2:お寺ご飯いただきます
永禄十二年(西暦1569年)秋。
墨をする手首が痛い。
筆の毛先が震えている。
金造は歯を食いしばり、右の肘を左手で支えて筆を進める。
これが何枚目の書状か、もう覚えていない。
金造がかすむ目で書き続けているのは、近江にある寺社への祈祷の依頼だ。正確には、祈祷の依頼という形式をとって、明智家の軍兵が寺に宿泊することと、そのさいの兵糧の手配をお願いする書状である。金造の名前で寺社に出すには格が足りぬので、右筆である金造が定型文として書き、主人の光秀の署名と花押を最後にもらう。
明智家は牢人であった光秀が、上洛前後の数年で築き上げた新興武家だ。
人もなければ、城もない。
城もなければ、倉もない。
倉もなければ、小荷駄もない。
出陣前に、足軽に腰兵糧をもたせることはできるが、それで可能な作戦行動は約三日。それ以上の日数となれば、どこかで兵糧を調達せねばならない。
城も小荷駄もない明智家が作戦行動中に兵糧を調達するための手段は三つある。
一、略奪する。
二、織田、浅井に与力する国衆から借り受ける。
三、寺社、商人から借り受ける。
一は、奉行人として論外。二は、可能だが調整に時間がかかる。
現時点で明智家に選択可能なのは三のみ。また寺社は、軍勢にとって宿泊所も兼ねる。事前に宿泊する寺のすべてに明智家の米を預けておければなお良いのだが、残念ながら今の明智家の財政状態では不可能だ。
戦国時代に貸借対照表はまだないが、金造は自分でまとめた帳簿を使って、頭の中に貸し借りの項目を並べる。
寺社なら、軍兵に明智家の資産ではない米を食わせても、返済はある程度は待ってもらえるし、米や銭以外での返済も選べる。後の時代の言葉では、固定負債に近いものにできる。
商人や国衆となると、返済の期限も手段も限られる。明智家の軍兵に米を食わせれば、米か銭で返さねばならない。それも、高い利息がつく。後の時代の言葉では、流動負債に近いものになってしまう。
明智家の財政は厳しい。
貸借対照表でいえば左側の資産がよくない。流動資産に相当する、年貢や倉に蓄えた米銭が少なく、固定資産に相当する、武士や足軽ばかりが膨れ上がっているのだ。光秀が増やしたがっている鉄砲も、むろん、固定資産である。しかも硝石や鉛などの維持費がべらぼうに高いので、流動負債が増える。最悪である。
だが、明智家の財政を真に悪化させているのは、金造が集めた足軽百人にこそある。
彼らは河内若江の国衆だった瀧次郎が率いる百人は三好の残党だ。本圀寺合戦の後、行く宛もなく流浪していた敗残の兵である。
境遇もあって安く雇いはできたが、以後は相応の米と銭が必要となった。商家あがりの金造は、足軽百人の維持費を甘くみていた。三好残党を雇い入れる才覚を光秀に褒められ、有頂天になっていたせいもある。
賄いとして足軽に支払う米と銭以外にも、城番などのお勤めの前と後とには、相応の酒食を振る舞わなくてはならない。これはすべてが明智家の持ち出しとなる。百人の腹を空かせた足軽が、ここぞとばかりに食うのだ。勝手方の金造が青くなるほどに。
そういえば日之介が連れていった城番が、そろそろ終わる頃合いだ。また食われる。飲まれる。
「あっ」
書き損じた。陽が暮れてきて手元が怪しくなったせいだ。手を入れてごまかすことはできるが、光秀の花押を入れて出す書に、みっともない修正はしたくない。
金造は少し悩み、新たに書き直すことにした。
灯りをともすため立ち上がろうとして、足がしびれていることに気がつく。
金造は床に仰向けに寝転がった。
「何をやっているのだ、それがしは」
焦りがあった。
