6.辺境の村にて
魔女クリスタに先導されて深淵の森を無事に抜け出した一行は、すでに傾きかけた日の中を森近くにある唯一の村へ向けて歩を進める。
その中でベリルが何に一番驚いたかといえばクリスタの異常なまでの体力の低さだった。
森の中では濃霧の中を一切迷うことなく、むしろ率先して前を進んでいた魔女は森を抜けて開けた道に差し掛かり、しばらくすると明らかに歩く速度が遅れ出した。
どうやら森から離れれば離れるほどその様子は顕著になるようで、強情にも自分から休みを主張することは最後までなかったが、村へと続く道半ばで息も絶え絶えとした有様になっていた。
流石にそのまま歩かせる訳にはいかず、途中で力の入らない様子の闇の塊を強引に抱き上げて跳ね馬の背に乗せることにした。
その時ちらりと外套から覗き見えた彼女の足は何も履いておらず、鶏の足のように細く貧弱な素足は不慣れな道行きに傷付き、土にまみれて真っ黒に染まっていた。
おそらく深淵の森の中は地面のほとんどが柔らかい苔に覆われていたため不便を感じなかったのだろう。
ベリルはそっと頭の中の買い物帳に「魔女の靴」を付け加えた。
モリオンの背に揺られてようやく余裕を取り戻したらしいクリスタに、それまで心配そうな顔を向けていたサフィリオスが元気よく話し掛ける。
自然と話題はベリルに掛けられている〈死の呪い〉についての話になった。
最近では兄がいついつどういう風に死に掛けたかを熱く語って聞かせる弟の言葉を聞き流しつつ、呪われた王子は心に乾いた風が吹くのを感じていた。
ふと気付くとサフィリオスの話に耳を傾けながら、クリスタは黙ってそばで手綱を引くベリルの横顔をしげしげと眺めている様子だった。
顔自体は頭から被った外套の奥に引っ込められていたものの、何となく気配でその視線に気付いたベリルは眉を顰めて視線の主をおもむろに仰ぎ見た。
「なんだ? 何か用か?」
声を掛けると、同様に話し相手の目線に気付いたサフィリオスが話途中でベリルとクリスタを交互に見やる。
「お前の一体どこが不運なんだ?」
その場の視線を集めた馬上の人影は小首を傾げるような動作を取り、さも理解できないといった様子で呪われた王子に疑問を投げ掛ける。
先程までの話の中でサフィリオスが何度も『悲運』とか『不運』とか言っていたのを踏まえてのことだろう。
「何度も死に掛けていると言っているだろう」
説明するのもうんざりする事柄なのに、ベリルの胸中を知ってか知らずか、質問の答えを聞いてもクリスタはあまり納得した様子もなく適当な相槌を打った。
「ふうん」
「……馬鹿にしているのか?」
「は?」
相槌を打っただけなのに何故怒らせたのか、おそらく人と会話をする機会もほとんどなかったのだろう思われる引き籠りの魔女にはその理由が皆目見当が付かない様子だった。
そんな二人のどこか噛み合わない会話を魔法の地図とサフィリオスはそばで笑いを噛み殺して聞いていた。
そうこうしている内にやっとのことで視界の奥に小規模の村の姿が見えてきた。
ベリルが深淵の森へ向かう前に最後に立ち寄った村であり、サフィリオスが乗った乗合馬車の近隣における最終停留所でもあった。
村の近くまで行くと、ちらほらと人影も見える。
とりあえず村唯一の食事処である宿屋兼酒場に向かいたいのだが、村の手前の道で数人とすれ違っただけでクリスタの風体はすでに人目を引いていた。
漂う闇の帳は外套の中に引っ込めているとはいえ、『死の魔女』の噂が残る深淵の森のお膝元では魔女を彷彿とさせる恰好はよほど不吉に思えるのだろう。
試しに仮面を外すよう頼んでみるが、クリスタは頑としてその要求を受け入れなかった。
ベリルからしてみると、たとえ外しても顔があると思われる場所に闇が広がるだけなので余計に不気味に思えるが、サフィリオス達には何故かクリスタの顔がきちんと見えているらしい。
それならいかにも「魔女っぽい」醜い顔の仮面を外して貰った方がまだいいかと考えたのだ。
ただ、よくよく考えてみると村人たちにも見える人間と見えない人間がいた場合、確実に混乱を招くことが予想出来たので食い下がるのは止めることにした。
そもそも醜い顔よりもあまりにぼろぼろに擦り切れた外套の存在の方が遠目からでも奇異に映る一番の要因だろう。
