5.奇妙な道連れ
「ともかくだ。よく見て欲しい。私たちは何も隠し持ってなどいない。隠せそうな場所もない。それとも簡単に隠せるほどその禁術本とやらは小さいのか?」
その場の全員の注目を一身に浴びたベリルは、何を置いてもまず盗人の疑いを晴らすことから始めようと思った。
でなければ、森を出られそうにないし、またあの禍々しい黒竜に追い掛け回されるのは御免被りたかった。
「いいや、両手に抱えるくらいには大きい。だが、魔術や魔法でなら目くらましするくらい簡単なことだ。……無論、現状お前たちの誰にもそんな呪文が使えるとは思っていない」
だったら、と言い掛けたベリルの言葉を遮って、魔女が鋭い視線を落ち窪んだ眼窩の奥から光らせて言葉を続ける。
「ただ、お前たち自身が盗みを自覚していない可能性もある」
「どういう意味だ?」
言われている意味が分からず首を傾げる。
すると、魔女が一つため息を吐いておもむろに目を逸らした。
「……例えば、魔女が好んで使う魔法の一つに〈魅了の呪文〉というものがある。この魔法は掛けられた相手の意思に関係なく自分の思い通りに行動を操ることが出来るものだ。操られている者に自分が操られているという感覚はなく、また魔法の効果が効いている間のことは記憶にも残らない」
「なんだと。そんな末恐ろしい魔法があるのか……!」
背筋に悪寒が走った。そんなものが現代でも乱用されていたらなんて考えたくもない。
過去に王国内で魔女狩りが行われた背景は実のところあまり詳しく伝わっていないのだが、そういった魔法が存在するのなら排斥された理由も分からなくはないだろう。
現在一般的に用いられている『魔術』は、物質に内在する超自然的な力である『魔力』を利用するために体系化された技術であり、学問分野の一つとされている。
一方で、『魔法』とは魔術が体系化される前にすでに存在した魔力を自在に操る古代の技法であり、その詳しい仕組みや呪文、種類に至るまでのほとんどの知識が失われて久しい。
知識が途中で失われた経緯についてはよく分からないことが多いのだが、「魔法喪失」の過程には魔女が絡んでいるとかいないとかいう昔話は国に関係なく大陸中の子供たちが寝物語によく聞かされる類のものである。
ほとんどの情報が失われているとはいえ、一部の古文書や伝承には魔法やそれを用いた魔女に関するごく少数の逸話が辛うじて残されている。
どれも嘘か真か判断の付かないような内容だが、一貫しているのは今の魔術では到底考えられないような神の如き力を持っていたということだ。
「つまり、私か弟のどちらかに、その忌々しい魔法が掛けられていると?」
恐れ半分の苦々しい気持ちで視界の先にある醜い顔を見つめると、どこかばつの悪そうな空気を漂わせた声が噛んで含めるように問い掛けに答えた。
「そうではない。魔術なり魔法なりが関わっているなら、いろいろな可能性が考えられるというだけだ。〈魅了の呪文〉というのはあくまで可能性の一つに過ぎない。そもそもお前たちがその魔法に掛かっているかどうかは効果が発動している時でなければ分からないし、禁術という訳ではないから痕跡も残らず判断のしようがない」
もし、自分に〈死の呪い〉を掛けた件の魔女が、その上さらに〈魅了の呪文〉などというふざけたものを仕込んでいたとしたら絶対に許せない。
……許してなるものか。
そう心の中で固く誓っていると、しばらく深く考え込むように俯いていたサフィリオスがひょいと顔を上げた。
そのままこてんと首を傾げて再び会話に加わる。
「……あのう、思うんですけど、本が盗まれた現場に兄さまが掛けられたものと同じ類の魔法の痕跡が残っていたんですよね? つまり、何かしら禁術の魔法が使われたということでいいのでしょうか?」
