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魔の憑く娘と魔を喚ぶ王子  作者: 相間 爽
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4.盗まれた秘宝

 その夜、隣で安らかな寝息を立てるサフィリオスを尻目に、一方のベリルは一睡もせず神経をそばだてて周囲の様子に気を配っていた。

 魔法の地図はというと、眠る必要などないくせに主人に付き合うこともなく早々に丸筒の中に収まって静かになった。

 天井から差し込む光が月明かりから朝日に変わってもその警戒態勢は続いた。

 しかし、神殿の中も外も静寂に包まれ木々がざわめくこともなく、結局無駄に精神と体力の両方を消耗しただけだった。

 何だか馬鹿らしくなったベリルは旅の道連れたちをその場に残し、跳ね馬に水を飲ませようと手綱を引いて神殿の外へ向かった。


 明るい朝の光を受ける神殿の入り口は、昨晩の印象とは全く異なり、不気味さなど欠片もなく爽やかでどこか神聖な空気を漂わせていた。

 入口の前に広がる開けた土地は朝露を含んだ苔むした地面に覆われていて、所々に小さな水溜りが出来ていた。

 導く必要もなく跳ね馬は自ら喉を潤しにその中の一つへと向かって行った。

 寝不足で火照った頭に早朝のひんやりとした空気が心地よく、無意識に大きく息を吸い込む。神が宿ると云われる古い森の大気は存外に青々とした草花の香りがした。


 しばらく跳ね馬を自由にさせ、自分は神殿の入り口の段差に腰掛けて目を瞑っていると、森の方角から徐々にこちらへ近付く何者かの気配を感じた。

 ふと目を開けると、昨晩の闇の塊がゆらゆらと濃霧の彼方から姿を現すのが視界に入った。

 朝の光の中では何者も不気味さが軽減されるようで、魔女は再び例の「仮面」を被っている様子だったが、その醜悪な顔を見ても昨晩程の激しい嫌悪感は覚えなかった。

 神殿の側に近付き、入口にベリルが座っていることを認めると、魔女は再びあの恐ろし気な声で話し掛けてきた。


「弟はどうした?」


 この状況で聞くと悪鬼の如きその声も何だか無駄に大仰に思えて、ふいに笑いがせり上がってくるのをぐっと堪え言葉を返す。


「まだ中で寝ている。……それよりその仮面とやらは着けないと駄目なのか? 私たちはすぐにここを去るし、どうせ私にはあなたの顔は見えない。もう必要ないのではないか?」


「……人は見たいものしか見ないものだ」


 魔女は崩れて落ち窪んだ眼窩の奥からきらりと光る双眸を一瞬だけベリルに向け、そう一言だけ漏らすとそれ以上何も言わず段差に足を掛けた。

 この機を逃すまいと、悲運の王子はさっと立ち上がって魔女の行く手を遮り、目の前で深く頭を垂れる。


「昨晩はすまなかった。事情も話さず突然乗り込んでおいて、剣を向けたり怒鳴り散らしたりして本当に悪かったと思っている。子供の頃から自分に呪いを掛けた魔女が憎くて憎くて、つい感情が先走ってしまったのだ。どうか無礼を許して欲しい」


 王国の第二王子としても、近衛師団の副団長としても、昨晩の態度は無かったと一晩寝ずの番をしている間に深く反省したのだ。

 機を逃して謝罪もせずこの場を離れたのでは、いい恥さらしだと思った。


 それに、標的の魔女ではなかったにしろ、今まで誰も捜し出せなかった魔女の一人をこうして見つけられた訳だ。

 ここで良好な関係を築いておいて損はない。

 あわよくば、呪いや仲間の魔女についての情報を聞き出せるかもしれない。


 そんな下心を抱えつつ、頭を下げ続けるが一向に返答がない。

 ちらりと前に目を遣ると、魔女は先程の姿勢から微動だにせず、ただ無言でベリルを見つめていた。

 ぞわりと背中に寒気がして、下心を見透かされて怒らせたのかと思ったが、ひとしきり穴の開きそうなほど目の前の青年を見つめると、満足したのか崩れた顔はゆっくりと口を開いた。