騒ぎが起きても面倒なので、致し方なく村の入り口の手前でベリル以外の面々には一旦待機していてもらうことになった。
不安の残る顔触れではあるが、何かあれば丸筒に収まった魔法の地図の機転でどうにかうまいこと切り抜けて貰うことを願うしかない。
ベリルは後ろ髪を引かれる思いでその場を後にすると、大急ぎでこれまた村唯一の服飾店へ向かい、大きめの婦人用外套と適当な目測で魔女の足に合いそうな丈の短いブーツを買い揃えた。
誰かへの贈り物だと思ったのか、ふくよかな体躯の店主が他の商品も勧めようと迫ってくるのを払い除けて来た道を大股で急ぎ戻る。
村の入り口近くまで辿り着くと、厄介なことに黒い跳ね馬の周囲に数人の人だかりが出来ているのが目に入った。
両手に荷物を抱えたまま慌てて歩み寄ると、人々の賑やかな話し声も聞こえてくる。
「いやあ、黒い跳ね馬なんて俺は初めて見たね」
「黒い毛並みもそうだが、体躯も実に立派なもんじゃないか!」
「こりゃ絶対相当な金持ちの持ちもんだな。本当にぼうずの馬なのか?」
「こーんなちっこいガキにこれが乗りこなせるもんかよ! 馬鹿言っちゃいけねぇや!」
ガハハハッ! と粗雑な笑い声が辺りに響く。
クリスタだけでなくモリオンまで人目を引いていたらしい。
うっかり失念していたが、確かに黒い毛並みを持つ跳ね馬は王都でも珍しく、そのため希少価値が高い。
こんなど田舎では見たこともないという人間も多いだろう。
軽い頭痛を覚えつつ、モリオンのそばで一人奮闘しているサフィリオスに加勢するためわざと大きな足音を立てて近付いた。
「それは俺の馬だ。荷物を載せたいからそこをどいてくれ」
足音に振り向いた村人たちを掻き分けつつ声を掛けると、兄の姿を見て心底ほっとした様子のサフィリオスが駆け寄ってくる。
「ベル兄さま! 早めに戻ってきてくれて良かった。この人たちしつこくって……」
どうにも困り果てていたようで、見ればモリオンまでどこか訴えかけるような目をベリルに向けていた。
「あんた何だ? どこかのお坊ちゃんか?」
一見するとチンピラと見紛う話し方だが、おそらく余所者に対する彼らなりの親し気な挨拶なのだろうと思い、さり気なく腰の得物を主張しつつ弟と村人たちの間に割って入る。
「何でもいいだろう。所要で長旅をして来て俺も弟も疲れている。構わないで貰えると有難い」
努めて冷静に相手を刺激しないよう意識して話すと、村人たちにもやはり悪気はなかったようでベリルの言葉を聞いて非常に砕けた調子で返してきた。
「長旅ねぇ……。つっても、この先には深淵の森しかないが、まさか禁域の森に入った訳じゃあるまい? ……ってことは、森を迂回して北の山脈に抜ける街道から来たのかい? そりゃあんた大変な道行きだったろう。この辺鄙な村にゃ宿屋は一軒こっきりしかないが、人のいい親父がやってるとこだからゆっくり休んでいくといいよ」
「そうそう、そこの娘さんがまた美味い飯を出してくれるんだ、これが」
「うちのかあちゃんよりずっと美味いよな」
「違ぇねえな!」
再び、「ガハハハッ!」とひと笑いすると村人たちはベリルの肩をぽんぽんと叩いた。
去り際にはサフィリオスの頭を乱暴に撫でながら「悪かったな。」と言い、宿屋のある場所を親切に教えてくれた。
おそらく村の入り口に上等な跳ね馬と共に子供が一人で立っていたことを心配して声を掛けて来てくれたのだろう。
ベリルは特に問題が起きていなかったことに胸を撫で下ろすも、この先は少し考えなければならないと思った。
ベリルもサフィリオスも問題ごとを避けるために平民の身なりをしているため、希少な黒い跳ね馬の姿をしたモリオンとの組み合わせは田舎では逆に目立ってしまう。
微妙な線だが、人里に入るときはモリオンに犬の姿に戻ってもらったほうがいいかもしれない。
目の前の澄んだ琥珀色の瞳を見ながらそんなことを考えた。
そこでふと目の前の騒ぎで忘れかけていた存在を思い出す。
「魔女殿はどこだ?」
ベリルがそう呟くと、その場を離れる前にサフィリオスに背負わせた丸筒の中から魔法の地図がほんの少し顔を出して小声で説明する。
「クリスタ殿にはすぐそこの雑木林の中に隠れて貰っています。村人たちの注目を浴びると厄介ですので」