「そうだ。禁術魔法を使うと、その莫大な力のために使われた場や対象者に特殊な魔力の残滓が残る。今回の場合はおそらく封印を破るのに必要だったのだろう」
足元の小さな頭に視線を合わせると、魔女は頷きながら質問に答えた。
すると、サフィリオスが頭を元の位置に戻し、今度は片手の人差し指を顔の横でぴっと立てながら重ねて確認するように言葉を続ける。
「……ということは、犯人は禁術本を読まなくても禁術魔法が使えるってことですよね?」
「まあ、そうだろう。ただ、禁術本に記されていた呪文は秘術中の秘術だ。神殿の封印を解くぐらいしか出来ない〈反魔法〉とは比べ物にならないくらい希少かつ危険なものなのだ。断じて不届きものの手に渡してはならない」
至極真面目な顔で問われて、同じように真面目な声で答える魔女は姿さえ見なければごくまともな人間に思えた。
ベリルは二人の会話を聞きながら、魔女にもいろいろいるものだと無意識にそんなことを感じていた。
「あ、いえ、そういうことではなく。兄さまの呪いのことも含めて、あなた以外にもそうひょいひょい簡単に魔法どころか禁術魔法を使いこなす人がいるものなのかなって。だって、この数百年間王国内ではっきりと魔法が使われたと確認された事例って片手で数えるくらいしかないんですよ?」
正座のまま醜い顔の魔女を見上げるサフィリオスは、その思わず目を逸らしたく様な容貌を何とも思っていないのか、最初に声を掛けた時と同じように魔女の目をしっかりと見据えて話を続けている。
近衛師団の騎士の一員として自分を律しなければと思いつつ、魔女のおどろおどろしい顔を見るとつい目を逸らしたくなる呪われた第二王子は、弟王子の真摯な姿を見て、不用心なところはともかくこの器の大きさは見習わなければならないなと、一人会話の外でそんなことまで考えていた。
一方で、妙なことに思考を漂わせている兄王子を差し置いて、話の核心に触れるために幼い王子と魔女の会話は続いていた。
「何が言いたい?」
次々と疑問符を投げ掛けてくる小さな身体から何かを感じ取ったのか、小柄な闇の塊がその場からほんの少し身を引いた。
「ですからね、やっぱり兄さまに呪いを掛けた人物と神殿から禁術本を盗み出した犯人は同一人物なのではないかと思うんです。もしそうなら、四の魔女さんも僕たちと一緒に件の魔女を捜してくれませんか?」
朗らかな声でそう提案するサフィリオスに対し、魔女は嫌な予感が的中した言わんばかりにその場からさらに大きく身を引いた。
すると、それまで静かに地面に腰を下ろしていた墓守犬も、ふいに距離が開いたことに不安を感じたのか、立ち上がって主人の足元まで移動する。
闇の住人たちから距離を取られたことになど気に留める様子もなく、明るい気配に満ちた小さな身体が後を追うように身を起こし、両腕を広げてより一層朗らかに言葉を続けた。
「そうすれば四の魔女さんは犯人捜しをしつつ容疑者である僕たちのことを見張れるし、たとえ見つけた魔女が犯人ではなかったとしても何かしら手がかりくらい得られるのではないでしょうか。僕たちにとっては目的の魔女を見つけられればそれで万々歳ですし、お互いにいいことづくめです!」
実にいいことを言ったと顔を輝かせながらこちらを振り仰ぐ弟に、ベリルは引き攣った笑みを向けることしか出来なかった。
代わりに、魔法の地図が体の四隅をはためかせて称賛する。
「実に合理的な提案ですね! 流石はサフィ様です」
もう勝手にやってくれと諦めの境地がしないでもないが、事が事である。
昨晩のように話の流れに流される訳にはいかないと、慌ててベリルも声を上げた。
