6-3 課長、お目覚め
ルーヴェイが帰ってから間もなく、リンディが暇つぶしに軽いストレッチをしていたところへ、誰かがやってきたことを知らせる短いチャイムの音がした。これは、来訪者が自ら鳴らす呼び出しのベルとは違い、ドアノブをひねると自動的に鳴る、別の音のほうだ。ドアがロックされていない限り、九課入室許可を得ている関係者なら、自ら開けて入室してくる。そして、捜査の手が魔法省に入っている今、変に勘ぐられるのを避けるため、ドアロックは解除されている。
誰が来たにせよ、先ほどのルーヴェイ来訪時のように、ドア前にいったん立ちはだかるべく、居留守番は入り口へ急行。開き始めたドアから見えてきたのは……。
「げ」ぶぶ漬けならぬミレットだ――リンディは加速。秘書の片足が室内に入るか入らないかというところで、居留守番はどうにかその進路を塞ぐ。「あ、ミレット。おはよう」
疾風のごとく自分の前に現れて立ち塞がるリンディに、秘書は面喰いながらも、平静を保つ。
「……おはようございます、リンディさん」
「はーぁ」一息整えてから、居留守番がようやく声を出す。サンドラが起きるのを期待して、少し大きめ。「……今日は早いんだ、あたし」
「そのようですね……」
正面のミレットの視線が自分をスルーしているのを感じ、リンディは後方に潜んでいる者のまずい状態を隠そうと両手を広げる。
「ど、どうしたの……かな?」
「……書類が散らばってますね」
「え?」後ろを振り向く……と、確かに。急行したときの風で飛んだらしい。「あ、ほんとだ」
「片付けます」
「え? あ、うん……そうだね、うん」
正面に向き直ったリンディは、両手を広げたままで、通せんぼしている状態。よって、ミレットがごく当たり前の要求をする。
「通してもらえませんか?」
「あ……あー……ごめん。気づかなくて。ははっ」笑って精一杯引き伸ばすが、表情の変わらない秘書の顔を見て、もう無理と判断し、居留守番は道を空ける。「どうぞどうぞ」
その脇を通って入室すると、秘書は散らかった書類を片付け始める。自分がやったことにつき、本来ならリンディも落ちた書類を拾うくらいはするところ……。しかし、今は時間稼ぎが必要なので、手を出さない。もっとも、手を出す間もなく落ちたものは拾われ、その先の整頓は部外者が手を出すとむしろ邪魔なので、手伝いはそもそも不要だったが。
手早く片付けを終えたミレットは、立ったままのリンディに振り返り、見つめる。
「……あのこと、もうご存知ですか?」
「あのこと……?」今は他にフォーカスすべきことがあるので、すぐには思いつかず。「あ……あー、例の……魔法部長が逮捕されたっていう……」
「ご存知のようですね。それで、わたしも忙しくて。ところで……」
秘書は課内を見回す。
「うん、なに、なに?」誤魔化すため、話を逸らそうという居留守番。「あ、片付け、ありがとね」
「あ、はい。それで……課長が、いらっしゃらないようですが……」
とうとう気付かれた……いや、まだだ。
「え? えーと……そうそう、課長」慌てて、ついつい、いつもと違う呼び方をしてしまった。「……サンディは、ちょっと出てる」
「それは……どちらへ?」
このお堅い秘書の前では、嘘が苦手なリンディは、どうしても話し方がギクシャクする。
「あー、ちょっと……わからないけど……なんか、用があって……」
「リンディさんを置いて?」
「そ、そう。あたしは留守番……」じゃ、まずいんだっけ……あれ? いいんだっけ? ……なんだかわからなくなった。「ちょ、ちょっとだけ」
「ここで待機のはずなのですが……」
眉間が少しだけ狭まった秘書に、どう返すべきかわからず、居留守番はもごもごと同意する。
