3.死の魔女
とりあえず日が落ちる前にと、入り口付近の木に目印としてタコ糸を結び付けてから、その糸を伸ばしつつ慎重に森の中へと足を踏み入れた。
サフィリオスを乗せた跳ね馬の手綱を引きながら、一歩一歩確かめつつ先に進んでいく。
しかし、あっという間に濃い霧に囲まれて、すぐにどちらの方角に進んでいるのだか一行の誰も把握出来なくなった。
魔法の地図に至っては、霧の湿気を嫌がって、元の通り丸筒に引っ込んでしまって外に出て来ることすらない。
一応確かめはしたが、やはり森の中に入っても魔法の地図の能力は役に立たなかった。
後ろを振り返ると、意外にも入り口から伸びるタコ糸は途中で曲がることもなく真っ直ぐにピンと張り詰めている。
と言っても、一寸先は白色一色で何も見えないわけだが、ともかく堂々巡りしているわけではなさそうだった。
徐々に闇が深くなるのを感じて、頃合を見て用意してきた魔力燈の灯りをつける。
これは先の竜型大灯篭の巨大な眼に設置されていたものと仕組みは同じで、ガラスの容器に嵌め込まれた魔鉱石自体は大灯篭のものよりずっと小さいが、火を入れなくても容器の下に設置された調節ねじを捻るだけでやんわりとした弱めの光を長時間保つことが出来る。
ただ、この濃霧の中では足元を照らすのが精一杯で、周囲の様子を伺い知ることさえままならなかった。
完全に日が落ちて、月明かりどころか星明かりすら感じられない闇の中を一歩また一歩と進んでいく。
普段は騒がしいサフィリオスも、この時ばかりは流石に緊張しているようで、馬の上から黙って周りを見回していた。
どれくらい進んだのか、行けども行けども漆黒の暗闇が広がるばかりで、ベリルは徐々に焦燥感を募らせていった。
帰り道が分かる内に糸を辿って戻るべきかもしれない。
自分一人ならともかく、サフィも一緒なのだ。
万が一のことがあってはならない。
そう思いはするものの、長年の宿願を果たしたいという思いもまた強く、決断を逡巡しているとついに最悪の状況に陥ってしまう。
ふと気付くと、ついさっきまでピンと張り詰めていたはずのタコ糸が力なく地面を這っている。
驚いて糸を手繰ると、木の枝にでも擦れていたのか数歩先でぷっつりと途切れていた。
さあ困った。
これで帰り道も分からない。
顔から血の気が引いていくのを感じる。自分だけならまだしも、幼い弟まで巻き込んでしまったと思うと、手綱を持つ手が震えてきた。
しばらく静寂が支配する時間が流れベリルが現状に絶望しかける寸前、馬の上できょろきょろ辺りを見回していたサフィリオスがふいに「あっ!」と声を上げて前方を指差した。
つられて進行方向と思しき方角に顔を向けると、遠くの方に微かにぼんやりとした灯りが見えた気がした。
……いや、気のせいではない。確かに魔力燈らしき光が暗闇の向こう側で揺らめいていた。
この機を逃すまいと大急ぎで弟の後ろに飛び乗り、ベリルは一直線に光へ向かって突き進んだ。
近付くにつれてその光はどんどん大きくなっていく。
間近に近付いてみると、それは魔力燈の灯りではなく、満天の星空から降り注ぐ月明かりが朽ちた建造物全体を照らし出すことで、その一帯だけが周囲の暗闇の中で浮かび上がるように見えていたものだということが分かった。
「兄さま。これは神殿……だったのでしょうか?」
「おそらくな。禁域の中には古代に神殿が建てられていたという記述が残る場所も多い。この森はその一つだ」
今では苔むした岩の集合体のような体裁だが、昔はそれなりに大きな神殿だったのではないだろうか。
入口だったと思しき場所には、両側に大型の魔力燈らしきものの残骸が残っていて、機能は失っているものの過去の栄華を感じさせるのに十分な大きさだった。
周囲の地面は整地され、畑の名残らしきものも見られる。あれだけ立ち込めていた濃霧はこの一帯だけきれいに晴れていて、今までの森の中とは明らかに別世界の様相を感じさせた。
幻想的といえば幻想的な光景ではあったが、これは明らかにおかしい。
先程まで前後不覚になるほどの暗闇の中にいたのに、そこだけぽっかりと穴が開いたように星空が覗いていて、煌々と月明かりに照らされているというのはどう考えてもおかしい。
前に魔法の地図が言っていたように「何らかの結界」が張られている可能性が高いが、なにせ魔女の噂を内包する土地だ。