「いや、ちょっと待て! 仮にお前の仮説が正しいとしても、その盗みを働いた魔女はもうこの森から立ち去ったというのか? 森には結界が張られていたはずだ。そうやすやすと出入り出来るものなのか?」
勢い込んで大分距離の開いた所に佇む闇の塊に疑問を投げ掛けると、その圧力に押され若干覇気の失せた声が絞り出すようにして答えを返した。
「……まあ、結界の効力が弱まっていた昨晩のうちなら森から気付かれずに逃げ出すことは不可能ではないだろう。特に、魔法が使えるなら大して労も掛からないかもしれない」
出来たのかよ! と突っ込みたくなる気持ちを抑えて、さらに言い募る。
「……そうか、分かった。では、仮にその盗人が本を持ってすでにこの森から逃げ出したとしよう。だが、その行き先の手がかりは? そもそもどこの誰かも分かっていないのに、一緒に捜すと言っても一体どこをどうやって捜すつもりなんだ」
畳みかけるように問題点を指摘すると、流石にその場の全員が押し黙ってしまった。
精鋭中の精鋭である近衛師団の騎士や魔導師たちが長年捜しても手がかり一つ見出せなったものをどうやって捜し出すというのか。
無謀にも単独で王宮を飛び出した自身のことを棚に上げて、ベリルは調子づいていた幼い弟を目を細めて見下ろした。
しばらく続いた重い沈黙を破ったのは、大事な場面ではいつも冷静な判断力を見せる魔法の地図だった。
「四の魔女殿。一つお訊かせ願いたいのですが、先程から会話に出てくる『魔力の痕跡』というものは追跡出来ないものなのでしょうか?」
「追跡……? どうだろう? 〈反魔法〉程度の魔法の痕跡を追うのは熟練の魔女でも難しいと思うが……」
いまいちピンと来ていない様子で受け答える魔女に魔法の地図が短く質問を重ねる。
「では、〈死の呪い〉では?」
そう訊かれて俯きがちだった闇の塊がはっとしたように顔を上げた。
「それなら……可能かもしれない。〈死の呪い〉は禁術の中でも上位のもので大量の魔力を必要とするものだし、今なら鼻の利く墓守犬もいる。……そうだな、追えるかもしれない」
足元の犬の頭を撫でながら頷く魔女の言葉にその場の全員の表情が明るくなる。
無論魔法の地図に表情などないが、体の四隅が小刻みに震えていることから喜んでいることが分かるのだ。
ベリルが生まれて初めての希望を胸に魔女の醜い顔を見つめると、その視線に気付いた相手はこちらの期待に反して小さくかぶりを振った。
「いや、お前に残るものでは駄目だ。さっきも言った通り魔法の痕跡がかなり薄まっている。これでは追跡は不可能だ」
がっくりと肩を落とす呪われた王子を余所に、魔女は尚も黒い頭を撫でつつ一瞬考え込んだ後再び口を開いた。
「……ただ、魔力の残滓というのは『対象者』より魔法が使われた『場』の方に強く残るものだ。〈死の呪い〉は禁術の制約として遠距離では発動しない。生まれた時に呪いを掛けられたなら、お前が生まれた場所で術者に接触した可能性が高い。そこに連れて行って貰えれば魔法の痕跡を追えるかもしれない」
再び場の空気が明るくなる。サフィリオスなどは立ち上がって「わぁ!」と感嘆の声を上げている。
その声を聞いて、足元の犬にばかり視線を預けていた魔女がはっとした様子になった。
「あ、いや、待て。何故か一緒に行く流れになっているが私はこの森を出る気などないぞ。何か小さい方にはそういうところがあるな……」
迷惑そうな目で見られてサフィリオスが憤慨する。
「何でですか! いま自分で『連れて行って欲しい』って言ったばかりですよ?」
「『連れて行って欲しい』とは言っていない。『連れて行ってくれれば』と言ったのだ。都合よく解釈するな」
「同じ意味ですよ!」
言い争いを始めた闇の塊と子供の光景はなかなかに混沌としたものだったが、結局のところこの話し合いの終着点は見えたも同然だった。
