9.闇の糾弾
話し合いの末、一行はクリスタだけをその場に残し、元来た道を急いで引き返すことにした。
てっきりモリオンも主人のそばに残るものだと思われていたため、村の近くになってすぐ後ろに大きな黒い獣がぴったりとくっついて来ているのに気付いて、全員が少なからず驚いてしまった。
雑木林を離れる前、妙に自信ありげな様子の彼女の計画を聞いて、ベリル自身は正直あまり気が乗らなかった。
しかし、一番反対しそうな魔法の地図があっさり賛同を示したことで議論は決してしまう。
クリスタにはああ言ったものの、実際村中の人間を相手に戦うことになったとしても、辺境の村の農民たちを相手に騎士であるベリルが剣で打ち負けるはずがないことは分かっていた。
たとえ屈強な酒場の男たちがそこに加わったとしても、こちらには凶悪な魔女の怨霊たちがいる。
戦闘の勝敗は明白で恐れるものなど大してないのだが、人買いの男たちはともかく、無関係だと思われる村人たちを傷付ける訳にはいかないだろう。
とはいえ、真っ当に男たちの悪事を糾弾したところで、魔女を引き連れた余所者の話など誰が信じるのか、という大きな問題がある。
折しも、昨晩の騒ぎで村人たちからの信頼度は地の底に着いているはずだ。
だからこそクリスタの計略が生きてくるのだ、というのが魔法の地図のご高説な訳だが、どこまで彼女を信じていいものやら怪しいものだというのがベリルの本音だった。
そもそも、魔法の地図にしろ、サフィリオスにしろ、深淵の森では散々な目に遭わされているというのに随分とクリスタに対して信頼を寄せているように感じる。
件の魔女探しに必要な人材ならばこそ連れて来たが、ベリルにとってはそう易々と受け入れられる相手ではない。
何と言っても彼女は紛うことなき『魔女』なのだ。
複雑な思いを抱える兄の横で、何故かやる気に満ちているサフィリオスは捕らわれている女性たちを救うことで頭が一杯のようで、クリスタの提案に一も二もなく同意した。
直接女性たちの亡骸を目にしてしまったことで何か心に負うものを感じているのかもしれない。
各々の思いを胸に、王子たち一行は村の入り口へと足早に近付いていく。
一刻も早く酒場に向かいたいのだが、入口周辺に人影が見えて咄嗟に物影に身を隠した。
村の入り口には数人の男たちが立っていた。
各々に鍬やら鋤やらを手にしており、田舎の村なりの武装で厳戒態勢を敷いているようだ。
村人たちにとっては「魔女に襲われた」という事実だけが明らかであり、当然と言えば当然の対応ではある。
兎にも角にも、宿屋の部屋に閉じ込められていると思われる女性たちの安全を確保することが最優先事項だろう。
そのためにもなるべく騒ぎを避けて、最短距離で件の建物に辿り着かなければならない。
ベリルがどう陽動したものかと考えていると、足元の闇が不自然にじわりと拡がるのを視界の隅に感じた。
驚いて振り返ると、モリオンがその黒い鼻面を振るわせて自身の身体から霞のような闇を生み出しているところだった。
あっという間にすっぽりと深い闇に包み込まれた王子たち一行の姿はうまい具合に外側から容易に見えなくなった。
ただ問題は村の入り口周辺には物影らしい物影がほとんどないということだ。
どうにか建物のそばまで気付かれずに通り抜けられれば、後は簡単に宿屋まで辿り着けそうではある。
しかし、日の当たる場所に唐突に不審な闇の塊が現われたりしようものなら、普通に通るよりも却って目立ってしまうだろう。
その時、再びベリルが思案に入るよりも前に魔法の地図が背中の丸筒から飛び出した。
「ここは私にお任せ下さい」
そう言うなり、薄い体を翻して見張りの男たちへと突進していく。
唐突に古い羊皮紙に纏わり付かれた男たちは訳も分からず「わああ!」と声を上げて騒ぎ出した。
彼らが襲い掛かってくる謎の紙を振り払おうと躍起になっている間に、闇の塊となったベリルたちはすんなりとその場を抜け出して難なく建物の影まで移動することが出来た。
