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魔法世界のセデイター 2.異世界人の秘密と魔法省の騒動  作者: 七瀬 ノイド
二章 魔法省二日目(映像、記憶遡行、検査)
9/58

2-5 簡易魔法検査

「遅かったじゃない」

 ナユカとフィリスを引き連れたサンドラが医務室のドアを開けると……。

「おっと」

 眼前に焦れたリンディがいた。

「遅い」

 腕組みしているセデイターは、後から来たミレットと担当医の双方から、昨日診察を受けなかったことをつつかれるわ、体にもっと気を配るように諭されるわで、ずっと居心地が悪かった。今回は医務室から逃亡できなかったので、それをようやく聴く耳を持ったと見なしたオイシャノ医師から、健康に関するご高説を賜り、ずっと下を向いて拝聴し続けた。もっとも、そのおかげで、ここに来た真の理由を誤魔化すような会話をひねり出す必要がなくなり、手間が省けてよかったともいえる――気まずい思いと引き換えではあったが……。それでも、最後には、ナユカに対しては機能しなかった例の「魔法科学の最先端機器」で診察されそうになったため、結局、入り口のところまで逃げてきてしまっていた。

「患者はいる?」

 目の前のサンドラに聞かれたリンディは、少々疲れ気味。医者の好意による御注進も、ストレスでしかなかった。

「一人。寝てる」

「オイシャノ医師は?」

 その担当医のところへは、あまり行きたくない――また説法を食らうのは御免だ……とはいえ、そうもいかない。

「……待機室じゃない?」

 リンディの声が耳に届く前に、先頭に立ったサンドラが奥へ進むと、その答えの場所にオイシャノ医師とミレットがいた……。まずはここにいる人間の確認。

「看護師は?」

 課長に振り向く担当医師に先んじて、課長秘書が答える。

「今は病室の方にいます。休んでる患者さんを診ています」

「患者はそのひとりだけ?」

 今度は担当医自身が応じる。

「ええ、そうです」

「ユーカの……さっきの彼女ね」サンドラは、念のためナユカを指し示す。「記憶操作の解除をするって聞いた?」

「そのように聞きました」

 医師はすでにミレットから聞かされていた。秘書は課長の視線を受け、黙ってうなずく。

「それじゃ、診察室を貸してくれる? 彼女……」サンドラは、別の医師を指す。「フィリスさんが担当するから」

「……そうですか……では、参りましょうか」

 オイシャノ医師はやけに素直に応じ、九課課長一行を、さきほども使用した診察室へ先導してゆく……。

 多少の抵抗は予期していたサンドラは、拍子抜け。彼自身が記憶遡行に失敗したからだろうか……説得の手間は省けていいが……。


 診察室の主が一同を診察室内へ導いたところで、課長はもうお役御免とばかりに通告する。

「ありがとう。じゃ、また後で。くれぐれもこの件は伏せておくように」

「……」

 それに対し、オイシャノは無言のまま、そのままそこから去ろうとしない。内密にする件は、記憶遡行を失敗したときに告げたはずだ。サンドラは強い視線を医師に送る。

「どうしたの?」

「ここを去るわけにはいきません。わたしはここの管理者ですので」

 責任感があるのか、融通が利かないのか。いずれにしろ、それだけの理由でここに留まられては迷惑だ。やはり、説得は必要のようだ。

「わたしはあなたにここを去ってほしいのだけど。なんだったら九課の課長として命令しましょうか?」

「こ、ここは……この医務室はわたしの医療権限下にあります……ので……」

 びびりながらも突っ張るオイシャノ医師。

「がんばるじゃない。どうあってもここにいると。なぜ?」

「そ、それは……なにかが……起きているようなので……。わたしも医師として……専門家として、それを知らないわけには……」

「知っても、誰にも話せないことになるけど?」ここで、サンドラがドクターに視線を突き刺す。「話したらただでは済まない。いえ、済まさない。……そういうことは知らないほうがいいと思わない?」

