7.酒場の怪事
ふと目が覚めた時、ベリルは妙な感覚に襲われた。
それは明け方の判然としない意識とは別物で、どこか危険を感じるときの空気に似ていた。
……何だ? 妙に静かだな……。
昨晩手に握り締めていた隣の部屋の鍵はそのままになっていた。
ベリルが起き出す気配に気付いてふんわりと近付いてきた魔法の地図に確認する。
すると、やはりクリスタは結局一晩中二階に上がって来なかったらしい。
せっかく二部屋取ったのにどこへ行ってしまったのか。
まさか厩でモリオンと一緒に寝てしまったのか。
ベリルは早朝から軽く苛立ちを覚えた。
気持ちを落ち着けようと用意されていた水差しから木桶に水を注ぎ、その水で乱暴に顔を洗う。
そのままの足でクリスタを捜すために厩へと向かった。
部屋の外に出ると、廊下の突き当りにある開け放たれた窓から早朝の涼やかな風が吹き込んできて、ベリルのぼんやりとした意識を完全に覚醒させた。
昨晩の騒ぎが嘘のように静まり返った建物内を厳かな朝の空気が包み込んでいる。
階下の酒場に降りようと階段に足を掛けたとき、ベリルは寝起きに感じた違和感の正体にようやっと気付くこととなる。
階段の下に男が倒れている。
それは昨晩話をした愛想のいい宿屋の主人だった。
驚いて慌てて駆け寄り、うつ伏せの身体をひっくり返すと、血色の良かった顔は血の気が引いて真っ青に変わっていた。
脈を診ると弱いが確実な拍動が感じられるため幸いなことに死んでいる訳ではないようだ。
ただ、全身から力が抜けていて意識も判然としないらしい。
さらにベリルが顔を上げると、そこには同じような状態の男たちが酒場の床のあちこちに転がっていた。
あまりの光景に全身の毛が総毛立つのを感じる。
無意識に敵の気配を探るが、辺りは朝の静かで穏やかな空気に満ちていて、小鳥の囀りが聞こえる以外音らしい音もない。
状況が一切分からない現状で動き回るのは危険だと判断し、ともかく抱き起した宿の主人の肩を揺すって声を掛ける。
「おい! しっかりしろ! 大丈夫か? 何があったんだ?」
主人は焦点の定まらない目でベリルを見上げるが、うめき声しか発することが出来ない様子だった。
その後何度も声を掛けるが同じような反応しか返ってこない。
ベリルの声に反応して酒場の方からも数人のうめき声が聞こえてくる。
しばらくすると、酒場の入り口の扉が突然開き、外から若い女性が慣れた様子で中に入ってきた。
手にした籠から野菜やら果物やらが見えていることから食材の配達に来たのだろうことが窺えた。
彼女はにこにこと笑みを浮かべながら入ってきたのだが、宿の主人を抱えて床に跪く青年の姿が目に入ると、一瞬にしてその場に凍り付いた。
そして、きりきりと音がしそうなぎこちない動作で首を酒場の方に回す。
次の瞬間、その惨状を見て予想通りの反応を示した。
「きゃーーーーー!!」
建物内に若い女性の絶叫が響き渡り、静かな朝は瞬く間に騒然とした事件現場へと姿を変えた。
女性の悲鳴を聞きつけた村人たちが何事かと外から駆け付けて来る。
しかし、酒場内の異常な現場を見て誰もが皆固まってしまった。
その後、いち早く硬直から立ち直った誰かが「隣村から医者呼んでくる!」と外に駆け出して行った。
ベリルが脈を確かめて誰も死んでいないことを告げると、その場に倒れている男たち以外の全員がようやっと普段の呼吸を取り戻した。
「一体何があったってんだ……?」
「本当に死んでないんだよな? ……本当に?」
「怪我してるって訳でも無ぇみてぇだし、これは……ええと……何て言ったらいいんだ?」
「いや、んなことより、まず全員を寝台に移さねえと! 誰か手伝ってくれ!」
口々に言い合う村人たちを冷静に眺めながら、ベリルははたと階下に降りてきた元の目的を思い出していた。
酒場内の惨状に正反対の危惧が両方とも同時に思い浮かぶ。
床に倒れている体格のいい男たちを救護するのに苦戦する村人たちを横目に見つつ、ベリルは一人厩へと先を急いだ。
