0.序
深き森林に囲まれ、豊かな水源と遠く彼方の海岸線まで続く広大な領土を持つ、伝統と格式の大国ラステリオン。
この王国では昨今文武両道と誉れ高い第二王子の話題がうら若き女性たちを中心に巷を騒がせていた。
「聞きまして? 今度は銀針が溶けたそうですよ!」
「まあ、恐ろしい! 銀針を溶かす程の毒って一体何なのかしら?」
「先日は落馬でしょ? 何もない草原で突然馬が暴れだすなんて、呪い以外になんだというの……」
「だから、ただの呪いじゃなくて恨みの積もり積もった『魔女の呪い』なのよ!」
「「「まあああぁ……!!」」」
それは残念ながら全く艶のある内容ではなくて、王子の周りで不自然にも不運な事故が続くことに対する幾分脚色された噂話だったのだが、実のところ噂話以上に事態は深刻だった。
度重なる命の危機に当の本人たる第二王子ベリルは憤慨していた。
恐れるどころの話ではない。
腹が立って仕方がなかった。
自室に繋がる長い廊下を足早に歩きながら、彼はぶつけようのない苦々しい思いを胸の内に押さえ込むのに大変な苦労を強いられていた。
思い返せば返すほど腹が立つ。
ついこの前のことだが、遠乗りに出掛けようとして厩へ向かったら、壁に立て掛けてあった金属製の鍬が何の前触れもなく急に目の前に倒れ込んできた。
もし足元の木桶に引っ掛かってうまい具合に転倒していなければ、あわや串刺しになるところだっただろう。
居合わせた厩番の人間が驚いてその場で落馬してしまい、関係のないところでちょっとした騒ぎになっていた。
また一昨日なんかはさらに酷く、王宮内の温室で祖母である王太后に贈る生花を用意していたら、側に置いてあった大型の温度計が唐突に破裂したのだ。
未だに原因は不明だが、一歩間違えば、飛び散ったガラスの破片と水銀を全身に浴びてしまっていたに違いない。
その時はたまたま、王太后の茶会用に用意されていた茶菓子の乗った手押し車の陰に、そこから落ちた茶匙を拾おうとしゃがみ込んでいたため事なきを得たのだ。
手押し車に載せられていた銀器にはたっぷりと水銀が注がれて、まるで食器自体が溶けたような有様だった。
このことから後片付けに来た事情を知らない使用人たちが茶菓子に毒でも入っていたのではないかと勘違いして、これまたひと騒動あったというのだから全くもって頭の痛い話である。
しかし、こういった不運な事故は恐ろしいことに昨日今日に始まった話ではない。
世間で言うところの『運命の日』を生き抜いた四年前のあの日から、事件の大小に関わらずベリルの周囲では不吉な出来事が断続的に続いていた。
それもここに来て、何の兆しか偶然では済まされないくらいに頻度と危険性を増してきている。
自室に辿り着くと扉を荒々しく後ろ手に閉めて、悲運の王子は窓際の机の上に広げられた王国の地図を仇のごとく睨みつけた。
事は一刻を争う。
自身の生誕祭を控えて彼は一つ大きな決断をしていた。