19:天王寺砦(後編)
時を少し戻す。
石山本願寺の外郭部分。
掘っ建て小屋で眠っていた農民たちは、周囲から聞こえてくる雷のような音に目を覚ました。しばらくして、彼らはそれが鉄砲の音だと気づく。
不安そうに身を寄せ合う農民のところへ、一人の僧侶がやってくる。
逃げてきた農民の世話をしてくれる、若い僧だ。女衆は公家の出だと噂している。右半分は、優しげな顔立ち。そして左半分には酷い火傷の痕。
左の火傷は、織田の越前再征の時に負った傷だという。
何十人もの農民が、僧を囲む。口々に、訴える。問いかける。
「お坊様。鉄砲の音だ」
「織田のヤツらが攻めてくるんですかい」
「せっかく逃げてきたのに」
「あいつら、麦を刈っただけじゃすまさない気かねえ」
若い僧は悲しげに頷いた。
狙われたのは、木津湊だと。ここが落ちれば、糧道が絶たれる。紀州からの援兵も届かない。
ここにいる者たちは飢え、悉く死ぬであろうと。
左顔の火傷が、若い僧の予言に強い説得力をもたせる。
農民は震え上がった。すがりつかんばかりにして、若い僧を囲む。
「お坊様。なんとかなりませんか」
「カカアは、子供が生まれたばかりなんだ」
「わしらをお救いください」
若い僧は力なく首を振った。
一人の僧にできることには限界がある。
越前で、多くの門徒を救おうとした結果が、この顔なのだと。
──されど。
若い僧は、絶望する農民に、救われる道があると、諭した。
伊吹山から差し込む夜明けの太陽が、若い僧の焼けただれた左顔を浮かばせ、綺麗な右顔を沈めた。
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制圧した木津湊の矢倉に、塙直政が立つ。北を睨む、顔が険しい。
鉄砲隊を北に向けて再配置した光秀が、矢倉に昇ってきた。
鎧を着た男二人の重量に、小さな矢倉がギィギィと軋む。
光秀は一緒に持って上がった、水の入った瓢箪を直政に渡す。
「どうだ、直政殿。どのくらい出てきた」
「三千から、四千」
「多いな。武装は。鉄砲はありそうか」
「少し待て。もうすぐ川土手に、先頭集団が出てくる」
直政と光秀は、石山本願寺からじわじわと滲み出てくる人の群れを睨む。
人は、数が多くなるほど、行軍に時間がかかる。一人一人の歩く速度に差はないが、前が詰まって待つ時間が長くなるのだ。隊列をつくり、間隔を開けて行軍すれば、待つ時間は短くなる。訓練された足軽隊ほど、目的地まで早く着く。
木津湊を襲撃したのは黎明。太陽はすでに中天。直線距離で一里(約4km)を進むのに半日がかりというのは、大人数だと考えても遅すぎる。
川土手に筵旗の先端が見えた。
三百から五百の先頭集団が、とぼとぼと近づいてくる。
「動きが遅い……これは素人の集まりだな」
「ほとんどが棒や鎌だ。農民だぞ、あれは」
「長島をまたやるつもりか」
「かもしれん」
伊勢長島の一向一揆では、武士だけでなく農民までもが鏖にされるよりは、と決死の覚悟で戦い、囲む織田方にも多くの被害が出た。
「わしらは長島で学んだ」
「そして越前で活かした」
越前では、長島の反省を踏まえ、農民が決死の覚悟を決める前に囲まず鏖殺することで被害を抑制した。最初に降伏を許さず派手に殺したことで、一揆側の内輪もめを誘ったことも効果的だった。越前の一向一揆では石山本願寺から多くの僧が念仏将校として派遣され一揆を指揮していた。僧侶を生死を問わずに突き出せば、残った農民たちは赦免する。そうやって越前再征は短期間で完了した。
光秀は、僧侶の首を差し出して赦された農民たちの、心からの笑顔を思い出す。
