第二十八話 愛憎の果て
馬車の車内に座り込み、闖入者が自分に向ける冷たい瞳にヴィヴィアンは凍り付いていた。
「……さすがに長年の付き合いですね。お見通しですか」
ナシェルは薄く笑った。
「でも仕方ないですよね、そういう『契約』だから」
そう言って、曲刀の切っ先をヴィヴィアンの顎に突き付ける。
「俺が『男』になれない代わりに、あなたも『女』の権利を放棄する」
逆光になり、褐色の瞳の鋭さだけがより強くヴィヴィアンを射抜いた。
「……クリストファーに絆されてただの『女』に成り下がった、あなたが悪いのですよ」
ナシェルは片膝を着き、ヴィヴィアンを覗き込んだ。その整った顔立ちは、さながら異国の蛇のようにも見えた。
「共に悲願を達成したかった。……あなたがヴィクトールに死刑を宣告し、そのヴィクトールの前であなたの心臓をこの手で貫く。その甘美な瞬間を、どれだけ恋焦がれたことか……だがあなたは腑抜けになり、長年の【計画】よりもあんな男の言葉にいちいち惑わされた」
ナシェルはそう言うと、ヴィヴィアンの襟ぐりを掴み、強引に自分に引き寄せ、唇を奪った。
「―――!!」
ヴィヴィアンは反射的にその体を押し戻そうともがく。しかし、男の力には到底叶わずそのまま押さえ込まれてしまう。
ガリッ、と肉をかみ切る音がし、ナシェルの唇から血が伝った。ヴィヴィアンが反撃したのだ。
「―――残念だよ。俺は、あの男のようには、どうやってもあなたを手に入れられない。あなたの父親のせいで。欲情しても、その行き場がない」
もどかし気にナシェルは自分の胸元を掻き毟る様な仕草をした。
それに、と、切れ長の褐色の瞳にしっかりとヴィヴィアンの姿を捉えた。
「……気付いていましたよ、俺は。……あなたが俺が『男』でなくなる前に、手を差し伸べられたことを」
「……!!」
ナシェルの悪魔の告白に、ヴィヴィアンは目を瞠り、顔色を失った。ナシェルはその様子を見て、にやり、と笑った。
「……自分と同じように痛みを知る味方を作りたかったんですよね?だから、俺が拷問をうけ、男である証を切り取られる瞬間まで、沈黙していた。そして痛みと精神的なショックにやられている俺に、さも聖女ぶって手を差し伸べたんだ……命を救うという偽善を押し付けて!!」
「……あ…‥ああ……!」
ヴィヴィアンは、否定出来なかった。ナシェルの読みはおおむね正しい。
その当時、同じく極限の精神状態を保っていた幼いヴィヴィアンには、どうしても自分と似た境遇の味方が必要だった。痛みを交換し、傷を嘗め合うことで得られるかりそめの信頼が欲しかったのだ。
それがどれほど罪深く、浅ましい考えか、今ならはっきりと理解出来る。そうだ、自分はこれほどに愚かしい人間だったのだ。
そして今まで、自分がナシェルを同じ人間としてすら見ていなかったことにもヴィヴィアンは気付いた。
所詮、奴隷の子供―――そんな驕りと傲慢さが自分の中にあったのだ。自分は傷ついているのだから。高貴な血筋なのだから。自分には彼に痛みを押し付ける権利があるのだと、心のどこかでそう思っていたのだ。
ヴィヴィアンは、その目の前に突き付けられた自らの醜悪さに耐え切れず、息苦しさに咳込み、床に蹲った。
蒼白になっているヴィヴィアンのその姿に、ナシェルはハッと鼻先だけで笑った。
「……なんです?今さら悲劇のヒロイン気取りですか?命乞いしても無駄ですよ」
ヴィヴィアンは、心の中でクリストファーに詫びた。
ごめんなさい……私は、この罪から逃れられない。ナシェルには、刑を下す、それだけの権利がある。私は……もう、生きてあなたに会うことは出来ない。
目に大きく涙を溜めながらヴィヴィアンは唇を噛みしめ、それでもその涙が零れ落ちないよう、堪えた。そうだ、こんな自分のために泣くなんて、おこがましく恥知らずなこと出来ない。
「……好きなようになさい。私は逃げも隠れもしないわ」
かろうじて残ったプライドをかき集め、ヴィヴィアンは尊大に言った。
そうだ、ナシェルの前では、自分は最後まで高慢で、わがままなお嬢様のままでいなければ。
「……ふん、抵抗する気も失せたか。……言われるまでもない、共に地獄へ堕ちようじゃないか!!」
そう、声高に叫び、ナシェルが曲刀を振り上げる―――!
ヴィヴィアンは反射的にギュッと目をつむった。
脳裏に、クリストファーの顔が浮かび上がる。
さよならさえ、言えないなんて。
覚悟を決めたヴィヴィアンは、最後に自分に死神の鎌を振り下ろす処刑人の顔をしっかり見てやろう、と両目を再びかっと見開いた。
それが、彼の人生を踏みにじった自分が出来る、せめてもの礼儀だと。
白刃が逆光を反射しヴィヴィアンを射抜いた。その、次の瞬間―――、
―――ナシェルは曲刀を後方に薙いだ!!