どうやらサフィリオスの姿を伺い見る村人たちの視線に魔法の地図がいち早く気付き、話し掛けられる前にとその場からクリスタを離脱させていたらしい。
「流石は魔法の地図!」と賛辞を贈りたいところだが、口に出すと調子に乗られそうなので心の中だけに留めておく。
頃合を見て近くの雑木林まで行くと、果たしてそこには再び真っ黒な闇の塊と化したクリスタが木の影に蹲って待っていた。
人の近付く気配に闇の塊が顔を上げると、その様子にぎょっとしたベリルは不覚にも手に持っていた荷物をぼとぼとと地面に取り落としてしまう。
その様子を見てサフィリオスが不思議そうな表情を浮かべた。
「兄さま、驚き過ぎでは? やっぱり魔女ってだけで苦手なんですか?」
そう訊かれて、ベリルは取り落としたクリスタ用の新しい外套と靴を地面から拾い上げながら歯切れの悪い返答をする。
「そうじゃないが、あの崩れた顔が何ともな……」
ベリルの言葉を聞くと、サフィリオスはより一層不思議そうに首を傾げた。
「崩れた顔……? もしかして仮面のことを言ってるんですか?」
「ああ。……そういえば、お前は最初から平気そうだよな。あんな見るも無残な顔そうそう見ないだろうに」
そばに当の本人がいるのも構わずそんなことを言う兄王子を、歳の割に大人びた弟王子が幾分呆れた様子で目を細めて見やった。
「兄さまって時々ほんとそういうところありますよね……。口に出さない礼儀って結構大事だと思うんですけど。……それに兄さまにどういう風に見えているのか分かりませんが、僕には真っ白で顔の凹凸が浮き出ているだけのただの仮面にしか見えませんよ」
驚くべきことに、仮面の下の顔だけでなく、その仮面自体までもがサフィリオスとベリルとでは見えているものが違うらしい。
魔法の地図に確認すると、彼にもサフィリオスと同じように目や鼻の部分に凹凸のある白い仮面が見えていると言う。
訳が分からなくなってクリスタの方に視線を向けると、当人は表情一つ変えることなくベリルの手から荷物をひったくると、「水浴びをしてくる。」とだけ言ってさっさと雑木林の奥へ消えて行ってしまう。
小さく水音が聞こえるのでどこか近くに水場があるのだろう。
止める間もなくモリオンもその後を追ってすぐに姿が見えなくなる。
サフィリオスと魔法の地図は心配そうにその後ろ姿を見送ったが、魔女に関して疑問ばかりが増えていくベリルは一人闇の生き物たちが消えていった空間を睨むように見つめていた。
雑木林の林床は木々の落ちた枝に覆われていたが、薄っすらと何かの花の香が漂っていて光のあまり差し込まない場所にも豊かな自然が広がっていることを予感させた。
微かに聞こえる水音はラステリオン王国内の水源の豊かさを象徴しており、恵まれた自然環境は人々の日々の生活に潤いを与えていた。
男性陣が仕方なくその場で手持ち無沙汰に待ち続けていると、クリスタたちはさほど時間を空けずに戻ってきた。
先程まで闇の塊と化していた魔女は闇の帳を引っ込めて素直にベリルに渡された衣装を身に付けていた。
目測で適当に選んだにしては大きさもちょうど良かったらしく最初に見た時よりもずっと動きやすそうに見える。
そのまあまあ普通に見える姿にベリルはようやく少しだけ満足した。
相変わらず醜悪な顔なのか仮面なのかはそのままだが、それも外套に付随する頭巾を目深に被れば問題は無さそうだった。
そうこうしている内に日がだいぶ落ちてしまったため、今日はこのまま村に宿泊することにする。
雑木林から村の入り口を抜けて、先程村人たちに教えて貰った宿屋まで辿り着くと、辺りにはちょうど飯時の幸せな匂いが立ち込めていた。
荷物を積んだ跳ね馬と魔女のお守りを魔法の地図に任せ、ベリルはサフィリオスを連れて一足先に宿屋の中へと足を踏み入れる。
途端に腹の虫をくすぐる強烈な料理の香りが腹をすかした若人二人を包み込んだ。
店内は一階部分が酒場になっており、大して広くもないのになかなかの賑わいで、男たちは各々が楽し気に酒や料理の皿を囲んで語らい合っていた。
案の定そわそわし出す小さな肩を捕まえて、宿の主らしき男がでんと構えている細長い台の前に向かう。
ベリルが大股で近付くと、それまで帳簿か何かに目を落としていた中肉中背の男が気配に気付いて顔を上げた。
