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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【百合短編】私の世界に君はいらない

作者: 由原靜

 19xx年、日本の小さな医療研究所で、とある新たな病気が発見された。

 人々は初め、その病気を「ありえない」と一笑に付したが、徐々に日本のあらゆる地域で発症が確認されるようになり、政府は慌ててその病気を公認、倫理的観点より認知を広めるよう国民に呼び掛けた。


 センセーショナルな取り上げ方をされたその病気は、現在日本国内で46の報告例が存在する。国外からの報告は、今現在は上がっていない。

 何に起因するのか、発症のトリガーは何か、そしてその対症療法すら確立されていない。


『一番大切なものの記憶が継続しない』この奇病。


 マスコミが付けた名は――『思い出病』。



◇◆◇



 一ノ瀬明乃は、そう動揺せずに診断結果を受け止めた。目の前の白衣を着た老人は、随分慌ただしそうにバインダーに挟んだ書類を繰り、時折何かを――明乃には分からない文字で――走り書きしている。老人の手元、深い群青の柄の万年筆に目を惹かれた。綺麗な青だ。


 両親は、長女を襲った不幸に悲しんでいたが、張本人である明乃は、自らと不幸が上手く結びつかなかった。

 だって、明乃自身は全く変わらないのだ。両親のことも、妹のことも、友人のことも、今まで二十数年間生きてきた人生のことも、明乃の中にあり、決して消えることはないのだから。


 両親は明乃に忘れられないことを喜びはしていたが、瞳に昏い影が過ぎったことに明乃は気付いていた。娘に「一番大切」だと思われていなかったことが気に掛かっているのか。

 序でに、両親が『思い出病』に掛かったら私や妹のことを忘れるのだろうか、なんて詮無いことを考える。


 明乃の、一番大切なもの。

 それは『自らが生み出した物語』であった。



◇◆◇



 一ノ瀬明乃は作家だ。淡々とした筆致で、物語を書き下す。大学在学中に短編小説にて賞を取り、三作目でそれなりに有名な賞に入選、地元の本屋では明乃のコーナーが作られる程度には知名度も広がった。


 書くことが、好きだった。

 好きなどという言葉では生温い、物語に魅了され、書くことを止む無くされた、物語の奴隷。そのくらい、明乃にとって物語とは、自分の人生を捧げることも厭わない存在だった。

 だから『思い出病』で、自らの物語に関する記憶が継続していないことに気付いたとき、愕然としつつも納得したのだ。


 明乃が『生み出した物語』について継続する記憶の期間は一週間。それだけあれば、短編作家の明乃にとっては苦労はしない。記憶が途切れる、ちょうど境目の期間にだけ気を配っていればいい。

 物語を書くことだけが、明乃の生きる意味。生きる意味を阻害しない『思い出病』は、確かに悲しい病気ではあるが、気を落とす程のものではない。


 広告会社で働いていた明乃は、病気の発覚と同時に親元に半ば連れ去られる形で戻ってきた。自分の時間が阻害される為、同居だけは嫌だと対立し、やっとの思いで自分の城を手に入れた。

 1DK、少々手狭だが住めないことはない。実家から徒歩10分の物件を、妥協と妥協を重ねて選んだ。

 大量の本を運び込み、やれやっと落ち着けると人心地つく。引越しを手伝ってくれた妹、志乃に、近くのファミレスでパフェをご馳走すると、志乃は手放しで喜んでいた。丸一日の重労働の対価をパフェ程度で済ますとは、と苦笑しつつも、志乃の「そういえばね、おねーちゃん」との言葉に耳を傾ける。


「おねーちゃん、アルバイトを雇う気ない?」


 現在お金に困っているという志乃の友人、チカちゃん。心配性の母親が、明乃の一人暮らしに承諾したはいいものの未だに色良い顔をしていないことは気付いていた。

 その点、毎日様子を見に来てくれる子がいれば、母も少しは安心するだろう。


 志乃はパフェに添えられていたウエハースを齧りながら、にやっと悪ガキのような笑みを浮かべた。よく見覚えのある笑みだった。


「チカちゃんのご飯は凄く美味しいんだよ。おねーちゃん、集中したらご飯のことも何もかも忘れちゃうでしょ?」


 ……グゥの音も出ない。



◇◆◇



 市川チカは、明乃の妹、志乃の、小学生からの友人である。

 少々悪戯好きで始末に困る志乃に、どうしてこうもいい子が付き合ってくれているのか、明乃はずっと不思議だった。志乃が振り回しているのではないかと思ったが、チカは自らの意志で志乃と一緒にいるらしい。

