9-5 結界破りと呪文
連休明け、またもナユカとフィリスの部屋に泊まっていたリンディは、結局、ふたりと一緒に始業時に現れた。こうなると、まるで公務員のようだ……。サンドラは失笑を禁じえない。本業のほうはどうするつもりなのだろう……。そろそろセデイト対象者の情報も増えてきているはず。
もっとも、Aランクのニーナをセデイトした賞金が高額だったため、金銭的に困っていることはないことに加え、リンディが相手にするのは基本的にCランク以上、狙っているのはBランク以上の対象者であり、それがなければ、しばらくは動く必要はないのかもしれない。下位二番目のDランクまでは駆け出しのセデイターなどに任せて、彼らに経験を積ませたほうがいいという点を考慮すれば、そのレベルにいちおう敏腕で通っているリンディが手を出さないのは、結果的に望ましいともいえるだろう。いまだセデイターの絶対数が足りない現状、使いものになるセデイターを増やしていく必要があるからだ。
さて、本日、ついに結界の破壊を現場で披露することになりそうだと、サンドラからナユカにお達しがあった。
「え? もうですか?」
本物の結界を破る練習をしたのは一日だけで、六回のみ。それも、実用されていたものではなく、練習のために作成されたもの。新米結界破壊士はそんなことでいいのだろうかと思うが、課長の判断ではそれで十分――というより、それ以上やることは何もない。
「そう。もう、練習のしようがないから。リンディに特訓させたいのなら、いいけど?」
「あたしはもういや」
本人は当然のごとく拒絶。……あんな疲れて、かつ虚しい作業はもうたくさん。
「効果あったでしょ?」
「知らないよ。あれからまだ魔法撃ってないし」
ただ、練習場でその成果を試したいという気は、魔導士にはある。これで上達してなかったら、どうしてくれようとも思うが。
「そんなわけで、午後から、たぶんやることになると思うから、よろしく」
課長の目配せを受け、ナユカは少し間を空けて答える。
「……はい」
まだ戸惑いが見られる結界破壊士に、サンドラが景気をつける。
「ふつうは『自信を持って』とか言うところだけど……ユーカの場合は、必要ないからねぇ……」体質に自信もへったくれもない。「ま、気楽にやってきなよ」
気楽にか……。まぁ、確かに自分がなにか頑張るわけでもないけど……。ナユカには、逆にそういうのは難しい。
「なにか気をつけることとかは……ありますか?」
「あの棒くらいじゃない?」
リンディは、結界破壊士専用の棒で何度か危険にさらされたことを思い出す。そこへ、サンドラが念押し。
「あ、結界破るときは、棒使ってね。素手でやると、不審に思われるから」
「ああ、はい」
素手で結界を破っちゃまずいというのは、さすがに、異世界人にももうわかる。すると、魔導士から提案が。
「なんか、呪文でも唱えたほうがいいかも」
もちろん、見せ掛けの。
「呪文を……ですか?」
ナユカには冗談のように思える。
「あったほうがいいでしょ。そのほうが自然」
ジョークではないようだ。リンディのみならず、この世界での常識として、詠唱もなしに結界を消滅させたら、それは尋常ではないと考える。武器で破るにしたって、エンチャント魔法はかける。もとよりこの異世界人の能力、というか体質が尋常ではないのだから、それを多少なりとも糊塗するためには、詠唱くらいはしておいたほうがよい。
「確かにね」リンディの意見を入れたサンドラは、ナユカに丸投げ。「じゃ、適当なの考えて」
「適当なのって……」
フェイクだというのはわかった――けれど、適当に思いつくものでもない。それなら、ここは魔法少女のアニメから引用して……と思ったが、意外にきっちり覚えていないものだ。それに、最近の魔法少女は、どちらかといえば、気の利いた呪文など唱えない。魔法はその名称だけでいきなり撃つし、のっけから肉体言語の場合も多々ある。やはり、古今東西のれっきとした呪文から……。そうすると、寺にゆかりのあるナユカがまず思いつくのは……。
「思いつかない?」
付き添いの準備をしていて、しばし口を開いていなかったフィリスから突然振られ、その思いついたものをナユカが口走る。
「ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー、はらそーぎゃーてーぼじそわかー」
不思議な音声に固まる一同。そして、しばしの間……。そのまま視線を集めている異世界人に、リンディがようやく尋ねる。
「……なにそれ?」
「こ、これはその……『般若心経』という……その……。やめましょう」
今のリアクションを見る限り、これでは周囲の注意を惹きすぎる……。衆目を集めること請け合いだ。フィリスも中止に同意。
「そのほうがいいかも」
そして、ナユカは再度、脳内データバンクを検索。でも、すぐに見つかるのは、少しだけ。
「それでは……いきますよ」また凍りつかれるといやなので、まあまあ無難なものを選んだ……いちおう。「りん、ぴょう、とう、じゃ、かい、じん、れつ、ざい、ぜん」
「それは……いい……まぁ、悪くはない……かな」
微妙さを滲ませるリンディの賛同に、フィリスがとりあえず続く。
「さっきのよりは……格段にいいですね。あの、『ぎゃーてー』? とかいうのより……」ここで、異世界の呪文をくさすのはよろしくないと思い至る。「あ、ごめんなさい」
「思いっきり『異世界』って感じがするよね」
サンドラが突っ込んできたので、リンディがフォロー。
「でも、つぶやくだけだからね……ばれないでしょ?」
「……あ、そっか」
気付いて手を打つ武器専門家を、魔導士は不審に思う。
