10:籠城ノススメ
元亀三年(1572年)十二月。
近江坂本城では、天守の作事が始まっていた。
明智家の足軽たちの主な仕事も、この頃になると人足の監視から、人足に混じっての作業に移行していた。
無報酬が原則の夫役で集められた人足は、仕事に対し可能な限り手を抜く。
そこに仲間と明智家へ同胞意識がある足軽を混ぜれば、夫役も手を抜きにくい。
鞭ばかりでは人は動かないので、炊き出しの飯は、一日に一回、城にいる全員に振る舞う。夫役で集められた人足にも、炊き出しを手伝わせる女衆にも、別け隔てはない。
加えて金造は、光秀の許可を得て坂本に触れを出すことを決めた。
『童、薪一束、背負ふてくれば、握り飯、一個也』
金造から読み書きを学ぶついでに、触書を書いた日之介は、紙を前に首をひねる。
「いいのか、こんな触れをだして。これでは米がいくらあっても足りぬだろう」
「いいのだ。人足に身を入れて働いてもらえれば、元は取れる。それにな」
金造は、日之介が書いた触書の上から、間違えた場所を修正した。
「日々、使った米の量は枡単位できっちり記録してある」
「お前らしいな」
「釜で炊き出した回数と比較して、米の消費が明らかに多い」
「なにっ」
「証拠はないが、米を抜いておるのは炊き出しをしている女衆だ」
「それは……」
「子に食わせるためであろう。やめろといっても、やめまい」
「ううむ……だが、それは……」
「露見すればこちらも放置はできん。厳しく仕置せねばならん。しかし、それで何がよくなる。明智家と織田勢は、比叡山を焼いたことで、坂本の民から十分すぎるほどに畏怖されておる。これより先は、無用な怒りを民の心に積むだけよ」
「そうだな」
「握り飯と引き換えなら、このあたりの童はこぞって薪を運ぶだろう。炊き出しの女衆も、米抜きを控えるはずだ」
「……わしからも、人足の顔役に伝えておこう。女衆が触れが出た後も米抜きを続けるようだと、その日に炊き出しした全員の首を門前に晒すしかない、とな」
「すまぬ」
「なあに。脅しが効くのは、金造が米の消費を日毎に確認しておるからよ。盗むヤツというのは、バレておらぬと思うから、勝手をするのだ」
薪と握り飯を交換するという触書の効果はすぐにあった。
子供に配る握り飯の分だけ米の消費は増えたが、金造の予測の範疇にとどまる。
同時に、こっそり抜いていたと思われる米の消費は、ほぼ消えた。
代わりに、坂本城の隅には薪が堆く積み上げられていく。
「どうするんだ、これ」
「殿から、籠城できるように蓄えを増やせとの仰せを受けている。問題ない……はずだ」
日之介が呆れたように言うと、金造が自信なさげに答える。
「薪だけ増えても困るだろう。それに、籠城では薪は火付けに狙われるぞ」
「そうなのか?」
「籠城で忍の火付けに気をつけるのは常識であろう」
「実をいうと、籠城で何をどう備えればいいか、それがしにはよくわからんのだ」
「おいおい。勝手方のお前が籠城についてわからんて……ああ、そうか」
今の明智家は義昭の上洛後に興った新興の武家だ。
光秀は元は牢人。金造は商家の息子。
上洛直後に、本圀寺合戦で京が戦場になったが、籠城のいろはを知るような戦いではなかった。
国衆三男の日之介の方が、まだしも籠城の体験はある。元服前には六角と浅井、三好の戦いに巻き込まれ、近江田中の山城にこもって抵抗したものだ。
「とはいえ、わしも金造に何か言えるほどの経験ではないしな。明智の殿も同じであろう。うちでまともな籠城をやったことがあるのは……おお、いたな」
日之介が駆け出し、しばらくして、顔に大きな傷がある男を連れてきた。
河内若江の瀧次郎だ。金造が最初に雇い、日之介が頭となった足軽たちのまとめである。
足軽の数も増えた今は、日之介とは別に、足軽の組頭を務めている。年は三十代の終わりで、金造や日之介の倍に近い。
「籠城のいろはについて、知りたいとな」
「お願いする、瀧次郎殿」
「ふむ……では、歩きながら説明するとしようか」
瀧次郎に連れられ、金造と日之介は本丸から二の丸、三の丸へと歩いていく。