 家に遊びに来たチカと、小さい頃はたびたび遊んだものだが、年齢が上がるにつれてそれも疎遠になった。だから志乃とチカが、高校生になっても未だ友人であるということに、明乃は驚いたものだった。


「お久しぶりです、明乃さん」


 そう明るく微笑んだチカと、小学生の頃遊んだ幼い少女の笑顔が一致した。なるほど、妹もチカも中身はそう変わっていないから、幼い頃の友情を続けられるのかもしれない。


 アルバイトの件について同意すると、チカは手を叩いて喜んだ。地味だが可愛らしい少女である。

 お金に困っている、と志乃は言っていたが、なるほど彼女の学生カバンには、普通の女子高生のようにキーホルダーやぬいぐるみがくっ付いていない。服装も学校指定の制服だった。あまりお小遣いを貰っていないのかもしれない。

 遊びたい盛り、お金だって欲しいだろう。そう詳しく聞くこともなく、明乃はアルバイトの話をまとめていった。学校が終わってからの、17時から20時。学校がない休日は、13時から19時。日曜日はお休み。

 言っても家事くらいで、そう働いてもらうべきものはない。暇な時間は何をしても構わない。書面で契約を交わすと、チカは嬉しそうに笑っていた。



◇◆◇



 チカのご飯は、なるほど絶品だった。志乃にそう言うと、志乃は自分が褒められたかのように喜んでいた。アンタを褒めたんじゃないよ、と何度も言うのだが、それでも嬉しいのだという。


「おねーちゃんは、人に興味がなさすぎだよね」


 そうだろうか。

 そんなことはない、今までいくらでも物語で人間について書いてきた。そう主張すると、今度は志乃は、少し悲しそうな目で明乃を見た。


「じゃあ、おねーちゃんは人に興味がないんじゃなくって、人付き合いに興味がないんだ」


 その通りだった。

 文筆業を営む自分より、妹の方が正確に言葉を使えているというのは、なんだか悔しいものがあった。


『思い出病』の弊害は、あまりない。

 強いて言えば、浮かんだアイディアをずっと覚えておけないということ、そして自らが書いたものを覚えておけないということが難点か。


 それでも、前者は「早く文字として書き下さねば」と尻を叩くいい材料になる。せっかく浮かんだアイディアを、頭の中に燻らせておくのはもったいない。書けるときに書いておかなければ。

 その意識は、明乃にとって心地よいものだった。親元に連れ戻されて、半ば専業という形で物語に向き合っているからこそそう思うのかもしれない。


 後者は少々困り物だったが、他人の目で自らの文章を批評するという経験が出来たのは喜ばしい。

 ザカザカと他人の瞳で、過去の自分が書いた文章に赤を入れていくという経験は、なかなか出来るものではないし、他人の目から見た自分の文章もそう悪いものではないと認識できたことは、なんだか嬉しかった。


 書き上げた分量に比例して、持つ手帳の量も増えていった。パッと情報を検索したい、そんなときに、チカは随分と役に立ってくれた。

 なんにせよ、自らが書いたものを瞳を輝かせて「面白い!」と楽しそうに読んでくれる人というのは有難いものだ。『読者』という存在を、改めて意識した。


 目の前の少女の笑顔を、もっとずっと見たくなった。


 自分の書いた文章を読んで、もっと喜ばせたい。

 面白いと思ってもらいたい。

 息を呑んで、慌ただしく次のページを捲ってもらいたい。


 ただ、それだけの、贅沢な思い。


 それだけ――だったのに。



◇◆◇



 週に一度、日曜日の夜だけは、実家に戻り食卓を囲むというのが両親、ひいては心配性の母親との約束だった。そのくらいならば、と承諾し、今に至る。

 住み慣れた町に引っ越してきて三十週、半年余りが経過していた。


「不摂生してるかと思ったら、元気そうで何より」


 母は嬉しそうに炒め物をしていた。そんなに自分には信頼がないのか、と首を捻るも、過去を掘り返すと様々な証拠がわんさか出てきたので思考をストップさせる。そりゃあ、母が一人暮らしを渋る訳だ。