ベリルたちの移動を確認した後も、魔法の地図は出来るだけ時間を稼ぐつもりなのか男たちの頭上を飛び回って村の入り口周辺に留まっている。
先を急ぐためその場は魔法の地図の判断に任せ、そのままの足で宿屋へと向かった。
モリオンの目眩ましのおかげで王子たちは誰にも見咎められることなく無事に宿屋のある建物のそばへと到着した。
周辺は酒場で倒れていた男たちが予想通り既に回復した姿で巡回しており、明らかに村中のどこよりも物々しい空気が漂っていた。
その場から二階の窓を窺ってみるが、クリスタの言っていた人影のようなものは確認できなかった。
現場の様子から彼女たちが既に余所へ運ばれているということは無さそうだが、険しい顔をした男たちの雰囲気からすれば予断を許さない状況であることは間違いないだろう。
何とか人の目の合間を縫って建物に併設されている厩の中へ潜り込んだ。
今朝見た景色と変わらずそこには多くの跳ね馬が留め置かれていて、周囲の異様な空気を感じ取っているのか皆一様に神経質そうな動きで鼻先をひくつかせていた。
屋根に取り付けられた明かり取りの窓から隣の建物を見上げると、これも今朝起き抜けに見た光景のまま二階の廊下の突き当りにある窓が開けっ放しになっている。
今のところ近くに人影も見えない。
侵入口を定めたベリルが手頃な道具を探して辺りを見回していると、声を極力潜めたサフィリオスが手に丈夫な縄と鉤状になった何かの金具を手に擦り寄ってきた。
「兄さま。これ使って下さい」
ベリルは有能な弟の頭をひと撫ですると、手渡された縄の先端に鉤状の金具を結び付ける。
縄の耐久性を確かめてからそれを適度な長さに持ち替えて、金具の付いた先端を縦に振り回し勢いよく二階の窓の中へ放り込んだ。
すぐにガツンという鈍い音が上空に響いたが、幸いなことに地上を警戒している男たちがその音に気付いた様子はなかった。
うまく金具が窓枠に引っ掛かったようで縄を強く引っ張っても強度に問題は無さそうだった。
ベリルはサフィリオスに後から来るよう指示を与え、自分は早速宙に垂れる縄に飛び付いて器用にするすると登り始める。
これなら誰にも気付かれずに二階の部屋まで忍び込めるだろうと思われた矢先、縄を中程まで登った辺りで不運にも周囲を巡回していた数人の男たちが厩の方へ歩いて来る姿が視界に入った。
真下にいるサフィリオスに急いで隠れるよう身振り手振りで伝え、自分は縄に掴まったまま空中で物音を立てないように静止するしかない。
天井から垂れ下がる不審な縄に気付かれない確率は非常に低いが、極力騒ぎを避けるためにはどうにかやり過ごせることに賭ける以外他に選択肢がなかった。
そうこうしている内に男たちが厩の扉に手を掛け、二人の王子たちは各々の身体に緊張を走らせる。
――と、その時、建物内に突然獣の大きな吠え声が響き渡った。
「ガオウ!」
それまで静かにベリルたちの後に従っていたモリオンが唐突に声を上げたのだ。
すると、厩中の跳ね馬がその声に反応して暴れ出し、次々と自身の首に繋がれていた縄を引きちぎった。
さらにその勢いのまま、開き掛けていた入り口の扉へ全員が狂ったように突進する。
扉のすぐ外にいた男たちは度肝を抜かれた。
暴走した跳ね馬たちに蹴破られた扉を寸でのところで避けて、その場から泡を食ったように逃げ出していく。
ベリルもサフィリオスもその光景をぽかんと眺めていたが、騒ぎが厩から少し遠ざかって静かになるとようやく事態を把握した。
思いがけず男たちの注意が厩から完全に外れて安堵する。
見れば、真下からベリルを見上げるモリオンがどこか誇らしげな表情を顔に浮かべているではないか。
そばにいたサフィリオスが満面の笑みでその頭を撫でてやると、満足そうに鼻を鳴らしていた。
今のうちにと、ベリルは先程より速度を速めて縄を登り切る。
二階の窓枠に手を掛けて中を覗き込むと、見る限り周囲に人の気配は感じられなかった。
下に合図を送ってから、窓枠を乗り越えて廊下の両側にある各部屋の様子を探ることにする。
まずクリスタが人影を目撃したという酒場の正面入り口側に窓がある部屋から確認してみようと思った。