「魔女殿! モリオン!」
外に出て厩に辿り着くと、気持ちが焦って大声が出た。
すると、すぐに奥の方で蹲っていた黒い獣が長い首を持ち上げて顔を出した。
宿泊客が少ない割に何頭も繋ぎ止められている跳ね馬たちの中でも黒い毛並みに立派な体躯のモリオンはひと際目立って見えた。
急ぎ足でそばに近付くと、そのモリオンに半分身体を預けたクリスタがすーすーと安定した寝息を立てている姿も目に入る。
とりあえず彼らの無事な姿に胸を撫で下ろすも、そうなると残る懸念に意識が向かう。
そんなベリルの胸中を敏感に感じ取っているのか、黒い跳ね馬が立ち尽くす青年を見つめて小首を傾げていた。
「魔女殿、魔女殿! 起きてくれ!」
突っ立っていても仕方がないので、外套にくるまって健やかな寝息を崩さない人物の肩を掴み、強く揺すり起こす。
相変わらず睡眠中も醜い仮面を外さないクリスタはその歪んだ顔をふるふると小刻みに振りながらゆっくりと身を起こした。
「……なんだ、お前か。起こし方が乱暴だな……」
「そんな悠長なことを言っている場合ではないぞ。……昨晩何かあったのか? なぜこんな所で寝ているんだ?」
知らず知らず肩を掴む手に力が籠る。
ぼんやりとした口調で話すクリスタは畳みかけるように問い掛けるベリルに対し、強く掴まれた肩の手を不愉快そうに払い除けた。
「……煩いな。眠たかったから寝ていたに決まっているだろう。朝から溌剌としている人間はこれだから嫌だ……」
そう言って、非常に煩わしそうにそばで跪いているベリルを避けると、立ち上がって思い切り伸びをし出す。
「この際、どこで寝ていたかは問題ではない。昨晩何かあったのではないか、と訊いているんだ!」
ベリルが強い口調でさらに問い掛けると、濃紺の外套に身を包んだ魔女は「何を興奮している?」と若干身を引きつつ振り返った。
「昨晩……? 昨晩がどうかしたのか?」
そう尋ねてくる口調からクリスタには本当に心当たりがないらしい。
問うベリル自身にも何があったのか分からない以上ここでどうこう言っていても埒が明かない。
ともかく酒場の惨状を見て貰おうと、寝起きで足元がふらついているクリスタの腕を強引に引っ張って元来た道を戻ることにした。
半ば引き摺られるようにして連れて行かれる主人の後を、小首を傾げたままのモリオンが追って行く。
酒場に戻ってみると、床に倒れていたほとんどの人物がどこかへ運ばれていったらしく現場は先程よりも閑散としていた。
呼びに行かれたはずの医師の姿はまだなく、残っている数人も村人たちの手で助け起されている途中だった。
見れば、酒場の椅子に宿屋の主人がこちらへ背を向けて腰掛けている。
最初に助け起こしたのが幸いしたのか、その様子から少しは最悪の状態から回復したように見えた。
早速事情を聞こうとベリルがほんの少し近付いた瞬間、気配を感じ取ったのかその男は突如として首が取れそうな勢いで振り返った。
鬼気迫る勢いに驚いていると、ベリルが声を掛けるより先に温厚そうだった宿屋の主人は真っ青な顔で狂ったように叫び出した。
「そいつだ! その女、魔女だろう!? そいつが俺たちを襲ったに違いない! 殺そうとしやがった!」
ベリルの肩越しに思い切り指を差されたクリスタは無言でこてんと首を傾げたが、一拍置いておもむろにそれまで目深に被っていた頭巾を外した。
その場にいたベリル以外の全員が息を呑む。反応から察するに、ベリルと同じものを魔女の顔に見ているのだろう。
場の静寂を支配したクリスタはそのままゆっくりと背後を振り返る。
視線の先には酒場の入り口から中を覗き込んでいる黒い跳ね馬の姿があった。
両者は少しの間見つめ合っていたかと思うと、途中でクリスタが軽くため息を吐き、再び正面に向き直る。
彼女は一瞬ベリルの方に顔を向けたが何も言わず、その代わりにその場の全員に向かって口を開いた。
「私は何もしていない」
しかし、そう言うと同時に身に纏った外套の中からじわりと染み出るように霞のような闇が湧き出してくる。