光秀は、脛に傷を持つ足軽たちを明智家の兵として迎え入れた。
日之介は、足軽たちに訓練を施して見事に戦力化してみせた。
光秀の心配りを、日之介の労力を、金造が台無しにはできない。
兵糧不足は、作戦の自由度を奪う。
軍勢は、飯が届かない場所に、移動できない。
軍勢は、飯が届かなくなれば、解散するしかない。
世の多くの戦いが、どちらが勝ってるのか負けてるのかはっきりしないまま、なんとなく終わってしまうのは、兵糧が十分にないせいだ。
(古くは、蝦夷討伐の頃からだ。輜重の兵が十日かけて十一日分の兵糧を前線に運ぶ。ほとんどは運ぶ兵が食べる。前線に届くのは一日分だけだ)
金造は光秀に連れられて参拝した吉田神社で読んだ、古い書物を思い出す。『続日本記』の桓武天皇の巻であった。蝦夷にさんざんに打ち破られた官軍の将軍が、具体的に数字を並べて補給の困難さを訴えたものだ。
(なんと無駄が多い輜重だ。自分が官軍を指揮していれば、もっとうまくやる)
読みながら鼻息を荒くしていた己を思い出し、金造は恥ずかしくなって手で顔を覆う。銭には銭の理があるように、政には政の、兵には兵の理がある。相手の理を知らぬものがいらぬ口出しをしてよくなることなど、ありはしない。
「真っ暗じゃないか。何やってんだ、金造」
聞き慣れた大声が響いた。金造は驚いて寝転がったまま見上げる。
日之介が立っていた。もう陽は落ちて顔はわからないが、分厚い胸と太い腕は見間違えようがない。
「日之介! 城番は……そうか、昨日までか」
「おうよ。我が足軽ども、よい動きをするようになったぞ。出陣が楽しみじゃ」
笑があふれて零れ落ちそうな日之介の声。
「前回の城番の時のように、後ろから殴られたりはせんかったか」
「ああ。河内の武吉か。あいつもすっかり聞き分けがよくなった。武吉は瀧次郎の縁者でな。瀧次郎を年の離れた兄のように慕っていたところに、自分と同い年くらいのわしが大将として入ってきたのが気に食わんかったのだ。今はお互いに納得しておる」
前回の城番の後のことを、金造は思い出した。
公方様御構から戻ってきた日之介の背に、青黒い痣が浮かんでいた。聞くと、訓練の時に後ろから不意打ちされたという。
「左肩の下のあたりが少し熱っぽいと思ったが、そうか。痣になってたか」
「触れた時の感触がおかしいと思ったのだ。許せぬ。どの輩だ」
「気にするな。一発だけ食らった後は、わしがさんざんに打ちのめしたからな。あっちは体中が痣だらけぞ。手足が動かぬようになってはまずいので、そこは手加減したが。なに、次の城番の時はおとなしくなっておるさ」
「日之介がそう言うならば……いや。やはり業腹だ。仕返ししてやる」
「そこを曲げて、わしに任せてくれ。わしは若い。足軽どもも、わしに命を賭けていいか悩んでおる。力をみせねば、腹の底から納得はできんものだ」
「……それがしとて、腹の底から納得はしとらんぞ」
「なら、金造にもわしの力をみせてやらねばならんな」
なんやかやで、あの時は金造が納得させられたが、不安は残っていた。
うまくいったようで何よりだと金造がいうと、日之介は「自分の手柄ではない」という。
「あらかたは瀧次郎の段取りよ。武吉は腕っぷしはあるし、若い連中のまとめもしておる。武吉がわしと戦って負ければ、他の連中も、わしに従う他はなくなる」
「不意打ちであろう。日之介が武吉に倒されていれば、どうするつもりだったのだ」
「そうなるまい、と瀧次郎は思ったのよ。後ろから不意を打とうが、武吉ではわしに勝てぬとな。そこまで見込んでくれたのだ。わしも応えねば男がすたる」
「そうか」
