9-7 クスノキ先生
「あー、暇だった」
いつもの九課に入ると、リンディは伸びをし、その傍らで、サンドラはラジオ体操のごとく、体をぐるっと回し始める。
「かえって疲れたよ。やることなくて」
「あの……弓の練習に行きたいんですけど……」
帰ってくるなり、ナユカはもう出かけたがっている。「演技」で、神経は使ったが、体力はゲージはまったく減らず。やったことといえば、脚立に上って棒で結界に触れるのを繰り返しただけ――それも、時間稼ぎのため、無駄なインターバルを空けながら。少し身のあることをやりたくなるのは、当然だろう。
「それじゃ、わたしも付き合うよ」
サンドラがすぐに乗ってきた。午後はナユカの結界破りの監督にスケジュールをまるまる割り当てていたので、時間がかなり余っている。もちろん、そんなに時間がかからないことはわかっていたのだが、最初から結界破壊士の能力値を計算に入れたスケジュールを組むとあまりにも不自然なため、それだけの時間を割り振っていた。ただ、今回の仕事ぶりが知られれば、次回からそんなことはせずに済むはずだ。
「じゃ、あたしも」
「わたしも行きます」
リンディとフィリスも同行決定。魔導士には魔法出力調整練習を兼ねたナユカの手伝いがあり、医師には健康管理者として同行する必要――を越えた本人の意思がある。結果、九課内の職務はまたもミレットに丸投げされ、四人はナユカの弓の練習とその手伝いということで、先日のように魔法練習場へ向かった。
二回目につき、弓も魔法も前回よりもこなれた練習を終え、終業の半時前くらいに一同が九課へ戻ってくると、来客がいた。
「あ、さきほどは、お疲れ様でございました。お見送りもできずに、申し訳ございません。私、法務省保安部安全対策課内部結界……」
「あー、さっきの人ね」
すでに一度聞いた担当者の名前――確か「カケイ」――に、たどり着くのをサンドラがさえぎり、向こうの出方をうかがう。なにか、余計なことにでも気付いたか? それにしては、やけに馬鹿丁寧だ。
「はい。先にご連絡したのですが、そちらの秘書の方から『手の離せない業務』をされていると伺ったので、私自ら出向いてまいりました」
この担当者に対し「弓の練習」ではばつが悪いと、ミレットが気を回したのだろう。魔法練習場にわざわざ連絡してこなかったということは、緊急の案件ではない。
「『守秘義務』に関わることで、ご相談事があるそうです」
前置きが長そうなので、さっさと本題に入らせようという秘書。
「はい。それで、直接お話しようと思いまして」
担当者の口ぶりや表情を見る限り、どうやらバッドニュースではなさそうだ。サンドラは警戒を緩める。
「で、用件は」
「はい。実は、そちらのクスノキ先生による結界除去が、あまりにも……」ここで引っ張る担当者カケイ。ぐぐっと乗り出す一同に目もくれず、さらに気をもたせる。「なんと表現したらいいのでしょう……あのようなことは、私が結界関連業務についてから初めてなので……その……」
サンドラはなにか問題が見つかったのかと再度警戒を強め、先生と呼ばれたナユカは視線を少し下げる。沈黙の中、助手役のリンディは焦れる。
「なにさ?」
「あ、すみません。私に表現力が足りないもので……つまり……」
まだもたせるか、この担当者。助手の視線に力が入る。
「さっさと……」
「すばらしいです! あの短時間であれほど完璧に除去してしまうなんて、先生は天才です!」
そんなに考えてひねり出すような表現ではなく、事実そのまま。課長はその先が気になる。
「……それだけ?」
「も、申し訳ありません。私、やはりどう表現したらいいか……足りませんよね、これだけでは。でも、本当に表現力がなくて……」
だから、表現力はどうでもいい。サンドラが聞きたいのは、その先。
「そういうことではなく……」
「あ、そうだ! 芸術です! あれはまさにアートです!」
うっとりした目の担当係長。どうやら、九課課長が懸念していた「その先」はなさそうだ。
「わかったから、落ち着きなさい。で、それを言いに来たわけ?」
「え? あ、はい……いいえ」どっちだよ。「実は、恐れながら、クスノキ先生に御依頼がございまして」
この担当者は、自分のスタンスに酔うタイプなのか、敬意の表現が過剰になってゆく。