「そう……だよねぇ……」
「仕方ないですね。探しに行ってきます」
ドアへ向かうべく、ミレットが踵を返したところで、サンドラがオフィスの奥から堂々と登場。
「なに言ってるの、リンディ。わたしはここにいるじゃない」
その声に、秘書は振り返る。
「あ、課長。いらしたんですね」
「今ちょっと、落としたペンを探しててさ。かがんでたから見えなかったでしょ」
立ててあった間仕切りは見えない。ミレットが後ろを向いた瞬間に、サンドラは速攻で畳んだのだろう――おそらく、まだ床にあるはず。
「リンディさんから出ているとお聞きしたので、探しに行くところでした」
「あ。ちょっと、さっき出ててね。リンディが資料を見てるときに戻ってたから……気づかなかったんじゃない」
「そ、そう……なの?」
なんかそういうことにしたらしい。あいまいな相槌を返した居留守番に、起き抜けの課長がウインク。
「留守番ありがとね。リンディ」
「うん、まぁ……ね」
リンディがぼろを出す前に、というか、もう出かかっている兆候があるので、サンドラはこの「設定」をさっさと切り上げる。
「で、なに? ミレット」
「事情聴取の件ですが、順番が決まりました」腑に落ちなさそうな雰囲気を醸しながらも、秘書は直ちに本来の用件に入り、スケジュール表を手渡す。「……こちらになります」
「なるほどね……まだ、しばらくは動けないわけか……」表を一瞥した課長は、うんざりした表情を見せる。「それじゃ、引き続き情報収集のほう、頼んだ」
「はい」
「それから、魔法研へ行って……おとといの実験データを取ってきてほしいんだけど」
「承知しました」
短く答え、ミレットは速やかに九課を後にした……。
「なんとか誤魔化せた……と思う?」
あまり、そうは思っていなさそうなサンドラに、リンディも同意せざるを得ない。
「さーあ? 微妙じゃない?」
なんといっても、あのお堅い敏腕秘書ミレットである。加えて、リンディは誤魔化しが下手。本人にもこういうのが苦手という自覚があるし、頼んだサンドラにもそういう認識がある。強引に協力してもらった手前、仕方ないかという感じ。
「まぁ、そうだろうね」
「ていうか、なんであたしがここまで気を使わなきゃならないのさ」
不満な居留守番を、サンドラがまっすぐ見つめる。お堅い秘書への対応に関する指示を特段していなかったにもかかわらず、わざわざ配慮してくれたということは……。
「……それは、わたしを愛してるからじゃない?」
「はあ?」言葉を失い、そして立て直す。「……もしかして、まだ寝てる?」
「わりと」
課長はあくび。秘書の前では気合で見せなかったのだろう、まだ眠たげだ。
「……最近ターシャとよく会ってるから、変な影響受けてるんじゃないの?」
眉をひそめるリンディに、眠そうな表情で気楽に答える。
「そうかもしれない」
「気をつけなよ、ほんとに。変態が感染するから」
「ひどい言われようだね、ターシャも」リンディがまじめな顔で忠告してきたので、魔法研の主任研究員に同情しつつ、わざわざ丁寧な言葉遣いで了承するサンドラ。「以後気をつけます」
「変態はともかく……」リンディも当初よりはターシャに対する信用を深めたようだが、まだまだらしい。「やっぱ、ミレットにばれたらまずいの?」
「怒るから」
「怒るって……注意するくらいでしょ」
まさか、この筋力課長に怒鳴ったり、飛びかかったりするわけでもあるまい。
「注意はいいんだけど、なんとなく態度が冷ややかになるんだよ。しばらくの間」
「ああ、無言のプレッシャーってやつ」
基本が冷ややかなだけに、それ以上に冷えると、これはかなりの冷凍状態だろう。堅さもかっちかちだ。
「そんなとこ」