 香ばしい胡椒の香りに、空腹感を思い出す。スマホをぼんやりとした顔で弄っていた志乃は、楽しそうな笑みを浮かべて顔を上げた。


「きっと、チカちゃんのおかげだよ」


 母も穏やかな表情で「そうねぇ」と同意する。明乃は不意を突かれ一瞬黙り込んだが、目を瞬かせて口を開いた。


「……チカちゃんって、誰?」


 明乃の声に母は「もう、仕方ない子ね」とばかりに微笑んだが、志乃は表情を強張らせた。


「……チカちゃんのこと忘れたの、おねーちゃん」


 志乃の声に、ハッと息を呑んだ。


「いつも、おねーちゃんのお手伝いしてくれてるじゃん。まさか……」


「……違うよ、志乃。普段名前を呼ばないからさ、戸惑っちゃっただけ」


 志乃の視線を避け、不自然を悟られぬようにスマホを手に取った。

 覚えていない、そんなことは、ない。


 スマホの中の様々なデータにアクセスし、『チカちゃん』の情報を集める。

 日記を書く習慣があって、本当によかった。一ノ瀬明乃にとって、市川チカはどんな存在なのか。どんな外見をしているのか。どんな会話をしたのか。


 志乃に知られてはいけない。

 悟られては、いけない。


 自分でも、信じられなかった。

 記憶を探す。過去を、思い返す。


 私が、先週書いた物語は、どんなものだった?


 ――思い出せてしまったことに、絶望した。



◇◆◇



 どうして覚えている。

 どうして覚えている。


 ――どうして覚えているのか。


『思い出病』。その人の、一番大切なものの記憶が継続しない病気。

 大切なものの、記憶。


 私の大切なものは、 物語だ。

 市川チカという女の子ではない。


  違う。

  違う。

  違う。


「あ、明乃さん。こんばんはー、今夜は何を食べます?」


 部屋から出てダイニングに向かうと、チカがコートを脱ぎながら笑顔で話しかけてきた。きちんとした微笑みを、返せただろうか。


「明乃さん?」


 名前を呼ばれ、ビクリと肩を震わせた。大きな黒い瞳が、じっとこちらを見返している。

 何度も見ているはずなのに、初めて見るような気分を味わった。既視感とは真逆の感覚、未視感。


 この少女のことを、一番大切に思っていると?

 ――ありえない。


「……そうだね、じゃあ、ハンバーグが食べたい、かな」


 目を細めてチカは微笑むと「明乃さんって意外と味覚子供ですよねぇ」と言いながら、キッチンへとパタパタ足音を立てて去ってしまった。物音が聞こえる。恐らく冷蔵庫を開けて中身を確認しているのだろう。


「一昨日も作ったんですけど、じゃあ今回はデミグラスソースで味付けしようかなぁ」


 ――日記に夕食の内容も書き留めておかないといけないようだ。



◇◆◇



 次の週も、その次の週も。祈るように、どうか『物語』を忘れますように。チカちゃんのことを覚えていますように。祈る気持ちで眠りにつき、翌朝毎回気付かされ、そのたびに心を折られる気持ちになった。


 筆は鈍り、疲労は堪え、飛ぶ記憶を怖れる。記憶が、今のチカに出会う前、『思い出病』が発症する前の最後の記憶、小学生の頃に巻き戻されるのを――緊張しながら彼女に会い、そして一週間の終わりには安らぎを感じるほどになる永遠のループを想像しては、魘される。

 普通の人は、大切な人がいる人物が『思い出病』に罹ったらこうなるのだろうか。いや、今の明乃に、そこまで客観視出来るほどの気持ちの余裕はない。


 裏切ってしまった、気分だった。


 物語の神様を――明乃にとっての神を、裏切ってしまった。


 ずっと信じていた、信仰していた。一身を物語に捧げてきた。その見返りに、物語の着想を得ていたのだとしたら。


 何も、思いつけなくなった。

 カーソルがただ明滅するだけの真っ白なテキストエディタ。頭を抱え、息を吐く。


 追い詰められた思考は、唯一の解決策を導き出した。



◇◆◇



「クビ……ですか」


 切ない目をしたチカに心が痛むも、感傷を振り払った。どうせ、来週には忘れてしまう。そして来週、チカはもうここへは来ない。

 チカを忘れた明乃は、チカの存在を忘れたまま一週間が過ぎ、そうすればもう、何も変わらない。『物語』を忘れる、元通りの自分になる。こちらに引っ越してくる前と、何も変わらない。