一階の酒場に通じる階段の前を慎重に通り抜けると、目的の部屋までは難なく辿り着くことが出来た。
下の階には複数の人間の気配を感じたが、目立った動きはなく、ぼそぼそと何やら話し合う低い声だけが聞こえていた。
部屋の扉にそっと耳を当てると、中から確かにいくつかの息遣いが聞こえてくる。
極力音を立てないように気を付けながら扉の取っ手を回してみるが、案の定きっちり鍵が掛けられていた。
鍵穴や扉の下の隙間から中の様子が探れないが覗き込んでみるが、室内が暗いせいかほとんど何も見えなかった。
こんな時に非常に便利なのが魔術だ。
ベリルは中の様子が外からでは確かめられないと判断すると、鍵穴に手を翳し出来るだけ声を潜めて呪文を唱え始める。
魔術の初歩中の初歩である〈念動の術〉だ。
ベリルの魔術の腕前は残念ながらたかが知れているのだが、この程度の軽い呪文ならそれなりに扱うことが出来る。
程なくして手元で首尾よくカチリと鍵の開く音がした。
ベリルが扉の取っ手に再び手を掛ける頃合にはサフィリオスも無事に兄のそばまで辿り着いていた。
モリオンの姿が見えないが、まさか犬の姿で縄を登ってくる訳にもいくまい。
とりあえず、至極真剣な顔をこちらに向けているサフィリオスと頷き合ってからゆっくりと目の前の扉を押し開けた。
室内はほとんど光が差しておらず、真っ昼間なのに薄暗闇が広がっていた。
正面の窓に掛けられた分厚い布が見事に外からの光を遮断している。
どうりで中の様子が見えないはずだ。
暗闇に目を凝らしていると、隣でぼんやりとした淡い光源が灯る。
サフィリオスが胸元に下げた首飾りの魔鉱石に魔力を注いで前に掲げていた。
「ううう……」
光に反応したのか少し離れた場所から人の呻き声が聞こえてきた。
反射的にサフィリオスが声の聞こえた方向に灯りを向ける。
そこには大して大きくもない寝台の上に若い女性が三人手足を縛られた状態で横たわっていた。
口には猿ぐつわを噛まされ、そのせいか顔には苦しそうな表情を浮かべている。
慌ててそばに寄り小声で声を掛けるが、やはりうめき声だけで返事がない。
どうにも昏睡状態にあるらしい。
目は固く閉じられ、縛られている身体は緊張して強く力が込められている。
今朝方酒場で昏倒していた宿屋の主人たちとは明らかに様子が異なるため魔女の霊魂に精気を吸われた訳ではないのだけは確かだろう。
「兄さま、見てください。やっぱり北方民族の女性たちみたいです」
サフィリオスは女性たちが揃って着込んでいる薄汚れた上着を足元の方で捲り、その下の生地をこちらに見えるように示している。
それには先刻ホシワスレグサの花畑で見つけた衣装の切れ端と同様の文様が縫い込まれていた。
「間違いありませんね。クリスタ殿の推測は正しかった」
ふいにすぐ頭上で聞き慣れた声がして驚いた。
天を仰ぐと、いつの間に追い付いて来ていたのか魔法の地図が当たり前のように姿を現していた。
「ベリル様、御覧なさい。これが『魔女の媚薬』ですよ」
そう言ってふわりと舞い降りた寝台横の小さな机の上には茶色の小瓶が置かれていて、半透明の容器に無色の液体が入っているのが見て取れる。
促されて手に取り、瓶の蓋を開けて軽く匂いを嗅いでみる。
やはりほのかにあの甘い花の香りがした。
「本来きちんと精製されていれば無味無臭の液体になるはずのものです。ですので、これは闇市に流れている粗悪品でしょうね」
存在自体が摩訶不思議な魔法の道具は相変わらずどこで身に付けて来るのか分からない有難い知識を披露してくれる。
何にせよ、昏睡状態にある女性たちはこの薬物を投与されているに違いない。
そう考えると、村はずれの林の奥に隠されるようにして広がっていた花園は死体の隠蔽のみならず、薬物の生成にも用いられているのかもしれない。
それが事実ならこの村では二重の犯罪が行われていることになる。
改めて事の重大さを噛み締めたベリルは歯痒い思いを押し殺すように一瞬固く目を閉じた。