「いつも面倒かけるから……」サンドラの横紙破りな所業を目にしていると、リンディも多少はミレットに同情したくなる。「それはそうと、またあたしに貸しができたね」
「食事でいいでしょ」
「おとといの分と合わせて二食分ね」
受けたときから、食道楽はそのつもり。
「おとといの分……ああ」不意打ちで練習させたことか……。「はいはい」
「あれ……楽しみだなぁ……」
食べ損ねた料理に思いを馳せ、遠い目になる食い意地を見て、サンドラはあきれつつも、そんなにあれを食べたかったのかと思うと、逆におごってあげたくなってしまうのが不思議だ。
「ったく……」
つぶやいた口元が緩む。
そこへ、端末の呼び出し音が鳴り、事前登録した使用者の名前と顔が表示される――フィリスからだ。彼らはここまである種の隠密行動が多かったので、端末によるコンタクトは、魔法省内でしていなかった。たとえ、残そうとしない限り会話内容は残らないとはいえ、かけた場所と受けた場所並びに使用者のログは残ってしまうからだ。よって、それを使って連絡してきたのは、今が初めて。端末は事前に使用者の登録が必要で、かつ操作用の魔法が使えないと動作しないため、どちらも不可能なナユカには扱えない。
「はい。サンドラです」
「あ、サンドラさん、フィリスです。部屋の件ですが……」
話の内容は、臨時宿泊棟のどの部屋に滞在するか決まったので、そちらに住むための準備をしたいとのこと。公務のための住居ゆえ、就業時間内に準備をするのは許可されており、課長はそれを承認。すると、もう一つのヘッドセットを端末につないだリンディが、会話に加わる。
「決めちゃったの?」
「あ、リンディさん? ……ええ、ちょうどいい部屋があったので」
「そう……」フィリスの返事を受け、質問者のトーンがどことなく下がる。「で、何人部屋?」
「ユーカと一緒なので、二人部屋です」
「二人部屋ね……そっか……よかったね」
明るく話しているものの、リンディの言葉のあいだには、妙な間が感じられる。
「……ええ、明日から楽しみです」
「そうだね……あたしは……帰らなきゃ……自分の……部屋に……はあ」
仕舞いには、ため息も混ざり、とてもわかりやすく気分が落ちたようだ。そのわかりやすさに反応したフィリスは、気を使ってお誘いをかける。
「あ、あの……よかったら後で来ませんか」
「い、いいの?」
双方とも嫌なわけはない。
「もちろんですよ。ぜひ来てくださいね」
「行く行く」
リンディの気分は復活。しかし、それだけのことで……あまりにも簡単すぎる……なにか企てているのではないだろうか……。そんな勘繰りをしつつも、サンドラは機器の操作に関する提案をする。
「そっちの端末、監視モードにしてくれる? そうすればユーカも話せると思うけど」
「監視モード? えーと……どうすれば……?」
「病院で使ったことあるでしょ? それと同じ」
以前、この医師が勤務していた最先端医療の病院にあったものは……。
「……あ。『継続ケアモード』」
機種によって名称やコマンドが違うというのは、どこの世界でもありがちなことだ。フィリスが知る機器は、病院で使用されていた医療用機種のため、同一機能でももう少しソフトな名称「継続ケアモード」と呼ばれていた。最先端機器につき、ごく一部の病院と魔法省の一部にて試験的に運用されている。
「そう、たぶんそれ。監視モードってのは、その名のとおり監視用だから、そっちの音声を直接拾えるし、こっちの声をそっちのスピーカーから出せる。音質は落ちるけど」
つまり、能力の関係でヘッドセットを使用できないナユカの声も、オフィスに届くということ。
「わかりました。では、切り替えますね」フィリスは端末を操作……完了。「できました」