「それでも、わたしは……」

 なぜか意外にもがんばる医者に、「特殊対策課」でもある九課の課長は猶予を与える。

「5つ数える間に退出しなかったら、あなたもこちらの一味ということになる。覚悟はいい? では、5、4……」もはや、悪役の言い草だ。「……3、2、1、0」

 ゼロになっても、ドクターはそのまま。

「……ま、いいんじゃない。ここまで言ったら、もう抜けさせないほうがいいよ」

 最初に口を開いたリンディの言うとおり、ああいう言い方を重ねたら、完全にこちらが怪しい。放り出すのはかえってよくない。

「そのようだね」サンドラは同意。「それなら、それ相応に役に立ってもらいます。ただし、口出しは無用でね」

 その言い回しもどことなく怖いが、オイシャノはうなずく。

「わかりました」

「始めてもよろしいでしょうか?」

 早速、フィリスが課長に許可を求めてきた。すでに検証プランの決まっている彼女を、好奇心が急かしている。だが、サンドラにも手順がある。

「その前に、ミレット」

「はい」

 秘書に課長が指示。

「ドクターがこちらには来ないように言っていると、外の看護師に伝えて。それから、九課に戻って、留守番をお願い」

 九課は現在、鍵をかけて無人のまま放置してあり、長く空けていると怪しまれる危険性がある。

「承知しました」

 答えるなり、ミレットは迅速に診察室を退出。


「では、始めましょう、フィリスさん」

 ついに出された課長からのゴーサインに食いつくかのように、新たな担当医は準備を始める。

「はい。それでは、ユーカさん、診察台のほうへ。かけるだけでいいですよ」

 さきほどと同じなので、異邦人は迷いなく診察台へ。すると、オイシャノ医師は、小声で傍らのサンドラに聞く。

「記憶操作の解除をするのですか?」

「いいえ。悪いけど、しばらく黙って見ていてくれる?」

 これで即座に医者を沈黙させた。「一味」となったオイシャノ医師が知りたがるのはわかるが、口を挟まれると面倒だ。そして、それだけではなく、ここで彼がこちらに手を貸せば、より深くこちらに加担することになるため、そうさせないための配慮でもある。それが、こちらとドクター双方にとって望ましい。本人もそのあたりを理解している……あるいは、九課課長に恐れをなしたのか、口を開くこともなく、黙ってうなずく。一方、フィリスの準備は簡単に終わり、サンドラに方針を告げる。

「まず、エレメント系魔法に関して調べたいので、水魔法で確かめようと思います。安全ですし、わかりやすいですから」

 水魔法は、リンディの証言に基づく、異世界人が無効化した氷魔法と同系統。

「そうね」

 課長の同意を得た現在の担当医は、検査対象に向かう。

「では、その台の上のたらいに片手を置いてください」

「はい」

 ナユカは体の向きを変え、傍らの台に常備してあるたらい――大きさ的には洗面器――へ手を伸ばす。

「では、そのままで」

 自分の手を被験者の手の上方にかざしたフィリスは、短い詠唱をする。すると、その手から水がシャワーのように放出され、ナユカの手の上に……かからない。

「え?」

 被験者の見る限り、確かにフィリスの手からは水が出ている。それは水芸のようでもあり……とはいっても、魔法なのだろう。なんであっても、不思議な現象だ。しかし、それよりも奇妙なのは、その水が下にある手の上に降り注がないこと。……手にたどり着く前に、消えてしまう。それこそ雲散霧消というやつ。ゆえに、ナユカの手はまったく濡れず、乾いたまま。水はいったいどこへ消えてしまったのだろう……。魔法発動中の術者を含め、全員が息を飲み、前に乗り出すようにその光景を見つめる。

「驚いたな」

 最初に言葉を発したのはサンドラ。続いてフィリス。

「本当なんですね……」

「みたいだね……」

 最初にこの異世界人の魔法無効化能力を俎上に上げたリンディも、眼前でこんなに明確にそれを見せられると、驚くしかない。そして、一番仰天しているのは、オイシャノ医師。

「な、な、な……なんですか! これは!」

「そこ、静かに!」

 サンドラの鋭い叱責で、かの医者は反射的に黙る。やばさで知られるこの九課課長がことさらに内密を強調し、自分を排除したがった理由が、今わかった。これは……かなりまずいことに首を突っ込んだのかもしれない。そして、もう抜けられない……。後悔の念がちらっと頭をよぎる。その一方で、オイシャノ医師もやはり科学者だ。好奇心を抑えられず、この場に残ってよかったとも思う。