卑劣な罠が張られている可能性も大いに有り得る。
そもそも先達の捜索隊からは森の中に朽ちた建造物が見つかったなどという報告は挙がっていないし、堂々巡りを破って先に進めたという報告すら皆無だった。
何かがおかしい。
それは分かるのだが、目の前の空間以外に進む場所がないのもまた事実だ。
ふと目の前に座る小さな背中が震えている気がして、おかげで少し勇気が湧いた。
「……奥に、続いているようだ。魔女の住処かもしれない。ここまで来たら、入ってみるしかない」
一言一言自分にも言い聞かせるように言葉を噛み締める。
跳ね馬から苔むした大地に降り立つと、周囲を警戒しつつサフィリオスも抱き下ろす。
一瞬、その場に置いて行こうかとも考えたが、何が起こるか分からない現状で離れ離れになるのは憚られ、視線で魔法の地図に弟から目を離さないように指示を与えた。
霧が晴れたためか湿気に敏感な羊皮紙も背中の丸筒から身を乗り出していて、指示を理解したとばかりに紙の片端をぱたぱたと振って見せる。
太古の空気に包まれたその場所は耳の痛くなるような静寂に包まれていた。
大半が崩れ落ちているものの、石造りの神殿は内部に広い空間がまだ残っているようで、正面にぽかりと薄暗い口を開けていた。
片手に手綱を、もう片方には弟の小さな手を握り締めて、そろりそろりと神殿の内部に歩を進める。
数段の段差を上がると、想像していたよりも遥かに広い空間が眼下に広がった。
崩れ落ちた天井の穴から月明かりが所々差し込んでいるため全くの暗闇という訳ではなかったが、隅の方は深い闇に落ち、入口付近からは全く見通すことが出来なかった。
サフィリオスがそっと手の中の魔力燈の灯りを強めて前に掲げるが、足元がほんの少し明るくなった程度でほとんど意味を為さなかった。
落ち着いて目を凝らすと、正面の一番奥まった場所に何か大きな石像が立っているのがぼんやりと見受けられる。
規則的に並び立つ石の支柱には黄色い葉の蔦が絡みついており、こちらも天井同様所々崩れていてその役目を果たしているのかどうか疑問の残る姿だった。
周囲の壁には中身のない額縁だけが飾られていて、肝心の絵画は当の昔に朽ち果てたのだろうと思われる。
疎らに残る壁掛けの燭台にも、もう長い年月火の入った様子はない。
見る限り人の住んでいそうな気配は感じられず、警戒を怠らないように気を張ってはいたものの、ほんの少し肩の力が緩み小さく息をついた。
そうこうしている内に痺れを切らしたのか、サフィリオスが繋いでいた手をするりと抜け出し、不用意に目の前の段差を一番下の床まで駆け下りた。
止める間もなく走り出して行ってしまったので、ベリルも慌てて跳ね馬と共に後を追いかける。
「なあんだ。誰もいないみたいですね。緊張して損した」
怖がりのくせに存外気の大きい弟王子は呑気にそんなことを言う。
今後のためにここは一つ厳しめに叱っておこうと、ベリルが不用心な弟の前に仁王立ちになった、まさにその時。
突然、それまで静かに背中の丸筒に収まっていた魔法の地図が勢い込んで己が主人の身体に巻き付くように飛び付いた。
払い除けようにも顔までべったり張り付かれて声を上げることさえままならない。驚きよりも苛立ちが勝ったベリルは力任せに顔に張り付いた羊皮紙を引き剥がし、鼻息荒く抗議する。
「一体なんなんだ! 身体に纏わりつくのは止せと言っただろう」
苛立ちをぶつけるように宙に浮かぶ古びた紙を睨みつけるが、当該物は主人の言葉を無視して小刻みに震えながら二人の王子の周りを怯えた様子で飛び回り始めた。
「お、王子……! 何か、何かいます! 囲まれている!」
「えぇ? 『何か』って何?」
飛び回る魔法の地図を目で追いながら、サフィリオスがこてんと首を傾げて疑問を口にする。
ベリルは内心かなりの疑いを持ちながら眉を顰めつつ周りを見回すが、別段これといって周囲の様子に変化はない。相変わらず月明かりが差し込んでいる場所以外は深い闇に包まれていて、実際何かがいたとしても間近に迫られでもしない限り視認出来そうになかった。
ただ、魔法の地図の性質を鑑みるに、このような場所で無意味に悪ふざけなどしないだろうとは思う。
そもそも堅物過ぎて今に至るまで冗談を聞いた覚えもない。
