2-7 フィリスが同室に
なんだかんだでいろいろとあった用事群から解放され、部屋に戻ったリンディとナユカがだらっと休んでいると、しばらくしてフィリスがやってきた。
「あの、お邪魔してもいいですか?」
応対したナユカは、奥にある寝室のベッドに寝っ転がっているリンディの方を一度振り向いたが、フィリスなので特に許可を得る必要もないと思い、招き入れる。
「どうぞ、入って」
「あっちは一人なので……」
遠慮がちに入室してきた彼女を、ナユカはリビング・ダイニングルームへと通す。
「どこでも、適当にどうぞ」
「では、ここで」
訪問者が席につくと、異世界人はお茶の用意を始めた。確かめたいことがあるフィリスは、あえて手伝わずにその様子を観察する……が、その手つきに慎重さはうかがえても、危なげはない。この世界の器具に慣れてきたのか、あるいはもとより使っていたのか……。ナユカが魔法を無効化することについては疑いを持ってはいないが、異世界から来たことについてはまだ半信半疑の彼女には、どちらなのか区別がつかない。
実のところ、日常において使われるちょっとした機器なら、向こうの世界の科学技術の部分を魔法技術が代替しているだけであり、見かけ上、それほど大きな違いがあるわけではない。人が使うものは、必ずしもエルゴノミクスを強調した設計でなくても、人の体の構造に合わせて使いやすいように作られているため、デザインや操作は似たようなものになりがちだ。したがって、ナユカにとっても使うのが苦になることはそれほどない。
「慣れてきました? 『この世界』に」
茶器を扱う手元を見ながら、「この世界」という語を強調して、フィリスは少し鎌をかけてみた。彼女が嘘をついていると思ってはいないが、記憶操作されている可能性はまだ捨てきれず、確認する価値がないわけではない。
「ええ、少しずつですけど」
ナユカはお茶を入れる。
「でも、結構慣れてきてるように見えますよ」一呼吸置く、観察者。「……適応力、高いですよね、ユーカさんって」
この言い方は皮肉に聞こえただろうか? 素直な感想ではあるのだけれど……。言い直そうかと思っていると、いつの間にかリンディがそばに来ている。
「そう。タフなんだよね」
「その『タフ』というのは……」
異世界人にはセレンディー語のこの言葉がわからない。表現が気に入らないと解釈したリンディは、別の言葉を使う。
「じゃ、図太い」
「いや、それは……」
自分にそんな自覚はない。異論を唱えようとしたナユカに、今度は意味を理解していないと誤解したリンディが、さらに別の言葉で表現する。
「神経太いってこと。根性太いともいう」
「それは、ちょっと……」
当人が抗議しようとすると、フィリスが加わる。
「心臓にシールド魔法とか」
さすが魔法世界。妙な表現があるものだ。
「うんうん」うなずいたリンディが、更なる表現を追加。「『おへそに毛が生えてる』ともいうよね」
「生えてません!」
ナユカは鋭く否定。いくらなんでも、それはひどい。
「あ、いや……その……慣用句だから」
こちらでは心臓ではない。リンディの発した「慣用句」という語がわからない異邦人は、言葉通りに受け取って抗議する。
「昨日見たでしょう、お風呂で。生えてなかったですよねっ」
「もちろんだよ。生えてないって」
抗議対象は、たじたじ。代わって、フィリスがなだめにかかる。
「ユーカさん、これはそういう表現だから。ただの決まった表現。だから、落ち着いて」
「あ」つまりは、例の慣用句でも、実際には心臓に毛が生えてはいないのと同じ。ナユカは平静さを取り戻す。「そうですよね……すみません。なんか……誤解して……」
「いーの、いーの。気にしないで」と言いつつも、リンディは一言。「でも、ほんとは生えてたかなー」
「……怒りましょうか」
うつむいて拳を握る怪力スレンダー。
「冗談、冗談。怖いなぁ、もう」
笑っているブロンド美女へ、不意にフィリスが質問する。
「一緒に入浴されたんですか?」