ベリルと目が合うと人の良さそうな笑みを浮かべて手招きする。
「いらっしゃい、若旦那。その恰好だと旅人さんかね。一泊するかい?」
ベリルたちの服装をちらりと見て手際よく会話を進める辺り、この男が宿の主人で間違いないようだ。
実のところ、彼が誰かということよりも室内に漂う魅惑的な香りの方にばかり意識がいっていたため、ベリルは早急に必要な会話を終わらせようと早口で相槌を打っていた。
「ああ、食事もしたい。あと、跳ね馬を一頭、厩に置かせて欲しい」
「もちろん構わないよ。食事もちょうど夕飯時だから出来立てを食べて行っておくれ。おすすめは『日追い猪のミルク煮込み』だ。舌もとろける美味しさで、うちの店の名物料理なんだよ」
そう言って男が顎をしゃくって示した先には、食卓の上に見るからに熱々の乳白色の液体が並々と注がれた器が置かれていた。
そこからはバターのいい香りが匂いたち、色とりどりの野菜がとろとろに崩れていて傍目から見ても旨味が溢れているに違いないと思えた。
無意識に兄弟二人して生唾を飲み込む。
すると、そんな客の様子を満足そうに見つめる宿の主人が思い出したように問い掛けた。
「ところで、部屋は一つでいいかい?」
「ああ、一部屋で……」「いえ、もう一人連れがいるので二部屋にしてください」
ベリルが話の流れのまま頷こうとしたのを遮って、肩を掴まれたままのサフィリオスが兄を非難するような目で見ながら宿の主人にきっぱりと告げる。
「それじゃあ、ちょうど角部屋で隣同士の部屋が空いてるからそこを使うといいよ」
愛想のいい宿屋の主人は部屋の鍵を二つこちらに寄越しながら気を利かせてそう言ってくれた。
宿屋の名簿に記帳し前払いを済ませると、ベリルはすぐにでも食卓へ駆け出していきそうなサフィリオスを引っ張って外で待たせているクリスタ達の元に戻る。
入り口の扉のすぐ脇でモリオンと共に大人しく待っていたほっかむりの魔女は周りのすべてが物珍しいのかしきりにきょろきょろと辺りを見回していた。
戻ってきたベリルたちの姿を認めると、ぶっきらぼうに声を掛けてくる。
「この村で一晩過ごす気なのか?」
モリオンの手綱を取り厩に向かい掛けていたベリルは今更なにをと眉を顰めて振り返った。
「何か問題でも?」
「……いや、別に」
ベリルの言葉に妙な間を空けて返答したクリスタは、頭巾の奥に引っ込めた顔を正面に向けてはいたものの、何故か視線はどこか別の場所を見ているような気がした。
何と無しに薄っすらと不気味な気配を漂わせているように思えて背筋がざわつくが、ベリルはよく考えれば出会った時からそんなものだったなと思い直し、さっさと意識を待望の夕食へと向かわせることにした。
クリスタと共にモリオンを厩に置いてくると急ぎ足で酒場へ戻る。
入口から中に入って先に向かわせたサフィオスたちの姿を捜すと、うまい具合に店内の一番奥まった席を確保したらしい小さな手が魔法の地図の入った丸筒を高く掲げて軽く横に振りながら自分たちの居場所を知らせていた。
いそいそと席に着くと、ほぼ同時に目の前の机に熱々の料理が運ばれてきた。
手回しのいいことにすでに人数分の食事の注文を済ませていたらしい。
流石は食べ盛りの子供は違うと感心しつつ、昨晩から何も口にしていないベリル自身も魅惑の匂いを前に猛烈な空腹を感じて、次の瞬間には無心で食事に口を付けていた。
宿の主人おすすめの煮込み料理は旨味の溶け込んだまろやかな舌触りが心地よく、どこか芳しい花のような香りもして、文句なく看板料理に相応しい美味しさだった。
あまり上品とは言えない勢いで食事を口に運んでいたベリルはふと隣に座る魔女の食事がまったく減っていないことに気付く。
ちらりと隣を伺い見ると、当人は目深に被った頭巾も下ろさず、目の前に置かれた白パンに触れることもなく、ただ静かにその上に片手をかざしていた。
「何をしているんだ? 食べないのか?」
あんまり気になってつい声を掛けると、クリスタは何の感情も感じられない声で言葉を返してきた。
「精気を取り込んでいる」
「は?」
意味の分からない言葉に意味のない声が突いて出る。
見かねた様子の魔法の地図が丸筒に収まったまま小声で会話に加わった。