「『あ、そっか』ってなに?」
「あ、いや……わたしはいつも叫ぶから」
「叫ぶ? なんでよ?」
叫んで詠唱する必要はまったくない。そんなことをすると、発動する魔法のイメージが壊れて、むしろうまく発動できなくなる。イメージを言葉によって制御することで魔法を発動させるのが、詠唱の基本だ。
「あー、なんか……気合で」
ロボットアニメの主人公のよう。熱血サンドラ。
「魔法を気合で撃つかぁ?」
「だから、うまく撃てないのか。でも、エンチャントは叫んでもできるよ」
「それは、そんなにイメージがいらないから」これ以上、魔法音痴の相手をしても仕方がないので、リンディはナユカにゴーサインを出す。「じゃ、それでいってみよう」
「あ、はい。わかりました」
納得した結界破壊士に、フィリスが釘を刺す。
「絶叫はしないでね」
「それは大丈夫。恥ずかしいから」
ナユカの他意がない発言に、サンドラ方面からうめき声。
「う」
うなずきながら、リンディは笑い出す。
「そりゃそうだよね、あはは」
「……ま、まぁいいよ」その笑いを熱血魔法音痴は甘んじて受けつつも、話を戻すことで話をそらすことにした。「それより……その呪文に、意味はあるの?」
「意味は……たぶん護身用とか……まぁ……そんな感じの……」
実のところ、ナユカもよくは知らない。字に則って具体的な意味があるはずだが、そもそも、すべての字は覚えていない。
「どういう効果?」
サンドラに尋ねられたものの、異世界人にもわからない。なんといっても、効果を見たことはない。通常、そんな機会はないし、もちろん、使ったこともない。早九字を切ってみたことなら、住職から話の流れで教わったときにあるが、手で印を結ぶほうはやり方を知らない。
「さあ? あるんでしょうか?」
「いい加減だなぁ」
リンディがナユカを冷やかしたところ、フィリスが決定的なことを思い出させる。
「魔法がないですから」
「……あ、そっか」
呪文の話をしていたから、リンディはついつい忘れていた。ただ、フィリスは興味を抱いたようだ。
「でも、あの呪文で具体的なイメージが形成されるなら、この世界では魔法が発動できるかもしれないですね」
「え? 本当に?」
自分が魔法を使えるのかと異世界人は驚くが、それはすぐにいった本人から否定される。
「残念ながら、ユーカには無理だけど」
魔法を無効化するのに、魔法が使えるわけがない。自明だ。
「あたしにも無理。言葉の意味がわからないと、イメージが作れないから」
専門家の言うように、意味不明では、魔法イメージの形成や制御ができない。よって、魔法は適切に発動しない。ナユカは、自分が魔法を使えなくても、その辺のメカニズムはなんとなくわかってきた。
「意味が重要なんですね……。ちなみに、リンディさんは、どんな言葉で呪文を唱えるんですか?」
「リンディは、『行けー』とか……そんなんだよ」
口を挟んだ絶叫系サンドラの答えを、本人が否定する。
「失礼だな。ちゃんと唱えるよ」
「そう? たとえば、ファイア系はどんなの?」
武器専門家は、疑わしげにセデイターを見る。
「それは……場合によるけど」
こういう言い回しは、古今東西、誤魔化しの可能性が高い。ゆえに、サンドラは状況を限定してみる。
「それなら、急いでるとき。高速詠唱のときとか」
「たとえば……だよ」
実際の高速詠唱さながら、小声で早口の魔導士。
「もう一回、ゆっくり、お願い」
サンドラの意地悪なリクエストは、「大声」を指定しないだけ、まだましか。もっとも、そもそも、リンディは誰かと違って大声で詠唱することはない。
「……『火の玉、行けー』だよ。仕方ないじゃん、時間ないときは」
「普段は、ふつうに詠唱してるんですよね」
フィリスのこういった気の使い方は、リンディには逆に意地悪く聞こえる。
「そうだよっ。もういいじゃん、こんな話」
その口ぶりから、普段も「行けー」の近似値だと全員が推察した。実際のところ、セデイトの現場では、高速詠唱のほうが多い。したがって、そういった短い呪文がほとんどである。たとえば、よく使うパラライズは「痺れろ」、広域の場合は「あの辺、痺れろ」で済ませており、複雑な条件を指定した長い呪文の詠唱をする機会はほとんどない。それらは、待ち伏せや罠には有用だが、面倒くさいし、リンディは苦手だ。対象を見つけたら、できるだけ早めに、直にやってしまいたい。そのほうが、かかるかわからない罠をあちこちに張るよりも確実である。特に、瞬時の魔法イメージ形成能力が高い魔法使用者の場合には。
こんな必要最小限に近い打ち合わせを終え、九課課長のサンドラは、結界破壊のオファー内容を確認すべく、魔法部長のもとへ向かう。どうやら、法務省出身であるウォルデイン部長のコネクションを利用した業務のようだ。詳細は守秘義務の関係上、確定してからとのことで、察するに、公的な業務だろう。ということは、わりと重要な仕事なのかもしれない……。
初っ端からそんなものを任されそうで、多少のプレッシャーを感じる新参結界破壊士だが、それをかえって心地よくも感じてしまう……。とはいえ、結界の破壊そのものは、今までの「練習」を思い起こせば、おそらく、とりたてて頑張ることもなしに終わってしまうことが確実なので、プレッシャーの対象は「演技」の部分だ。つまりは、呪文の詠唱や、特殊な技を使っているような立ち居振る舞いなど。スポーツ系のナユカには馴染みのないものでも、本番に向かう緊張感は、どことなく何かの大会前に類似したものを思い出し、懐かしくもある。大学に入ってから本気の競技会からは離れてしまったため、それは久々の感覚だ。こんな刺激もたまには必要だなと、スポーツ女子は思う。