「そうだよ。だから、生えてなかったって」
改めて、異世界人のへそに毛が生えていなかったことを強調。
「そうですか……」
なぜだか医師は上の空。医学的な興味でもあるのだろうか……。リンディが表情を覗き込む。
「なに? なんか残念そうだけど?」
フィリスはぼつりと答える。
「はあ……少し」
「はぁ? 残念なんですか?」
その部位への毛を期待されることに、異世界の乙女は納得がいかない。
「あ」はっとして、フィリスは否定する。「いえ、そういう意味ではなく……」
「やっぱり、生えてたらおもしろかったなぁ」
冗談を蒸し返したリンディに、ナユカが低い声で突っ込む。
「あのぉ……」
そこに本当にそんなものが生えていたら、異世界人であると容易に納得することもできただろうに……。ついでに、そんな姿を想像してしまった医師がくすくす笑い出す。
「困りますよね、魔法薬が効かないから……処理が」
「……そういうこと言うんですか……わかりました。それなら、お見せしましょう」
魔法を無効化能力者は、むきになり、腹部を見せるために服をたくし上げようとする。
「いえ、そこまでしなくても……」
笑いながら制止したフィリスに、ナユカがぷりぷりしながら提案。
「それじゃ、あとで一緒にお風呂に入りましょう! そのときに見せますからねっ」
「え? は、はい。喜んで」
医師は満面の笑みを浮かべている。そんなに確認したいのだろうか……。傍らで苦笑するリンディ。
「約束ですよ!」
こっちは、なにがなんでも余計なものが変なところにないことをはっきりさせたいナユカ。
「ええ、もちろん」
にこやかにうなずいたフィリスによって、異世界人は今晩もボディチェックされることになる……それも相手は医者。もしかしたら、やばいことに……などとは、思いもよらないナユカのお茶は、興奮したせいか、すでに飲み干されており、リンディが気を利かせてセレ茶を注ぐ。
……本当は、もう少し煽ってみたい気もする……そうしたら、怒り出すだろうか。さっきはへそを見せようとしてたから……へそ出しのまま怒ったりとか……なんかおもしろいことになりそうな……。そんなことを想像してにやにやしているリンディを、一口お茶を飲んだナユカが不思議そうに見つめる。落ち着きが戻ってきた。
「あ、その……お茶は気に入った?」
視線に気づいたリンディが取り繕う。この異邦人はもう何度も飲んでいるのだが。
「あ、はい。おいしいですよね、セレ茶」
「わたしも好きですよ。気持ちを落ち着ける効果がありますから」
これは、説明好きの医師にとってはただの一般論なのだが、ナユカはさきほどまで少々熱くなっていた自分のことに言及されたように受け取る。
「そう……ですよね。わたしにも効いたみたいです」
「え?」医者の常識としては、薬のようにすぐ効くということはない。ただ、本人が効いた気になっているものをわざわざ否定することもない。「あ、効きました? まぁ、このお茶は魔法とは無関係ですし」
たとえプラシーボであっても効いたことに変わりはなく、魔法薬がこの異世界人には効果がない以上、本人が効いたと思えるものがあるのは、今後にとって意味のあることだろう。
もしかしたら何の薬も効かないかもしれないという不安がつきまとう中、多少の安堵感を得たのか、ナユカは満足げにうなずき、もう一口セレ茶を飲む。すると、あることを思い出した。
「あ、そうだ。飲み物といえば……さっき言ってた『ガランギラン』てどんなのですか?」
「……やっぱり興味あるんだ」
きらっとリンディの目が光る。休憩コーナーで勧めていた。
「ええ、まぁ……興味は……」
休憩コーナーにあったインスタントの素は、見た目トロピカルで、ブルーとピンクがマーブル状に交わっていた。怪しげでありながらも可愛くもあり、その色彩が脳裏に残っている。時間を置いて思い起こすと、味見したくなってくるのが不思議だ。
「飲みすぎに注意しないとね」
リンディの発言に、フィリスがピクッと反応。
「!」
「へえ……そんなにおいしいんですか?」