共に訝し気な顔を浮かべている地上の二人を気に留める様子もなく、生真面目な羊皮紙は不規則な動きで空中を飛び続けている。
魔法で動いている関係上、何かしら人が感知できないものを感じ取っているのかもしれない。
段々とそわそわし出したサフィリオスの肩を何気なく掴む。
息を殺して辺りを伺うと、暗闇に慣れた視界の隅にごく僅かな動きを感じた気がした。
それは文字通り闇色の帳が薄い布のようにたなびいているような感覚で、つまりはよくよく目を凝らすと闇そのものがその場に停滞する霧の如く風に乗ってゆっくりと流れているように見えるのだ。
言わずもがな、この場に風などそよとも吹いていない。
そっと片手を腰に差した剣の柄へと伸ばす。
途端に、今度ははっきりと「闇」が動いた。
黒い風が急激に竜巻のようになって、大きく激しく円を描いて吹き荒れる。
飛ばされないように跳ね馬の長い首にしがみつき、片手でサフィリオスを抱き留める。
簡単に吹き飛びそうな空飛ぶ羊皮紙は間髪入れずにベリルの背中の丸筒の中へと避難した。
闇色の嵐はひとしきり二人と一匹を中心に凄まじい風を巻き起こすと、徐々に移動して広間のちょうど中央に位置する月の光の中へ収束していった。
少しずつ、動く闇が人影をなぞるように形を成す。
否、それは人ではなかった。
……と言うより、人には到底見えなかった。
ゆっくりとこちらを振り返ったそれは、顔と思しき部分が爛れて崩れておどろおどろしい有様で、周囲の闇と同化した裾の擦り切れた黒ずくめの外套を頭からすっぽりと被って無造作に立っていた。
ごくりと生唾を飲む。
妙なことに、その異形の姿はベリルが小さい時に読んだ絵本に出てくる悪い魔女の絵にそっくりだった。
無意識に剣の柄に手を掛けると、その動きに呼応するようにその場に悪鬼の如き酷くしゃがれた重低音が響いた。
「誰だ? どうやってここに入った?」
闇の塊から発せられたと思しき声はあまりにも恐ろし気な空気を孕んでいたため、そこに気を取られてたった二言の言葉の意味を頭の中で理解するのに数秒掛かった。
何にせよ、これはもう間違いないだろう。長年の憎き宿敵である『死の魔女』についに巡り会ったのだ。
そう思うと、つい先程まで下がり切っていた体温が一気に沸騰し、ベリルは何か答えるより先に腰の得物を素早く引き抜いた。
すると、異形の周囲に漂っていた闇がざわめいて、次の瞬間には一回り近く大きく膨れ上がった。
一触即発の張り詰めた空気の中、無言で睨み合う両者を古の大気が重苦しく包み込む。
あわや激突かと思われた矢先、それまで兄の服にしがみついていたサフィリオスがまたも不用意に前へ出た。
ベリルが止める間もなく、異形の闇の塊をしっかりと見据えて話し掛ける。
「あなたが『死の魔女』ですか?」
訊かれて目の前の異形が一瞬きょとんと動きを止めたのが見て取れた。
歪んだ顔を傾けてサフィリオスの言葉を反芻するようにして答えを返す。
「『死の魔女』? ……いいや、私は『四の魔女』だ」
返ってきた言葉に今度はこちら側がきょとんとする番だった。
「ん? 『四の魔女』……? ええと、つまり数字の『四』ですか? 死神の『死』ではなく?」
サフィリオスの念を押すような確認に、月光の中の闇の塊がこくんと頷く。
「そうだ。『数えの魔女』の一人だ」
「え、何……? ちょっと新しい単語が多くてよく分からない。……ともかく、あなたはここにいる僕の兄に〈死の呪い〉を掛けた魔女ではないんですか?」
「初対面だ。さっきから『誰だ』と訊いている」
至極真っ当な返答を受けて押し黙るサフィリオスの後ろから、魔法の地図がひょっこりと顔を出して、疑問符が飛び交う生産性のない会話に加わった。
「『数えの魔女』というのは、古代種の血を引くと云われる魔女の中でも別格の力を持った女性たちのことです。その時代に存在する最強の四人の魔女が一から四までの数字の名前を代々継承すると伝えられています」
見れば、その通りだと言うように闇の塊が再度こくんこくんと頷いている。
「……えっと、ということは、つまり『魔女違い』ってことでいいのでしょうか?」
サフィリオスが呪われた張本人の顔を振り返って確認する。困惑気味の弟と目が合ったベリルはぽかんと口を開けていたことに気付き、慌てて口を閉じる。
何だ? 『死の魔女』ではない、だと?
