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魔法世界のセデイター 2.異世界人の秘密と魔法省の騒動  作者: 七瀬 ノイド
七章 魔法省八日目(人事)
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7-2 棒の扱い

 午後は、指示されたとおり、ナユカは魔法研のターシャのもとへ結界破りの「道具」を取りに行く。同行するのは「用がある」リンディ。

 やってきた待ち人を相変わらずの調子で迎えようとしたターシャは、護衛という「用」を全うするリンディにあえなく阻まれ、返す刀でその護衛役に対して同じこと目論むも、闘牛場の牛のごとくかわされた。その結果、「セクハラ」禁止の念押しをリンディからみっちり受けたものの、彼女による監視のもと、ナユカへの軽いハグ程度は許され、ターシャはそれなりに満足したようだ。


 さて、その研究主任が結界「破壊」士に渡すべく取り出したる「道具」というのは、見るも珍しき――ただの長い棒である。見るからに、棒術用の六尺棒(約180cm、1kg前後)のごとき代物だ。

「道具……なんですか?」

 差し出された棒をナユカがつかんだので、ターシャは棒から手を離し、改めてそれを下から上へと見上げる。

「長くていいでしょ」

「長すぎませんか? これ」

 棒を立てて持っているナユカも、その先端を見つめる。

「剣みたいに刃があるわけじゃないから、長くても安全でしょ。いちおう武器としても使えるけど、ユーカの場合、届かないところに触るためのものだから」

 基本的に戦闘用ではなく、結界破り用だ。それなら、武器使用経験のない者でも安心して使えるはず……たぶん。

「安全……ですよねぇ」

「それから、これには……」

 先だっての実験時に見出された「無属性エンチャント素材」が両側の先端にコーティングされているということを科学者が説明しようとしたところ、先回りをするかように、先端を間近に見ようとしたナユカが、立てていた棒を水平にしようしたため、斜め前のターシャと斜め後ろのリンディに棒が当たりそうになる。

