3-8 仕事のオファー
いったん収束したように思えるフィリスの問題に触れないよう、リンディとナユカが留意したおかげで、一行が無事に本部へ戻ったとき、わかってはいたが、就業時間はとっくに終了していた。それでも、いちおう九課に立ち寄ってみると、ひとりサンドラ課長がまだ残っていた。
「まだいたんだ。待ってた?」
食後で満ち足りた食道楽に、食事もまだの課長。
「お早いお帰りで」
今の状況だと、戻って来ないうちは帰るわけにもいかない……。皮肉も出るというもの。リンディにも心中が見て取れる。
「お疲れのご様子」
「……もう今日は泊まるわ」
そんなサンドラにフィリスが責任を感じる。あれがなければもっと早く戻ってこられたはず。
「すみません、わたしのせいで遅くなってしまって」
「いいのいいの、気にしないで」
代わりに答えたリンディに、課長が突っ込む。
「それはわたしのセリフ。何かあった?」
「ちょっと個人的なことで」
今度は、フィリスの代わりに答えたリンディ。
「そ。ならいいわ」
職務外のことなので、課長は特に追求しない。とりあえず、全員、応接セットのほうへ移動する。
「ご飯食べてきちゃった」
ゆったりと腰掛けた食いしん坊の、てへ笑い。そんなことは、ここに入って来たときの表情で、空腹の人間にはすぐわかる。
「こっちはいつ食えるんだか」
腹の虫がなにかとざわつくサンドラを、リンディが逆なでする。
「ダイエットになるね」
「ならないでいい」
実はそれを考慮中。つい、言った奴のボディを見てしまい、イラつきが増量……。見つめられた方は、何かに気づいて手を打ち、バッグの中をまさぐる。
「お菓子買ってきたよ。栄養あるし、食べる?」
軽く首を振ったサンドラに、虚しさが襲う。
「……はぁ」
「そこは、気を遣ったほうが……」
たしなめたナユカの意図が、完璧ボディには伝わらない。
「ん?」
はてなマークを顔に浮かべている無神経の傍ら、疲れて神経のカサついているサンドラには、ナユカのフォローも逆効果。そのスレンダーなボディを見ると、さらに虚しくなる。
「……はぁぁ」
「どちらも太らない体質だそうで」
フィリスは、完璧とスレンダーのボディを恨めしげな視線で交互に眺める。
「どこの世界にもいるわけね、そういうの」
課長の嘆きに、医者は黙ってうなずく。そんな両者を見やったリンディが、少し考えてから口を開く。
「……もしかして太ったの?」
その言葉に、瞬間、息を飲んだサンドラは、声を絞り出す。
「口にしてはならないことを……」
「そ、それはわたしのこと?」
こちらは、うろたえるフィリス……。しかし、リンディからは当然の事実が。
「いや、以前のフィリスは知らないから」
「そ、そうですよね……よかった」
胸を撫で下ろす一名。……よかったかはともかく。
「わたしは知ってるもんね」対する、もう一名はやけを起こした。「あーそうですか、はいはい」
しかし、地雷を踏んだ奴は、この件では無垢だ。
「そうは見えないから、聞いたんだけど?」
「そ、そう? ならいいけど」
サンドラがホッとしかけた途端、リンディの締めが入る。
「まぁ、前よりも、がっちりしたかな?」
ちょっとした御世辞のつもりなのだが、まったくフォローにはならない……。がっちりは、がっくり。
「もういい、この話は」
「そうなの? ま、いいけど」
あまりにも無頓着なリンディを見かねたフィリスが、小声でたしなめる。
「その言い方だと、まるで……」太ったと言っているようだ……と言うのはやめた。「ねえ?」
「サンディの場合はいいと思ったけど……」異議を唱えたリンディは、ナユカに同意を求める。「でしょ?」
「そうですね」筋肉好きとして反射的に断言し、がっちりを見つめる……。そして、目に入ったのは、複雑な表情。「あ、いえ……えーと……」
サンドラの心情を慮って否定にかかろうとしたものの、筋肉を否定したくなく、それ以上言葉が続かない……。フリーズしているナユカを視界に捉えつつ、課長は大きく咳払いして、この不毛な話題を打ち切る。