金造は面白くない。ゴロリと日之介に背を向けた。
日之介は気にしない。ドカリと金造の隣に座る。
「おうおう。それにしてもずいぶんな量の文だな。全部、金造が書いたのか」
「そうだ」
「お、このへんは近江田中の寺だな。近くだから知ってるぞ。大泉寺、興聖寺……おい、酒波寺ってのはどこのことだ?」
「たしか青蓮山の麓にあるはずだ」
「ああ、青蓮山のお寺か」
「殿に確認したが、今回は若狭熊川の方まで足を伸ばす可能性が高い。行きと、帰りとで、湖北に宿所が複数欲しい」
「若狭か。荘園を押領しておる連中を懲らすのに、そこまで行く必要があるのか」
「押領といっても南北朝の頃からだ。今となっては押領している国衆の側にとっても先祖代々の土地ぞ。やめさせるなら根切りにする覚悟がいる」
「無理か」
「無理だ。だとすれば、代わりになるものがいる。打ち続く争いで、寺も権門も北陸の方からの米や銭の流れが細くなって難儀している。押領を懲らすという名目を拡大解釈して若狭へ続く街道で悪さをしている連中を討伐する」
「ほう。そいつは面白そうだ」
「面白いか?」
「街道で悪さをする連中の手口は、足軽どもから聞いておる。こう、数隊にわかれて忍ばせておいてだな。伏せて、夜になったら起こして囲んで……」
日之介は身振り手振りで熱演するが要領をえない。どうも、村を襲う場合と、馬方を襲う場合とが、日之介の中でごちゃまぜになっているようだ。
自分でも何か変だと気づいた日之介が説明を修正しようとするが、ますますとっちらかっていく。
我慢できずに、金造は声をあげて笑ってしまう。
「笑うことはないだろう」
「あいすまぬ」
金造は体を起こした。
勝手方として大事なことに気がつく。
「日之介、城番が終わったということは、その……足軽へのふるまいの飯と酒は……」
「明智殿がやっておる。出陣前だからな。がっつり飲み食いさせておるはずだ」
「そうか。やっておるのか……出陣前だものな……いや、そうではなく。日之介、おぬしがそこにおらぬでよいのか」
「わしのは昨日だ。城番が終わったところでやっておいた」
「そうか。やっておるのか……二日連続か……いや、考えようによっては、間があくよりは、費えがかからぬやもしれん。昨日ので腹も少しはふくれておろうからな」
みみっちい計算をする金造を、日之介は微笑ましく見つめる。
みみっちい計算こそ、誰かがせねばならぬことだ。
「ここに来る前に、明智殿が言っておったぞ。金造がいてくれて助かるとな」
「本当か!」
「ああ。金造に任せておけば、安心だと。足軽がどれだけ飲み食いしても、帳尻を合わせてくれると」
「……そういう意味での安心か」
「おぬし、どうしてもダメなら、明智殿が相手でもダメだと言うだろ。堺の商人が鉄砲を持ち込んできた時のように。だから、安心だと」
「それは、勝手方として当然であろう」
「いや、ほとんどの者は、その当然ができぬのだ。主君が相手なら浪費も許すが、下の者が相手ならまかない飯を振る舞うことさえ許さぬ。それに比べ、金造は鼎の軽重を間違えぬ。立派なことだ」
「う……あ……」
金造が顔を真っ赤にしてうつむく。
日之介はごつい手を懐に入れ、竹の皮の包みを取り出した。
光秀から渡された、おはぎである。金造の好物だ。
「明智殿は、金造にも振る舞いが必要だから、こいつを持っていけと」
「かたじけない」
「まずは食べろ。それから残りの書状を手伝ってやろう。わしにできるのは、墨をするくらいだがな」
「ありが……ごほっ、ごほっ」
「落ち着いて食え。ここにあるのは全部、お前のものだ」
喉におはぎをつまらせた金造の背を、日之介がさすってやる。