「もういい。気にするな。ここを出たら、どうせもう会うことはない」


 それだけ重低音を響かせて言葉にすると、するすると段差を上っていく。

 これでは情報は望め無さそうだ。

 仕切り直しだなと思う一方、またふいに笑いが込み上げてきたので、その原因についつい文句を垂れてしまう。


「その声どうにかならないのか」


「……注文の多い男だ」


 呆れた様子で魔女が自分の額の辺りをとんとんと指で叩く。

 すぐに「これでどうだ」と問う声は昨晩聞いた若い女性の声に戻っていた。


 連れ立って神殿の中に入っていくと、適当に隅に敷いた寝袋の中に先程まで眠りこけていたはずのサフィリオスの姿がない。

 慌てて崩れかけた支柱に立て掛けておいた丸筒の側へと走り寄る。勢いよく蓋を取ると、中に収まっていた魔法の地図が何事かと外へ飛び出して来た。


「何ですか? 何かあったのですか?」


 紙の四隅をぱたぱたと振りながら呑気にそんなことを言う。


「サフィはどこだ!」


 惚けた口調に苛立ちを覚え、叱責する勢いで弟の行方を問い掛ける。

 すると、宙に浮かぶ羊皮紙はきょろきょろと辺りを見回すように体を動かした。


「おや? まだ戻っていらっしゃらないのですか? 先程空腹を訴えて何か食料を探してくると奥の方に向かわれましたが」


 その言葉にベリルより先に反応したのは魔女の方だった。

 魔法の地図の言葉を聞き終わるや否や、黒き魔女の全身が突然身に纏っている外套の中から這い出た闇に覆われ、これまた唐突に神殿の奥へともの凄い勢いで飛んで行った。

 あまりの勢いに魔法の地図と示し合わせたように呆然としていると、しばらくして魔女が飛び込んでいった方向とは別の場所から話題の人物がひょっこり姿を現した。


「あれ? どうかしたんですか? これ、さっきそこで見つけたんですが頂いても構わないでしょうか? お腹空いちゃって」


 動きが停止している兄と羊皮紙を不思議そうに見やりながら、サフィリオスはこちらに走り寄りつつ腕に抱えた大きな橙色の果実を差し出してくる。


 そこはかとなく嫌な予感がして、ベリルは魔女が消えて行った方角を見つめた。

 今いる広間の一番奥まった場所は扇状に広がっていて、その中心に女神を象ったのであろう、これまた崩れ掛けの石像が地面に大きな影を落としている。

 その両脇にここからでは見えない通路がさらに奥まで続いているようだ。

 能天気に果実を頬張るサフィリオスは、魔女の姿が見えなくなった通路とは正反対の方角から顔を出した。

 両方の通路が奥で繋がっているのでなければ、問題に巻き込まれることはないだろう。

 ……そう思いたかった。

 だが実際は、数十秒もかからず、そのような希望的観測は粉々に打ち砕かれる。


 奥の方で、がしゃんと乱暴に扉を閉める音がしたかと思うと、あっという間に王子たちの目の前に明らかに昨晩よりも剣呑な様子の闇の塊が姿を現した。


「貴様か!!」


 再びの重低音でドスの利いた声が慄く王子たちに叩きつけられる。


「ご、ごめんなさい! どうしてもお腹が空いちゃって! 残りは返しますし、お金も払いますから許してください!」


 あまりの剣幕に震え上がったサフィリオスが戦慄く声で必死に弁明する。

 しかし、その言葉は魔女の怒りに油を注いだだけだったようで、ざわつく周囲の闇が襲い掛かる様に一気に膨れ上がった。


「ふざけているのか!? 柿のことなどどうでもいい!」


 差し出された橙色の果実を払い除けると、黒い魔物と化した闇の塊が縮こまる小さな身体に詰め寄る。


「返せ! あれは何者も触れてはならぬものだ! 返さぬのであれば、今ここで縊り殺してやるぞ!」


 声だけで殺せそうな剣幕だが、ベリルは勿論のこと怒鳴りつけられているサフィリオスにも何のことを言われているのか全く分からない様子だった。


「待ってくれ! 一体何の話だ? ひとまず落ち着いて話を聞かせて欲しい」


 今度はベリルが仲裁に入る番だった。

 震える弟を背に庇い、闇の魔物との間に割って入ると努めて冷静な声で相手を落ち着かせようとする。

 しかし、努力も虚しく魔女の怒りは増す一方のようで、気球に空気を送り込むかの如く膨れ上がる闇の塊はすでに近くに立つ女神像の頭を遥かに超え、神殿の天井に届かんとする勢いだった。


