6-11 汚職の真相
「……行ったね」
ミレットが出て行った扉を、リンディが見つめる。
「例の噂話ですか?」
フィリスは、けっこうゴシップが好き。先だってから見せるミレットの反応を目の当たりにすれば、さほどでもないナユカさえ、さすがに気にかかる。
「『気持ち悪い』とかいう……」
「それ、それ」
リンディはいい加減、焦れている。
「彼女、潔癖症でね」
前ふりから始めたサンドラ。もったいぶっているよう……。
「だろうね。お堅いから」早口で返した聞き手は、事情通に先を促す。「それが?」
「実は、オーラン……前魔法部長の愛人の件なんだけどさ」
ようやく話が進んだ……。喜んだリンディは、軽く茶々を入れる。
「愛の逃避行を企てたってやつだね」
「うわ……その表現やだな」
サンドラが露骨に眉をひそめ、手元のお茶に手を伸ばす。
「……そんなに嫌かなぁ?」
自分で話にブレーキをかけてしまった聞き手を待たせ、お茶をごくんと飲んだ事情通。
「このケースでは、ね。というのも、その愛人がなんと……」
「なんと?」
やっと来た。
「実は……」
「実は?」
ここで来る。
「驚くことに……」
「驚くことに……って長いな。早く言いなよ」
いくらなんでも引っ張りすぎ。
「わかったよ。口に出すのもはばかられるけど……」
「はばからないでいい」
もはや待てそうにないリンディへ、ようやく、真相がもたらされる。
「ジョシュア=ヘイトン」
「……誰それ?」
焦れていた聞き手のリアクションは薄かった。考えてみれば、魔法省の人間の名前なんてあまり知らない……。そんな反応を見て、課長が呆れる。
「知ってるでしょ? うちの課で事務やってる……」
なんだ、それなら知ってる。必要事項以外は特に話したことがなく、名前はうろ覚えだが、風貌はわかる。
「ああ、あいつね、よくヘルプで来る……。ここ常勤が少ないから」
「そう。庶務課からね。で、そのジョシュア」
九課が事務員の増員を要請したところ、送られてきた事務限定の人物――サンドラが指名したわけではない。後でわかったことだが、オーラン魔法部長の差し金により、データ改ざんなどをさせるため、いろいろな部署を回っていたという。九課においては、サンドラが信用していたわけではないので、本来の肩書きであるシステム管理者の作業をするためのアクセス権限を与えず、オペレーションを越える操作をさせたことはなかった。つまるところ、単なる「臨時事務」でしかない。……そのジョシュアがどう関係しているのか、そこをリンディは知りたい。
「うん。それで?」
対して、サンドラがさらっと答える。
「だから、愛人」
「あいつ、結婚してたんだ?」
妻が愛人ね……。
「してたよ。いや、そんなことはどうでもいいから」
まだわからないか……いや、わからないのも仕方がないかな……わかりたくないという意識が作用するのかも……。サンドラは考える。
「どうでもいいの?」
不思議そうに尋ねた聞き手に、話し手が間を持たせてから口にする。
「……本人だからね」
「……どういう意味?」
怪訝そうな表情の聞き手をよそに、先に気づくのはフィリス。
「そ、それは……まさか……」
「そういうこと」
にやっと笑うサンドラ。リンディはまだわかっていない。
「なに?」
「うわぁ……」驚いた表情をしながらも、当人に会ったことがないフィリスは、重要事項を確認しなければならない――それによってはOKかもしれない。「も、もしかして……イケメンとか? それともマッチョ?」
衝撃で失念しているようだが、当のオーラン前魔法部長については、イケメンマッチョ好きもすでに「薄い」と聞いており、どうしたって、そっち系にはならないはず。よって、サンドラが確定の駄目出し。
「どっちも程遠いね。言っちゃ何だけど、薄いのと小太り」
無理。腐っても無理。マニアックすぎる……。無意識に魔除けの印を指で組むフィリスの傍ら、リンディにもようやくそのときが……。
「げっ」漏らした声が、静まった課内に響く。「あいつらが……」
知ってしまえばなんのことはない単純な話だが、知ってしまうとその単純さが呪わしい。いっそ複雑怪奇で理解不能だったらよかったのに……それならば、余計なダメージを受けることもなかった……。ここにはいないミレットに代わり、フィリスは話の打ち切りを要請する。
「もういいです」