「……ともかく、他の部屋も確認してみないと。厩の跳ね馬の数から言って、捕まっている女性たちが彼女たちだけとは思えない」
努めて冷静に話しつつ、一刻も早く他の場所も確認するために先刻入ってきた部屋の扉へと身体を向ける。
ベリルが目の前の扉を開けようとしたまさにその時、部屋の外から階段を上がってくる足音がすることに気が付いた。
素早く背後のサフィリオスたちに合図を送り、扉の取っ手に手を掛けつつ外の音に耳を澄ませる。
徐々に近づく足音は階段を上り切り、何だかこちらに向かって歩を進めているように思えてならない。
残念ながらその予感は見事に的中し、恐ろしいことに男のものと思しき重い靴音がベリルたちのいる部屋のすぐ手前でぴたりと止んだ。
嫌な汗がこめかみを伝って流れるのを感じながら、ベリルは全身の神経を研ぎ澄ませて腰の得物に手を伸ばす。
ところが、静かに深い息を吐き出した時、ふと周囲の様子がおかしいことに意識が向いた。
吐く息が白いのだ。――真冬でもないのに。
ぞわりと背筋に悪寒が走る。
ちらりと後ろを窺い見れば、同様に異常を感じ取った様子のサフィリオスが青紫色に染まった唇を震わせて殊更に不安げな表情で大きな目を見開いている。
――『彼女』が来たのだ。直感的にそう思った。
有難いことに、扉を挟んですぐそこまで近付いていた足音はゆっくりと元来た道を引き返していった。
階段がぎしぎしと軋む音がする。
足音が十分遠ざかったのを見計らってから、ベリルは音を立てないように細心の注意を払いつつ手元の取っ手を回して目前の扉を押し開けた。
階段を下る音はまだ聞こえているものの周囲に人影は見えない。
忍び足で一階へ続く階段に近付く。そっと階下を覗き見ると、宿屋の主人が恐ろしくゆったりとした動作で階段を下りていくところだった。
彼の人物の視線は階段を下りる足元には一切向けられておらず、憑り付かれたように真っ直ぐ前方へ向けられている。
その方向には酒場の正面入り口があるはずだ。
少し危険を冒して身を乗り出すと、何とか入り口の扉が視界に入った。
酒場のある一階はいつの間にか室内だというのに低い位置で濃い霧がたなびいていた。
その上、周囲の窓には白っぽく霜が降りている。
入口の扉は開け放たれており、そこからひんやりとした冷気が溶け込むように屋内へ流れ込んできていた。
入口の真ん前には人影が一つ落ちている。
その人物はぼろぼろの衣服に身を包んでいて、俯いたままゆらりとその場に立ち尽くしていた。
「お前は……誰だ?」
酒場の主人が半ば呟くように視線の先の人影に声を掛ける。
その声に釣られるようにして、同じところを凝視したまま体格のいい男たちが入り口のそばに集まってきた。
幸い目の前の光景に完全に目を奪われているため階段の上で階下を覗き込んでいるベリルたちの存在に気付く者はいなかった。
宿屋の主人の言葉に反応して、所在なさげに揺れていた人影がゆっくりと伏せていた顔を上げる。
……訂正しよう。それはかつて『ヒトであったもの』だった。
驚くべきことに、おもむろにこちらへ向けられたその顔は人間の『しゃれこうべ』だったのだ。
眼球を失った骨の窪みが深い闇を湛えて目の前の男たちを見据えている。
屈強な男たちが皆一様に一歩後退った。
酒場の主人だけが凍り付いたようにその場から動かない。
……いや、動けないのかもしれない。
目前の人間たちの反応を余所に、動く骸骨はぎこちない動作で今度は片手を前へと突き出した。
その動作に伴って身体を包んでいた貧相な布がずり落ちる。
そこから顕わになった腕にも肉はなく、気味が悪いほどに白い骨が剥き出しになっている。
純白の指が真っ直ぐに宿屋の主人を指差して動きを止めた。
すると、その背後の霧の中からまた一つ新たな人影が姿を現す。
さらにそれだけでは止まらず、一つまた一つと徐々に同じような人影が増えていく。
そしてまた同じように目のない暗い穴と白い骨の肌を見せつけて全員が一点を指し示す。
次の瞬間、カタカタと空虚な音を立てて、しゃれこうべの上下に裂けた顎が一斉に動き出した。
――お前だ……お前のせいだ!