ベリルは目の前の不毛な言い争いを早々に終わらせるべく強引に話に割って入る。
「ともかく! 盗まれた本の行方が分からない以上、わずかでも可能性のある手掛かりを追う以外に他にすることがないのでは? 一生ここでこうしている訳にもいかないだろう」
そう言われて魔女は子供じみた言い争いを止めたが、話に納得した様子はなく、あからさまにそっぽを向いた。
「森の外には出ないと言っている」
頑なな様子を崩さない魔女のそばに魔法の地図がふんわりと舞い降りて話し掛ける。
「なぜですか?」
「私にはこの森での役割がある」
魔法の地図の問い掛けに魔女はそっぽを向いたまま聴き取りづらい声でぼそぼそと返答した。
「それは神殿に封印された禁術本を守ることだったのでは? 誠に遺憾なことに本が盗まれてしまった以上、あなたがここにいる理由もなくなったのではありませんか?」
宙に浮かぶ羊皮紙から至極真っ当な指摘をされて、尚も明後日の方角に顔を向け続ける闇の塊はより一層嫌そうに言葉を続ける。
「……それに、もう長いこと森に引き籠っているから外の世界の勝手が分からない」
「私たちが付いておりますから何も問題ありませんよ。その点はご安心ください」
不安そうな魔女の声に魔法の地図が即座に言葉を返す。
ただ、顔を背けているので確かなことは分からないが、魔女の背中がどんどん丸まっていくことから心底嫌がっていることだけは伝わってくる。
「……もしかすると神殿の中に禁術本が落ちているのかもしれないし」
魔女は苦し紛れにそんなことを口にしたが、あれだけ脅かしておいてそれはないだろうとベリルは思った。
第一、長年探し求めてきた手掛かりをようやく手に入れられるかもしれないのにここで逃す手はない。
腹を決めたベリルは嫌がる引き籠りを外に連れ出すべく全力で説得に当たることにした。
「ぐずぐずしているうちに盗まれた禁術本が不届き者の手で悪用されてもいいのか?」
相手から自分の望む返事を引き出すための交渉術として、その相手が最も気に掛けている部分を引き合いに出すのは非常に有効な手段だ。
案の定、「禁術本の悪用」という言葉に意固地になっている闇の塊がぴくりと反応を示した。
「……本を外に持ち去られたとしても時間的な余裕はある。解かれた封印というのはあくまで神殿から外に出せないようにするためのもので、禁術本自体にはさらに強力な封印が施されている。そうそう簡単には解けないし、単独ではまず不可能だ」
「だが、時間の問題だろう」
往生際の悪い言動を間髪入れずに論破する。
ぐうの音も出ない魔女は今度は地面と睨めっこを始めた。
しばらくそうしていると、足元の黒い犬が真下から心配そうに主人の顔を覗き込む。
琥珀色の愛くるしい目に一途に見つめられて、観念したのか深々とため息を吐くと、魔女はさも重そうに自身の頭を持ち上げて言った。
「……いいだろう。お前たちの見張りも兼ねて禁術魔法の痕跡の追跡に力を貸そう」
いつの間にか高く昇った日が入り口から広く差し込み、神殿内にある大小の影の悲喜こもごもとした様子を明るく照らし出していた。
「そうと決まれば王都へ一直線だ! すぐ出られるか?」
ベリルは逸る気持ちを抑えきれずにいそいそと手荷物を回収しながら、ぼうっとその場に佇んでいる魔女に声を掛けた。
「……特に支度もない。行こうと思えばいつでも行ける」
魔女は覇気の消えた声でやる気の無さそうに答える。
どこかに出掛けるということがうれしいのか、そばで尾を力強く左右に振りながらうろついている墓守犬とは対照的な様子だった。
一方で、同じく魔女と対照的な様子のサフィリオスはいいことを思い付いたとばかりに唐突にぱちんと両手を打った。