しかし、この場には、いまだ理解に至らぬ者がいた。その者のために、まだ話を続けねばならない……たとえ、無用な想像力を不要に喚起することになろうとも……。
「……何か変なんですか?」
その残り一名――ナユカに向かって、リンディは念押しする。
「何か、って……男なんだよ」
「ええ」
異世界人があまりに素直に返事したため、リンディは別の考えに至る。
「もしかして、そっちではよくあるの?」
「よくはないですけど、なんか、ありがちな気も……」
公金を横領して駆け落ち――頻繁に起きるわけではなくとも、そんな事件はどこかでありそう……ただし、一般的には男女で。「腐」の気はないナユカの想定もそれ。
「そうなの? まじ? 男ふたりで?」
少し驚いているリンディ。やはり、「異世界」ということなのか? 文化の違いはかくも大きいのだろうか。セレンディア人が比較文化論的洞察に入ろうとして入りきれずにいるところへ、異邦人の聞き返す声。
「男ふたり?」解せないという顔のナユカ。「あの……ジョシュアさん……でしたっけ、女性ですよね?」
この質問を耳にして、一瞬考えたリンディは、ようやく状況を飲み込んだ。どうやら比較文化論は不要のようだ。
「……違うよ。ジョシュアは男」こちらでは女性の名ではない。「奥さんもいる」
「あれ? あ、そうか……前の魔法部長さんが女性なんだ……勘違いしてた」
「……あの頭はどう見ても男だね」
「ええ?」困惑するも、すぐにポンと手を叩くナユカ。「わかった」
「そう?」
おもしろくなってきたリンディは、手ぐすねを引いてさらなる誤解を待つ。すると……。
「三角関係ですね。つまり……ジョシュアさんと魔法部長さんが、ジョシュアさんの奥さんを取り合って……結局、三人一緒に……」
いい線いっている……おもしろい方向で。
「三人じゃないよ」
こう言えばおそらく……というリンディの期待通りのほうへ、ナユカが向かっていく。
「もしかして……魔法部長さんの奥さんも一緒とか……」
「それだと、ある意味、ふつうじゃない」
こちらサンドラもナユカの混乱をおもしろがって聞いている……同様に、フィリスも。ただ、間違いの指摘はする。
「二組の夫婦が逃避行ということになりますね」
「あ、そうか……。え……というと、あれ?」最初の思い込みに自分の考えがプラスされてしまったせいか、もう何だかわからなくなっている。「あの人がこうで……」
……などと、ぶつぶつと口にしながら没頭するナユカへ、リンディが教師風に声をかける。
「では、問題を整理してみましょう」
「あ、はい」
生徒は復帰。
「まず、ジョシュアは男です」
「はい」
「次に、オーラン……前魔法部長ね……は、男です」
「ええ」
ここまでは、ナユカもわかったようだ。
「その二人が逃避行しました」
「はい」
「おしまい」
リンディ先生の説明終了。事実、それだけの話だ。しかし、生徒は納得いっていない。
「で……奥さんは?」
「奥さんは……家にいるんじゃない?」
「ふたりとも?」
サンドラが代わりに答える。
「今頃は取調室かもね」
「……?」
ナユカの顔に、はてなマークが浮かぶ。自分で勝手に話を難しくしてしまったようだ……。
「……なんか、教えないほうがいいような気がしてこない?」
例の「気持ち悪い」部分が、異世界人にとって文化的な許容範囲外なのではないかと、リンディは思えてきた……。だから理解できないのかもしれない……無意識にその結論を避けて……。
「そうだねぇ……ミレットと同じかもしれないね……」ここは専門家の助言を請うサンドラ。「どう? フィリス」
「……あえて教えないほうがいいかもしれませんね」
教えないという合意を見た三人に、ナユカは抗議。
「そんな……それってひどくないですか」
「別に、意地悪しているわけじゃないの」
ここに至って、健康管理者は異世界人の心理に対する影響を懸念し始めた。なにせ、ミレットに対してのように、一時的にでも魔法で治すことはできない。
「そうそう。それに、もう教えてるしね」
リンディは何度も真相を教えている。噛み砕いて説明までした。
「え? でも……」
合点がいかないナユカの肩にそっと手を置いて、フィリスがなだめる。
「まぁ、いいじゃない、こんな話。……どうでもいい話よ」
「聞いても何にもならないしね」
リンディはフィリスの反対側に回り、逆側の肩をポンと叩く。そして、ついにサンドラから終了宣言が……。
「そろそろミレットも戻ってくるし、この話は終わりにしましょう」