「うわっ」

 同時に驚いた両者は、それぞれ、上から降ってきた棒と下からせり上がる棒から、横へときわどく避ける。

「あ、すみません」

 前方のターシャに謝ったナユカが、後方のリンディにも謝ろうとしたため、当然身体を回転させることになり、またふたりに水平回転する棒が襲い掛かる。

「おわっ」

 ふたりとも再度驚き、回転方向の先へ逃げる。すんでのところで棒は停止。

「す、すいません」

 恐縮したナユカは、今度は目の前のリンディに謝り、またターシャのほうへ向き直ろうと逆回転する。これは、もちろん、また同じことになる。

「どわっ」

 ふたりには、反対側から棒の先端が襲い掛かり、双方、驚いて逆方向へ退避。またも寸止めで事なきを得た。

「あ。す、すいま……」

 そして、ナユカがまたも再び眼前のターシャに謝ろうとしたところで、さすがに業を煮やした研究主任が、大声を上げる。

「ストーーップ!」

「わっ。はい」

 今度はナユカが驚いて停止。

「切りがないわ。ちょっとそのままね」武器所有者にストップをかけたまま、ターシャはリンディを自分のほうへ呼び寄せる。「リンディ、こっちに来て」

 呼ばれた当人は、ナユカの周りをぐるっと回り、棒をはさんでターシャの隣へ。そのターシャは、ナユカが棒を動かさないよう、その先端を両手で握っている。

「これでいいわ」

「……永遠に続くかと思った」

 リンディも念のため棒をつかむ。ナユカは水平になった棒の中央を持ったまま、小さくなっている。

「ごめんなさい……」

「まぁ、慣れてないから……」

 ターシャは慰めたが、リンディにはこの棒を使用することへの懸念が湧き上がった。

「……魔導士用のスタッフとかでいいんじゃないの?」

「でも、長さがほしいんだよね」

 離れた結界へ触れるのが趣旨だ。

「伸縮式は?」

「あれは耐久性の関係で、あんまり長くない」

 如意棒のように都合よくはない。

「なら、チェーンとか。先端に重りつきのやつ」

「当てるの難しいよ。棒よりも危ないね、間違いなく」

 棒でさえも、今のような危険度だ。

「じゃ、投げ縄」

「エンチャント素材が付かないね、たぶん」

 縄にエンチャント素材をコーティングしてうまくいった前例はない。技術的に困難だ。

「そっか……」

 リンディの対案は、これでネタ切れ。

「まぁ、この棒に慣れるのが一番だと思うよ。どうかな?」

 棒から片手だけ離したターシャは、現行の路線を推奨。慣れれば危険なことはないだろう。

「以後、気をつけます……」

 提案にはっきり賛同しないまま、ナユカは先ほどの「攻撃」をいまだ反省中。しかし、反省しているのならば今後も使う気があると、研究主任は受け取る。

「じゃ、この棒で決まりね」

「……え? はい」

 不意を打たれて同意してしまった結界破壊士。とはいえ、反対してどうなるものでもなく、自分が練習するしかない……。棒を持っている自分の手に視線を向けたナユカを見て、ターシャが棒をつかんでいないほうの手を軽く上げる。

「棒術はあたしも少しできるから……ちょっとやってみせてあげる」

「ほんとかよ」

 疑わしげなリンディに、自信に満ちた笑顔を向ける素人女優。

「大丈夫、任せて。劇でやったことあるから」

「それなら……まぁ……少しだけなら……」渋々許可したリンディだが、全面的に信用するものでもない。ここは安全を確保しなければ……。「と、その前に……」

 リンディの提案で、まずは、三人で声を掛け合いながら、いったん棒をゆっくりと下に置き、リンディとナユカがターシャから十分離れてから、当の演者が棒をつかみ上げることにする。これで、さっきの二の舞は避けられるはず……また反射神経を試されるのはごめんだ。


「じゃ、基本の型、やるね」

 手順に則ったおかげで、見学するふたりに危害を与えることなく、安全に棒を携えたターシャは、やる気満々。

「どーぞ」

 お手並み拝見というリンディと、学習意欲に満ちたナユカが見つめる中、演者が余裕綽々の体で棒を構える。まず、棒を一振りし、次に一回廻し、それから棒を振り上げた……ところで、手から棒が消滅。

「あれ?」

 棒を失ったターシャは、周囲を見回す……と、リンディの叫び声。

「上、上!」

 頭上へと舞った棒は、自然の摂理として重力に抗えず、避ける間もなく、演者のすぐ脇にまっすぐ落ちてバウンド……方向を変えてリンディ目掛け、一直線に襲い掛かる。

「あわっ」声とともに、エモノの目標は横へ飛び跳ねて倒れこみ、ぎりぎり回避成功。「……はぁ……疲れる」

 うつ伏せ状態から戻ろうとしているリンディに、ターシャが手を差し伸べる。

「うーん、まぁ……サンディに教わるのがいいね……。武器専門だから」

「是非そうして」

 手を取って立ち上がる……。ある種「仲良く」している両者を目にして、微笑むナユカ。

「そのほうがいいみたいですね」

「……でも、持ち方くらいは教えるよ。危ないから」

 当初、「安全」と主張していた研究主任は、意見を変えていた……。


 目の前で繰り広げられた「演武」を見る限り、このコーチは心もとないが、いちおう持ち方だけは教わったので、ナユカはこの棒で結界を破る練習をしてみることにする。そこで、昨日と同様の実験を棒を使って行ったものの、結界破壊士にはなぜかまったく結界が破れない。

 それもそのはずで、この棒は、両端のみにエンチャント素材のコーティングがされており、中心の持ち手の部分には、逆に耐魔法素材がコートされている。この措置は、エンチャントされた魔法が使い手に触れることがないようにするためのもので、通常は必須の加工だ。電気機器の絶縁みたいなもので、この棒も出来合いの武器として、そのような仕様になっている。しかし、ナユカのような特殊な能力を生かすには、素材を通して魔法が身体に触れるようにしなければ、結界を消滅させるための魔法無効化が発動しない。


