともらしい言い訳の方だ。
「長雨で、川の堤が切れまして」
「収穫が終わった後は、そちらをなんとかせねばと、話し合っておったのです」
「もちろん、道普請のお手伝いはいたしますが、なにとぞ、ご配慮を……」
普段は互いに境目で相争う国衆たちが、一致団結して、外敵に立ち向かう。
感動的な光景である。
利三は、朗々と美声をあげて国衆に応える。
「なるほど、それは道理だ。我が主君もそう思うはず」
明智は彼らの外敵ではなく庇護者である。
一致団結しているはずの国衆からも、情報はすでに漏洩している。
京屋敷を出る前に、反撃の準備は済ませてあるのだ。光秀と金造の手で。
「では、堤の修復を先行させよう。秦創殿。絵図面を」
「はっ」
京の西を流れる桂川は、上流では保津峡を蛇行して山の間を抜け、亀山盆地では大堰川と名を変える。しばしば氾濫する暴れ川で、盆地を潤すと同時に災ともなる。名前の由来となった堰は律令よりも前の古代、丹波ではなく、山城の側に渡来人系の秦氏が作ったものだ。
「堤の切れた場所は、こちらとこちら。それと、ここが切れてはいないが、崩れかけて危ない。これで相違ないでしょうか」
金造が絵図面を広げて聞く。
何も知らなかった国衆は「あっ」と驚きの声をあげる。
事前に耳にしていた国衆が「なんと」と驚いたフリをする。
そして、実際に情報を漏洩していた数人の国衆は、称賛と悔しさの両方をにじませて「ううむ」と唸る。
──情報が、正確すぎる。
──誰ぞ。わしは、ここまでは伝えておらんぞ。
──わしらでは知り得ぬことも書いてある。忍びも入れてあるな、これは。
勝負あった。
細かい部分も、光秀が考え、金造が用意した素案を元に、利三が手早く処理していく。
地縁・血縁が親しい国衆を三人単位にまとめ、労役を共同で請け負う。誰かが負担しきれぬ場合には、まず残る二人が不足分を補う。三人組で無理となれば、利三に訴え出る。
「では、おのおのがた。これでよろしゅうござるな」
利三が、得意の美声で国衆一同に確認する。国衆が揃って頭を下げる。中には「よろしくない」者もいるだろうが、この場で訴え出るものはいない。
堤の普請は、国衆にとって利益しかないからだ。収益が増える。領民が喜ぶ。名も上がり、徳も積める。上げた名と徳は、後で何かやらかした時の支払いに使える。
ここはのるしかない。普請役を調整したことで、国衆に対する明智家の優位性が明白になってしまえば、この次に道の普請が、さらに城の普請が待っているとしても。
明智家側からすれば満点の、トントン拍子の流れであるが、金造としては危惧もある。
(鮮やかな手口でしてやられると、やられた側は胸に不満を溜める)
胸に溜めた不満を、晴らせぬまま放置すれば、心を矯めることとなる。
金造からすれば、鮮やかな手口で衆目を驚かすのは、未来の破綻を自ら用意しているようなものだとさえ、思えてしまう。
起請文を書き、一同の花押を添え、篠村八幡宮に奉納する。
会合が終わると酒食が供された。
利三が笑顔で盃を掲げる。
「この篠村八幡宮でこうして実りある会合ができたこと、やはり、足利尊氏公の恩徳であろうな」
利三の言葉を聞いて、国衆の間に「ざわっ」と動揺が走る。
「さようっ!」
篠村八幡宮の禰宜も務める国衆が、意気込んで声をあげる。
「尊氏公は六波羅攻めを前に、この神社に願文をおさめられたのです。当時の宮司が聞いたことですが、尊氏公は、その時に中国の皇帝と自らの境遇とを比されたとか」
「中国の……それは、漢の劉邦ではないかな」
他の国衆は、また始まったという顔をしていたが、ここで利三の返しに興味を示す。
「いえ、皇帝の名までは伝わっておらず……劉邦。なぜそう思われるのですか」
「京から丹波へ向かう山陰道を歩きながら、わしは明修桟道、暗渡陳倉という兵法書の一節を思っておった。尊氏公が我が身を劉邦に重ねていたとすれば、わしの感じた通りとなる」
「めいしゅう……なに?」
「暗かに陳倉を渡る、という言い回しは聞いたことはないか」
少し距離を置いて耳をそばだてていた国衆が声をあげた。
「おう、そっちならあるぞ! ……意味は知らんが」
「それで、尊氏公と劉邦とが、どうつながるんだ……つながるのですか」
「京は平たい。丹波は山の中だ。そして、古代の中国で劉邦が項羽によって押し込められた漢中という土地も、山の中だ。劉備は桟道を修理するように見せかけ、山道を突破して秦の始皇帝の都、咸陽(現:西安)を落としたのだ。そして後に劉邦は漢の初代皇帝となる」
「なんと! 尊氏公と同じではないか!」
国衆が、一気にどよめいた。
「そして丹波こそが、劉邦の旗揚げの地か!」
「我が家は、尊氏公の道案内をして六波羅攻めを成功させ、所領を安堵してもらったのだ。暗かに陳倉を渡る。うむ。これは伝えておかねば」
「利三殿! さっきのめいしゅうなんたら、漢字で書いてくれんか。おい、誰か紙と墨だせ!」
利三を国衆が取り囲む。盃を掲げるまでの硬く重い空気など、どこかに吹き飛んでいた。
思わぬ展開に、金造があっけにとられていると、日之介がくつくつと笑った。
「金造よ。利三殿のことで、なんぞ気を揉んでおったようだが、あの方はな、懐に入るとあんな感じよ」
「あんな感じ……」
国衆にもみくちゃにされながら、利三は手放しの笑顔となっていた。己の知識や考えを認められると、どうしようもなく嬉しくなる気質なのだ。
「これは……人との距離の取り方が難儀すぎるな……」
金造は会ったことはないが、利三が旧主である稲葉一鉄という老人と衝突した理由までも想像がついた。ひとたび不快となると、利三のやることなすこと、すべてが一鉄にとって癇に障ったはずだ。光秀が明智家に引き抜いたのも、放置しておけば、いずれ刃傷沙汰になると考えてのことだろう。
「やはり、殿はすごいな」
「……そこで、光秀殿を褒める流れになるのか」
「当然だろう! 殿はすごいんだから!」
「飲みすぎだぞ、金造」
丹波篠村の夜は、賑やかに過ぎていく。
「それでだな! これは切支丹の宣教師から聞いた話だが、南蛮船がやってきた羅馬の北も急峻な山々が続いていて軍事的には難攻不落であったのだが、戦象を連れた天竺の名将軍、馬瑠禍が──おい起きろ。ここからが面白いのだぞ!」
丹波の国衆は、決して仲は良くない。団結とは程遠い。
だが、この夜より、あることに関してだけは団結することを定めた。
斎藤内蔵助利三が名調子になったら、飲ませ、食べさせ、眠らせることを。
──誓ってこのようにし、偽れば神々の罰をうけます。