その耳というより頭に直接響いてくるようなおぞましい声はその場にいる全ての生者たちを震え上がらせた。
ベリルとて例外ではない。
サフィリオスに至っては目の前の兄の服を手が白くなる程強く掴んで全身を戦慄かせていた。
「や、やめろ! こっちへ来るな!」
心底怯え切った声を発した宿屋の主人は腰を抜かしてしまったらしい。
見れば、その場に尻餅をついている。
その他の男たちは最初こそ身を強張らせている様子だったが、骸骨たちの集団が宿屋の主人を指差したままその場から動かないのを見て、徐々に身体が前のめりになっていった。
一歩また一歩と男たちは骸骨たちとの距離を詰めていく。彼らの手にはいつの間にか剣呑な武器が握られていた。
明らかに田舎の村には不釣り合いな大剣や鎚矛を持っている者までいる。
先頭の男が宿屋の主人の横に並んだ時、霧の向こうから村人のものらしき心配そうな声が聞こえてきた。
「おやっさん! 大丈夫か!?」
「何が起きてるってんだ? この霧は一体何なんだ!」
「おい! 霧の中に何かいるぞ!」
耳馴染んだ声に勇気づけられたのか床にひっくり返っていた宿屋の主人がよろよろとその場に身を起こした。
「ここだ! 化け物に襲われてる! 助けてくれ!」
叫ぶ主人を横に立つ屈強な男が鋭い目付きで睨み付けた。
「黙れ。俺たちで片を付ければ済む話だ。余計な人間を呼び込むな」
ドスの利いた声で脅されて、宿の主人が肩をびくつかせる。
現状彼らの関係性はよく分からないが、力関係で言うなら見た感じ明らかに人買いの男たちの方が上なのだろう。
見事に盛り上がった上腕筋に物を言わせる形で威圧し終わると、片手に手斧を持ったその男は既に恐怖を克服した様子で、迷いなく宿の前に立ちはだかる骸骨のそばまで大股で近付いて行った。
男に近付かれても骸骨たちは最初の姿勢から微動だにしない。
真っ直ぐに伸ばされたままのその腕を男は虫でもいるかのような動作で払い除けた。
かしゅんっというか細い音と共に骨だけの腕が地面に崩れ落ちる。
次の瞬間には、動かないしゃれこうべの頭上目掛けて勢いよく手斧が振り下ろされた。
ガッシャン!
