20:光秀療養
天正四年(1576年)。
五月二十三日。天王寺の戦いの後、所労のため病を得た光秀は帰京して曲直瀬道三の屋敷に入り、療養生活に入った。
六月になり、光秀は京屋敷に戻るまで回復する。とはいえ、屋敷での光秀は寝たり起きたりで、まだまだ本調子ではなかった。
「おはようございます、光秀様。書状に花押をお願いします。それと今朝のご加減はどうですか」
「……金造よ、聞く順番が逆ではないか」
光秀が蝉の喧騒で遅い起床を果たすと、薬師より早く金造が枕元にきた。
隣の部屋で仕事をしていたのである。
「先に主君の体を気遣うものであろう」
「失礼しました、光秀様。今朝のご加減はどうでしょうか。それと書状に花押を。これらの手紙を読んで返事が必要なものは口述で返答を。その後で採決していただきたい書状はこちらにまとめてあります」
「仕事が増えてる!」
「増えてはいません。花押以外はお加減を確認し、問題ないようであればお願いしようと思っていたものです」
「てことは、花押は加減が悪くてもやらせる気だったのか」
光秀は薬師に脈をみてもらい、重湯の朝餉をすませた。
寝ている間に汗をかいた衣を、新しいものに着替える。
金造は、着替えの間も光秀のそばにいた。光秀の浮いた肋に、気遣わしげな視線を向ける。
(もうお若くはないのだから、無理をしないでいただきたい)
光秀は四十五才。四十三才の信長と同世代である。
足利義昭の上洛戦から八年。奉行として武将として、働き詰めに働いてきた。
坂本の地を得てからは、領主としての仕事もある。
過酷な労働環境で知られる織田家の基準でも、完全に過重労働だ。
(とはいえ、明智家に光秀様の代わりはおらぬ)
光秀の子は成人した二女を除けば、まだ幼い息子が一人。
明智家の重臣は三人いる。うち二人が一族に連なる者だ。
(左馬之助殿は佳い方だが、腹芸ができぬ)
明智左馬助秀満は四十才。光秀の又従弟で、明智家の筆頭家老だ。善良で勇敢。硬骨漢で責任感も強いので、家内の誰からも親しく思われている。だが、残念ながら左馬之助は生真面目にすぎた。光秀は明智家内の仕事と軍の指揮にのみ左馬助を用いている。公家や寺社との折衝や、他の織田家宿老と競り合うような仕事は、気質として向いていないからだ。本人もそれを自覚しているのか、普段から兵の訓練や戦場での指揮にのみ専念している。
(二郎四郎殿もそうだ。直情的にすぎる)
明智二郎四郎光忠は三十才。父親が義輝の奉公衆で、光秀とは遠縁になる。父親は義輝と共に永禄の変(1565年)で討ち死にし、光秀がまだ若い二郎四郎を引き取った。武芸が達者で前線指揮官としては光るものを持つが、感情がすぐ顔色に出る。取次など奏者としての仕事は苦手だ。日之介と仲が良い。
(斎藤利三殿は、仕事はできる方だが、中途採用であるし、喧嘩っぱやい。自由裁量での仕事の委任には向かぬ)
斎藤内蔵助利三は四十三才。優秀だが、それだけに己を頼むところが大きく狷介な気質で、旧主である稲葉一鉄とはたびたび衝突した。利三の才を惜しんだ光秀が明智家に引き抜く形にはなったが、そのことを利三が稲葉家の同輩に自慢気に吹聴したらしく、しかもこれが一鉄にまずい形で伝わり、一鉄を大激怒させる。岐阜城に乗り込んだ一鉄は信長に「自分が皺腹を切るか、光秀に命じて利三の腹を切らせるか選んでいただきたい」と訴えた。
信長は、一鉄の手を取り「おぬしに腹を切らせるなど、とんでもない」と瞳を潤潤させて“頑固一徹”な老人の気持ちを宥め、その場で光秀宛に光秀と利三を叱責する手紙を書いて「これこのように、光秀にきつく申し付けるので許してやってくれんか」と仲裁したと聞く。
この一件では光秀も思うところがあったらしく、利三は常に傍に置いて使っている。他人を馬鹿にして喧嘩にさえならなければ、なんでもできる男なのだ。天王寺砦の戦いでも、見事な働きをみせた。
(家中の他の御歴々も、それぞれ得難き才はあれど、殿の代わりは務まらぬ)