普通の感想を返したナユカに、薦めた本人が応じる。
「あー、そういうことじゃなくてさ……」
「それじゃ……どうして、やめられなく……はっ」なにかに気づいた異邦人。「それってもしかして……危ない?」
麻薬かと聞きたいが、その単語を知らない。
「あ、ばれた?」にやっと笑うセデイター。「実はさ……」
「……」
まさか、この人がそんなものを勧めるなんて……。無言のナユカに向け、誘惑者は声を潜める。
「出るって話」
「……は?」意味がまったくわからない。「『出る』……って、何が?」
当惑する異世界人に向けて、声を落としたままのリンディが口にするのは……。
「それは……ゆうれ……」
「ないです! ありえません!」
低い声を打ち消すように、フィリスの高い声が轟いた。……驚く他二名。そして、少しの間。
「びっくりしたー。脅かさないでよ」
息をつくリンディ。ナユカも同様。
「ごめんなさい」
ふたりにわびたフィリスを、リンディがなだめる。
「ただの噂話じゃない」
「そうです」やけにきっぱりと言い切ったフィリス――自分に言い聞かせるかのよう。「すみません」
「……まぁ、いいけど」
言いつつも、リンディの瞳が一瞬きらりと光った。
「あの……結局、何が出るんですか?」
途中でさえぎられたため、異邦人にはまだ話が見えない。
「それはねぇ……」チラッとフィリスを見てからナユカを呼び寄せ、耳元でささやく。「飲むと幽霊が出るって」
「……ゆう」この単語は知っていた異世界人が声を上げかけたところ、フィリスがビクッと反応したのが目に入り、あわてて息を吐いて、ボリュームを絞る。「……れい? でもそんなことが……?」
「だから、噂ね。ただの都市伝説……あー、つまり……怪談みたいな……」
「あ、そうなんですね。ここでは、ほんとにそんなことが起きるのかと思いました」
魔法世界である。
「一度に六杯飲むと出るってことでね……。それで、中毒とかいう話になってる」
「……なるほど」
具体的に何が入っているのかはわからないが、ジュースを一度に六杯も飲めば、体に悪いだろう――幻覚でも見そうだ。
「……てことで、飲んでみる?」
「六杯もですか?」
「見られるかもよ? 見たことある? ゆ……」発音しそうになったものの、黙ったままのフィリスが目に入り、すぐ伏字化するリンディ。「例のもの」
「いえ、ないです」
もちろん、向こうでのことなので、ふつうはない。
「だったら飲んでみたら? おもしろいじゃん」
「駄目です!」
叫んだのはフィリス。リンディはビクッとし、一時停止。
「……びっくりした」
幽霊よりも。
「す、すみません」医者の言い訳。「け……健康によくないですから」
「ですよね」
ナユカは同意。ジュース六杯は、間違いなく糖分の過剰摂取になる。スポーツウーマンなので、節制するタイプだ。体――筋肉のために。
「まぁね……」トーンを落としたリンディは、あらぬ方向を見て、また声を上げる。「あれっ?」
「!」
フィリスの表情は硬直したが、ジョークの雰囲気を察知したナユカは冷静だ。
「……なんですか?」
「あそこに何かぼやっとしたものが……」
リンディがナユカの後方をおもむろに指差す……。あまりにもわざとらしい――ベタである。振り返らずにため息をつく異世界人。
「あー、はいはい。そうですよねー」
「○×△!」
突如、声にならない声を上げたフィリスが、がたがたといすから立ち上がる。
「うわ」
逆に驚いたリンディは、立ったまま凍りついている姿を見つめる……。口をぱくつかせている幽霊嫌いは、その視線を受け、どうにか声を出す。
「え……え……? だって、今……」
「冗談なんだけど……見たの?」
リンディの言葉を耳にして、ナユカは黙って後ろを振り返る。そして、フィリスはかすれた声を上げる。
「冗談なんですかっ?」
恐怖の表情に怒りが差し始め、ついには泣きも混じってきた……。それから、脱力し……へなへなといすに座って、かくんと下を向く。