今度は大きな音を立てて、不気味な骸骨は地面の上に砕け散った。
これを合図に他の男たちも手にした武器で続々と立ち尽くす骸骨たちを叩き潰していく。
あっという間にあらかたの骸骨たちが粉々に打ち砕かれ、大地には累々と白い骨の山が出来ていく。
程なくして、骨の割れる乾いた音の合間を縫って、霧の向こうから村人たちがおっかなびっくり姿を現した。
武器を振り回している屈強な男たちを避けて酒場の入り口に集まってくる。
「おやっさん! 無事かい?」
「一体ありゃ何だったんだ? また魔女の仕業か?」
「今日は朝から厄日だな、こりゃ」
「親父よう、だから言ったろう? あんな連中に関わるもんじゃないってよ」
口々に声を掛けてくる見知った顔の村人たちは建物の外の光景に慄きながらも宿の主人を助け起こして肩を抱いた。
そんな光景を眺めていると、村人たちの一人が階段の上で階下の様子を窺っているベリルたちの姿に気が付いた。
「あ! お前たちは!」
「やっぱりお前たちの仕業か! この村に何の恨みがあるってんだ!」
「とっとと俺たちの村から出ていけ!」
つい今しがたまで怯えた表情を顔に浮かべていた彼らはベリルたちの姿を見つけると、途端に恐怖より怒りが勝ったようで、皆が皆眉を吊り上げて怒声を浴びせてくる。
対してベリルは背後にサフィリオスを庇いつつ、階段の上に立ち上がり胸を張った。
「私たちは大したことはしていない。悪事を働いているのはそこにいる宿屋の主人の方だ」
疚しいことなど何もないと示すように、確固たる口調で言い放つ。
村人たちは余所者の言葉に気色ばんでいく様子だったが、糾弾されている当の宿屋の主人は青い顔をさらに青くして身を縮こまらせていた。
「なんだと!? 言い掛かりも甚だしいってもんだ!」
「おやっさんはなぁ、一時病気の娘さん抱えてそれはもう大変な苦労をしてきたんだ!」
「人のいい親父が一体どんな悪いことしてるってんだ!?」
その時、周囲の気温が肌で感じる程はっきりと下がった。
ぴしぴしと音が鳴るくらい急激にすぐそばの窓ガラスが凍り付いていく。
いつの間にか宿屋の主人の背後には先程の骸骨が一体、男たちに砕かれる前の姿で忍び寄っていた。
――私たちを殺した!!
再び先程のおぞましい声がその骸骨の顎の間から発せられる。
背後から不意を突かれたため、あまりの驚きで宿の主人は肩を抱いていた村人共々もんどり打って床に倒れ込んだ。
ふと気が付けば骨を砕く音が止んで、代わりに男たちの苦しそうな呻き声が聞こえている。
入口の外に目を凝らすと、知らぬ間に砕かれたはずの骸骨が元の姿を取り戻しており、自分たちを破壊した男たちを数で圧倒して地面に組み敷いていた。
「や、やめ、やめてくれ! 俺じゃない! 俺は殺しちゃいない!」
宿屋の主人は既に色を失っており、骸骨を凝視しながら地面に尻を擦り付けて後退っていく。
ところが、途中で何かに背中がぶつかってそれ以上後ろに下がれなくなる。
恐る恐る背後を振り返ると、そこには真っ赤な目をぎらつかせた黒く大きな犬が唸り声を上げて立ち塞がっていた。
「墓守犬だ!!」
「ど、どういうことだ!? 何で死者の魂を守る精霊がこんなところに?」
「親父! あんた一体何に首を突っ込んでたんだ!?」
墓守犬の姿を見て、村人たちは一気に疑惑の目を宿屋の主人に向け始めた。
ベリルたちからしてみれば、それはどこからどう見ても先程別れたモリオンに違いなかったのだが、階下の獣は今までに見たこともないほど剣呑な様子で立派な牙を剥き出しにしている。
いつもの人懐っこい琥珀色の瞳の色は消え、代わりに血の色を思わせる紅色に染まっていた。
宿の主人は恐ろしさのあまり歯の根も噛み合わない様子で言葉を詰まらせている。
話し出さない彼に代わって、ベリルが階段の中程まで下りつつ皆の前で知り得た事実を語って聞かせてやる。
「二階の部屋に若い女性が数名昏睡状態のまま閉じ込められている。おそらく強力な睡眠薬を飲まされているんだ。着ている物から見て、北方地域から誘拐されてきた娘たちだろう」
ベリルの言葉に宿屋の主人が階段の方をもの凄い勢いで振り仰いだ。
「ち、違う! 俺じゃない! そんな娘たちは知らん! ……そうだ、魔女だ。あの魔女がやったんだ!」
彼が苦し紛れに言い放った言葉はその場に更なる混乱を呼び込んだだけだった。
骸骨の糾弾、墓守犬、捕らわれた娘たちに、無駄に血の気の多い男たち。
さらに言うと糾弾された宿屋の主人自身の態度からいって疑惑は明らかなのだが、ここで悪の権現のように認識されている『魔女』の名前を出されると、免罪符のように嫌疑の方向性が揺らいでしまう。
どよめく村人たちを歯痒い思いで見下ろしていると、ベリルたちの背後から若い娘の声で悲痛に満ちた叫びが聞こえてきた。
「父さん! もう止めて!」