明智家は、急成長した織田家の中でも特に歴史が薄い。義昭の上洛戦からの八年しか歴史のない新興武家だ。光秀の才が際立っていたおかげで今の地位にあるわけだが、では、急膨張した明智家中を構成するのは何者か。
たとえば金造。越前の牢人暮らしから、小姓や側近としてついてきた者たち。
たとえば日之介。上洛戦の後、近江や山城の国衆から人質として出され、そのまま家臣として働いている者たち。堅田の猪飼昇貞ら、信長に付けられた近江の国衆などの与力も含められる。
たとえば滝次郎や武吉。米や銭で足軽として雇われた者たち。三好残党など、元から京周辺で日銭を稼いで暮らしていた流れ者が多い。その中から滝次郎のように足軽頭になる者も出ている。
(家中で多いのは、御所に仕えていた御伴衆、奉公衆ら幕臣だ)
たとえば伊勢貞興。貞興は長く御所の政所の執事を任せられてきた伊勢家の当主だ。伊勢家は貞興の祖父の代で三好家と対立し、所領も削られ、衰微している。
三年前。義昭と信長が破局を迎えた元亀四年/天正元年(1573年)からは、貞興ら旧幕臣と、それに仕える者たちが、新興武家の明智家臣団の質と量を支えている。
旧幕臣に、選択の余地はなかった。
義昭を見捨てたのか、義昭に見捨てられたのかは視点の問題だが、彼らが織田家中で伝手があるのは、幕臣仲間であった光秀の明智家だけだった。
何より、明智家は急拡大の最中にあって、多くの人手を必要としていた。
(急拡大した家中がまとまっているのは、光秀様の人徳と器量の為せる技だが……)
光秀に負担がかかるのは、避けられない。
四月から五月にかけての天王寺砦の戦いは光秀にさらなる負担をかけた。木津湊で塙直政が討ち死にした後は、直政の手勢も光秀が取りまとめた。利三による撤退戦の手際もよろしく、織田勢の損耗は百に満たなかった。
天王寺砦を囲んだ農民の数は約三千。天王寺砦には光秀指揮の千四百。本願寺周辺には一万を超える織田勢がいるが、ほとんどは出稼ぎの足軽だ。天王寺砦の千四百は、本願寺の補給線を断つために特別編成された、鉄砲足軽が半数を占める重火力の機動打撃部隊である。質の差を考えれば、天王寺砦側が有利とさえいえた。
だが、農民たちの中には鉄砲上手の紀伊の雑賀衆が紛れ込んでいた。直政狙撃の成功から学んだのだ。天王寺砦の解囲に動いた織田勢は、指揮官を狙った鉄砲により手痛い損害を出した。
陣頭指揮をとった信長も、雑賀衆の狙撃により足を負傷した。これに奮起した織田勢は本願寺勢を粉砕し、多くの頸を取って気勢を上げた。
「が、まあ……そこで鉄砲の玉と玉薬が尽きてな」
急ぎの花押を書きあげたところで、光秀が息切れを起こして休憩となった。
茶を飲みながら、金造に天王寺砦の戦いについて話す。
「本当ですか。天王寺砦には、五万放分は貯めてましたよね。鉄砲一丁が、半月で百発近く撃った計算になりますよ」
「戦ってる時は、糸目をつけずに放ってたからな。籠城中は、そこまで減ったようには思わなかったが──あ、いや待て。信長様が連れてきた鉄砲隊が、解囲の後で天王寺砦で補給していた。鉄砲が千丁くらいいた。あれだ」
「鉄砲千丁……一万放分……おお、もう……これからは、補給計画には兵糧だけでなく、増援でくる鉄砲隊の玉薬も組み込んでおかねばなりません。米とは考え方が根本的に異なるので、厄介ですよ」
兵糧は、そう簡単には腐らない。米俵に入っているのは干して脱穀した籾米だ。味を気にしなければ二年でも放置できる。
俵は城の蔵に積み上げておける。戦場でも、近くの丘に掘っ建て小屋をたてて俵を放り込み、足軽に監視させる。もしも使わなければ、また動かせばよいのだ。
「米は日本のいたるところで作れます。小荷駄が届かないことがあっても、行った先の村や湊で、庄屋や寺の蔵を暴けば米が手に入ります。特に尾張や美濃のような米はとれる、水運はあるという場所で戦争していたら、自然と現地調達で済ませることになります」
「わかる。織田勢は濃尾で行軍が一日二日ですむ戦いをしていたからな。小荷駄を後方から届ける発想が長い間なかった」
「それがしが殿の小姓として参加したのは八年前の上洛戦からでしたが、本当にこんな雑な補給計画で前線の兵が飢えずにすむのか疑問でした」