「いや、さっきびっくりさせられたから……」二度も。で、冗談でやり返した。「まぁ、これでおあいこってことで」
とはいえ、ここまで効果があるとは思わなかった。話の流れで、ばればれなのに……。
「苦手なので……それ……」
下を向いたままの幽霊恐怖症から発せられたのは、消え入りそうな、か細い声。さすがに、脅かした張本人も気の毒に思えてきた……。そこへ、異世界人が短く挙手をする。
「あの、質問なんですけど」
「あ? なに?」
リンディは、ぱっと質問者を見る。
「この世界には、幽霊がいるんですか?」
「……え? それは……えーと……あたしは見たことないけど」
なんといういまさらながらの質問だろうか。聞かれたところで、経験に即してそう答えるしかない。
「普通に、その辺にいるわけじゃないんですね?」
「そんなわけないじゃない。ていうか、いないでしょ」
常識論として、そんなものはいません。そっちの世界にはうじゃうじゃいるのかよと、突っ込みたくなるセデイターだが、もしかしたら、という疑念もわく。あるいは、「ゴースト」や「スペクター」の類を指しているのだろうか……。でも、あれはダンジョンのみに生息する透明な魔族で、幽霊ではない。
「そうですよねぇ……」世界に対する疑問が一つ解けたように、うんうんとうなずく異世界人は、この世界の科学者である医師をチラッと見て、付け加える。「いえ、なんか……あまりに驚いてたので、逆にいるのが当たり前なのかと思ってしまって……」
そういう言い方をするなら、そっちの世界にもたくさんいるということはなさそうだ。それでも、いちおうリンディは確認しておく。
「そっちはどうなの? いるの?」
「いるって人もいないって人も……あれ?」言い回しがややこしいので、セレンディー語の文法がこれで合っているのかわからなくなった異邦人は、もう一度ゆっくりと言い直す。「いるって人も、いないって人も、いない……じゃなくて、いる……? で、いいんでしょうか?」
「いいんでしょうか、と聞かれてもねぇ。結局いるの? いないの?」
「えーと、だから……いるって人はいるって人だから、いないって人はいないと思ってるわけで……、つまり、そういう人はいるわけで、ということは……えーと……いない人は……いる?」
文法がゲシュタルト崩壊した。このままでは埒が明かない……。ブロンドのセレンディア人は、事を単純化すべく、よりシンプルに質問する。別に前の質問が複雑だったわけではない――むしろ、単純すぎたのかも。
「あー、だから……ユーカは見たことあるの?」
「ないです。だって、いませんから」
つまり、本人はいないと思っている。よくわかった。
「ああ、いないんだ」
「えーと……ですから、いるって人はいるってことで、いないって人……」
「はいはい、もういいよ」また終わらなくなる……。リンディは途中で割り込んだ。「言いたいことはわかった」
「そうですか? ならいいですけど」
伝わったのはいいとして、言いきれなかったことには若干の欲求不満が残る……。聞き手に対してではなく、自分自身に対して。これでは、スカッとしない……。ナユカは、正しい言い回しを考えながら、小声でつぶやき始める。
そんな両者のやり取りを聞いていたフィリスは、まじめに怖がっている自分がばかばかしくなっていた。
「どうも、お騒がせしました」
「ん? あ」幽霊嫌いの突然の復活に気づいたリンディ。自分自身に精神安定魔法をかけたわけではないようだが……。ここは怖がらせた張本人として、どう対応するべきか……。「えーと……」
返す言葉を脳内検索中のリンディに、お茶を入れようとティーポットをつかんだフィリスが尋ねる。
「入れ替えましょうか」
「へ? あ、うん」ティーポットが視界に入り、検索は中止。「そうだね」
フィリスは立ち上がり、茶葉を交換するため、キッチンシンクへ向かう。その姿を見つめていたナユカは、座ったままリンディのほうへ体を乗り出し、流しのほうを気にしながらささやく。
「大丈夫みたいですね」
「ならいいんだけど……」