「やっぱり駄目ね、特注しないと」

 棒に目をやるターシャに、リンディが聞き返す

「『やっぱり』ってわかってたの?」

「もちろん。あたしは優秀な科学者よ」

 胸を張る。

「んじゃ、なんのための棒さ?」

「新しく作る前に、試しにその棒を持ってもらおうと思って」リンディに答えてから、ターシャは棒を水平に構え、それを結界の直前に差し出すと、自分を見ているナユカに指示を出す。「とりあえず、そのエンチャント素材がコーティングされてる先端部分に片方の手で触って。それから、手じゃなくて、その先端で結界に触れてくれる?」

「えーと、こうかなぁ?」

 特殊能力者が、指示通り手を伸ばしてそのコーティング部分に触り、ターシャの持っている棒を結界に当てると、いつものように即時消滅。

「OK。問題なしと」研究主任はうなずいて確認。「……というわけで、棒を新しく作らなきゃね。全面無属性エンチャントコーティングのやつ」

「……聞いたことないな」

 それもそのはず、そんなものはない――リンディが聞き及ばないのも当たり前。あちらの世界でいうなら、絶縁されていない電気機器作業用工具のようなもの。

「ちょっとした危険物だよね。他の人が持ってエンチャントしちゃうと」

 科学者から漏れ出た気になるワードを、ナユカが繰り返す。

「危険物……」

「あ、ユーカには問題ないけど」

 ターシャの言うように、他の人には取り扱い注意の代物でも、この結界破壊士には安全で有用なもの。すると、リンディがさっきの話をまた蒸し返す。

「それにしても、新しく作るんなら、もっといいもの作れないの?」

「既存の棒にエンチャント素材を全面コーティングするだけじゃだめ? なんかいいアイデアあれば、出してよ」

 そう主任研究員から返されても、特にそんなものはない。なんとなく聞いてみただけ。

「そうだなぁ……あー……」考える振りして「ない」と落とそうかと思ったものの、ターシャとナユカがじーっと自分のほうを見つめるので、数秒の間を置いて無理やりひねり出してみる。「エンチャント素材そのものを……硬いワイヤーみたいにして、使うときはぴんと伸ばすとか」

「なるほど」

 科学者がうなずいている。それを見て、発案者が悦に入る。

「いいでしょ」

 出るときは出るものだ……ひらめきってすばらしい! もしかしてあたしって天才? これ作ったらあたしの特許かなぁ……。しかし、現実はすぐに訪れる。

「無属性エンチャント素材は柔らかいから無理ね。硬くするにはかなり太くしないと。でないと、ぴんと伸びない」駄目出しの説明をしてリンディの悦楽を破っただけでなく、ターシャは余計なことを口走る。「なんか、やらしくない?」

 NGを出された発案者は、それに関係すると思ったためになんのことかわからず、数秒きょとんとするが、すぐにその意味に気づく。

「……あー、はいはい」

 冷たい目を発言者に向けるリンディの傍ら、ナユカはわかっていない。

「え?」

「いいの。気にしないでスルーして」

「はあ……」

 怪訝そうな異世界人。

「今の意味はねぇ……」

 ターシャが説明しようとすると、リンディの制止が入る。

「そこ、変態。ストップ」

 ナユカは、ここでようやく意味がわかった。

「……ああ、そのこと」

 いたって平静なので、リンディは拍子抜け。

「わかったの?」

「その程度なら」

「ほら、見なさい。リンディは、ちょっと過敏なのよ。ねえ?」

 ターシャに同意を求められ、ナユカは他意なくさらっと答える。

「そういうこと言いたがる、バカな男子ってよくいましたし」

「うっ」

 言いたがりのうめき声――クリティカルヒット。

「あ、すみません。ターシャさんがバカな男子というわけではなく……」

「いいのいいの。そのとおりなんだから、あはは」

 リンディは溜飲を下げ、バカな男子はひきつった笑いで取り繕う。

「ま……まぁ……いるわよね、そういう男の子ってね。あ、あはは……」とりあえず、この場をやり過ごすには、元の話題へ戻すしかない。「えーと……で、その……棒でいいのかな……ユーカさんは」