「退けぇ! 話すことなどない! 返せと言ったら返すのだ! 本当に殺されたいのか!?」


 どこから響いてくるのかもよく分からなくなった大声が、神殿の床に立つ者たちを押し潰さんと四方から降り注ぐ。


「だから、一体何の話をしているのかと訊いている! 何か物が無くなったのか?」


 負けじと大声で問い掛けるが、すでにこちらの言葉が届いているのかどうかすら分からない。


 先程までその場に満ちていた神聖な空気は消し飛び、怒気を孕んだ闇色の風が空間ごと全てを支配していた。

 膨れ上がり巨大な大きさとなったそれは、徐々に形を成し、見る間に二人の王子の前に光る眼を持ち圧倒的な存在感を放つ黒い竜が姿を現した。


「返せ! 返せぇ!」


 もはや鼓膜が破れそうな程の大音量になった声は同じ言葉ばかりを繰り返す。


「ベリル様。もはや言葉が通じる状態ではありません。一刻も早くこの場から退避を」


 いつの間にかベリルの背後に回っていた魔法の地図が良く聞こえるようにと耳元で囁いた。

 そのいつもと変わらない落ち着いた声音がこの異常な状況下で唯一目の前の光景を現実たらしめていた。

 ただ、そう言われてもどこに逃げればいいのか皆目見当がつかなかったが、ともかく神殿の外に出るしかないと思い直し、後ろで腰を抜かしているサフィリオスを抱き抱える。

 神殿の入り口付近に置いてきた跳ね馬の元まで走ろうと目の前の黒竜に背を向けると、再び大魔神の如き声がその場に轟いた。


「逃げる気か!? そうはいかぬぞ! 本を返さないなら殺してやる!!」


 気の小さいものなら声を聴いただけで卒倒しそうな凄まじい気迫に背を押され、ベリルは脱兎のごとく走り出した。


 後ろから肌が痛むほどの殺気が追いかけてくる。

 抱き抱えられた状態でベリルの背後に顔を向けているサフィリオスは小刻みに震えながら何事か呟いているようだ。

 走りながら途切れ途切れに小さく聞こえるその言葉の意味に気付いた時はすでに手遅れだった。

 身体を傾けて後ろを振り返ると、中空に魔術を示す難解な記号の組み合わせが浮かび上がっているのが見えた。

 それらが一点に集約したかと思うと、追ってくる禍々しい姿の黒竜に向かって一筋の稲妻が閃く。

 しかし、そんなか細い光の剣など全く意に介さず突き進む黒竜の進行には何ら影響を与えることが出来なかった。

 さらに悪いことに、竜の顔にぶつかって跳ね返った稲妻は軌道を変え、ベリルがそれを目標に走っていた跳ね馬のそばの石の支柱に激突した。

 すでに崩れかけていた支柱はその衝撃で完全に崩壊し、逃げる間もなくちょうど真下に立っていた跳ね馬の頭上に数多の石の塊が降り注いだ。

 「ヒーン!」と悲痛な声を残し瓦礫の中に姿を消した跳ね馬は、大慌てでそばに駆け寄るもすでに大量の血を流して事切れていた。

 ずり落ちるように兄の手から地上へ降りたサフィリオスはその凄惨な光景を見てへたり込んでしまう。


「……ぼく、僕のせいだ。なんてことを……、なんてことを……!」


 おそらく黒竜のあまりの迫力に気が動転して、覚え立ての魔術などを唱えてしまったのだろう。

 茫然自失とした様子の弟に掛けてやる言葉が見つからず、先程とは違った意味で小刻みに震える小さな肩をそっと掴んでやることしか出来なかった。

 ぼろぼろと零れる大粒の涙が無機質な石の残骸を濡らしていく。


 ふと、辺りが静まり返っていることに気付き、そんなことをしている場合ではなかったとはっとした。

 恐る恐る後ろを振り返ると、意外にもつい先程まで鬼のように迫って来ていた黒竜は二人の王子の数歩手前で静止しており、サフィリオスの嗚咽が漏れるにつれて徐々にその姿が薄まっていった。

 完全に竜の姿が霞に消えると、そこには相変わらず廃れた外套に包まれた小柄な魔女が立っていて、しばらく無言でその場に佇んでいたかと思うと、ゆっくりとこちらに近付いてきた。