「……が、何かしたのは彼女たちだ」
クリスタがそう口にした途端、外套から滲み出た闇の帳が勢い良く膨れ上がり、凄まじい強風と共に闇だと思っていたものは目に見えてはっきりと形を取った。
それは漆黒の衣に身を包んだ何人もの女性たちだった。
ある者は裾の長い礼服を。ある者は三角帽子に外套を。
しかし、一貫して全身が闇夜の色を落とし込んだような黒一色に染まっていた。
古今東西『魔女』と聞いて思い浮かべるすべての姿がそこに存在していた。
彼女たちは笑っていた。
愉悦が止まらないというように残忍な笑みを皆が浮かべていた。
闇から伝わってくる壮絶な悪意は筆舌に尽くし難く、建物内のすべてを飲み込もうとするように瞬く間に広がっていった。
手伝いに来ていた女性たちの多くがその場に倒れ、男たちは竦み上がって一歩も動けなくなった。
朝日が差し込んでいた建物内は闇の帳が支配し、光という光が闇に吸収されていく。
そんな中、唯一腰元の剣を勇敢にも引き抜いたのは、どんな時も王国の第二王子として、精神を鍛え抜いた騎士として、折れない矜持を持つベリルだけだった。
吹き荒れる闇の風の中で王子の剣が銀色の鋭い光を放つ。
すると、それに気付いた渦巻く闇の中心に立つ人物がすっと片手を高く上げた。
それを合図に闇の嵐は徐々に収束し、室内に朝の光が戻ると共に漆黒の女性たちの姿も光の中に溶けて霧散していった。
後には、ただ一人剣を構える青年が呆然と立ち尽くすのを残すばかりで、その他の人間はほぼ全員が床の上に倒れるか、腰を抜かして座り込んでいた。
「……一体……今のは何だったんだ……?」
たっぷりと間を空けてベリルはようやくそれだけ呟いた。
その呟きを質問と捉えたらしい小柄な闇の塊は特に何かが起きた風もなく無感動に答えを返してきた。
「強い未練を残して死んでいった魔女たちの魂の成れの果てだ。元は私が召喚術で喚び集めたものだが、今はどちらかと言うと『憑り付かれている』という表現の方がしっくりくる」
つい今しがた現れた漆黒の女性たちとは違い、彼女たちの中心に立っていたクリスタからは悪意どころか何の感情も伝わってこない。
しかし、話している内容は全くもって穏やかではない。
混乱の極致にある頭の中を必死に整えて、ベリルはどうにか今問うべき疑問を捻り出した。
「その……『成れの果て』は、昨晩一体何をしたというんだ……?」
「酒場の連中から精気を吸い取った」
感情のない声が周囲の視線を一身に集めながら話を続ける。
「致し方ないだろう。私は意識を失っていたし、彼らは姉さま方が好みそうな強烈な芳香を放っていたし、そもそもみんなもう長いこと腹を空かせていたから。……だが、きちんと私に遠慮して誰一人として殺してはいないそうだ」
クリスタは軽く肩を竦めてそんなことを言う。
何となく現状を把握したベリルは一周回って恐れより怒りが打ち勝ち、何を考えているんだと怒鳴りつけようとした。
しかし、その言葉が音を持つ前に、生まれたての小鹿を彷彿とさせる動きでどうにか立ち上がった宿屋の主人の叫び声が場の空気を切り裂いた。
「忌まわしき魔女め! この村から出ていけ!!」
そこからは喧々諤々たる有様で、村人たちが口々にクリスタに罵声を浴びせ始め、そのままだと全く収拾が付きそうになかった。
どうしたものかと困窮していると、この状況になってようやっと起き出してきたサフィリオスが背中に丸筒を担いで階段を駆け下りてきた。
慌てた様子の小さな身体はほとんど何を言っているのか聴き取れない叫び声の洪水の中を、人々を掻き分けて兄のそばまで辿り着くと、丸筒を手渡しながら負けじと声を張り上げる。
「兄さま! 一体朝っぱらから何があったというんですか!?」
ベリルが何から説明すれば良いのか答えに窮していると、手の中の丸筒が小刻みに振動するのを感じた。
魔法の地図が何か言いたがっているのだと思い、すぐさま丸筒を耳元に近付ける。
「ベリル様。何にしろこの場から一旦離れましょう。ここでは話も儘なりません」