「いったん、魔法を止めます」断ってから、フィリスは水魔法を止め、ナユカの手に自分の手を伸ばす。「失礼します」

 術者が被術者の手を取って調べてみたところ、手はまったく濡れておらず、その痕跡もない。たらいを見れば、ナユカの手から離れたところには多少水が飛び散っているものの、手の置いてあった周辺には、まったく濡れた痕がない。

「全然、濡れてないね」

 傍らから洗面器を覗き込んだリンディのみならず、魔法使用者の常識には、通常の魔法によってもたらされた現象は、ある一定の時間が経てば消失するというものがある。魔法によるダメージや恩恵が消えることはなくても、魔法自体には時間制限がある。火魔法の火は自動的に消え、氷魔法の氷も融けてなくなる。魔法によらない自然現象でもそれはそうなのだが、魔法の場合はそれよりも早く、忽然と消える。これは、魔法による現象が「魔法元素」を媒介することで実現されているためで、それが尽きたところでその現象が維持できなくなるからだ。

 今、一同が目にしている状態は、いくら魔法現象ゆえに消失が早いといっても、それがあまりにも早すぎる、不可解なもの。濡れていないのはいざ知らず、そもそもナユカの手に到達する前に消失している。パフォーマンスアートとして魔術を使う魔導アーティストなどのような器用な魔導士が、高度な技術を駆使すればできなくはないとはいえ、フィリスはもちろんそんなことはやっていないし、仮にできてもここでやる理由はない。

「他の方が確認してみますか?」

 念のため提案してみた実験担当者を信用しているサンドラは、それを取り下げる。

「時間がないからやめておきましょう。それに、あなたがやったのだから、問題なし」

「承知しました。……では、取り急ぎ、次の魔法へ」フィリスはナユカに向き直る。「よろしいでしょうか?」

「あ、はい」

 はっとして返事した被験者に、実験担当が説明する。

「次は睡眠魔法をかけましょう。いちおう、問題の暗黒系魔法ですから」

 いわゆる「暗黒系魔法」とは、エレメント系、神聖系、光系などにカテゴライズされない、いわば「その他」魔法の総称であり、睡眠魔法のような精神・神経系魔法も便宜的に暗黒系魔法に入る。

「そうだね。じゃ、それで」

 脇からサンドラが同意したので、フィリスは被験者に説明を続ける。

「『睡眠魔法』は眠らせる魔法なので、安全です。かかったときは……」

「たたき起こせばいいよね」

 先回りしたリンディが付け足したのは、物騒な言い回し。ナユカに不安がよぎる。

「たたき起こす?」

「覚醒魔法で起こします」

 フィリスは、リンディの前に言おうとしていた自分のセンテンスを即座に言い切った。もしも睡眠魔法がかかったなら、同じ精神系のこちらもかかるはず。したがって、物理攻撃の必要はない。

「いや、その……ふつうは……かける相手は敵だから……」

 言い訳を始めたセデイターを、課長が斜に見る。

「『敵』ねぇ……。あなたの場合は、セデイト対象者ってことね」

「そう、それ」

「つまり、あなたは彼らをそういうふうに扱っていると」

「ち、違うよ。やだなぁ」滅多にないとはいえ、諸事情、すなわち、「魔力切れ」でひっぱたくこと数回。セデイターになりたての頃には、たまにやった……もちろん、報告はしていない。かなり前のこととはいえ、ここは誤魔化し通そう……。そんな考えを見透かすようなサンドラの目力を浴び、たじろぐセデイター。「……う」