「本題に入りましょう。だから来たんでしょ」
それはもちろん、この魔法を無効化する異世界人のこと。今日中というほど喫緊ではないものの、リンディたちがここに寄った目的はそれである。
「まーね。で、どうなった?」
「予定通り。九課が独占的にこの件を担当するということで承認されました」
「うまくいくもんだねぇ」
感心するリンディ。質問しておきながら、こうなることはわかっていた。なんだかんだで思い通りにしてしまうのが、サンドラだ。
「それに関して、ユーカさんとフィリスさんには、多少の手当てが出ます。ユーカさんは研究対象、フィリスさんは研究者、並びにユーカさん専属の健康管理責任者という名目で。……まぁ、受けてもらえばだけど。金額は当面、普通の事務方公務員並みを日割りにして、そこに係数をかけて……具体的には……えーと……ミレットがいないとなぁ……」
秘書が留守の課長は、机の引き出しを開いて換算表を探す。
「手当てがいくらでも、わたしはお受けします。ユーカしだいですが」
当面の生活費には困っていないし、監視依頼を受けていたニーナ関連の報酬が入ることもあり、給金にはこだわらずにフィリスは即決。それに、ナユカが追随する。
「わたしもお願いします」こちらは、何かをしない限り、文無しが継続してしまう。「でも、なにすればいいんですか?」
一呼吸置いて、サンドラが重めに答える……。
「それは、つまり……『実験台』ってことかな」
「えーと……それはどういう意味ですか?」
一般的にはあまり言われたくはない単語だ。異邦人は、意味を知らないから聞いただけだが、こういう場合、たいてい別の意図に取られる。ただ、サンドラは半ば冗談のつもりだったので、あわてて訂正する。
「本気にしないでよ、ユーカさん。ちょっと検査をするだけだから」
「あ、そうですか」
声の調子を元に戻した課長の説明に、「研究対象」は胸を撫で下ろす。最初の単語は冗談だというのはわかった――なんかやばい意味だったようだ……。それはそれとして、「検査」の意味は知っている。するとそこへ、リンディがぼそっとつぶやく。
「でも検査なんて、たいていろくなもんじゃないよね……」
「え?」
異世界人は固まる。こちらの「検査」という単語は、思ったよりやばいニュアンスなのか……?
「リンディ」発言者を指差したサンドラは、一声たしなめてから、ナユカに注釈を加える。「こいつは、『検査』と名のつくものはみんな嫌いだから」
「……」
リンディは黙ってそっぽを向く。
「検査の安全性は、わたしが確保します。無理なことは絶対にしませんし、させません」
研究者となるフィリスの保証を受け、課長が研究対象に決断を促す。
「……だってさ。どうする?」
「まぁ、そうフィリリンが言うのなら……」ナユカは少しためてから、サンドラをまっすぐに見る。「やります」
異世界人のはっきりした意思を感じた課長は、にっこりと微笑む。
「そう、よかった。悪いようにはしないよ」
「わたしに任せて、ユーカ」
上級医師に信頼の眼差しを向ける研究対象。
「うん。任せる」
「それにしても……」課長は医師をちらっと見て、にっと笑う。「『フィリリン』は、ずいぶん信用されてるねぇ」
「ちょ……ちょっと……それは……」
うろたえるフィリスに、追い討ちをかけるサンドラ。
「どうしたの? フィリリン」
「……『フィリス』でお願いします」
ここはきっぱりと要望を出した。
「なんだ、残念。おもしろいのに」
サンドラのこういうところは、リンディに近いものがある。そこへ、当の似た者が口を挟んでくる。
「呼ぶほうが恥ずかしくない? それもいい年……」一瞬光ったサンドラの鋭い視線に射抜かれ、即時中断。……咳き込んで誤魔化す。「けほけほ……」
「わたしは別に恥ずかしくないですけど?」