 無意識に身構えるが、静かに近寄ってくる魔女からは先程のような凄まじい殺気は感じられず、むしろどこかしょんぼりと肩を落としている様子で、すぐ間近まで近付かれても剣を構える気にはならなかった。

 魔女は涙を流し続けているサフィリオスのそばにそっとしゃがみ込むと、二人の王子が見つめる中、地面を伝う死んだ跳ね馬から流れ出した血溜まりに片手を沈ませた。

 魔女がそのまま何事か呟くと、その手の周囲に見たこともない魔法陣が浮かび上がり、地面の血が瞬く間にその中へ吸収されていく。

 魔法陣が血の色を反映して赤く輝くと、魔女はぽかんと自分を見つめているサフィリオスの方をつと見やり、その頬にもう片方の手を伸ばしてそこから涙の雫を数滴指で優しく掬い取った。

 次に、それを魔法陣に吹きかける様にふぅと息を吐く。

 ふわりと宙を舞う雫が魔法陣に当たると、その色が赤から青色に変わり、次の瞬間には眩い光を放った。

 思わず瞑った目を開けると、どこから現れたのか血溜まりのあった場所に闇を纏った黒い犬がちょこんと腰を下ろしていた。


「え……? 何がどうなったんですか?」

 

 サフィリオスは呆然とした表情のまま涙で濡れた顔をいつの間にか数歩離れた先に移動していた魔女に向ける。

 その質問に答えたのは当の本人ではなく、その場にいる三人の頭上に浮かぶ古びた羊皮紙だった。


「今のは『召喚術』ですね。精霊や死者の霊魂を喚び出し、契約を結ぶことでそれらを使役することができる魔術の一種です。自在に使いこなせる者は少ないと聞きますが、流石は魔女といったところでしょうか」


 得意の知識をひけらかした魔法の地図は黒い犬のそばに近寄って繁々とその姿を眺め出す。

 一方の黒い犬は自分の周囲をくるくると飛び回る紙に興味津々で、鼻をひくつかせて頻りに相手の匂いを嗅いでいる。


「……つまり、跳ね馬の霊魂を呼び戻したってことか? だが、これはどっからどう見ても犬だぞ」


 大型犬と古びた紙がじゃれ合う異様な光景に戸惑いを覚えつつも疑問を口にすると、今度は魔女本人がその問いに答えた。


「魂の在り様は一つではない。獣なら尚のこと。この子はお前の弟の深い悲しみに呼応したから『墓守犬』として戻ってきた」


 その声からは剣呑な響きが一切掻き消えており、元の通りの落ち着いた女性のものに戻っていた。

 魔女の声を聞いた黒い犬が宙を舞う紙と戯れるのを止め、くうんと鼻を鳴らしながら甘えるように自分と同じ色の闇の塊にすり寄っていく。

 黒い外套から伸びる華奢な手が見るからに優しくその頭を撫でた。


「『墓守犬』は精霊の一種ですね。黒い犬の姿で死者の眠る墓場の番人として現れ、弔いに来たものを守り、墓を荒らす不届き者に襲い掛かると云われています。知識として知ってはいますが、こうしてお目に掛かるのは初めてです」