「OK」フィリスに返事してすぐに、サンドラの声が端末のスピーカーから直接聞こえてくる。すでにスタンバイして待っていたようだ。「監視モードに移行完了。じゃ、ユーカ、話してみて」
まずは、ナユカの側にある端末のスピーカーからサンドラの声が聞こえる。そして、ナユカの声は、オフィスのサンドラへ。
「あ、聞こえる。聞こえます、サンドラさん」
「聞こえるよ、こっちも……なんとか」
こちらは、ヘッドセットへ音声出力している。リンディの方にも。
「いちおう聞こえるね。ノイズが多くて……ちょっと声が遠いけど」
「もう少し、端末に近づいてみて、ユーカ」
課長の指示を受け、異世界人は端末に近づく。
「はい……こんな感じでしょうか」
机の横にあるインジケーターを見ながら音量を調節しているサンドラは、もう少し近づくように促す。
「もう少しかな」
「このくらいですか?」
「あと少し」
すでにかなり近づいているナユカが、そう指示されてさらに近づくと、そこはレンズの役割を担っている部分の間近である。知らない当人は、その真ん前に最接近という状態。
「これで、どうでしょう?」
「ぷっ」
なぜかリンディの噴出す声。
「うん、よく聞こえる。いい感じ」やっと完璧な音量と音質が得られたと思ったサンドラは、音量調節のコンソールから顔を上げ、いざモニターを見て驚く。「うわっ」
モニターには、大写しの顔――ナユカの顔が、画面からはみ出している。
「どアップ……くくっ」
笑いをこらえるリンディ。
「はい?」
何事かと思った巨大な顔面が、画面狭しと聞き返すと、ついにリンディの決壊が崩れる。
「あはははは。なんでもない、あはは」
「な……どうしたんですか?」
怪訝そうな表情も、はみ出し中。
「あ……こ、声はよく……聞こえてるよ、とっても……」サンドラはつられて噴出すのを無理やりこらえ、隣の爆笑中を注意。「ちょっと、リンディ……くっ」
「うん……か、顔も……よく見えてる……あはははは」
リンディは、爆笑継続中。あまり見えてほしくないところまで、その目に映る。つまりは、普段は見えにくい暗部。
「顔?」
おっとりしているナユカでも、さすがになにかが引っかかる。
「まぁ……とりあえず、会話ができるということが、わかったということで……」ヘッドセットをしているフィリスは、なんとなく状況を察知した。ここは、後の平和のためにも、端末から離れてもらったほうがよさそうだ。「もういいんじゃない、ユーカ」
「そう? もう少し話したいんだけど」
ナユカはその場で後方のフィリスへと振り返る。九課側のモニターには、画面全体にその後頭部。収まりかけていたリンディが、また噴く。
「くはっ」
「えーと……今回は試してるだけだから……」
「そうなの?」切り上げようとしているフィリスに応じたナユカは、また画面へと振り返り、その前で軽く会釈をする。「では、また後で。失礼します」
それも向こうでは、巨大顔面。なんてことはなくても、それだけで笑えるもの。微笑みの五割増しくらいの笑顔でどうにか抑えられているうちに、サンドラは早口で返事をする。
「はい。じゃ、また後でね」
「またねー。あはは」
リンディはまだ笑っている。
「では、失礼します」
あわただしく通話を切ったフィリスに、自分の顔に触りながらナユカが尋ねる。
「ねえ、顔……なんかついてるかなぁ」
「いいえ。なにもないよ」
「でも、なんか笑われた……」
「それは……」
気にしている不憫な乙女を思い、フィリスは彼女の顔面が拡大されていたことと、その理由を手短に説明。
「ひどいな、もう……。言ってくれればいいのに」
ようやく合点がいったナユカがむくれる。