……そんなことが信じられるものか。
そもそも名前が何であろうと、魔女は魔女なのだ。
おぞましい容姿からしても悪い魔女に違いない。
抜けた気を取り戻して、呪われた王子は剣を構え直す。
「……騙されないぞ。お前がこの私に〈死の呪い〉を掛けた卑劣な魔女だろう! これまで散々苦しめられてきたこの恨み! 今こそその身を持って償ってもらう!」
剣を握る手に力を込めると、万感の思いを込めて異形の魔女を睨み据える。
これまで味わってきた筆舌に尽くし難い負の感情が溢れて、ベリルの周囲にはその闘気が目に見えるようだった。
「待って下さい、兄さま!」
再び緊張の走る場に、サフィリオスの小さな身体が割って入る。
今にも飛び掛かりそうな様子の兄を片手で制して、月光の中に佇む魔女の方を振り返る。
「あの、『四の魔女』さん? それ、仮面ですよね? ……良ければお顔を見せてくれませんか?」
努めて冷静な声で話す弟王子は魔女の崩れかけた顔をじっと見つめながら指差した。
「……何の為に?」
相変わらず不気味で恐ろしい空気を纏ったままの声は、それまでずっとただひたすら王子たちの側に立ち尽くしていた跳ね馬の強靭な後ろ脚を震えさせるほどだった。
勇気を振り絞って話し掛けている様子のサフィリオスは震えそうになる身体を抑えようと、それまでにも増して全身に力を込めていた。
「僕たちのお祖母さまが前に仰っていたんです。信頼関係というのはまず顔と顔を突き合わせることから始まるのだと。それに、僕、どこかで読んだことがあるんです。『禁術である死の呪いを跳ね返された術者には額にその印が刻まれる』って」
懸命に紡がれる弟の言葉にはベリル自身も心当たりがあった。
王国に所蔵された膨大な数の蔵書の中には、失われた古代の魔術、すなわち「魔法」に関する記述も少なからず残されている。
残念ながら、その魔法を自在に操るとされる「魔女」に関する詳しい情報はほとんど見つからないが、確かに『禁術を用いた術者がその術を返されると代償として身体に印が刻まれる』という話はあちこちの文献に散見されるものだ。
従って、ある程度信憑性の高い情報だと考えられる。
ベリルに掛けられたとされる『十六歳の誕生日に塔から落ちて死ぬ』という〈死の呪い〉は、先日の大灯篭爆発事件から鑑みても決して解けている訳ではないことが推測される。
しかし、事実としてベリルは運よく十六歳の誕生日を生き抜いた。
つまり、最初に掛けられた呪い自体は失敗している訳で、そうなると『禁術とされる〈死の呪い〉を跳ね返す』という条件に該当することとなる。
すなわち、理不尽にも生まれたばかりの第二王子に呪いを掛けた件の魔女の身体には、呪いを跳ね返された証が刻まれているはずだ。
それにしても、仮面とは何だ?
あの醜い顔が作り物だというのか……?