「籠城戦では、三の丸が落ちれば、二の丸で、二の丸が落ちれば本丸で戦う」
「うむ」
「そうだな」
「足軽は命じられて戦えば、それでいい。城主にとっての籠城戦はまた違う」
三の丸の城壁まできた。
矢倉に入り、梯子で上へのぼる。ここにきてようやく、視界が開ける。
城門から街道沿いに南北に伸びる坂本の町家。
道を外れると田んぼと草むらが広がる。
「城主にとっての籠城戦は、敵が諦めるまで御味方が諦めないようにすることだ。お主らには、その手伝いが求められている」
「わかるか?」という目で瀧次郎が日之介と金造を見る。
「敵が諦めるほどに粘って戦う。足軽を率いるわしの役目はそこか」と日之介。
「御味方が諦めない準備を整える。それがしの仕事はそこか」と金造。
瀧次郎が頷く。
「三好の被官であったわしは、何度も城を攻めた。ほとんどの場合、城は簡単に落ちた」
「三好はそんなに強かったのか」
「強くはあったが、それだけではない。小さな城だと、最初から城に兵がこもってないことも多い。街道を監視する遠見番所だと特にな。兵がこもって戦うのは、守る側にとって価値がある城だけだ」
「役割が違うのだな」
後世の監視哨と同じ扱いである。
平時には人の行き来を監視し、敵がくれば狼煙などで後方の味方に伝える。
「役割が違うといえば、逃げ城もある。戦になれば、民が逃げ込む。だいたいは不便な山の上にある」
「戦うための城ではなく、軍勢が通り過ぎるまで隠れる城だな」
「守りは薄い。遠く隠れることで、わざわざ時を費やしてまで敵が来ぬようにする」
寺が逃げ城の役割を果たすこともある。
相手によっては、乱妨を禁止する制札が必要となる。
「金造殿よ。明智家にとって坂本城の役割はなんだろうか」
「明智家にとって、根城だ。他に替わるものはない」
明智家は京にも屋敷を持つが、堀はなく、城としての機能はない。
応仁の乱の頃までであれば、屋敷に矢倉などの防御施設を建てて城として使うこともあったが、今では揉み潰されるだけなので、廃れている。
「坂本城に本丸の他に三の丸、二の丸、そして堀があるのは、この城を断固として守り抜くという意志を示すものだ」
「戦う前に、意志を示す必要があるのだな」
「戦う意志を城という形にしておけば、生半可な敵は近寄ってこぬ」
大勢で城を囲むだけで、米も銭も出ていくからだ。
日数がかかれば、囲む側の方の負担の方が大きくなる。
「だがな。城というのは落ちる時には落ちるものだ。六角左京大夫をみよ。上洛の軍勢に抗しきれぬとみるや、根城である観音寺城をあっさり捨てて逃げ出した」
「今もあちらこちらを逃げ回っておるな」
「御味方が、追いかけ回すのに苦労しておる。籠城されるより、よほど厄介じゃ」
宇多源氏佐々木氏からの家格を誇る六角の遊撃戦に、累代の地盤のない織田は、南近江で消耗を余儀なくされている。
「城で討ち死にしたところで、それで終わりじゃ。城から落ち延びて逃げ回る方が武功になることもある。だから、籠城の備えの第一は落ち延び方を整えることだ。これは城を守って長く戦うためでもある。落ち延びることができる、とわかっていれば城兵の心は折れにくい」
「そうなのか? それがしは戦の場に立ったことはないが、酒席での武功話では、城兵は逃げられぬ方が勇敢に戦うと聞いたことがあるぞ」
金造の言葉に、瀧次郎は顔の傷を歪めて薄く笑った。馬鹿にした笑みではない。戦を知らぬことを正直に話せる金造の肝の太さを、好ましく思ったのだ。
「逃げられぬ城兵は、己を無理に鼓舞してでも勇敢に戦う。だが、空元気よ。一度でも萎めば、それっきりだ。次はない。萎んだ次には、城はあっさり落ちる」
「ここは平城だ。北と南は街道が通る平地。比叡山も遠い。囲まれたなら……逃げる先は淡海か」
「船着き場と船は死守だ。ここが危なくなれば、落ち延びる手立ても失う」
「どうすればよい」
「淡海には船乗りが多い。囲まれる前でも、船乗りが忍び働きをして暗闇にまぎれて上陸し、船に火をつけたり奪うことも考えられる」
瀧次郎の指摘に、金造と日之介は、はっ、とする。