「サンドラさんは、気を遣ったんじゃない? リンディさんは……ともかく」
本当は、課長もけっこう楽しんでいたと、フィリスは思う。……実は、自分も見てみたかった。興味が湧いて、正面の顔に視線を留める……。
「……なに?」
聞かれて、はっとする。
「あ、なんでもない」
「……どうせ、わたしの顔はおもしろいですよ」
異世界人はお怒りだ。
「あ、そうじゃなくて……何がそんなにおもしろかったのかなって。要するに、アップだよねぇ……」
フィリスの顔がゆっくりと近づいてくる……。最初に少しだけ後ろに顔を引いたナユカも、静止して待つ……。
「ぷっ」
両者同時に吹いて、顔を逸らせた――にらめっこで両者敗退。
「……うん、わかった」フィリスは納得。「映像でずっと見続けてたなら……インパクトあるね。……映像って怖い」
「自分の顔が笑われたんじゃなくてよかった……。あ、顔なんだけど……顔じゃないっていうか……えーと……」
適切な表現を考えながらも、乙女の自尊心は回復した。
一方、ひとしきり笑い終えた後の九課では、サンドラが笑いすぎのリンディをたしなめる。
「ユーカ、怒ってるよ、今頃」
「だって、おもしろいんだもん」
ご指摘どおり。注意したほうも笑いをこらえるのが大変だった。
「そうだけどさ」
「自分も楽しんでたでしょ?」
ナユカに下がるように指示しなかったわけだから……。
「……否定はしないけど」
ただ、サンドラがその指示をしなかったのは、笑いをこらえるのに必死でその余裕がなかったからで、わざとではない。それでも、おもしろかったのは事実。
「とんだ裏技だよね」
この「裏技」というのは、リンディにとって、異世界人の声が聞こえたことか、それともどアップのことか……。
「ま、強引な使い方だから」
「強引なアップで、あはは」
まだ笑うリンディ。やはりそっち。
「……今度使うときは、音声だけにしたほうがいいかも」
課長には、まだ気遣いがある。
「駄目だよ、そんなの。それじゃ、おもし……意味ないじゃん」
「……ま、慣れればいいか」
何度か操作すれば、適切な距離できちんと音声を出せるだろう……。
「そうそう。慣れればね」
一方のリンディは、どアップに慣れれば、という意味。慣れちゃおもしろくないので、その気はない。たぶん、次回のどアップでも、十分、爆笑可能だ。
さて、笑いも収まってから少しして、頼んでおいた実験のデータを携え、ミレットが九課に戻ってきた。
「こちらが昨日の実験データです」
秘書が差し出したのは、小型の記憶用クリスタル。いわば、USBメモリのようなもの。普段なら、わざわざこれを物理的に持ってきてもらわなくても、省内イントラネットを介してデータをこちらへ送ることもできるのだが、本日は汚職問題に関係する証拠隠滅の恐れがあるという理由により、データの直接転送はブロックされている。
「ご苦労様。手間取った?」
受け取ったクリスタルを、サンドラが端末のスロットに差し込む。
「それが……オーラン前魔法部長が、魔法研から提出されたデータの改ざんに関わった疑惑があって、向こうも簡単にはデータが出せない状態です。ただ、これは一昨日の実験データなので問題なしということで、許可されました」
ミレットからの報告を聞きながら、サンドラは端末を操作し、画面にデータを表示させる。
「チェックされた?」
「ちらっと見られた程度です。おそらく、日付と時間の確認でしょう。内容に関しては、捜査当局は部外者で専門外ですから、関知しないでしょうし、興味もないのではないかと」
秘書の憶測に、課長が同意。
「そうだね。ま、どうせ後で部分的に公表するデータだけどね」
「そうなの?」
いぶかるリンディ。……ナユカの能力については、秘密じゃなかったのか?