ベリルの胸の中の疑問に答えるように、しばらくの沈黙の後、白い光の中の黒い闇の塊がほんの少し揺らめいて、擦り切れた外套の一端からほっそりとした腕を覗かせた。
月の光に照らされて異様なほど白く見える手が、今にも腐り落ちそうな醜悪な顔をゆっくりと覆っていく。
やがて同じようにゆっくりと白い手が顔から離れると、そこには顔の代わりに周りの闇と同じような底無しの暗闇が広がっていた。
「わぁ……。とっても綺麗な人だ」
数歩先から理解不能な言葉が聞こえてきて、ベリルは思わず錆び付いた首を回すようなぎこちない動作で小さな身体を見下ろした。
「何を言っているのだ、お前は」
自分で思う以上に固い声が出た。すると、サフィリオスがこちらに向き直って大きな目をぱちくりと動かした。
「え? だって、ほら。……兄さま、見えないんですか?」
そう言って、兄の強張った顔をさも不思議そうに見上げる。
ますます言っている意味が分からなくて困惑していると、こちらも困り顔になったサフィリオスが宙に浮かぶ魔法の道具に助言を求める。
「魔法の地図はどう?」
「ええ、とても美しい瞳が印象的な女性ですね。特に何かの印が刻まれている様子も見受けられません」
魔法の地図はさも当然といった様子で言葉を返し、頷くように体を揺すった。
「は?」
全くの何の話をしているのか分からなかった。
頷き合っている弟と羊皮紙には醜悪な顔のあったあの場所に闇以外の何か別のものが見えているらしい。
話に付いていけずその場に硬直していると、印の有無から自分たちが捜している魔女ではないと勝手に結論付けたらしいサフィリオスが呪われた張本人を余所に自分の判断でさらに先へと話を進め出した。
「あの、僕の名前はサフィリオスといいます。こっちは兄のベリルです。僕たちはこのベル兄さまに掛けられた〈死の呪い〉を解くために、その呪いを掛けた魔女を捜しているんです。それで、深淵の森に『死の魔女』がいるという噂を聞いてここまで来たんですが、どうやらあなたは僕たちが捜している方ではなかったみたいです。お騒がせして申し訳ありません。勝手にあなたの住処に足を踏み入れたことをお許しください」
仮面の下の顔を見て幾分安心したのか、聡い弟は目の前の魔女に対して大分警戒心を解き丁重に頭を下げた。
すると、事の成り行きを見守っていた顔のない魔女はサフィリオスの謝罪に満足したのか、周囲に広がった闇の帳が見る間に小さく縮小し、そのほとんどは黒い外套の中に引き込まれていった。
初めよりだいぶ小さく纏まった闇の塊は小柄な女性ほどの大きさで、やがてそこから発せられた声も先程とは打って変わって若い女性を彷彿とさせる少し低めの耳に優しい響きを湛えていた。
「……そっちの阿呆はともかく、小さい方は物の道理を弁えている様だ。ならば、稀人として迎えよう。怖がらせて悪かった。……ところで、どうやってこの神殿まで入って来られたんだ? 十年以上前からやたらと森の中に武装して入り込んでくる不遜な輩が増えたから、かなり強力な結界を張ってここまで辿り着けないようにしておいたはずなのだが」
恐ろし気な声が消えて、より一層力が抜けた様子のサフィリオスは魔女の言葉にごく自然な調子で返答した。
「さあ? 僕たちはただ真っ直ぐ霧の中を進んできただけで特に何もしていません。しばらく進んでいたら森の入り口に繋がる目印を失ってしまって、真っ暗闇の中でこの神殿が月明かりに浮かび上がって見えたので、とりあえず中に入ってみようという話になって……」
こてんと首を傾げつつ話す子供相手に流石の魔女も戦意を喪失したようで、同じように顔があるらしき部分をこてんと傾げて声音を和らげた。
「成程。結界の効力が弱まっていたのか。……まあ、いい。今日はもう遅い。ここで適当に休むといい。夜のうちに結界を張り直して来るので、朝が来たら森の出口まで送ってやろう」
そう言うと、地面を滑るような動きでこちらに近付いてくる。
呆けている間に話が終わってしまったことに気付いたベリルは、はっとしていつの間にか下げていた剣を咄嗟に構え直すが、近付いてくる相手にはもう会話をする気はないようで、身構える青年を余所にするりとその脇をすり抜けて神殿の入り口の方へ去って行ってしまう。
何が何だか分からないうちにその場に取り残された運どころか間も悪い王子は、勝手知ったる様子で跳ね馬に括り付けられた旅の装備から寝袋を引っ張り出している器の大きな弟王子をどこまでも複雑な思いで見つめていた。