「え?」失地を回復しようとした科学者から急に敬称を付けられ、少し戸惑う。「……ええ、わたしは……よくわからないですが……たぶん」

「わからないことがあったら、先に質問しといたほうがいいよ」

 リンディの助言はもっともで、実は、ナユカには気にかかっていることがある。

「それじゃ、ひとつ質問が……。それって、その……高いんですか?」

 研究主任が聞き返す。

「高い……っていうのは?」

「あの……お値段です」

「特殊加工の特注品だから……まぁ、それなりに」

 全面エンチャントコーティングなので、通常よりも値が張る。

「そうですか……わたしに払えるんでしょうか? まだ、ここでのお金の価値があまりわからなくて」

 それに、給料をもらったばかり。貯えゼロ。

「なんだ、そのことか」リンディは、ターシャに確認する。「魔法省が出すよ。だよね?」

「出す出す、全額……いくらでも。ユーカは魔法省の職員だから」

 魔法研主任研究員の言うとおり、「いくらでも」なら、ずいぶん太っ腹の省庁だ。言葉尻を捕らえるのはさて置き、全額出してもらえるらしい。ナユカは、胸を撫で下ろす。

「あ、そうなんだ。よかった」

 実際のところ、武器としても使える軽量な金属棒に全面無属性エンチャントコーティングするだけであり、専門の武器としての精度や耐久性を求めているわけではないので、素材費は多少かさむものの、べらぼうな額にはならない。魔法研が懇意にしている工房で製作するため、割安でもある。この結界「破壊」士がこれから発揮するであろう能力を鑑みれば、魔法省にとっては安い投資だろう。

「しっかりしてるじゃない。リンディと違って」

 ターシャから向けられた視線を、反射。

「なんであたしを引き合いに出す?」

「よくわかんないものを衝動買いするって聞いたよ?」

「しないよ、そんなの」

 リンディにそんな覚えはない。ものにはそれほど執着せず、ゆえに、わりと堅実だ。衝動的につぎ込むのは、せいぜい食べ物くらい。

「そう?」ターシャは、目線を上に向けて思い出そうとする。「なんか、すっごくかわいい魔導服……」

 まったく身に覚えがない。魔導士は即刻否定。

「買わないよ、そんなの」

「……を着たセレンディア熊の特大ぬいぐ……」

「わーわー!」ターシャの口から単語がすべてこぼれ出る前に、リンディは大声を上げて制止。すぐに、離れたところへおしゃべりを引っ張っていき、ナユカに背を向けて密談開始。「それ話したのサンディでしょ?」

「うん」

「他の誰かに話した?」

 情報源への非難の気分がわき上がるよりも前に、それが気になる。

「まだ」

 にやっと笑ったターシャから察するに、話す気満々とリンディは解釈。

「絶対、話さないように」

「どうしようかなー」重々しく念押ししてきた相手をからかってやろうとしたものの、その目に必死さが見え、年長者として「慈悲」というものを思い出す。「わかった、わかった。話さないよ」

「ほんとに?」

 不安げなリンディをいつも以上に可愛く感じたターシャであっても、ここで「うそだよぉん」などとのたまえるほどのSではない。……口走りそうになったのは否定しないが。

「……ほんとに」

「それは……どう……あり……」

 ぼそっとつぶやいたリンディの謝辞は、ターシャにはよく聞き取れなかったものの、ここで「なぁに? 聞こえなーい」などと追い討ちするほどのドSではない。……口にしてみたくなったのは否定しないが。