今も越前に争いは残っているが、国衆の揉め事が中心だ。一度でも村の内で殺し合いを体験した農民は、決してひとつにまとまることはない。
海から強い風が吹いた。矢倉の軋む音がする。心の棚の軋む音のように思える。
「わしらがうまくやりすぎたのかもしれんな」
「何をだ?」
「離間策をだ。こたびも、麦は刈った後で農民は赦免すると布告した」
「今度は本願寺の坊主どもが、越前から学んだか」
「裏切られる前に、煽ってわしらと戦わせる。勝てずともよい。一度でも織田に手向かいすれば、赦されることはない。農民から、気持ちの逃げ場を封じるつもりだ」
「破戒坊主ども。地獄に落ちろ」
「本願寺は念仏衆だ。どれだけ破戒しても、念仏で極楽往生よ。わしらとはえらい違いだ」
「クソったれ」
直政が吐き捨てるように笑い、瓢箪から水を飲む。
光秀は直政に今後の作戦を確認した。現場の指揮権は直政にある。
「どうする直政殿? 火を放ってから、天王寺砦まで退くか?」
「最終的にはな。準備は進めておいてくれ。だが、すぐではない。ただ退いても、砦の周りを囲まれるだけだ。ここでできるだけ殺す」
「農民をか?」
「狙うのは坊主だ。農民を戦わせるため、先頭集団にそれなりの数が混じっているはず。そいつらを叩いて怯ませ、それから退く」
光秀は頷いた。戦術的にも妥当な作戦だ。
砦を囲まれた場合、鉄砲が届く範囲にいるのは農民だけだ。指揮官である本願寺の僧侶は安全な場所にいる。しかし、今ならば違う。農民を前進させるため、指揮官の僧侶も木津湊に近づいてくる。鉄砲なら狙える。
「わかった。わしも鉄砲隊に戻って坊主の狙撃を試みる──それと」
「何か気がかりでもあるか」
「楼ノ岸砦の動きには注意しろ。あっちに詰めてるのは本職だ。雑賀衆はまだ石山に入ってないようだが、鉄砲持ちもいるはずだ」
「わかった」
光秀が矢倉から降りる。入れ替わりに、近習が濡れた布を肩にかけて上がってくる。
「直政殿。これで冷やしてください」
「うむ。風が強い。矢倉は揺れる。下で待て」
「はっ」
直政は、光秀の助言を思い出す。
「楼ノ岸砦に注意しろ! 動きがあれば、すぐに知らせろ!」
「はっ!」
織田家中一の出世頭だけのことはある、と直政は光秀を思う。
視野が広い。
知恵も、勇気もある。
気がかりなのは──優しいことだ。
(信長様と、よう似ている)
直政の中には、本願寺の僧に煽られ騙されて迫る農民たちへは侮蔑の気持ちしかない。
頭では、彼らが直政が子供の頃から親しくした比良村(現:名古屋市西区比良)の、気のいい百姓たちと同じだとわかっている。住んでいる場所が違うだけだ。
戦に巻き込まれ、恐怖につけこまれ。何がなんだかわからないまま、戦をする覚悟もないまま。ありあわせの武器をもって木津湊に向かって歩いている。
だが、直政にとって、そんなことはどうでもいい。
相手の都合など、知ったことではない。
(ひとたび敵に回ったのなら、只、殺す。只々殺す。只々々々殺す)
一人前の武士ならばもって当然のその覚悟が、なぜか光秀にも信長にも、薄い。
なんとかできなかったのか。なんとかできないのか。常に考えている。
そんなことをすれば、心がすり減ってしまうだろうに。
(そういえば……)
信長に近習として仕える烏帽子子から、信長が癇癪を起こすことが増えたと聞いた。
寝ている時にいきなり奇声をあげたり。食事中に膳を放り投げたり。
烏帽子親で近習としての先輩でもある直政は、若者から「いかにすればよいでしょう」と聞かれ、「いらぬことを考えず、愚直に励め」とだけ答えた。
こういうのは、各自の適性の問題である。武骨者がよくわからん気遣いをしても、主君の癇癪が増えるだけだ。