張本人は、いまひとつ懐疑的。
「では、確認してみましょう」
「確認ってどうやるの?」
「まぁ、任せてください」
ナユカには何かプランがあるのだろうか……。妙に頼もしげなので、リンディはうなずく。
間もなく、フィリスが戻ってきてお茶を入れ始めた。リンディは、ナユカが講じた策を実行するのを待つ……。そして、いよいよその時……策士が口を開く。
「幽霊、苦手なんですか?」
「!」
がくっとくるリンディ。そのまんまかよ、策も何もないよ。ていうか、さっき聞いたよ、もう答えたよ。突っ込みたいが、いちおう黙って様子を見る。
一瞬ギクッとしたフィリスはといえば、それでも、もう取り乱すことはない。
「ええ。少し……」かなりだけど。「でも、大丈夫ですよ。そんなのいませんから……ね?」
顔を向けて、質問者に同意を求めてきた。しかし、彼女は正直だ。
「そうなんですか?」
え? 聞き返す? 再び幽霊嫌いの背筋に冷たいものが。
「そ……そうでしょう?」
それに対応する異世界人は、あくまでもナチュラル。
「さあ? わたしに聞かれても」
「で、でも、いないって言ったじゃないですかっ」
フィリスの声が上ずる。さっきは自分できっぱり言い切っていたのに……その反応はない。
「はいはい、もう終わり。この話は終わり」
リンディが声を上げ、間に入って止める。また同じ事を繰り返されてはたまらない……。この天然は異世界レベルだ。あるいは、意図的にやっている? それとも、ドS?
一方、この異世界人にしてみれば、さきほどきっぱり「いない」と答えたのは、向こうの世界に関してであり、この世界についてのことではない。したがって、別にフィリスをいたぶろうとしてああいう答え方をしたのではなく、素直に反応しただけで、他意はない。無策に直球の質問をしたのは、ただの個性である。
「結局、ガランギランって、どんな味なんですか?」
幽霊話は終わっても、これを聞かないとナユカは終われない。
「ひ」
幽霊嫌いがビクッと反応している。ガランギランは、確実に連想のキーになってしまったようだ……そんなもので幽霊など見ないと理性ではわかっているのだろうけど……。ともかく、面倒なので、リンディは早くこの話を終えたい。
「それは、まぁ……飲んでみれば……」
「そうですね……出るかもわかりますし……」
これはナユカの冗談。なかなか、幽霊話が終わらない……。そこへ、搾り出すような低い声が聞こえてきた。
「戻りませんよ、わたしは」
声は、フィリスのもの。天然は明るく聞き返す。
「はい?」
「戻れません、戻らせないで……」
トーンは戻ったものの、その声には微妙なビブラートが。
「なんのこと?」
リンディの問いかけに、幽霊嫌いの声のトーンが、今度は上ずる。
「部屋です! ここにいますから……もう出ませんからっ」
「?」一拍の疑問符のあと、リンディはすぐに意味を悟る。「あー、つまり……この部屋に移ると」
「そうですっ。いけませんかっ」
居直り、というか、やけというか。もう冷静なヒーラーの影もない。代わって、セデイターは冷静。
「いいよ、別に。ベッドを追加すればいいだけだから」
「いいんですか? ありがとうございますぅ」
フィリスは、許可をくれた対象を拝んでいる。
「あ、いや……ちょっと……」
そんなことされると、決まりが悪い。
「だって、あっちはひとりなんですよ。昨日だって……出た……」
「え、ほんとに?」
ナユカが目を丸くする。
「……ら、どうしようかって」
幽霊嫌いのフェイントに、異世界人はがっくり。リンディはお疲れ。
「……はいはい。それじゃ、ま……後でミレットに連絡しておきましょうかね……まったくもう」
というわけで、フィリスはリンディとナユカの部屋に移動することになった。もともと三人部屋のため、問題はなく、本来の仕様に合わせるだけ。