 チカのいない部屋は、随分と広く感じた。勿論、そんなことは気のせいだ。部屋の広さは変化しない。感じ方が、変わっただけ。価値観が、変化しただけ。


 幾つも年下の女の子に、よくもまぁご執心なことで。

 自嘲の笑みが零れた。



◇◆◇



 早めに、志乃に知らせておかなくては。チカを雇うことを止めたことを。

 案外、志乃は勘がいい。もしかしたら勘付くかもしれない。この町から出ることも考えようか。両親を説得出来るかは怪しいが、もう成人済みの、いい年の女なのだ。いつまでも親元にいる訳にもいかないだろう。


 即入居可の手近な引っ越し先を見つけ、契約を交わす。大量の本を売ってしまえば、後の私物はそう多くない。段ボール数箱に収まってしまう程度の人生。


 周期的に考えて、明日明乃は、チカのことを忘れる。それは、仕方がないことだった。


 荷造りが済んだ部屋で、大の字になった。少々行儀は悪いが、誰も見ていないのだ、別段構わないだろう。冷たいフローリングの感触が、今は心地よい。


「明乃さんっ!」


 心臓が止まるかと思った。

 玄関に、数日前に追い出したはずの、市川チカが立っていた。



◇◆◇



「カ、カギ……合鍵、持ったまんまだったから」


 呆然唖然を通り過ぎ、むしろ今ならどんなものでもどんと来いな精神状態になった明乃は、ひとまずチカをもてなすことにした。

 戸棚を開けると、チカが来客用にと買いだめしておいたクッキーを見つけて皿に出す。インスタントだけれどもコーヒーを入れてチカに差し出すと、チカは躊躇しながら受け取って「……どうしてそんなに落ち着いているの」と明乃に恨みがましい瞳を向けた。


「引っ越すの?」


「……うん」


「わたしのせい?」


 迷ったが、首肯した。


「よく、気付いたね。志乃が言ったの?」


「志乃ちゃんは何も言ってないよ。……明乃さん、どれだけ一緒にいたと思っているの? ちゃんと、気付いていたんだよ」


 わたしの存在が、邪魔?

 首を縦に振ることを、躊躇した。

 躊躇した時点で、なんとなく、そういうことなのだと納得した。


 つまりはそういうことなのだ。


「明乃さんのことが好きだけど、明乃さんの書く物語は、もっと好き。忘れられるのは悲しいけれど、忘れられるほど大切に想われているのは、なんだか嬉しいの。ねぇ明乃さん、わたしって変かな?」


 変じゃないよ、と、静かに答えた。


「わたしを、明乃さんの一番最初の読者にして欲しいよ。大好きな作家さんのお話を、一番最初に読める権利を、わたしにください。――わたしのために、物語を書いてください」


 本当に、それでもいいの?

 貴女の記憶は失われる。こうして会話したことさえ、明日の私は忘れてしまう。


 一ノ瀬明乃の記憶に、今のチカは残らない。


「それで、いいんだよ」


 それでも、いいんだよ。



◇◆◇



「ねぇ明乃さん。志乃ちゃんから、どうしてわたしがお金に困っていたのか、その理由を聞いたことはある?」


 桜並木を散歩していた折、ふとチカはそんなことを尋ねてきた。

 青く霞んだ空に、桜が散っている。まだ冷え込みは強いが、もうコートは必要ない。チカと出会い、そろそろ一年が経とうとしている。もっとも、明乃の記憶のチカは、たった三日前に出会った人物に過ぎないのだが。


 記憶を探り、ついでに今朝見た日記にも思いを巡らして「聞いてない」と正直に答える。チカはふふっと笑みを漏らした。


「アレねぇ、本当のことを言うと、どうしても欲しい本があったの。明乃せんせーの一番古い短編集。自費出版で、昔出したでしょ」


 記憶にヒットした。高校生の頃のお話だ。二十部しか刷っていない、当時はむしろ在庫処分に苦労した代物が、今はネットオークションで高値で取引されている。むしろ余剰分のお金は、私の手元にこそ来るべきではないのか。そうは思うが、もうどうでもいいことだった。


 もう、自分の書いた物語を忘れることはない。それが良いことなのか悪いことなのか、明乃には判別つかなかった。


 昔の形振り構わなかった自分の作品も、今の作品も全て、愛おしいと思う。

 もしチカに出会わなかったら、きっと過去の物語をこうして愛おしく思うことはなかったのだし、そう思うと、まぁ。


「悪くはない、よね」


 強い風に、髪を押さえてチカは目を遣った。


 次のお話は、桜に攫われる少女の物語にしよう。初めての長編小説を書いてみよう。


 彼女は、喜んで読んでくれるだろうか。

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