籠城戦といっても、囲まれる前に忍びに狙われることがあるのだ。
平時からの備えがあってこそ、籠城にも強くなる。
「それがしは、篝火台を増設しよう」
「わしは夜の見回りを励まねばな」
金造と日之介はすぐさま、自分のやるべきことを見抜いた。
満足そうに瀧次郎が頷く。
「金造殿。蔵の蓄えは城を守る要だ。米も薪も矢玉も、あればあるだけ、城兵の心を強くする。自分たちは戦えると心を奮い立たせてくれる。だからこそ、攻める側もそこを狙う」
「備えがしっかりしている時こそ、忍びに注意ということか」
「そうだ。蓄えのしっかりした城に、正面から攻める敵はいない。可能であれば搦手から攻めてくる」
「心しよう」
矢倉を降りて、さらに城内を歩く。
金造は、瀧次郎の後ろを一歩ずつ踏みしめるように進み、歩数や気づいたことを紙に書き入れては帳簿に付け紙する。
日之介は金造の後ろだ。周囲に油断なく目を配っているのは、夜の見回りでどこに注意すればいいか、改めて確認しているのだろう。
出会った時には洟垂れ小僧のようだった二人が、一丁前の武士の顔をしているのを、瀧次郎は可笑しくも頼もしく思う。
(いや……出会った時から、金造は銭米に関しては一丁前だった)
三好被官だった頃、瀧次郎は筑前守長慶の下で数多の戦場に出た。当時の三好一族がなぜ強かったか、瀧次郎は知っている。
家格の低い三好は細川京兆家の統率下で働き続けていた。
京兆家を下剋上してからは、統率を筑前守が行った。
堤に穴が一箇所でも開いていれば、そこから水が漏れる。台無しになる。
政治も軍事も、どこかに穴が開いていないか常に疑う警戒心こそ必要とされた。
筑前守には、その警戒心があった。
だから主家や幕府と長年に渡って戦い続けることができた。
(わしら三好残党の足軽百人を、米で雇うと金造が持ちかけてきた時、わしは明智家の風向きが悪くなれば、米を盗んで、逃げるつもりでおった)
寺に米を預けているのであれば、幸いだ。
別の場所へ米を運ぶのだと言って、寺の蔵から持ち出して、逃げる。
瀧次郎は元は河内の国衆だ。恥を知っている。死んだ息子と同世代の金造を騙すことを、心苦しく思わぬでもない。
それでも戦が不利となれば、明智家のため戦うより、米を盗んだろう。
食うや食わずの足軽にとって百俵の米は、それだけの価値があった。
だが──
(しばらくしてから、寺の者や荷方の久兵衛に確認して驚いた。わしらを雇ってすぐに、寺の米は売りに出されていた)
思い出してみれば、金造は「当座の米はここから出す」と言っただけだ。
当時の明智家の財政状態は悪かった。米をいつまでも寺の蔵に置いたままにできるはずがなかった。瀧次郎ら百人の足軽を雇ったのだから、なおのことだ。
金造の思わぬ捷っこさに、苦笑したのを覚えている。
(だが、奪える米がないとはっきりして、わしの腹も決まった)
しばらくは、いらぬことを考えずに励むべしと。
金ケ崎の退き口では明智家は貧乏くじを引いたが、その後は盛り返した。
瀧次郎も、槍働きに専念したおかげで出世した。三好の時代から今もついてくる手下の衆を飢えさせる心配はなくなった。
(寺に米が残ったままであれば、果たしてどうなっていたか)
頭のどこかで、百俵の米をいかに盗むかを常に考えつつ、戦に出ていれば。
若狭で落ち武者狩りにあった時に、不覚を取ったかもしれない。
下々に対する適切な警戒心は、却って悪心を遠ざける役割をも果たす。
(義輝様の御所を囲んだあの時は、その逆だった)
統率する側に下々への警戒心がなくなるとどうなるか、瀧次郎は義輝暗殺で思い知った。
永禄八年(1565年)五月、瀧次郎へも陣触れがあった。
三好と義輝との関係を修復するため、御所巻を行うから京へ兵を出せ、とあった。到着してみれば、兵も京の町も妙に浮ついていて統制が取れておらず、瀧次郎は驚いた。筑前守の軍ではありえぬ緩さだったからだ。
上から出される指示も、言ってしまえば「現場でうまいようにやれ」という、どうとでも取れる内容だった。
御所巻をしても、義輝が我慢して従わなかったら?