好都合なことに、こちらから連絡する前に、ミレットが明日の予定を伝えに来た。明朝は打ち合わせのため、九課始業の半時前に課長と秘書がここへ来るとのこと。わざわざ出向いてくるということは、これすなわち、密談だろう。そのこと自体はともかく、それまでにきっちり起きていなければならないというのが、フリーランスのセデイターにはしんどい……。その点、きっちりした時間割の公務員とは違う。九課の始業は他の部署よりも一時間遅いのだが、それで楽になるものではなく、単なる誤差でしかない。
そんな文句を垂れつつも、リンディは、ミレットにフィリスが部屋を替えることを伝えた。なにか問題があったか尋ねる秘書に、幽霊嫌いが答えにくそうにしていたため、代わりにその原因を作った張本人が、そのほうが効率がいいという説明を捏造。それに対し、確かに、最初に部屋を割り振った状況と違い、行動を共にして秘密も共有している今となってはそのとおりだと、ミレットは納得し、サンドラと管理担当者に伝えておくということだ。
なお、あまり外に出歩かないように課長より忠告されていたことからリンディも予想していたことだが、秘書からは今晩もデリバリーにしてくれというお達しが来た。その理由である当の異世界人は、アウトドア派ゆえに、気分転換に外出したい気持ちもある。診察台の上とはいえ、今日は寝転がってばかりのような印象があり、外で体を思いっきり動かしたい気分。サンドラが「暴れなければいい」と冗談でも釘を刺したのは、あながち間違いではなかったのだろう。幸いにしてナユカは、釘を刺した本人とは違い、それに逆らってなにがなんでも外に出ようとするキャラクターではないが……。
課長の要請であることから、課長秘書は部屋の件とあわせてデリバリーの注文内容も、自らここの施設管理担当者に伝えるという。その手配まで自分でやると越権行為になってしまうのが、逆に役所の面倒なところだ――たとえそのほうが手っ取り早くても。それに、今の状況で余計なことをして、後々問題になったら困るということを、ミレットは重々承知している。ともあれ、三人からの注文を受け、明朝の予定を再確認すると、秘書は退出していった。
「三人一緒の部屋?」
九課で作業中のサンドラにミレットから報告があった。
「ええ。そういうことになりました。よろしいでしょうか?」
「いいよ」おもむろに課長は立ち上がり、歩き出す。「それじゃ、わたしも」
「お待ちください」
ドアへと立ち去ろうとするサンドラの腕をつかむ秘書。
「なに……かな?」
「おわかりでしょう?」
あくまでもミレットは冷静だ。
「いいじゃない。空いたんでしょ」
使用中になっている部屋だ。それなら、改めて許可を取ることなく、勝手に使える……というのが課長のお考え。
「駄目です。お泊りなら宿直室へどうぞ」
職員は宿直室へ。それが規則である。そして、ミレットは堅い。
「相変わらずだなぁ、ミレットは。それじゃ、リンディのところへ」
「同じことです。それに……」
「なに?」
「いえ、なんでもありません」
柄にもなくミレットが言葉を濁す。ふつうは、言いよどむことを言いかけることはない。
「気になるなぁ。あ、つまり……お呼びでないと」
「……いえ、違います。三人部屋ですから」
秘書が発言するまでに空いた微妙な間が、正解であることを示唆している。見かけより敏感なサンドラは、すぐにそれを気取った。それに、もとよりそんなことは重々承知……。親しくなりかけている三人のところへ、今晩自分が割り込んでいくのがいい効果をもたらすことはない。加えて、ジェネレーション的なものが……。
「……なんか、我ながら虚しくなってきた。今日は帰るわ」
早々に帰り支度を始めるサンドラ。
「そうですか……いえ、ちょっとお待ちくだ……」
明朝のために今日は調べものをしなければならないのでは……。秘書が止める前に、課長自身が決定を下す。
「明日は、早めに来る。ミレットも帰っていいよ」
これだけはっきり言うからには何らかの意図があるのだろう。サンドラのキャラクターをよく知っているミレットは、それに抗うことはしない。今日は終業とし、ふたりはそれぞれ魔法省を後にする。