「すみませんが、先に進めてもよろしいでしょうか?」

 フィリスからの助け舟。ただ、今の彼女にそんな意図はなく、単に検査を優先したいだけ――科学者として、早く知的好奇心を満たしたい。

「ほら、そう言ってるよ。だから、この話は……」

 リンディが打ち切りに……と続けようとしたところ、サンドラが別の言葉でつなげる。

「また後でね」セデイターは捨て置いて、実験担当を見る。「進めて」

「では、ユーカさんへの説明として、まずは誰かにかけてみましょう」

 フィリスがさっと見回すと、リンディがさっと目をそらす。

「じゃ、わたしに」

 仕方ないなという表情のサンドラは、ナユカと入れ替わって診察台に寝転がる。すると、その手の魔法を専門とするセデイターが申し出る。

「かけるのは、あたしがやっても……」

「拒否します」

 課長は即座に却下。魔力が高くて威力の加減が下手なリンディにかけられたら、覚醒魔法が簡単には効かないほどに眠ってしまうこともありうる。そのままでは終日目覚めず、それこそ「たたき起こす」ことになりかねない。実際、それゆえにリンディは、現場では対象者をたたき起こさざるを得ないことにもなっていたわけだ……あくまでも駆け出しの頃に。

「では、かけます」

 いまや完全にこの場の仕切り役となったフィリスは、リンディとサンドラのやりとりなどなかったかのように、さっさと詠唱を始めてスリープをかける。すると、サンドラはすぐに眠りに落ち、かすかに寝息を立てる。

「このまま寝かしとこっか?」

 リンディの冗談、または、もしかしたら本気……には応対せず、術者はナユカに向き直る。

「このように、眠りの魔法です。すぐ起こしますね」

 フィリスの覚醒魔法により、ぱっと目覚めた起き抜けの被術者は、一言こぼす。

「寝足りない……」

「覚醒魔法が不十分ですか?」

 気遣う上級医師に、課長が伸びをして答える。

「じゃなくて、ちょっと寝不足なだけ」

 それなのに今日は居眠りする時間もない。そこへ、にやっと笑ったリンディが再オファー。

「あとであたしが思いっきり眠らせてあげるよ」

「お気遣いなく」

 再度拒否し、サンドラは診察台を下りてナユカと入れ替わる。そして、フィリスが異世界人に再確認。

「では、ナユカさんにこの『睡眠魔法』をかけてみますね。眠ったら、起こすほうの魔法をかけます。よろしいですか」

「はい」

「では、かけます」

 本人の了承を得たフィリスは詠唱開始。しかし、確かに魔法が発動しても、ナユカは覚醒したまま。この魔法は視認がしにくいのだが、使い慣れたセデイターには魔法元素の流れでわかる。

「発動はしたね」

「では、もう一度」

 再び術者が魔法を発動させるも、被術者に変化はない。眠くなった様子もなく、あくびをすることもない。

「不眠症になったら困るねぇ……」

 とぼけたようにも聞こえるリンディの感想だが、事実、眠りの魔法は不眠症の治療に有用である。暗黒魔法に分類される魔法には精神操作系の魔法がいくつかあり、それらは精神疾患などの緩和にも近年使われ始めている。よって、正規の医師でもあるヒーラーのフィリスは、軽い睡眠魔法程度なら使うことができる。なお、強力な睡眠や麻痺の魔法は、最新の特殊な医療では、その専門医によって麻酔のように使われることがある。

「かかりませんね」術者は魔法を停止。これ以上やる意味はない。「では、次に……」

「あたしが……」

 自分とほぼ同時にリンディが言葉を発したので、フィリスが振り向く。

「はい?」

「あ、ごめん。なんでもない」

 フィリスと目が合ったリンディは、あわてて発言を取り下げ。本当は彼女が「次に」という単語を発する前に、自分がナユカにスリープ魔法をかけてみようとしたのだが、少しだけ遅かった。……これだと、自分が次の魔法の見本としてかけられる志願をしたみたいだ――それは避けたい。

「そうですか?」実験担当は、振り向いた首を戻して、被験者に向き直る。「次の魔法へ移りましょう。ユーカさんは、そのままでお願いします」

 横たわったまま、異世界人はうなずく。

「はい」

「今度は回復系の魔法を試しましょう。回復系が効くかどうかは、ユーカさんにとって重要なことですから」

 回復魔法が効かないとなると、ちょっとした怪我でも簡単には治せない。そうなると、ナユカの行動には、医師として細心の注意を払う必要がある。表情を抑えつつも、内心では深刻に捉えているフィリスの背後で、サンドラがゆっくりうなずく。