「ええ。彼女が入ってきたとき、まだこの話だといやでしょうから」
医師からそう言われてしまうと、ナユカとしてもこれ以上引っ張るわけにはいかない。不承不承ながらそれに従う。
「そうですか……」
「ま、どうしても気になるんなら、後で落ち着いて考えてみるといいよ」
リンディのフォローを受け、ナユカはゆっくりうなずく。
「そうします……」
こうして、いったんこの話を畳むと、間もなく呼び鈴の音がし、一呼吸置いてからミレットが恐る恐るドアを開ける。
「あの……終わりましたか?」
離れたところから小声で尋ねられ、サンドラが声を上げる。
「終わったよ」
ほっとした潔癖症が近づいてくると、リンディが付け加える。
「約一名を除いて」
「一名?」
ミレットの問いかけに、最後方にいて、直接聞かれたわけではないナユカがうつむく。視界には入っていない彼女をサンドラは気遣い、その点は流させる。
「あ、いいの、今は。もう終わったから」
「そうですか……。では、ご報告があります」
秘書の報告によれば、定時を過ぎた現在、他の部署はすべて業務終了し、残業しているところはないとのこと。捜査員と重要な捜査対象者以外に省内に留まっているのは、種々の打ち合わせが必要なすべての管理職とその秘書、あとは、設備管理者や警備員くらい。
なお、データベースへのアクセス制限は、明朝には解除される予定で、それまでは継続されるという。したがって、魔法部長臨時代行のサンドラと九課課長代理のミレット以外は、もうすることもできることもなく、本日はお役御免となった。
さて、魔法省庁舎を後にした三人のうち、ナユカとフィリスは今夜から魔法省臨時宿泊棟の新しい部屋に泊まることになっている。広い敷地内のそちらへと向かうふたりに、部屋を見せてほしいという理由で、リンディも同行。先日、部屋自体は下見のときに見せてもらったが、整理整頓した部屋をもう一度見てみたいとのこと。
それを耳にしたとき、フィリスには、なんとなくリンディがそのまま泊っていきそうな予感が頭をよぎった……。そして、それは見事に的中した。デリバリーによる食事や会話をしたりしているうちに夜も遅くなり、いちおうは「帰る」と言った客人を、夜中に女性をひとりで放り出したりはしない「紳士的な」ナユカが引き止め、ここへ泊まる流れになったというわけ。たとえ襲われても、このセデイターなら確実に撃退できるとフィリスは思うが、何事も絶対ということはないし、何よりもその容姿は狼を引きつける。
「そぉ? じゃ、そうしようかなぁ」
いかにも押し切られたという風に、照れ笑いするリンディ……。もともとそのつもりだったというのが、とてもわかりやすい。もちろん、ふたりにとってリンディが宿泊するのは厭うことではないし、部屋が広いことに加えて、予備の折りたたみ式ベッドがもとより一台設置されているので、ひとり増える分には何ら問題はない。
ちなみに、食後、ナユカが例の「噂」について、もう一度ヒントを得ながら考え始めたのが、リンディの滞在が長くなった要因の一つだ。とはいえ、先ほどとは違って、時間に追い立てられることなく――あのときはミレットが戻るまでだった――あわてずに考えることができた彼女が結論に至るまでには、さほど時間はかからなかった。
「もしかして……」
恐る恐るそんな枕をつけて回答を告げたナユカに、ふたりからぱちぱちと軽快な拍手が浴びせられる。自ら口にしたこの正解に、本人も改めて驚いたものの、ミレットのような拒否反応はなし。彼女もフィリス同様、両名をまったく知らないことが幸いし、外見を想像して具体的なイメージが涌くような非常事態に陥るべくもなく、その結果、精神的ダメージを受けることもなかった。お堅い秘書は、少々知り過ぎていたといえよう。
とはいえ、「イメージ喚起」というのは、魔導士にとってはクリティカルな技術であり、リンディやフィリスとて、何がきっかけでミレットが直面したような想像力が発揮されてしまうかわからない。もしも、そんな事態になったら……いったい、どんな魔法が発動してしまうことか……考えるだに……いや、考えるまでもなく……というか、考えたくもなく……おぞましい。ゆえに、このことには必要がなければ触れないようにしようというリンディの提言は、つつがなく採用された――これで安心して眠れる。その甲斐もあってか、全休日開けの長い一日の後、三人は明朝まで安らかな眠りを得たのであった。