「ユーカにね。つまりは、仕事の依頼というわけね」
幸いにも、サンドラは「クスノキ先生」を言い直してくれた。これで、課長にまで「先生」呼ばわりされたらどうしようと、ナユカは思う。特に骨を折ったわけでもないので、決まりが悪い……。そんな心情を慮ることなく、カケイ係長の表現はさらにエスカレート。
「はい。誠に僭越ながら、不肖、私、カケイが……」
まどろっこしいので、課長がさえぎる。
「具体的には?」
「明日の午後に、別の保管庫の結界を除去していただければ、ありがたきことにて……どうかよろしくお願い申し上げます、クスノキ先生」
頭を下げる担当係長を視界の下部に入れつつ、サンドラがナユカに尋ねる。
「だってさ。どうする? クスノキ先生」
「そ、その……『先生』というのは、ちょっと……」
ついに課長からもそう呼ばれてしまった部下の居心地が悪化。そこへリンディが悪乗り。
「そうですよ、『先生』だなんて……。師匠に向かって」
助手からたしなめられ、担当者は慌てる。
「た……大変失礼いたしました。クスノキ大師」
「タイシ……?」それは、最高位の魔導士への呼称。その単語を知らない異邦人は、上司からその意味を耳打ちされ、当惑を隠せない。「そんな……」
困ったというのが表情にもろに出ているため、サンドラは助け舟を出す。
「そこの助手さん。あなたの『師匠』は、堅苦しいのがお嫌いのようだけど?」
困っているナユカを見ろという視線を受けたリンディは、さすがにその視線の先に配慮する。
「そうでした。では、普通にお呼びください」
「寛大なお心遣い、痛み入ります、クスノキ先生」
カケイ係長にとっては、「先生」がデフォルトになっているらしい。
「いえ……それは……」ナユカが修正を試みようとすると、サンドラが首を振る。面倒だから、もうあきらめろということ。しかたなく、「先生」はそのまま返事をする。「はい」
「で、依頼の件だけど……いいよね?」
そろそろ先に進めたい課長に、結界破壊士がうなずく。
「はい。お受けします」
「誠にありがたき幸せに存じます。クスノキ先生……」
その先にさらに大げさな感謝の言葉を付け足して歓喜に打ち震える担当係長を静めてから、サンドラが詳細を話させたところ、どうやら、全省的な結界の見直しをしている法務省の上司から、無理なスケジュールを押し付けられて困っていたらしい。そこで、クスノキ先生に結界の除去をしてもらえば、その作業へ割いている結界士たちを結界の作成のほうへ回すことができ、大幅な時間の短縮になる。そのこともあって、それを解決してくれると確信させる「結界破壊の大先生」を崇め奉ったのかもしれない。ただ、そういった事情よりも、この担当者の勝手に盛り上がってしまう性格がより影響していたのは明らかで、結局、最後まで平身低頭した姿勢を崩さず、九課を去っていった。
そして、この日を機として、ナユカへの結界破りのオファーが続々と舞い込むこととなる。おそらく、あの敬意過剰の担当係長が、大盛り上がりで関係各位に吹聴したのだろう。聞いた側は半信半疑であっても、とりあえずオファーを出し、いったんこの新職、「破壊専門結界士」のお手並みを見れば、確実に驚嘆する。魔法省職員という立場上、相手にするのは主として公的機関のみとはいえ、コスト削減や作業の迅速化のためには、このような人材は極めて有用かつ貴重であり、注目されないわけはない。あまり目立ちすぎるとなにかと不都合が生じることを懸念したサンドラが、九課所属の異世界人への依頼を絞り気味だったにもかかわらず、その能力は、早々に知る人ぞ知るものとなってゆく……。
こうして、異世界から来訪したという隠し事を抱えながらも、この魔法世界における地歩をどうにか固めたナユカは、ようやく地に足をつけて、自身のすべき探索へと踏み出す。秘密を共有する周囲の人たちと共に……。
一方、そんなナユカとは対照的に、セデイターのリンディは、この頃、ある問題を抱えていた。そのことは、まだ、本人すらはっきりと気付いてはいない。しかし、魔法省での時を過ごすにつれ、それを否応なしに自覚せざるを得なくなっていた……。
<第二部 了>
魔法世界のセデイター 3(https://ncode.syosetu.com/n0057gd/)に続きます。