名づけた張本人のナユカから反論が来た。リンディの返しはシンプル。
「まだ若いから」
それに反応したサンドラの眼光が、再び発言者に襲い掛かる……が、今度はあさっての方へ目を背けてかわされた。まぁ、直接自分に言及したわけではないし、さっきから余計なことに過剰反応するのは、疲れている証拠か……。そう思い直した残業続きの課長は、気を取り直して、話を先に進める。
「それじゃ、ふつうに『フィリス』と『ユーカ』って呼ぶから」臨時的にでも九課に配属されることで部下となり、敬称は略。両者に異論はなく、課長はうなずく。「ふたりともよろしくね」
なにはともあれ、ナユカとフィリスからオファーへの承諾が得られたからには、こういったことに明るいミレット不在の中、課長自身が手当ての概要について話さなければならない。かいつまんでいえば、ここでは公務員の固定給分は前払い制のため、とりあえずの契約期間である一週間分が明朝にまとめて両者に渡されるということ。ナユカにとっては、この世界でやっと自由になる御足が得られることになる。
「で、あたしは?」
やりとりを聞いていたリンディが、目を輝かせている。たいした額ではなくても、もらえるのはうれしいものだ。しかし、それに対するサンドラの答えはつれない。
「あなたは特になし」
「ちょっと、何それ?」
セデイターは不満あらわ。……自分も協力してるんだけど。
「賞金もらえるじゃないの……セデイト二回分。対象ランクAがいるんだから、けっこうな額だよ。割り増しもあるし」
ニーナは、Aランクであることに加えて、依頼主(フィリスの依頼主でもある)から割り増しも付加されており、必要経費も霞むほどに、それなりの報酬となる。そこから、結果的に手伝ってもらったナユカとフィリスへと、本人が多少は分けるつもりであるにしても、名義としてはリンディへと入ってくる。
「でも、それはそれ、これはこれでしょ」
食い下がるセデイター。……それなりに、がめつい。それに、フリーランスは取れるときには取らないと。
「それじゃ、公務員になるわけね? 短期間であっても、その場合は就業規則にしたがってもらうことになるけどね」
つまり、早起き必須。
「パス」
フリーランスは、即、却下。
「なら、納得するしかないな」ここで、課長はふと思い出した。「……あ、そうそう、知ってる? セデイター向け公務員募集プロジェクト」
セデイターを公務員化しようというもので、現在、実質「セデイト課」の課長サンドラは一切関わっていない。セデイト業務を「わけのわからない」九課から他のところへ移動しようというのが、企画した輩の腹積もりである。
「ああ、知ってるよ。他から聞いた」
「興味ある?」
「ない」いちおう聞いてみた「セデイト課」課長に対し、セデイターは即座に否定。「……ていうか、わざわざ公務員になるやついるの?」
「資格取り立ての希望者ならいるよ……それじゃ意味ないけどね。まともに稼動しているセデイターはゼロ。指南役になってほしいとかで、有能なセデイターには声をかけてるみたい」
「……あたしのところには来てないな」
その「有能な」セデイターは、不満げ。……やる気はなくても。
「有能じゃないからかな」
「……失礼だな」
「あなたは、わたしの子飼いだとみなされてるから」
よって、接触するだけ無駄……というより、虎の足を踏みたくないということだろう。
「ますます失礼だな……絶対ならない。それに、薄給でしょ」
セデイト依頼は、同一ターゲットなら、確保するだけの賞金稼ぎよりもかなり報酬がいい。
「もちろん。固定給だからね」課長は肩をすくめる。「……ま、時期尚早ってこと。体勢も整ってない。何にせよ、あなたには向いてないわ」
「あたしもそう思う」
リンディ自ら、きっぱりと同意。
「まぁ、とにかく……今のところ、出せる手当てがないんだよ」
いくら豪腕な課長でも、名目がなければ、公金は出せない。
「あーそうですか。はいはい」