「そうだ! 魔法でばばーんと王都まで飛べたりしませんか?」
うきうきと話し掛けてくる相手にも魔女は変わらずやる気の失せた調子で受け答える。
「『ばばーん』かどうかは知らないが、速く移動する術はある。……ただ、今は無理だ。もう長いこと食事を摂っていないから力が出ないし、さっき召喚術も使ったから魔力が底をついている」
そう聞いて、サフィリオスがぎょっとした様子で重ねて問い掛ける。
「えっ。食事をしてないってどういうことですか? 確かに神殿内に食料らしい食料がほとんど見当たりませんでしたけど……。まさか本当に魔女って霞を食べて生きているのですか?」
「まあ、似たようなものだ。こういった太古の空気を保つ場所にいると、何もしなくて自然から精気を分けてもらえる。大きな力を使わずただ生きていくだけなら、ほとんど食物を摂取しなくても困らない」
子供向けの寝物語に登場する魔女は何故か空の雲や霞を食べて生きているとされることが多いが、あながち嘘ではなかったらしい。
魔女の返答を受けて、食事に重きを置く幼い身体が信じられないというように身を引いた。
一方、浮かれる一行の中で魔女以外に唯一普段と変わらず落ち着き払った様子の魔法の地図は同じ言葉に全く別の反応を示した。
「しかし、今後のことも考えるとそれでは困りますね。健康にも悪い。ベリル様。どうせ通り道ですし、一旦森に一番近い村に立ち寄って食事と休憩を取りましょう」
ここで魔女の健康にまで気を配れる辺りが魔法の地図の魔法の地図「らしさ」をよく表しているとベリルは思った。
「そうだな。ひとまず村を目指すとしよう。……それに、あなたのその恰好はいかにも過ぎて、何というか……目立ち過ぎる。他に服を持っていないなら村で外套だけでももう少しマシな物を調達しよう」
ベリルが魔女の全身をじろじろ眺めながらそんなことを言うと、当の本人はもの凄く不愉快そうに一言呟いた。
「お前は本当に注文の多い男だな……」
全員で連れ立って神殿の外に出る前に、魔女とサフィリオスがその場に残された跳ね馬の遺体にそこら辺に散らばる石の欠片を積み直し、簡易的な墓標を作って魂を失った獣を弔った。
弔われている本人は失った生前の体にあまり執着がないようで、二人が手を合わせている間そのそばにただ静かに腰を下ろしていた。
「しかし、手荷物が増えたな」
神殿の入り口の段差を下りながら、ベリルは両手に抱えた旅の装備を見下ろして呟く。
移動手段兼荷物持ちだった跳ね馬を失った今となると、長期戦も考えて持ってきた食器やら寝袋やらを手ずから運ばなくてはならず非常に億劫に感じた。
どうしたものかと考えていると、ベリルの隣に並んだ魔女が前を歩く墓守犬を何気なく顎で指し示した。
「その子に運んでもらえばいい」
ベリルの「犬に?」という言葉を待たず、目の前の黒い犬が自身から滲み出た闇を全身に纏ったかと思うと、一瞬にして黒い毛並みの美しい跳ね馬へと姿を変えた。
驚きのあまり声を出せずにいると、代わりにサフィリオスが感嘆の声を上げる。
「姿が変えられるんだ! すごいや!」
そう言って駆け寄る小さな身体に、一回り以上大きくなった黒い獣が変わらず親し気にその鼻先を摺り寄せた。
「何にでもという訳じゃない。魂に刻まれた生前の姿を映しているだけだ」
魔女がさも当然のように隣でそう説明する。
生前よりも立派な体躯に見える黒い跳ね馬はご丁寧に手綱や鞍まで装備している。闇の精霊は両手に荷物を抱えてぽかんと自分を見ている青年の視線に気付くと、いそいそと近付いてきて鼻面で荷物を突き自分の体に括り付けるよう促した。
もう何が起きても驚くまいと固く決意して、犬から姿の変わった跳ね馬の背中に旅の装備を積み込む。