「それな。わし、顔には出さなかったが、びっくりしたよ」
「いえ。額に出てましたよ。くすんでました」
「まじか」
光秀が額をペチリと叩いておどける。
金造は笑った。光秀も、だいぶ調子が出てきたと思う。
濃尾平野は、木曽三川があって古来水運が盛んな土地だ。
越前で牢人をしていた頃の光秀は、中国の兵法書を読み、織田はこの水運を使って兵を運び、兵糧も運んでいるのだと考えていた。
半分だけ正解だった。
織田は水運を使って兵を運んでいた。しかし、兵糧まで運ぶことはしなかった。そんなことをしなくても、平時から盛んな水運を使って、川湊の蔵にはどこも米俵が積み上げてあるからだ。兵糧の調達は、近くの蔵に足軽をやって、差し押さえればよい。文句は出るだろうが、後で銭を握らせればそれで済む。
「後で知ったが、あの頃の織田は兵站に関しては全国一と呼べるくらい雑だった……越前の朝倉の方が、外征中心の軍だった分、ちゃんと補給計画があった。東国は言わずもがなだ。予め運んでおくか、商人に買い付けておかないと、前進した兵が飢える羽目になる」
「補給計画があんなドタバタしてて、よく上洛戦が成功しましたね」
「いや、それはちょっと違う」
光秀は、敷いたままの畳の上にゴロリと横になった。
疲労が出そうになると、光秀は戦場でもどこでも、可能なかぎりゴロゴロする。本人曰く、その方が疲労が悪化しないのだそうだ。
「織田は信秀殿の時代から、雑に、思いつきで、たいして準備もせずに戦を仕掛けては、勝ったり負けたりを繰り返していた。そこで生じた様々な歪みが、信長様の家督相続と同時に噴出し、織田弾正忠家は延々と戦い続けることになった」
「でも、補給は雑なままですよね」
「そりゃな。しかし、雑なだけでは勝てない。補給が雑なままでも、どうやれば勝てるか、どういう状況だと、やっぱりズルズル負けちゃうかを、信長様も、宿老たちも、経験を積み重ねて学んでいった。ほら、織田の戦って、ナニかあると火をかけるだろ」
「ナニもなくても火をかけますよね。あれなんですか。京からもよく見えるんで、たびたび騒ぎになっちゃうんですが」
「それだよ」
「それ? どれです?」
「火をつけると、煙があがる。どこかで戦が起きていることが、あっという間に伝わる。するとどうなる」
「……騒ぎになる?」
「そうだ。動揺する。民も、そして武士も動揺する。平常心を保とうとしても、近くで火が上がってたら、気になるものだ」
兵法とは、畢竟、敵の判断ミスをいかに誘うかに尽きる。
だから敵の心の余裕を削る嫌がらせにこそ、兵法の極意がある。
「どっしり構えて我慢すればいいのに、何かしないといけない気にさせる。織田は信長様から宿老衆、そして足軽に至るまで、敵を苛つかせ、焦らせる技を心得ている。補給に頼らない雑な戦を積み重ねてきたからこそ身についた、戦場の駆け引きの技だ」
「イヤな技ですね」
「だけど有効だった……これまではな」
これからは、鉄砲の時代だ。
鉄砲を何発撃てるかに、心理戦は関係ない。
「焔硝を買う。焔硝から玉薬を作る。鉛も銅も揃えて溶かして玉にする。そのすべてを戦場まで運ぶ。これらすべて、駆け引きではできぬ。これからの戦は、すべて計算と帳簿が頼りだ──よしっ」
横になっていた光秀が、上体を起こす。
「金造。次の丹波攻め、帳簿で戦うぞ」
「はっ。……はっ?」
光秀が何を言っているのかわからない。
「石山本願寺との戦いは、簡単には終わらぬ。なので、わしは丹波には専念できんだろう。丹波攻めは、わしの与力になった丹波の国衆を中心に行うことになる」
「はい。それで……帳簿で戦うとは?」
武田との長篠の戦いのように、鉄砲の集中使用で決着をつけるわけではなかろう、と金造は首を傾げる。あれは、武田勝頼が攻勢のため戦力を集めたからこそ、後詰め決戦という形で鉄砲を活かすことができたのだ。
丹波でそのような機会があるとは思えなかった。
「丹波は、普請で落とす」
布団の上で胡座をかいた光秀は、くすみの残る額をペチリと叩いた。