 ベリルのそばに戻ってきた魔法の地図は誰に訊かれるでもなくそう話した。

 すると、それまでぼんやりと話を聞いていたサフィリオスがゆらりと立ち上がり、ふらふらとおぼつかない足取りで黒い犬に近付いて行った。

 自分に近付く小さな影に墓守犬は特に警戒する風でもなく静かに目を向ける。

 やがて犬のそばまで辿り着いたサフィリオスはその場に力が抜けたように座り込んだ。

 そのまま目の前の犬の長い鼻面にそっと片手を伸ばすと、一瞬触れるのを躊躇ってぴくりと動きが止まる。

 黒い犬はその動きにほんの少し首を傾げると、自ら小さな手に湿った鼻をすり寄せた。

 鼻から頭、そして胴へと優しく撫でる手が移動していく度に闇色の犬と幼い王子の距離は縮まっていく。

 あっという間に転げ回るようにじゃれ合い出した一人と一匹のおかげで、その場に何とも言えない和やかな空気が流れた。


 激しく移り変わる場の空気に首を掻きつつ、ベリルは目の前のほのぼのとした情景を静かに眺めている魔女に向き直った。


「あー、それで、一体何だったんだ? 何か、大切な本が無くなったのか?」


 黒い竜から逃げつつ一瞬聴き取った言葉を思い出して問い掛けると、魔女はゆっくりと顔を上げ、離れた所に立つベリルへと視線を移した。


「そうだ。古の時代に使うことを禁じられた魔法の呪文が記された禁術本だ。この崩れた神殿に長い年月封印されていた。私はその封印を守るためにここにいたのだ」


 そう言うと、今度は神殿の奥の方へ顔を向ける。

 その視線の先で薄明りの中に立つ女神像は目の前で繰り広げられていた騒ぎにも無関心で、崩れ落ちた天井の隙間から降り注ぐ朝日をただ愛おしそうに見上げていた。


「……だが、昨晩は確かに神殿の奥に安置されていたその本が、森の結界を張り直して帰って来てみれば封印ごと跡形もなく消えていた」


 魔女が神殿の奥から足元に転がる小さな身体に目をやる。

 視線を注がれていることに気付いて、サフィリオスが慌ててその場で姿勢を正した。つられて、墓守犬もその隣に腰を下ろす。


「奥に立ち入ったと聞いたからお前の弟が禁術本を盗み出した犯人かと思ったが、咄嗟にあんなひ弱な魔術しか使えない子供が本に掛けられた複雑な封印を解くことなど不可能だろう。……それに、跳ね馬を亡くした時に流した涙は本物だ。そうでなければ跳ね馬の霊魂が遺された者の心を慰める役目をもつ『墓守犬』としてこの世に姿を現すはずがない。禁術本を意図的に盗み出すような大罪を犯す人間が獣ごときの命を惜しむとは思えないし、魔術自体の適正が低そうなお前では簡単な封印を解くことすら難しいだろう。魔法が掛かっているとはいえ、ただの羊皮紙など問題外だ」


 最後の方は顎でベリルたちを指し示して言葉を結ぶ。

 魔術の腕前を見透かされてほんの少し頬が熱くなるが、ベリルは冷静に推論を展開していく魔女の言葉を黙って聞いていた。


「つまり、我々以外の第三者が昨晩から今朝方にかけて、その禁術本とやらを盗み出したと?」


「ここには私しか住んでいなかった以上、おそらくは、そういうことになる」


 魔法の地図が結論を導き出すと、それに魔女が同意する。

 しかし、納得はしていないようで再びベリルの方に向き直って言葉を続けた。


「だが、妙なことに禁術本が封印されていた部屋から、お前の身体に残る禁術魔法と同じような痕跡が感じられた。本を盗んだ犯人とお前たちが全くの無関係とは思えない」


 そう言われて、呪われた王子は魔法の地図と顔を見合わせた。


「どういうことだ? つまり、私に掛けられた〈死の呪い〉と同じ種類の魔法の痕跡が本の盗まれた現場に残っていたと言いたいのか?」


 ベリルがそう問い掛けると、数歩先で静かに佇む闇の塊がこくんと頷く。

 そんなことを言われても、そもそもこの森に立ち入ったのはここに「死の魔女」がいるという噂を聞いたからであり、森の中に神殿が残っていて、さらにその中に魔法の呪文が記された禁術本が封印されているなどという話は全くの初耳であり、ベリルたちには知りようがない。


「……つまり、つまりだ。私に呪いを掛けた魔女が夜中に誰にも気付かれずにその本を盗んだということになるのか?」


「現状、そういう可能性がないとは言い切れませんね」


 疑問符で満たされた脳内を必死に整理して話をまとめると、魔法の地図が歯切れの悪い言い方でそれに同意した。


 つまり、何か? 実は神殿の中にもう一人魔女がいたのか?

 そして、一晩中寝ずの番をしていた自分に気付かれずに傍迷惑にも盗みを働いていたと?

 ……何なのだ、それは。

 そいつは一体どこにいった?

 そもそもそいつが自分に呪いを掛けた張本人なのか?