「確かにね。では、それでいきましょう」

「さて、ユーカさん。どこか調子悪いところはありませんか?」

 悪いところがあったほうがいい、という医者といてはあまり望ましくない願望に基づく問診をするフィリス。対して、ナユカはさして考えることもせず、屈託なく答える。

「特にないです」

 健康だ。それでも、少しでも具合が悪い部分がなければ、回復魔法をかけても効果があったかわからない。ゆえに、実験担当は食い下がる。

「どこかありませんか? ほんのちょっとだけでも……」

「どこか……うーん……」

 ナユカは何かないか思い出そうとしてみたものの、何も思い当たらない。診察台の上で自分の体をさっと見回しても、どこが悪いというのはない。悪いといえば、フィリスに悪いような……。嘆きの健康優良児である。

「頑丈だよねー」

 にっこりするリンディに他意はない。荷物を二人分持って歩いたり、戦闘に巻き込まれたりしても、体のどこも痛めることがないナユカ。出張所では眠っている自分を抱え上げたそうだ……。これを「頑丈」と言わずしてなんと言おう。やはり、異世界人は体の造りが違うのだろうか……いや、もしかして人外の血が……などと半ば冗談ながらも思ってしまう。昨晩、確認した分には間違いなく人類だったから……それはないはず。

「『丈夫』ですよね」

 頑丈という言葉に気を悪くするかもと思い、フィリスが苦笑いしてフォロー。当の異邦人は、まだこの世界の「頑丈」という単語を理解していないため、その辺のニュアンスはわからない。ただ……やはり、なんだか申し訳ない気がする。

「すみません……健康で」

「あ、いいんですよ、もちろん。健康なのは、いいことです……」しかし、検査の統括者としては、それでは少々困る。「えーと、どうしよう」

 ある種、背反する考えを持ちながら、フィリスはナユカの全身をくまなく見回し、最後に顔をじっと見つめる。

「あの……」

 その視線に照れかけたとき、視線の主が不意に大きな声を上げる。

「ありました!」

 一同驚いてフィリスに注目。リンディとサンドラが同時に鋭く尋ねる。

「なに?」

「す、すみません、大声で……」隠密行動をしているこの状況下で声を上げすぎたことを、ボリュームを落としてわびつつ、上級医師は病名を告知する。「ニキビです」

「ニキビぃ?」

 聞き返したリンディに向け、フィリスがナユカの左頬を指差す。

「ここです。左の頬のところ」

 診察台に近づいて身を乗り出し、ブロンド美女はその部位を見つめる。

「あ、ほんとだ。あらら」

「あ……あの……なにが……」

 異世界人は不安に駆られる。いったいどうしたというのだろう。なにかひどい病気に……? かすれ声で尋ねてきた「患者」に、フィリスが微笑む。

「ただのニキビです」

「はい?」

 その言葉は知らない。

「あ、わかりませんか? では……」ヒーラーは傍らの医療器具が置いてあるワゴンから手鏡を取り、患者に渡す。「どうぞ」

「……えーと?」

 ナユカは受け取った手鏡で恐る恐る自分の顔を覗き込んでみたものの、なにか重要な変化があるようには見えない。その様子を見て、上級医師が指差す。

「左の頬のところです。ぽちっと」

 すると、「え?」とも「げ?」ともつかない、少し低めの声を漏らした異世界人が、セレンディー語ではない言葉を発する。

「『ニキビ』」

「もしかして、それがそちらの言葉ですか?」

 フィリスにうなずきつつ、ナユカはげんなりする。なんのことはない、まさにただのニキビ……だろう。周囲の深刻ではない雰囲気から、危険なできものなどではないことがわかる――それでも、歓迎するものでもない。