「……別に隠すこともないとは思うけど」

「!」

 ターシャがなだめようとしてそう言ったのに反して、別の意味に捉えたリンディが、険しい視線を送ってきたため、ここは確約しておくことにする。「だから……しゃべっちゃうね……てへ」などと開き直るほどの超ドSではない。……口からこぼれそうになったのは否定しないが。

「大丈夫よ、絶対話さないから」

「どうしたんですかぁー?」

 離れたところからナユカの呼び声。密談とわかっているから、近づいては来ない。

「あ、今戻る」

 戻ろうと動き出したリンディがちらっと振り返ったので、ターシャは目配せ。とりあえずは納得した情報漏えい被害者は、先にナユカの元へ早足で向かう。

「えーと……やっぱり高いんでしょうか?」

 戻ってくるなり、結界破壊士が聞いてきた。

「……高い?」もしかして、密談を棒の値段のことと思っている……? リンディはほっとする。「……あ、違う違う。そのことじゃないから、気にしないで大丈夫」

 どうやら、あのことは聞かれなかったらしい……。離れていたし、まだまだセレンディー語に不慣れなため、異邦人には聞き取れなかったのだろう……。一安心したリンディの肩に、戻ってきたターシャが後ろから手を置く。

「問題なくてよかったねー」

 それから、正面のナユカに目配せ。受けた側は気付き、一瞬視線を合わせてから微笑む。たぶん、かわいい熊人形と思しきものを衝動買いしたらしい当人には悟られないように……。

 ぬいぐるみ熊はともかく、結界破り用の道具は、先ほど研究主任が提示した仕様で専用の棒を作成するということで決定。三日もあれば出来上がり、完成の連絡後にナユカが魔法研に受け取りに来ることとする。


 ひとまずすべきことを終え、ターシャが端末より九課課長に事の次第を報告すると、折り返しの指示では、今日は特にやることのないナユカは待機していればいいという。研究主任の提案による結界破壊士への棒術訓練は、準備が必要なため、明日以降にするとのことだ。

 すると、「護衛役」のリンディがこれから魔法の出力調整訓練をしたいということなので、余った時間のできた護衛対象はそれに付き合うことにする。……といっても、たぶん手伝えることはなく、単にトレーニングを見学するだけになりそう。昨日みたいに眠ってしまわないようにしないと……。見学にもかかわらず、スポーツ女子は今から軽く気合を入れる。

 なお、課長への連絡の間、リンディは、例の「衝動買い」を漏らした件について、情報漏えい源に文句を言いたくてうずうずしていたが、ナユカのいる前でそれを口にするとばれてしまうことから、ここはぐぐっとこらえ、とっちめるのは後にして、そのまま連絡を終えた。


「よく、やる気になったね。自腹で」

 ターシャにとって、リンディの心境の変化は興味深い。今まで、魔法の出力調整訓練なんて、やる素振りも見せなかったのに……。しかも、料金を払ってまで――たとえ小額ではあっても。