「ベリル様。『精気』とはすなわち生物や食物に内包されている生命力のことです。クリスタ殿はそれを手をかざすだけで吸い取れるということですね? ……ただ、それだと身体が本来必要としている栄養は取り込めないのでは?」
そう訊かれて、クリスタは手を引っ込めながら歯切れ悪く肯定する。
「それは……まあ、そうだけど……」
「それでは本末転倒です。きちんと口から食物を取り込んで栄養を摂取して頂かないと、この村に立ち寄った意味がありません。失礼ですが、村に辿り着く前の道中で簡単に力尽きたことをお忘れですか?」
口やかましく注意されて立場が無くなった貧弱の塊のような人物はしょんぼりと肩を落として渋々机の上に置かれた木匙を手に取った。
片手を頭巾の闇に突っ込み、もう片方の手で恐る恐る木匙で掬った乳白色の汁を口に運ぶ。
おそらく被ったままの仮面を少し持ち上げて食べているのだろう。
そのまま数口煮込み料理に口を付けると、とても小さな声で「おいしい。」と一言だけ呟いた。
無意識に魔女の食事風景を固唾を飲んで見守っていたベリルとサフィリオスはほっとして自分たちの食事を再開する。
魔法の地図も満足した様子で丸筒の中で静かになった。
田舎の宿屋の食事は王宮で口にする料理とはまた違った美味しさで、煮込み料理だけでなく、塩気の利いたふわふわの白パンも、食い応え抜群だった鶏肉と野菜のパイ包みもどれを取っても忘れられない味になった。
空腹が満たされ、身も心も温まってきた辺りで、クリスタが「もう一杯煮込み料理を注文して欲しい。」と言い出した。
すごい食欲だなと思っていると、自分にではなく厩にいるモリオンに持って行くのだと言う。
「墓守犬は精霊の一種だから基本的に食料を摂取する必要はない。だが、別に食べられない訳じゃない。美味しい食事は人でも獣でも関係なく心を満たすものだ」
彼女はそう言って追加で運ばれてきたお椀を持ち、先に席を立って一人で厩に向かって行った。
ベリルが慌てて去っていく背中に宿の部屋番号を叫ぶと、了解した合図に片手を軽く上げるのが見えた。
残された面々で二階にある宿泊用の部屋へ向かう。
自分たちの他には泊まり客はあまりいないようで、それぞれの部屋の扉から漏れる明かりの数も少なかった。
角部屋はクリスタに譲ることにして、ベリルたちはその隣の部屋へ入る。
疲労の限界を迎えていたらしいサフィリオスは寝台に倒れ込むや否や、満腹も手伝って、あっという間に深い眠りに落ちていった。
靴も脱がず毛布も掛けずに寝っ転がる幼い弟をやれやれと思いつつも、面倒見のいいベリルはかいがいしく世話を焼く。
ベリル自身も寝不足が祟って猛烈な睡魔に襲われるが、クリスタが部屋に上がってくるのを待たねばならないため必死に意識を保とうとする。
食事も睡眠も必要としない魔法の地図だけがいつもと変わらぬ様子で、部屋の扉が閉まると元気よく丸筒から飛び出して丸めていた体を気持ちよさそうに伸ばしていた。
部屋の窓から見える大きな月は残念ながら霞がかっていて月夜にしては薄暗く感じる。
一方で階下の酒場からは変わらずの喧噪が遠く聞こえていた。
それは夜半近くなっても衰えず、明け方まで続くのだろうと思われた。
それにしても、食事を摂ってから数時間経つというのにクリスタが戻ってくる気配がない。
騎士として鍛え上げられたベリルの精神もここ数日の強行軍で限界が来ていた。
角部屋の鍵を渡したいだけなのに。それだけで心地よい眠りに落ちられるというのに。
……いつまで待ってもまだ来ない。
苛立ちと疲労と睡魔と必死に戦うベリルだったが、月が高く昇りきる頃合には知らない内にそのすべてに敗北を喫していた。
その夜、寝静まった村の中で唯一煌々と明かりが灯り、数刻前まで賑やかな声が漏れ聞こえていた辺境の宿屋はある時を境に急に静まり返る。
声も音も途絶えた中で、宿の灯りとは別に、赤く燃えるような光が二点、薄ぼんやりとした闇の中に不気味に浮かび上がっていた。
翌朝、階下に降りたベリルは目の前の光景に愕然とすることになる。
昨晩見た時は盛況だった酒場がまるで墓場か敗戦場のような有様に変貌していたからだ。
惨劇の現場となった酒場の床にはそこかしこに砕け散った食器の残骸が散乱していて、あちこちで倒れている客たちの顔は皆一様に青白く変色していた。