「そうだよ。ユーカを結界破りのエキスパートとして雇えるじゃない」かねてからのプランを口にした九課課長は、データに目を通す。データは使いようであり、公表の仕方次第で、こちらの意図する解釈へと見る者を誘導することができる。「もちろん、本人が望めば……だけど。ほら、この数値、見なよ」
指差された表の特定の列に、リンディが目を向ける。
「0.00...がずらっと」
「そう。結界は一瞬で消滅。計測不能」
「おととい見たとおりだね」
「もっと大きくて強力な結界で試したいもんだよね……どのくらいまでいけるか」
確かに……。魔導士は、あの変な棒状の結界を思い出す。
「あのしょぼい結界じゃ……ね」
「そのしょぼいのも結構時間かかってたじゃない、あなたは」
その本人は、かちんときて、自虐で返答。
「すいませんねぇ、へぼで」
「そうそう、リンディさんたちのデータも入れてありますよ」
さすがに、ミレットにはそつがない。これで、魔法使いたちが結界を破ったときのデータも参照できる。
「気が利くね。出してみようか」
端末を操作してサンドラが表示させた自分のデータに、リンディはざっと目を通す。
「ふーん。これ見ただけじゃ、速いのか遅いのか……わからないな」
ごもっとも。数字が羅列してあるだけの生データを提示されてすぐにわかるのは、大概、専門家だけ。意味付けされなければ情報ではない。そこで、ミレットの提案。
「今日はデータベースはアクセス制限がかかってますが、知識データベースは使用可能なので、そこで基準値などを見られてはどうでしょう」
「そうだね」同意したサンドラが、自らデータを探す。「ああ、これね……これによると……リンディのは……面倒だな」
「老眼?」
「違う」からかうリンディの言葉を、サンドラが真っ向否定。成長期を過ぎれば次第に老眼になっていくといえるので、厳密には違わないのだが、そんなことはこの場は置いておいて、データを見比べる。「ふつうよりも速かったり遅かったりだね」
「あ、そ」
実行した本人が素っ気ないので、課長は手短に総括する。
「まぁ……出力調整がうまくいったときは、結構速いよね。下手は、練習しだいかな」
「どーせ」
すでに自覚しているため、もはや、不貞腐れることもない。
「目的の出力がすぐ出せれば、優れた魔導士にもなれるんだから、あなたは」
「魔導士……」
セデイターのトーンが沈みがち。サンドラが気を回す。
「……別に、ふつうの魔導士になれって言ってるんじゃなくてさ」
「わかってるよ。……ま、練習はするけど」
「……わたしも、練習すればよかったんだろうね」
諭そうとしてではなく、サンドラは自分のことに言及した。リンディもその点はわかっている。
「最後に攻撃魔法を使ったのいつ?」
魔導士ではないこの課長だが、攻撃魔法を使える――あくまでも、武器エンチャント魔法として。
「……その質問は痛いな。いつだろう……われながら、まずい気がする」
「使い方覚えてる? もともとそんなに……」言いかけてから、気の毒な表情をしてみせると、リンディはわざと撤回する。「なんでもない」
「はいはい、わかってるよ。中断されると帰って気分悪い」
「じゃ、言う。下手」
さっき言われた仕返し。
「はっきり言われても気分悪いな」
「いいじゃん、肉体派だから。武器は何でも使えるでしょ」
「まぁ、ね」
大小、長短、飛び道具など、何でも来い。
「怖いよね、この人。人間凶器」
サンドラを指差したリンディから同意を求められ、ミレットは黙ったまま苦笑。
「否定してよ、ミレット」
課長の要望を叶えるべく、秘書はなんとか出口を模索してみる。
「……器用ですよね。いろいろ使えるのは」
苦し紛れの別出口を、リンディが賞賛。
「よかったじゃない、器用だって。なんか繊細な感じだね」
「いいよ、もう」あきらめたサンドラは、肉体派の人間凶器であることを受け入れた……のか? 「わたしはエンチャントできればいいんだけど、しばらくやってないんだよね」
「やってみたら、ここで」