「はぁ」

 ため息を漏らした患者に、担当医が福音をもたらす。

「そこに治癒魔法をかけましょう。効けば治りますよ」

「そうですよね!」

 希望がナユカを精神的に回復させたが、ここまでの結果を考慮すれば、医者としてあまり期待を持たせるわけにもいかない。

「『効けば』ですが……」遠慮がちに付け加えてから、フィリスはそそくさと先に進める。「では、かけましょう」

 即座に詠唱して魔法をかける……が、毎度のこととして変化なし。リンディがナユカの頬を覗き込む。

「あるね」

「もう一度かけます」

 再度、治癒魔法を使用した術者……。しかし、予想通り変化なし。一連の流れから、どういう事態か、もう異世界人にも見て取れる。

「駄目ですか……」

「残念ながら……」

 予想していたことではあっても、自分の専門である回復系の魔法がまったく効かないというのは、フィリスにとってもショッキングだ。今後、ナユカが怪我や病気になったときは、魔法以外の手段に頼らなくてはならない。それは患者となる彼女の治療を難しくし、苦痛を引き伸ばすことになってしまう。自分を含む医者にとっては好ましからざる事態である。

「あーあ」

 当の患者はそれほど深刻ではない。なんといっても、たかがニキビである。それもまだできかけのもの。美容上は「されど……」といえるが、やはり「たかが」でしかない。

「あの……ドクター・オイシャノ」

 フィリスは、これまで沈黙を守ってきたオイシャノ医師を呼ぶ。サンドラに黙って見ているように言われ、まるで気配を消すかのように静かにしていた、この医務室の管理者。自分の立ち位置を理解しているらしきドクターは、ここで久しぶりに声を出す。

「はい。なんでしょうか?」

「薬を出していただけるでしょうか? できれば魔法薬と非魔法薬の両方を」

 上級医師の要請とはいえ、ここで自ら薬を出してしまうと、この場でなされていることに多少なりとも加担することになる。そして、もちろんオイシャノ医師は何がなされているのか、すでに十分理解している。ここで薬を出す権限は自分にしかないことも。

「皮膚炎の薬ですね。お出しします」

 管理医は躊躇なく、薬棚へ向かう(ちなみに、ここでは医薬分業ではない)。彼とて魔法科学者であり、今、目の前で行われていることに対して湧き上がる興味は、抑えられるものではない。果たして薬は効くのだろうか? ドクターは二種類の薬を携えて戻り、ひとまず、要求した医師に渡す。

「こちらと……こちらです」

「ありがとうございます。非魔法薬も、やはり置いてあるのですね」

 ラベルを見るフィリス。どういう薬効かはお互いに説明せずともわかる。ふつうの診察室や小さな診療所では、非魔法薬を置いていないこともしばしば見受けられるが、ここはさすがに魔法省。魔法病院外の診察室でも抜かりはない。

「はい。耐性が強い方もいらっしゃいますので」

 耐性とは、魔法耐性のこと。人によっては回復魔法に対する耐性が強く、回復魔法ならびに回復系の魔法薬が効きにくいこともある。非魔法薬はそのようなケースの補助として有効だ。加えて、回復魔法や魔法薬の過剰または不十分な使用などの不適切な用法は、効かないばかりでなく、魔法耐性を上げてしまうことにもつながるため、軽い症状には非魔法薬を使うことも多い。このことは、あちらの世界の、抗生物質の使用法に似たものがあるかもしれない。

「まず、こちらの魔法薬から使ってみましょうね」

 患部を医療用の柔らかい布で優しく拭いてから、フィリスは魔法薬である軟膏を、器具を使ってほんの少しだけ別の容器に取り、綿棒のようなものを載せてからナユカに差し出す。

「え?」

 当惑を示しながらも容器を受け取った患者に、ヒーラーは手鏡をかざす。

「それで、ご自分で塗ってみてください。少量でいいですよ」

 魔法薬は、誰が使用しても一定の魔法効果が現れるように調整された薬である。したがって、魔力がなくても、また、詠唱などのイメージ喚起をせずとも薬としての効能を発揮する。今は、魔法薬がナユカに効くかどうかの検証という点を鑑みて、医師の自分ではなく、彼女自身に使ってもらうことにした。そのほうが傍目にもわかりやすい。


「これでいいのかな?」

 指示されたとおり、患者自身が綿棒で薬を取り、鏡を見ながら患部に塗布した。

「はい、結構です。それでは、少し待ってみましょう」フィリスはナユカから薬を受け取り、待つことほぼ一分。一同、言葉も発せずに異世界のニキビをじっーと見つめていたが、何の変化もない。「もう少しだけ待ちましょうか」