二種類の、肉を絶つ音が、ヴィヴィアンの耳に飛び込んで来た。その頬に、鮮血が勢いよく飛んで来た。
一瞬、何が起こったのか、分からなかった。
自分に振り下ろされるはずのナシェルの曲刀は、いつの間にか背後に回り込んでいたルドルフの左肋骨に深く入り込んでおり、そしてそのルドルフが持つ長剣は背中からナシェルの心臓を深く貫いていた。
「……っナシェル!!!」
ヴィヴィアンは絶叫した。
心臓から刃を抜くと、ナシェルは最後の力でルドルフの胸を強く蹴り上げ、自らもそのまま横に倒れた。
「ナシェル、ナシェル!!どうして……!!」
ヴィヴィアンは倒れたナシェルを震えながら支え起こした。血だまりが広がった。
「どうして、私に刃を振り下ろさなかったの。お前なら、ルドルフの剣を受ける前に私の息の根を止めることが出来ると分かっていたでしょう……!」
ナシェルはヴィヴィアンの腕に支えられながら、ヒューッヒューッという風音の呼吸を繰り返した。
褐色の瞳が揺れる。そこには、初めて見るような穏やかな優しい色があった。
「……沁みついた習慣……ですね……12年は……長かった……初めは心底恨んでいたのに……いつしか、あなたを慕っていた……。あなたを守る、それが……俺の、最優先事項になっていた。最期の最期まで……」
「こんな……私に……お前は、情けをかけてくれたというの……?」
ヴィヴィアンは絶句した。
恨まれているよりも、慕われていると言われる方が胸をぎりりと締め付けるなんて、思いもしなかった。
ヴィヴィアンは小さく首を横に振った。
今にも閉じてしまいそうな褐色の瞳を、奮い立たせるように。
「まだ、まだよ……お前にはまだ機会があるわ。ほら、この針、お前の発案で私が護身用に持っていたものよ。この距離なら、人の命を奪うのに十分だわ。まだこれくらい握る力はあるでしょう、私をこれで―――!」
ヴィヴィアンは気丈にそう、ナシェルに微笑んだ。この下僕の前では最後まで強気な主人でいると決めたばかりだ。
ナシェルは薄目を開け、ヴィヴィアンの手からその針を受け取り―――外へ投げ捨てた。
「……ナシェル!!」
「……駄目、ですね……女性に贈るものとしては、これは相応しくなかった。今度は、あなたの美しい髪を飾る、簪でも用意しましょう。……そう、今度こそ俺は『完全な男』になる……好きな女を、傷つけるんじゃなく、心から愛してると言えるあいつの……よう……に……」
すうっと吸い込まれるように、褐色の瞳が閉じられた。
「………!!!!いやぁああっナシェルっっっ!!」
ヴィヴィアンは恐怖に顔を引きつらせ、喉が張り裂けそうなほどのあらん限りの大声で、従者の名を呼んだ。
12年間、片時も離れず、影のように自分に寄り添い、守ってくれた。
そのことに、知らず知らずのうちに自分がどれだけ救われていたか。
無口な彼に、どれだけの優しさと愛情が秘められていたか。
奪うだけ奪って、自分からは何も、返せないまま。
ありがとうの一言も、言えないまま。
彼は―――ナシェルは、二度と返事をしなかった。口元に、微かな微笑みだけを残して。
―――地面に落ちていた曲刀をシャベル代わりに、ヴィヴィアンはドレスが汚れるのも構わず近くの木の傍にある土を時間をかけて掘った。
全員分の墓穴なんて作ることは出来ない。だが、12年もの歳月、常に自分を守り支えてくれた優しい従者の亡骸だけは、どうしてもそのままに出来なかった。
墓穴にナシェルの身を運ぶ時、ヴィヴィアンはその体の驚くほどの華奢さに改めて自らの罪の深さを知った。成長期を前に局部を失った男児は、身体の十分な発達を得られない。最後の最後までナシェルが周囲に女装を見破られなかったのは、そういった身体的な特性があったのだ。彼の言う通り、自分の【計画】のために彼の尊厳を犠牲にしたのだ。
地中に埋まるその物言わぬ唇に、ヴィヴィアンは贖罪の口づけを落した。そして、自らの亜麻色の髪を一房、曲刀で斬り共に埋めた。
まるで、自分の一部は常に彼と共に在ると言うかのように。
「ありがとうナシェル……お前のこと、絶対に忘れないわ」
―――そうしてナシェルを葬った後、ヴィヴィアンは正直途方に暮れた。
残されているのは自分と、もう誰も操り手のいない馬車のみ。
特殊な環境で育ったとはいえ、ヴィヴィアンも一介の貴族令嬢に過ぎない。
乗馬など付き添いがいないとしたことがないし、そもそも馬車用に繋がれている鞍も鐙もついていない馬になど乗れる訳もない。
その上、自分が今王都とダンデノンの間のどの位置にいるのか、どこをどう進めばいいかすら、皆目見当がつかなかった。
下手をしたら路頭で野垂れ死ぬ。それはあまりにも情けないし、クリストファーにもナシェルにも申し訳が立たなすぎる。
それだけはどうしても避けたい、と周囲を見回したヴィヴィアンにまた新たな複数の、かなりの速さで疾走し近づいて来る馬の蹄が土を蹴る音がした。
「―――おお、奥方様、ご無事でしたか。もしあなたに何かあったらクリストファーの奴に顔向けできませんでしたよ」
馬に乗り、複数の武装した集団を率いて来た先頭の男が、人好きのする明るい笑顔を見せた。
「あなたは……?」
知らない男だ。ヴィヴィアンは不審そうに眉をひそめる。
あまりにもその屈託のない笑顔が、この場には不釣り合いだった。クロイツ家の当主や衛兵らの死体の転がるこの場では。
「……ああ、直接お会いするのは初めてでしたね。……ったく、クリストファーの奴が紹介を渋るから。……ま、いいか。……お初お目にかかるヴィヴィアン嬢。俺は、ユング・ランカスター。あなたの夫であるクリストファー・クロイツの剣の師であり、このブラン聖王国の騎士団長を務めております。『クリストファーに頼まれて』あなたを保護に参りました」
そう言うと、ユングと名乗ったその男は、恭しく頭を下げた。