「ご理解どーも」手当てに関してはいまいち不満が残っているリンディをサンドラは流し、しばらく黙ってやり取りを聞いていたナユカとフィリスに声をかける。「じゃ、明日は始業時間にここに来てね」
「はい」
両者からは素直な返事。短期であっても、公務だ。時間厳守は重々承知。それに、九課の始業は一時間遅いので、さほど負担ではない。
「げ。また早い」
こちらは拒否する理由の多いセデイター。寝たいし、面倒だし、そしてなによりもフリーランスである。承諾する理由は彼女にはない。
「……と思ったけど、半時経ってからでいいわ。先に手続きとかがあるから」
サンドラはナユカとフィリスへ訂正したのだが、別方面から文句が来た。
「それでも早いよ」
「あなたは別にいいんだけど」
「え?」
リンディの表情が静止状態になる。
「特にやることないし、必要ないかな」
「そ……そう?」外された? 自分の立っている床が突然抜け落ちたような気分に襲われるリンディ。顔が引きつる……。「ま……まぁ、いいけど……あたしも忙しいし……」
「忙しい? 休むんだと思ってた」思案顔のサンドラ。「なら、無理か……。実は、やることなくはないんだけど」
前言撤回に対し、前言撤回開始。
「いや、まぁ……その……忙しい……ような気はしてたけど……そうでもないかなー、なんて」
「別に、無理して空けなくてもいいよ」
「あ。あー……そういえば」いかにもなにかを思い出した風に、セデイターは上を向く。「予定を間違えてたかなぁ……しばらくは空いてるかな、確か。うん」
聞いていたナユカとフィリスは下を向き、サンドラの口角は上がる――笑いをこらえて。「それじゃ、やる? ちょっとした雑用で、手当ては出ないんだけど……いいことはあるかもね」
「いいこと?」
ずいぶん漠然としてるな……。リンディは少々、策略めいたものを感じる。
「それはお楽しみ。あとは……自主的にユーカの護衛をやってくれるなら、ご飯くらいはおごるよ」
サンドラの自腹で。グルメは当然、これを尋ねる。
「高級店でしょ? 何回?」
ふつう一回だろ……中間管理職の懐を考えろよ……ていうか、高級店は決まりかよ……仕方ないな。
「働き次第だね」
「じゃあ、まぁ……やるかなー、どうしてもってことだし」
その「どうしても」という言い方はしていないが……要望としては、近いものがある。
「そう、よかった。それじゃ、リンディもふたりと一緒に来るように」
「わかった」
食事を餌にうまく乗せられたリンディだが、この食道楽が高級店で食べる量を考えれば、サンドラと痛み分けということになるだろうか……。
「それじゃ、今日はこれで解散ね」
九課課長が、本日の終業を宣言。
「やっとふぁーぁ」あくびを語尾として、リンディが返事。「……あ、そうだ。サンディ、今日は泊まりなんでしょ? どの部屋?」
「宿直室の空いてるとこ」
「こっち来たい? 来たいでしょ? あと一人くらいはOKかもよ?」
挑発気味のリンディに対して、サンドラは冷静に遠慮する。
「そうしたいのはやまやまなんだけどね……後でミレットに怒られるからね」
「黙ってれば?」
「絶対、後でチェックしに来る」
昨日、リンディのところへ泊ろうとしたのを、すでに秘書に止められている。よって、もうチャンスはない。ミレットの山は高い。
「怖いなぁ……」
「最近、秘書じゃなくて監視なんじゃないかって思えてきた」
「……そうかもね」
「冗談だよ」半分は。「彼女によれば、わたしが評判を落とさないように気をつけてるんだってさ」
「ああ、それはわかる」
大きくうなずいたリンディを、課長は斜に見る。
「なんか言った?」
「えーと……じゃ、あたしたちは部屋に戻るよ。じゃあね」
はぐらかして早々にドアへと向かうリンディを、手短に挨拶をしたナユカが追いかける。フィリスは、ふたりが課を退出したのを見て、サンドラに何事か話しかけてから、九課を後にした。