リンディの無茶な誘いを、ミレットは即時却下。
「それは駄目です」
ここはオフィス内……いわば殿中でござる。止められなければ、九課の殿はやっていただろう。
「……今度、魔法研でね」
「エンチャントと結界破りね」
リンディが二項目の練習を提示したら、サンドラはその斜め上を行く。
「わたしの場合は、エンチャントして結界をぶった切る。そのほうが効率的」
ただ、魔法研での練習に適しているかどうかは不明だ。
「さすが肉体派。でも、そんなの見たことないな」
魔法がまともに使える魔導剣士ならやらない。
「結界の結節点を切るんだけど、危険だからね。そこまで近づかなきゃならないし、一気に崩壊したら大変」
「近づけなかったらどうするの?」
「そういう時は、エンチャントした大型ハンマーを振り回して、手当たり次第に破壊する」
「う……」
思わず声を漏らしたのは、ミレット。そういう無茶苦茶なやり方は、彼女の想像の範疇にはない。
「バーサーカーだな」
リンディからまさにそのとおりともいえるレッテルを貼られて、サンドラは居直る。
「他にやりようがなければ、しょうがないでしょ。ちょっと怪我するけど」
「……もしかして、やったことある?」
「いちおうあるけど。けっこうスカッとするもんよ」
「どんだけ肉体派だ」
狂戦士は、遠い目をする……。
「その時は、いろいろとストレスがたまってた」
「この人、怒らせないほうがいいよ、ミレット」
リンディの忠告に黙ってうなずく秘書に、課長は笑顔を向ける。
「わたしはいつも穏やかだよね」
「そうですね……一般に思われているよりは」
秘書の認識している「一般」というのがどういうものなのか……言われたほうは判断しかねる。
「……なんか微妙な言い方だな」
「ミレットは大人だから……誰かと違って」
視線を向けてきたリンディへ、視線を返すサンドラ。
「誰か? 誰かねぇ……ふーん」
見つめ合う両者……ともに不敵に笑う……。
「では、わたしは情報収集に行ってまいります」
突っ込まない秘書から冷静に放置された課長は、素に戻る。
「あ、はい。いってらっしゃい」
会釈をして、ミレットは速やかに九課を退出していった。お堅い秘書がいなくなり、このままデスクに張り付いていても仕方がないので、ふたりはのんびりできるソファのほうへ移動する。
「ところでさぁ……あたし、今日、やることあるの?」深く腰掛けたソファで、伸びをするリンディ。「早起きしてきたのに、なにもしてない気がするんだよね。したのは留守番だけ……留守してないけど」
「したじゃない」
居留守に留守番が反論。
「してないでしょ。ここにいたんだから」
「留守番したでしょ」
「留守してないでしょ」
けっこうめんどくさいな、こいつは。
「……そんなことはどうでもいいよ。眠れたから」
サンドラにとって重要なのはそれ。
「早起きしたあたしの睡眠はどうするのさ」
「よく寝たんでしょ? 元気いっぱいだったじゃないの」
「そうだけど」確かに、そうだった。今朝のリンディは好調だ。「……まぁ、それはいいよ。それより、今日やること……」
「暇な課長の話し相手」
間髪いれず言い放った管理職に、フリーランスはあきれる。
「やっぱそれ? 気づいてはいたけど……」
「だって、今日はここに釘づけでさ……一人で」
「やることないの?」
「あるよ。あるけど動けない」
取り調べ待ちの間、極力、外へは出るなというお達し。順番が回ってきたときにすぐ行かないと、あらぬ疑いをかけられるかもしれない。
「……なら、ここで調べものとか」
「気が向かない。先にやらなきゃならないことを片付けないとね。それに、今日はデータベースが自由に使えないから」
さきほどリンディがルーヴェイにセデイト対象者の情報を見せようとしたときに、十分なデータが出なかったのもそのせい。
「使えるのもあるじゃん」
知識データベースとか。
「使えないのがあるからいや」
「駄々っ子だな」
この課長のこんな言いようを、ナユカやフィリスにも聞かせてやりたいと、リンディは思う。