武骨者には、武骨者の本分というものがある。
直政はしゃがんで鉄砲を装填する。
玉薬を、玉を込め、槊杖で突き、口薬を入れ、火蓋を閉じ、火縄を挟む。
立ち上がって鉄砲を構える。近づく群れを見る。火蓋を開く。狙いをつける。
「塙九郎左衛門直政、推して参る!」
撥条が弾け、火縄が落ちる。銃口と火皿から、赤い炎が吹き出す。鉛玉が銃身を走り抜ける。命中。筵旗を持った男がうずくまる。
塙直政は古参赤母衣衆である。
戦うことこそ、直政の本分だ。
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若い僧は、先頭集団の端にいた。
笠をかぶり、蓑を背負い、輪郭を消して農民たちに埋没している。
筵旗を持って先頭集団の前を歩いていた大柄な農民が、呻いてうずくまる。撃たれたのだ。
筵旗が地面に倒れた。
先頭集団に動揺が走り、動きが止まる。
「南無阿弥陀仏! 進者往生極楽! 退者無間地獄!」
若い僧が、修行で鍛えた喉で、大音声を張り上げる。周囲の農民が「なむあみだぶつ」と繰り返す。念仏を繰り返すうちに、先頭集団は戦意を取り戻した。一人が地面に落ちた筵旗を持ち上げ、掲げて歩きだす。
若い僧は、その後に続いて歩きだそうとする。その足が止まる。体が斜めになる。
撃たれたと気づいた時には、倒れていた。
「大丈夫ですか、お坊様!」
助け起こそうとする農民に、若い僧は右面に優しい笑みを浮かべる。
「私にはかまわず、進みなさい」
「ですが、お坊様!」
「南無阿弥陀仏。この身はすでに、救われてるのです」
「なむ、なむあみだぶつ」
「まえへ……すすむの……で……」
農民は立ち上がり、「なむあみだぶつ」と唱えて歩きだす。
暗くなる視界の中で、若い僧は越前のことを思い出す。
一揆を結んでいた農民同士が争い、若い僧が匿われていた小屋にも火がつけられた。
顔の半面が焼けただれた。逃してくれた娘も殺された。後にその娘こそが、親に言いつけられて小屋に火をつけたのだと知った。火をつけた後で、恐ろしくなって助けてくれたのだ。
若い僧は確信した。人は真に愚かで弱い存在なのだと。
だからこそ、御仏におすがりし、救われなくてはいけない。越前では失敗したが、石山では実現できた。今日。この佳き日に。味方を裏切り、味方に裏切られる穢れにまみれることなく、多くの農民が敵に殺され、御仏に救われる。
魂をひたす静かな満足感の中で、若い僧は息絶えた。
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十発を放ったところで、銃身を冷やす濡れ布が乾ききった。
直政は煤で黒く汚れた顔で、戦いを振り返る。
一発目で筵旗を持った男を倒した。門徒の動きが止まった。しばらくして、先頭集団の後方から念仏の声が聞こえてきて、筵旗も拾われた。
二発目は、念仏の声の中心と思しき笠と蓑の男を狙った。動きは緩やかになったが、先頭集団は迫ってくる。
直政はその後も筵旗を狙い、念仏の声を狙い、門徒の先頭集団を翻弄した。
先頭集団がゆっくりになった分、後ろから追いついてきた門徒が合流して団子になった。
──そろそろ潮時か。
直政は、撤退の頃合いを見計らう。
楼ノ岸砦に目を向ける。動き出している。楼ノ岸の千は、本願寺の精鋭だ。
素人の農民をまず前線に送って敵を消耗させ、玄人の兵で制圧する。
農民は大勢死ぬが、生きて備蓄の兵糧を食われることを思えば、籠城戦では農民は早く消耗させた方がよい。
光秀は怒るだろうが、軍事的な合理性が高い妙手だ。