丸筒の中からいつも通りの落ち着いた声が的確な助言をくれる。
尤もだと思い、善は急げとサフィリオスの手を掴んで酒場の入り口まで走り寄る。
途中で何をするでもなくただ突っ立っているクリスタの手も掴む。
場に溢れ返る怒声が後を追い掛けてくるが、状況を察したモリオンが酒場の入り口から飛び出してきた三人の背後に立ちはだかり、後ろ足で立ち上がって追手を牽制した。
怒れる群衆と化した村人たちが尻餅を付いている間に、サフィリオスとクリスタを両脇に抱えたベリルはその健脚であっという間に村の入り口まで逃げ去った。
もちろんその後から黒い跳ね馬も大陸一の速度を誇るその脚で難なく追手を振り切り追い付いてきた。
結局来た時と同様にまた村の入り口近くの雑木林に身を隠し乱れた呼吸を整える。
目下のところ騒ぎの根源たる小柄な魔女は、今はもう恐ろしい闇の霞を外套の中に引っ込めて何事もなかったように平然としている。
困惑し過ぎて眉が下がり続けているサフィリオスはそれでも大人しく自分を運んできた兄の息が整うまで地面にしゃがみ込んで待っていた。
魔法の地図も同様にベリルの背中の丸筒の中から少しだけ顔を出して静かに待機している。
モリオンはというと、ベリルが息を整えている間に跳ね馬の姿から墓守犬に姿を戻し、ぼんやりと立つ主人のそばに腰を下ろしていた。
昨日の朝の光景を繰り返すように、その場の全員がベリルの口が開くのを待っている。
期待に応えるため、ようやっと息が落ち着いてくると、一行の先導者たる勇敢な王子は言葉を選んで話し出した。
「魔女殿。差し支えなければ教えて欲しい。なぜあんなことをしたのだ?」
固い声を出す兄を不安げに見上げるサフィリオスは続いてそれに答える魔女の方に顔を向ける。
「言っただろう。私は何もしていない」
「しかし、あなたが引き連れている死んだ魔女の霊魂とやらが酒場の客たちから精気を吸い取ったんだろう? 死んではいないとはいえ、半死半生状態だったんだぞ!」
「姉さま方が勝手にしたことだ。彼女たちは言わば怨霊のようなものだから、ああいう人間たちを見れば襲わずにはいられないんだろう。死者が出ていないならそんなに騒ぐこともないと思うが」
「死ななければ何をしてもいいという訳ではないだろう! 善良な人間を何の理由もなく苦しめるなど決して褒められたことではない!」
ついつい言葉に熱を帯びるベリルと、どこか冷めた態度のクリスタとは傍目から見ても対照的で、二人の顔を交互に見つめるサフィリオスは益々眉尻を下げていた。
「だから、私に言われても困る。……まあ、姉さま方に言ったところで聞く耳を持つとは思えないが」
クリスタは大きなため息を吐いて言葉を結ぶ。
一方の怒れる王子は言いたいことがあり過ぎて逆にそれ以上言葉にならなかった。
睨むベリルに、目を逸らすクリスタ、そんな二人を困ったように見つめるサフィリオスとで、その場にはなかなかに気まずい空気が流れつつある。
こういう時頼りになるのは魔法の地図だ。
かの摩訶不思議な羊皮紙は周囲に人影がないことを確認すると、するりと丸筒から抜け出して魔女と王子の間に舞い降りた。
「クリスタ殿。一度確認させて頂きたいのですが、貴女がいつも身に纏っている黒い霞のような物体は亡くなった魔女の霊魂なのですか?」
魔法の地図に穏やかに訊かれ、クリスタは心持ち気を取り直して質問に答えた。
「そうだ。その成れの果てだ」
クリスタが言うことには、死んだ魔女の霊魂はすでにモリオンのような明確な自我を失っており、生前の恨みや憎しみ、悲しみといった負の感情だけが残って、魔力が結晶化した闇の塊として存在しているらしい。
召喚術によって喚び出したものなので、結ばれた契約に従い基本的にはクリスタのために働くが、怨念が強過ぎて完全には支配し切れないと言う。
つまり、昨晩の酒場の惨劇は魔女たちの怨霊が暴走した結果だったという訳だ。