 後から後から疑問が沸き出てきて、ベリルの脳内はそろそろ飽和状態になりかけていた。

 すると、こちらに顔を向けたまま話を聞いていた魔女がそもそもの根本を覆すような言葉を口にする。


「……ずっと思っていたのだが、そもそもお前の言う、その呪いは現在進行形のものなのか?」


「は?」


 唐突に突拍子もないことを訊かれて、ベリルの口からは言葉にならない息が漏れた。

 顔の表情が固まる呪われた王子を余所に、落ち着いた声音の魔女がそのまま話を続ける。


「呪いが掛かっているにしては魔法の痕跡が薄い。その〈死の呪い〉とやらはもう解けているのではないか?」


 完全に許容量を超えた情報にベリルの頭は思考を放棄した。

 代わりに、行儀よく地面に正座しているサフィリオスが話を受け継ぐ。


「そんなはずはありません。確かにベル兄さまが受けた『十六歳の誕生日に塔から落ちて死ぬ』という〈死の呪い〉は幸運にも成就しませんでしたが、その後の四年間もしょっちゅう死に掛けていらっしゃるんです。四日前の兄さまの生誕祭の時だって、万全の安全対策をしていたのにもかかわらず、宴のために献上された大灯篭が、兄さまが近付いた途端に爆発したんです。爆発の原因は灯篭に組み込まれた魔鉱石だったんですが、灯りのためだけに用いられている魔鉱石が爆発するなんて普通じゃ考えられません」


 ベリルが無情にも何も告げず飛び出してきた王宮では、先の生誕祭での事件の原因究明がしっかりと執り行われていたらしい。


 一瞬、国王夫妻や近衛師団の団長の顔が脳裏を掠め、不覚にも目頭が熱くなるのを感じた。

 王宮を自分勝手に飛び出した第二王子の心痛を知ってか知らずか、追い打ちをかけるように闇の帳を纏う魔女は誰もが思っていてそれでもなお誰も公にしてこなかったことを無遠慮に指摘する。


「それは、魔女の呪い云々より前に、単に何者かに命を狙われ続けているだけではないのか?」


 その指摘はこの四年間思考の片隅で燻る度に揉み消してきた可能性で、ベリルが出来うる限り考えないように努めてきたことだった。

 もし、その可能性を追求しようものなら二十年掛けて築き上げてきた信頼関係が一瞬にして崩れ去ってしまうものだからだ。


「でも、兄さまが危険な事故に見舞われ始めたのは、十六歳の誕生日からで間違いありません。つまり、最初の『塔から落ちて死ぬ』という呪いは退けられたけど、〈死の呪い〉自体は解けていないということなのでは?」


 眉を顰めながら話す幼い弟王子は王宮がこの四年間対外的に示してきた公式な見解を心底信じ込んでいる。


 確かに、命の危機を感じるような事件は十六歳の誕生日を契機に断続的に続いてきた。

 しかし、生まれた日に受けた予言は外れ、呪いは解けたはずなのに、こうも死に掛けるのは何故なのか。

 実際、陰では表には出さずに暗殺の可能性について話し合われたことも一度や二度ではない。

 ただ、王宮内は近衛師団の手によって厳重に警備されており不審者が入り込む隙などなく、外部の人間に第二王子の命を付け狙うことは不可能に思われた。

 また、王太子はすでに定められている上、第二王子に王位を望む気持ちがないことから王位継承権争いに端を発するものではないとされ、だとすれば魔女の呪いが解けていないからだろうということになり、いつも必ず大して検証もされずに疑惑は流されてきた。

 この非公式の会議に参加していたのは、幼いサフィリオスを除く王位継承権をもつ王族全員を含め国王夫妻や王太后、宰相や一握りの有力な大臣たちなど、国の中枢を担う人物たちばかりだった。

 どれほど可能性が高かろうと、この会議での決定が国として決定事項であり、真実であるとされるのだ。

 したがって、何か決定的な証拠がない限り、第二王子は『呪われたままでいなければならない』という訳だ。

 王宮内の人間を信じたいと願うベリルにとっても深く考えたくない話題だった。


 要は、最初に傍迷惑な呪詛を唱えた魔女がすべて悪いのだ。


 複雑な思いを抱えて目の前の魔女を見やると、当人は少しの間何事か考えこむように押し黙っていたが、やがて固い口調で口を開いた。


「……まあ、呪いのことはお前たちの好きに考えるといい。それよりも問題は禁術本の行方だ。直接関わっているのでないにせよ、お前たちが現われてから本が失われたという事実は変わらない。真相が明らかになるまで誰一人としてこの森から出す訳にはいかなくなった」


 魔女の言葉を受けて、サフィリオスが難しい表情をした兄を不安そうに見上げた。

 気が付くと、その場にいる全員がベリルに視線を向けている。

 二人と一匹と一枚が緑色の瞳をした青年の次なる言葉を待っていた。


 呪われた第二王子にとって本当の受難はこの時から始まったのだった。



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