ベリルの密かな決意を余所に、その間手持ち無沙汰になったサフィリオスは目の前の黒い毛並みを撫でながら、同じようにそばに立つ魔女に話し掛けていた。
「今更なんですけど、兄さまに掛けられている呪いを解いて頂くことはできないんでしょうか?」
「それは無理だ。禁術の中でも〈死の呪い〉は特に制約が多い。掛けた本人でなければ解呪は不可能だ」
魔女の言葉に残念そうに顔を伏せたサフィリオスは数拍置くとさっさと気持ちを切り替えて別の話題に移る。
大人しく、されるがままになっている闇の獣を見つめて、積み込み作業を続けているベリルに声を掛けた。
「そういえば、この子の名前は何ていうんだろう? ベル兄さま、この子の名前を教えてください」
「名前? いや、城下町で急いで調達したものだから名前なんて聞いていないぞ」
ベリルの返答を聞き「兄さまにはそういうところがある!」と言って、サフィリオスは不満そうに頬を膨らませた。
しかし、次の瞬間には再びいいことを思い付いたとばかりに軽やかに両手を打ち鳴らす。
「それじゃあ、僕たちで名前を付けてあげましょう! 召喚術で喚び出したんだからご主人様はもう四の魔女さんですよね。四の魔女さん、この子の名前は何にしましょうか?」
明らかに名前などどうでも良さそうな様子の魔女は、幼い子供からきらきらした期待に満ちた目を向けられて、渋々ほんの少し考え込んだ。
「じゃあ、クロ」
「見たまんま! それじゃあんまりです」
間髪入れずにダメ出しを食らった魔女は益々面倒臭そうな声を出した。
「……じゃあ、イヌ」
「より酷く! ……四の魔女さんの名付けの感性が壊滅的なのはよく分かりました」
即座に批判を受けて黙り込む魔女の代わりに、博識な魔法の地図が妙案を捻り出した。
「『モリオン』はいかがですか? 魔鉱石の中でも特に魔力が濃く黒い色のものはそう呼びます。ぴったりでしょう」
「モリオンか。いいね! どうかな?」
小さな友人に訊かれて黒い跳ね馬が満足そうに首を上下に揺すった。
「ほら、四の魔女さん。この子も気に入ったみたいですよ!」
嬉しそうに話し掛けられた魔女は跳ね馬の頭を撫でながら、自分の腰の辺りにある小さな頭を見下ろして口を開いた。
「……クリスタだ。私の名はクリスタという」
人は正体の分からない存在を恐れる生き物だ。
しかし、それに名前が付いてしまえば大抵のものは怖さが半減する。
それは神の如き力を振るうという魔女に対しても変わりなく、名前を聞いてしまえばどれほど醜い容姿をしていても、ただそれだけのことで、もう初めて見た時のような底知れぬ恐怖は感じなかった。
「では、クリスタさん。これからよろしくお願いします!」
「よろしくお願い致します」
サフィリオスと魔法の地図が交互に魔女にお辞儀をする。
ベリルもモリオンの手綱を手に取りながら念を押すように声を掛ける。
「よろしく頼む。歯痒いが、私に呪いを掛けた魔女を見つけられるかどうかはあなたの働きに掛かっている。禁術本の行方も含めてだ」
「ああ、承知している。言っておくが、森の外に出るのは本当に久しぶりのことだ。全く勝手が分からないからその辺は心得ていて欲しい」
それぞれから挨拶を受けて魔女はその醜い顔でこっくりと頷いた。
「では、出発だ」
ベリルの声を合図に三人と一枚と一頭は相変わらず濃い霧の立ち込める森の中へと足を踏み入れた。
こうして、魔女と跳ね馬の姿をした墓守犬という奇妙な仲間を引き連れた第二王子一行は一路王都へと深淵の森を後にする。
その旅路の先にどのような真実が待ち構えていたとしても、この出会いが呪われた王子の今後の人生を大きく変えていくこととなる。
深淵の森の神殿に残された女神像は、その崩れかかった体のまま全てを心得たような穏やかな笑みを遠く高い空へと向けていた。