「私は意識を失っていたから何も知らないが、昨晩一緒にいたモリオンは魔女の霊魂たちが酒場に向かうのを目撃している。しかも、なかなか戻らない姉さま方を迎えに行ってくれたらしい」
思いがけず活躍していたらしい黒い獣はクリスタの話に同意を示すように愛らしい目をくりくりさせて尻尾を振っていた。
「あのぉ、ちょっといいですか?」
話の途切れたのを見計らい、それまで困り顔で兄と魔女の間を行ったり来たりしていた小さな頭がおずおずと会話に加わった。
「クリスタさんの『気を失っていた』っていう表現が気になるんですが、『寝ていた』って意味でいいんですよね?」
「ああ、そうだ。お前たちも昨晩白いスープを飲んだだろう」
クリスタはサフィリオスの問い掛けに軽く頷くが、問うた側は続く言葉に眉を顰ませた。
「……ん? 『白いスープ』って、煮込み料理のことですか? あれが何か関係あるんですか?」
「なんだ。気付いていなかったのか? 昨晩の献立の中で宿泊客だけが口にしていたあのスープにはホシワスレグサが入っていただろう」
クリスタが事も無げに言い放った言葉はその場に少なからず衝撃を与えた。
ベリルは眉間に皺を寄せて魔法の地図を振り仰ぐ。
「……ホシワスレグサって、確か強い睡眠導入効果のある植物だよな?」
「ええ、そうです。別名『魔女の媚薬』と呼ばれる強力な睡眠薬を生成するための原料となる植物です。使い方によっては命の危険が伴いますので、ラステリオン王国では一般人の栽培が禁止されており市場には一切出回っていないはずのものですが……」
流石の魔法の地図も唐突な話題に困惑している様子だったが、常の如く適切な説明をしてくれる。
知識を確認し終わるとベリルは首を捻った。
スープに規制植物のホシワスレグサが入っていただと……?
……一体何のために? 酒場の人間が一服盛ったってことなのか?
いや、そんなこと言って、こいつもう一杯頼んでなかったか?
クリスタの言うことを疑う訳ではなかったが、当の本人はそんな危険な植物が入っていることに気付きながらモリオンにとお代わりまでしているのだ。
その点を指摘すると、彼女はひょいと肩を竦めて「だって、香りがいいし美味しかったから。」と涼しい顔で言葉を返してきた。
「第一、あの程度の濃度なら気を失って朝まで熟睡するだけで特に害はない。無論、精霊であるモリオンには効果のないものだが」
ぽんぽんと腰元位にある真っ黒な犬の頭を軽く叩きながらそんなことを言う。
クリスタの言うことが本当だとして、客の意識を失わせて一体誰が何の得をするのか?
そこまで考えて、ベリルは他にも気になる言葉があったことに気付いて片手を上げた。
「ちょっと待て。いまスープを口にしたのは『宿泊客だけ』と言ったか?」
問われてクリスタがこくんと頷く。
「ああ。例の料理が振舞われていたのは旅装束の人間だけだ」
ますます訳が分からない。
酒場の客全員ではなく泊まり客だけ一服盛って何の意味があるのか。
仮に金品目的だとしてもあんな小さな宿屋ではすぐに騒ぎになるだろう。
考えても答えが出ないことに係っていても詮無いことだと思い、ベリルは首を振って話を元に戻すことにした。
「ともかく! スープの件が事実か否かということよりも、いま重要なのはあなたの率いている魔女の霊魂が暴走して人を襲ったということだ!」
やや強引な物言いに憤りを感じたのか、それまであまり変化のなかった目の前の小柄な身体からようやく感情の発露を見て取れた。
ベリルの強い言葉にクリスタは窪んだ眼窩の奥から苛立ったように鋭くぎらついた視線を向けた。
「……では、善良でなく『邪悪な人間』を『然るべき理由』があって襲ったならいい訳だな?」
そう言ってベリルたちに背を向けると、クリスタはついて来いと言うように片手を振ってずんずん林の奥へと突き進んで行ってしまう。
後に続くモリオンが呆然としている面々を振り返って彼らが歩き出すのを待っている。
一行は唐突に訳も分からず、姿が消えかけている濃紺の後ろ姿を追って雑木林の奥へと分け入ることとなった。