「まーね」

「あたしが付き合ってあげようか」

「やだ。気が散る」

 魔導士は、きっぱりと拒否。

「ひどい……そんな……」

 ターシャは思いっきり芝居めいた芝居を披露し、少し離れたところで後ろを向いているナユカへと駆け寄っていく。

「ユー……」

 抱きつくつもりだと察知したリンディが声を上げかけたところ、素人女優は、その目標が例の棒をいじっているのを目にし、急ブレーキをかけてバックステップ。

「とっ」

 声と物音に気づいたナユカが体を回して振り向くと、案の定、棒が水平に空を切り、腰を引いたターシャの腹をかすめる。

「あ、すみません。たびたび」

「だ、大丈夫。ちゃんと距離を取ってるのは、感心だよね……はは」

 役者の頬を冷や汗が伝う。

「今のバックステップは、なかなか」

 リンディの皮肉に対し、ターシャは照れ隠しに胸を張る。

「ひ、日ごろのトレーニングの成果ね」

「トレーニングしてらっしゃるんですか?」

 ナユカはトレーニング好き。それがなんであれ、興味がわく。

「抱きつくトレーニングじゃない?」

 そっぽを向いてぼそっと毒づいたリンディに、スポーツ女子が聞き返す。

「はい?」

「いや、ちょっと……」あわてて割り込んだターシャ。「芝居の、を」

「そっか、女優さんですもんね」

 劇で格闘シーンとかもあるのだろう……。ナユカは、役者もやっぱりアスリートなんだと思う。一定の時間内に決まった動作をする作業には、何であれ、スポーツの要素があるものだ。

「そ、そう。そうなのよ、おほほほほ」

 お嬢様風笑いで誤魔化そうという女優。

「じゃ、行こうか、ユーカ」リンディは、それにはもう絡まない。「またね、ターシャ」

 さっさと別れを告げ、出口へと向かう。せっかくやる気になっているのだから、早く練習に行きたい。

「あ、待ってください」ナユカは、リンディの後を追いつつ、ターシャに挨拶。「では、また来ます。棒の件、よろしくお願いします」

「またね。完成したら連絡するね」返事した研究主任は、出口直前の魔導士に叫ぶ。「またね、リンディ」

 その声に後ろ向きのまま手を振り、ラボを出て行く。ナユカは出口でターシャに会釈して退出。こちら風に首を傾ける会釈も、次第に板についてきた。


 ここ数日すっかりお馴染みとなっていたラボを後にしたリンディは、ナユカとともに魔法研内にある別の実験室である「魔法開発実験室」へ向かう。この実験室も、今までいたラボと同程度の規模で、実験場というべき広さがある。これら、魔法そのものを対象とする実験室は、安全確保の必要性からどうしてもそれなりの大きさとなりがちだ。そして、ここは、かつてリンディがターシャ付き添いで行った「練習」で爆発事故を起こした後に新たに設置されたため、耐魔法処理を中心とした各種の安全対策が念入りに施されている。事故も役に立つこともあるもので、その結果、魔法省の誇る「安全対策モデル実験室」に指定されるに至り、おまけに専属のオペレーターまで配置されているほどだ。しかし、その「おまけ」が逆に実験の柔軟性を奪い、たとえば、ターシャのように助手に自分の好き勝手なことをやらせたい研究者にとっては使い勝手が悪く、敬遠されている。加えて、この実験室の本旨である魔法の開発実験など、そう頻繁に行われるものでもなく、実験の予定は入っていないことが多い。

 そこで、施設並びにオペレーターを遊ばせているのも無駄であるし、その点を外部から指摘されるのは魔法省にとっても不都合なことを鑑みて、実験に使う予定のないときには、魔法省関係者による魔法の練習にも使用が許可されている。ただし、魔法研関係者からの紹介制であり、上記理由から外部に宣伝されてはおらず、あまり知られてはいないことから、幸いにして、練習希望者が殺到するということもない。いちおう、魔法省職員以外からは小額の利用料金を取ってはいるものの、批判を招かぬよう、「魔法厚生局」内にある正規の「魔法訓練場」よりもかなりリーズナブルだ。


 以上の理由から、魔法研関係者、すなわち、ターシャから紹介を受けられるリンディには非常に都合がよく、これなら彼女が重い腰を上げる気になるのも不思議ではなかろう。もちろん、それだけではなく、いままで敬遠していたこの練習を始めようとしたのだから、相応の心境の変化があった――主に、最近起きたことに関連して。

 何はともあれ、それなりに魔法出力調整訓練へのやる気を出したリンディは、トレーニング好きなナユカが見学する中、魔法省の一般的な定時である五時、すなわち、実験外利用している実験室の閉鎖時間まで練習し、それから一緒に九課へと戻った。




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