御所の警固の衆が、御所巻する三好勢に矢を射掛けてきたら?
判断の基準と、責任の所在を曖昧なままにして現場に丸投げをした結果、誰も望まぬ形で御所に三好勢が乱入し、義輝は横死した。
(筑前守様の死後、三好が凋落したのは下々への警戒心が薄れたからよ。緩い空気の中で、うまいようにやれと言われれば、悪心が湧くものだ)
明智家が強いのは、主君の光秀も、裏方で支える金造も、適切な警戒心を持っているおかげだと、瀧次郎は考えている。
警戒心は、籠城戦においても重要だ。
城の守りのどこが手薄か見抜ける。城を攻める側がどう動くかが見えてくる。
三人が歩きながら城門の近くまできた時、鐘が鳴った。
澄んだ、綺麗な響きが暮れ六つの時を告げる。比叡山が焼かれるまで、それなりの寺に置かれていた鐘だ。
昼餉からさほど時間が経ったとも思えぬのに冬の太陽は低く、影が長く伸びている。
作事をしていた人足は曲輪ごとに集められ、名を呼ばれて確認した後、退出となる。
三の曲輪で待っていた女衆と童たちが、二の曲輪から出てきた夫役の人足と合流し、城の外へと出ていく。
瀧次郎の目に、男女と童の三人が映る。
「父ちゃん!」童が駆け寄る。
「おお、待ってたか。握り飯はもらったか」父親が抱き上げる。
「もらった!」童が得意そうに言う。
「お疲れ様、あんた」母親が笑顔を向ける。
妙な光景だと、瀧次郎は思う。
築城中であるとはいえ、ここは城の中だ。
町衆には、比叡山を焼いて坂本を占領した明智を恨む心も強い。
その明智の根城である坂本城の中で、家族が笑顔で会話をしている。
(足軽共は……うむ。怠ってはおらんな)
瀧次郎は、親子から目を離し、城門や矢倉に向ける。
足軽はそこかしこに立って、厳しい顔で見張りを続けている。
足軽にとって、坂本は今も敵地だ。
比叡山を焼いた直後は、心が荒んだ者も多く、足軽の士気は下がっていた。城番の時に骰子を転がす者もいた。
あれから一年と半年。
恨む側にとっては、短い月日で。
恨まれる側にとっては、長い歳月だ。
坂本城が囲まれた時、この親子のように、城内を知る者が敵の忍びを手引するかもしれない。
そんなことを警戒しているせいか、親子が、三人揃っていながら、なかなか出ていかないことが気になった。
詮議が必要か。
瀧次郎が親子に向けて足を踏み出そうとした、その時に。
城門の篝火に火が灯された。下坂本の町屋へ続く道が照らされる。
「父ちゃん、篝火がついたよ」
「よし帰るか」
「坊、足元に気をつけるんだよ」
「わかった!」
親子が、篝火に照らされた道を歩いて城の外に出る。
なんのことはない。童がいるので、夜道を照らす灯りがつくのを待っていたのだ。
「瀧次郎殿? どうかしたか?」
金造が、瀧次郎に声をかけた。
「……いや。なんでもない」
「なんだか、嬉しそうな顔をしてたぞ」
「気のせいだ」
日之介の指摘に、瀧次郎は首を振る。
警戒する心は大事だが、行き過ぎれば猜疑する心となる。
晩年の筑前守が警戒と猜疑の間で揺れ動いたように。
親子三人の長い影が、揺れながら遠ざかっていく。