「使えないのがあると、結局は中途半端になるからね。まとめてやらないと効率が悪い」
「まぁ、ね……」
いちおう理屈は通っているか……。
「ま、聴取が終わるまではボーっとしてるしかないよ。終わればやることもあるし」
「そうだね……。じゃ、あたしはユーカとフィリスの部屋を見に行こうかな」
ソファから立ち上がろうするリンディの肩を、対面のサンドラが体を乗り出して押さえつける。
「だめ」
「おうっ」
力ずくで再び座らされたリンディに、サンドラが理不尽な文句をつける。
「わたしがまた寝ちゃったら、どうするのさ?」
「『寝ちゃったら』と言われても……。さっき向こうへ行くって約束したし」
「後でいいじゃない。冷たいな」
駄々をこねる魔法省の管理職。
「しょうがないな、まったく」観念してここに留まることにしたところ、フリーランスは不意に思い出す。「そういえば……ここの課って、いちおう他に人いたよね? どうなってんの?」
もっともな質問だ。ここ一週間ほどで、リンディが見かけた九課の正規人員は、サンドラとミレットのみ。確か、少なくとももう一人は内勤がいたはず。
「あー、それね。二名はいつもどおり情報収集で外、回ってる。いちおう、部長逮捕後にそれぞれ連絡があったんだけどさ……別に帰ってくることもないんで、そのまま外回り継続。ここにいても無駄でしょ?」
いつも外を回っているから、汚職をしようにもする間がない。したがって、捜査陣よりの呼び出しもない。ゆえに、課長もそのまま野放し。
「他の人は? 受付はたまにしかやってなかったけど……あの……」
名前を思い出せないセデイター。浮かぶのは太目の体型のみ。
「臨時事務のジョシュアは、今、長期休暇中」
いちおう、システム管理者という肩書きのジョシュアは、サンドラが九課へ呼んだのではなく、少し前に他の部署から臨時の補充として回されてきた人材。なにやら、臨時としていろいろな部署を回っているらしい。ここでは、肩書きのような作業はさせず、オペレーション以上のことをやらせたことはない。すなわち、平たく「臨時事務」である。
「この時期に? バカンスシーズンじゃないけど?」
不審に思うリンディには、定番の答えが返ってくる。
「家庭の事情だってさ」プライベートなので、課長も本人にそこを突っ込んで聞いてはいない。「……まぁ、いなくてちょうどよかったんだけどね」
「なんで?」
「ユーカ関連で、知る人が多すぎると面倒だから」
「……でも、今日はいたほうがよかった」
サンドラの世話をしてもらえるから……。そう付け足したいリンディは、ただいま「世話係」。
「……かもね」言いたいことはわかるが、サンドラはジョシュアに相手してもらいたいとは思わない。「向こうから連絡ないし、別にいいかと思って」
「軽い扱いだな」
「どうせ『臨時』だからね。この状況で、変に連絡取ったりして捜査のやつらに邪推されると嫌だし、必要なら彼らが連絡取るでしょ」
なにを「邪推される」のだろう……。聞いたほうには引っかかる。
「ふーん」
「妙な噂があってね……今は言わないけど」
「どんなどんな?」
それが関係があるのか……? 興味津々の部外者。しかし、課長はなぜかはぐらかす。
「知らないほうがいいよ」
「気になるじゃん、そういう言い方。やばいこと?」
「いろんな意味でね。近いうちわかるよ……それが本当なら」
ほのめかされて、リンディはもどかしげ。ただ、現状をかんがみれば、なにに関係することかは、想像がつく。はっきり言わないのには、なにか理由があるのだろう。とはいうものの……。
「……すごく気になる。もやもやする」
情報への欲求を阻害されるというのは、不快なものだ。とりあえず、サンドラは気分転換を促す。
「お茶でも飲んだら? ていうか、お茶入れてよ」
「ついにお茶汲みに降格か……」
甘える管理職にこぼしつつ、リンディ自身も一服必要としており、茶を入れるため、素直に給湯室へ向かった。