光秀のいる微高地に目を向ける。明智隊と塙隊の鉄砲足軽が、交互に鉄砲を放っている。音の整列具合から、鉄砲足軽の練度と疲労がわかる。まだ余裕がある。この後は繰り引きをして天王寺砦まで戻るのだから、余裕がなくては困る。
鉄砲を撃たせても、部隊を率いさせても、光秀は上手だ。何をやらせてもそつなくこなす。そういうところも信長と似ていると、直政は思う。尾張の内戦で、信長と肩を並べて戦ったことを、懐かしく思い出す。
──そろそろ潮時だな。
直政は、信長も光秀も、戦場から距離を置く頃合いだと考えた。
そつなくこなすといっても、年を重ねてからは疲労が抜けなくなる。体も、心もだ。直政のように殺す相手に思い入れのない武骨者ならよいが、信長も光秀も、そうではない。
これからは戦場には直政のような武骨者を送り、信長や光秀は後ろに控えて朝廷や寺社と政に専念した方がいい。
考えているうちに、銃身が一発は撃てそうなくらいに冷えた。
直政は、深く考えることなく、身についた動作で玉込めを始める。玉込めをしながら、敵も近いし、数が増えて僧侶は狙撃しにくくなったしで、撃たなくていいのではと思う。
が、せっかく込めた一発だ。これだけ撃って矢倉から降りようと決める。
矢倉から身を乗り出す。海からの強い風が背中を押す。これなら遠くまで届きそうだ。楼ノ岸から接近中の正規兵を狙おうかと考える。
鉄砲の音が、風にのって遠くから聞こえた。
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鉄砲隊を指揮し、撤退路も確保し、火付けの準備も整えて光秀は待っていた。
──そろそろ潮時か。
手応えはあった。農民たちを指揮していた僧侶を、狙撃でかなり倒した。光秀の鉄砲隊が約二十人。矢倉の直政が五人か六人か。
農民が三千人いると推定し、五十人に一人の割合で士気を鼓舞する僧侶が混じっていたと仮定すれば、その数は六十人だと光秀は見積もる。半数近くは消耗させたはず。
目の前にいる農民たちの動きは鈍重で、まともな指揮がなされている様子はない。散発的に突っ込んできては、反撃を受けてズルズルと下がる。その繰り返しだ。
木津湊から、背に旗を負った使番の武士が駆けてきた。
使番の顔がこわばっている。いやな予感がした。
使番は無言のまま、光秀のすぐ傍らに膝をついた。いやな予感は確信に変わった。
使番は声を絞り出すようにして、言った。
「直政殿、討ち死になさいました」
「狙撃か。どこからだ」
「海から、です。本願寺の援兵を乗せた船が紀州から」
「雑賀衆か──」
光秀は歯噛みする。
紀州の援兵が、届いていないのは知っていた。
援兵が、鉄砲が得意な雑賀衆だとわかっていた。
そこから先は偶然だ。
援兵を乗せた船は、昨日のうちに近くまできていたが、潮か風を待って隠れていた。
朝になり、木津湊に入ろうとしたら、織田の攻撃で湊が落ちた。
隠れて様子を伺っているうちに、本願寺の反撃があり、織田にも撤退の兆候があった。そろそろ動いても大丈夫と判断した。
みると、矢倉の上に織田の鉄砲武士がいる。こちらは揺れる船の上。風は強い。鉄砲自慢でも、当たるか当たらないかは賭けだが、骰子は振らねば絶対に当たらない。
撃った。
当たった。
ただそれだけだ。
「──撤退する。火をかけろ。わしは直政殿の隊をまとめて殿につく。内蔵助は、わしの代わりに撤退の全体指揮を取れ」
光秀の臓腑を焼く、強い怒りがあった。
怒りの矛先は、光秀自身に向いていた。
なんとかできなかったのか。なんとかできたはずだ。
考えても仕方のないことだとわかるだけに、怒りの吐き出しようがない。
怒りを内に閉じ込めたまま、光秀は、ただ前へ進む。