 顔の一点を全員からひたすら注視されるナユカ……。黙っていると、居心地がよくないので、口を開こうとすると……。

「ふぁあ」

 飽きたリンディの大あくびが聞こえた。機を逸したので、結局そのまま、また一分ほどウエイト。そして、やはり変化なし。つまりは、直らない。ニキビはそのまま鎮座している……。フィリスは、これ以上は無駄と判断。

「効きませんので、拭き取りますね」

「あ。もうですか?」

 あちらの世界での軟膏などは、即効性がないからといって、そうすぐには拭き取らない――副作用の心配がない限りは。

「はい。待っても効かないものなので」

 医師は塗布した薬を拭き取る。魔法薬は、一定時間後に効力を発揮するものであり、その時間を過ぎて変化が見られなければ、効くことはない。いちおう長めに時間を見てみたものの、これ以上待つのは無意味だ。ものは違うが、瞬間接着剤みたいなもので、つかない素材には待ってもつかない。

「魔法薬も駄目か……」

 しばらく黙って見ていたサンドラが、久々に声を出した。

「それでは、こちらの薬を使いましょう。非魔法薬です」

 今度は、フィリスが自分でナユカの頬に薬を塗布する。もう魔法に関する実験ではないので、患者の手を煩わすことはない。

「今度は効くのかなぁ」

 異世界人のとぼけた口調とは裏腹、実は重要な問題である。今、治療しているのはただのニキビひとつ。これに薬が効かなくてもそれほどひどい事態になることはないだろう――乙女として由々しき問題ではあっても。しかし、これがひどい怪我や思い病気だったら……。もしも何の薬も彼女には効かないということになれば、治療のしようがなく、自然治癒またはそれに順ずる方法にゆだねるしかない。すなわち、生命の危険にさらされやすくなることを意味する。

「効けばいいのですが……」フィリスの口調が重い……。それに反応した患者の視線を感じて、すぐに話し方を元に戻す。「あ。この薬は、すぐには効かないので……つけたままにしておいてくださいね」

 こちらでは魔法科学に基づく魔法薬がメインのため、非魔法薬の薬効は厳密には立証されていない。魔法薬ほど明白な効果の出るものではないからだ。それらは、より自然なもの――いわば、向こうの世界での漢方薬からハーブ類までのような位置づけに近い。薬効が証明されているものもあれば、そうでないものもある。


 一通りの検査とニキビ治療が終わり、フィリスは総括に入る。

「さて、これまでの結果から、ナユカさんに強力な魔法耐性があるのは確実といえます。ただし、今回かけたのはすべて軽い魔法なので、強力な魔法をかけられた時にどの程度までの耐性があるのかについては、確定できません。とはいえ、実験ではなく、実際に起きた事象から考えると、耐性はかなり強力なものだと推測できます」

「耐性ね……でもあれは、はにゃっ」リンディが話の途中で妙な声を上げ、体をよじる。サンドラにいきなりわき腹をひと揉みされた。「なにをする……にゃにゃぁ」

 抗議の声は、当該箇所へのもうふた揉みよってさえぎられた。

「とりあえず、そういうことね。現時点で得られる情報はこのくらいでしょう。じゃ、さっさと九課に戻りましょうか」

 手短にまとめて終わろうとする課長に、セデイターが懲りずに食い下がる。

「ちょっとちょっと」

 今度はその両肩をつかんだサンドラは、本体をくるっと出口のほうへ方向転換させる。

「リンディはユーカさんと一緒に、先に九課へ帰って。わたしとフィリスさんは後から戻るから」

 肩越しに、自分のそこをつかんでいる筋肉を見る。

「なんでさ?」

「さっきと違う組み合わせってこと」

「あ、そういう……」聞いたのは、急いで戻る理由なのだが……わき腹への再攻撃を避けたいリンディは、仕方なく承服。あれをやられると、条件反射により、そのジェスチャーを見ただけで体がよじれるのを思い出した……。ともかく……その先の話は戻ってからということだろう。「ま、いいけど」

 とりあえず、違う組み合わせのほうが怪しまれにくいということらしいので、リンディとナユカは先に診察室から退出し、そのまま医務室を出て行った。他三名は診察室の中で少し話をしてから外に出て、オイシャノ医師を除く二人は医務室を後にした。




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