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第十六話 黒い炎


 ―――早速ヴィヴィアンと話し合おうと、この日クリストファーは半日で仕事を切り上げて職場を出た。同僚に、しばらくは家の事に集中するために機密文書保管官としての業務を最低限に抑える、もしくは休職するかもしれないと告げた。


 家の事ねぇ、と同僚は含みのある笑みを浮かべつつ快諾してくれた。


 結婚3年目を迎えても一向に懐妊の様子を見せないクリストファー夫妻に、そろそろ周囲があらぬ好奇の目を見せ始める頃合いだ。結婚した当時はまだ背も伸びきらず、声も変わり切っていないあどけない少年だったクリストファーもこの2年で一気に成人男性らしい体つきに変貌した。まだまだ若いから、という理由では周囲からの問いかけられる子供の話題も躱しにくくなって来ている。


 なにより、自分自身もヴィヴィアンとの間に新しい命を授かりたいと思っているし、ヴィヴィアンもヴィオレット商会を立ち上げる計画を打ち明けてくれた時には将来の子供の話をしていた。きっと二人の気持ちは同じはずだ。義父、ヴィクトールからの期待もクリストファーの背中を後押しする要因となっていた。


 少しの不安と、それを大きく上回る期待感。


 はやる気持ちを抑えて自邸に辿り着いたクリストファーに、家政を取り仕切る執事は「奥様は出掛けられています」と告げた。


 出鼻を挫かれ、がっくりと肩を落とすクリストファー。しかしそれならば、彼女の帰りを待つしかない。


 「ヴィヴィアンは行き先を告げていたかい?何時に戻るか分かるか?」


 執事に尋ねると、「伺っておりません」と返って来た。


 再び、言い知れぬ焦燥と嫌な不安が鎌首をもたげる。


 (どこに行っている?誰に会っているんだ……?)


 いつぞや、ビジネスパートナーとして紹介されたベンジャミンという男だろうか。正直言ってあの男にはいい印象がない。古くからの知り合いで、ヴィオレット商会の立ち上げに協力してくれた人物だから我慢をして来たが、いつも彼はヴィヴィアンにいやらしい目を向けていた。そして時にクリストファーに対して何かを煽っているのか、遠回しな表現で夫婦生活に立ち入る様な質問を投げかけて来ることさえあった。


 どこの親類にも下品で、遠慮のないお節介な輩は一人くらいいるものと割り切るよう努めて来たが、はっきり言ってあの男とはなるべく早く関係を絶って欲しい。


 「そう言えば、本日は奥様は珍しくシェルナ殿をお供に連れて行かれませんでしたな。彼女なら奥様の行先も、帰宅時間も存じているでしょう」

 「シェルナが……?」


 執事の言葉に、クリストファーは数度目をぱちくり、と瞬きをした。


 執事でなくてもそれは確かに意外に思うだろう。シェルナは10年以上もヴィヴィアンの専属、お気に入りの侍女でいつも彼女の影のように付き添い、外出時にはほぼと言っていい程同行していた。


 非常に寡黙ながら仕事は超優秀、ただしあまりにも普段表情が乏しいために何を考えているのかはよく分からない人物だ。よくよく見ればとても整った顔立ちに、身なりもきちんとしている女性で、おそらくヴィヴィアンより少し年上。とっくにいい縁談が出てお役目を離れていてもおかしくないくらいの年齢のはずだ。


 (……そうか、そういうのって本当は雇い主が世話してやるべきものだよな)


 はっと思い至ってクリストファーはこれまで全く配慮をして来なかった自分を恥じた。


 もしかしたら自分が知らないだけでシェルナには将来を誓った恋人がいるかもしれない。それならそれで喜ばしい。ただ普段の彼女は主人であるヴィヴィアンにピッタリと付き添っていて自分の人生を楽しんでいる様子は見られない。もしかしたら、非常に寡黙で影の薄いところや、女性にしては随分高い身長や痩せぎすで丸みのない体つきが少なからず影響しているのかもしれない。


 もしくはヴィヴィアンに遠慮して望んでいても諦めているのかもしれない。ヴィヴィアンは随分彼女を頼りにしているみたいだから。


 (……一度、ヴィヴィアン抜きで彼女にそういった要望はないのか聞いてみるか)


 

 執事が言うには、今日は年に数度のクロイツ家使用人総出での大掃除と衣替えの日であり人手が足りないことを配慮してヴィヴィアンも今日ばかりはシェルナを屋敷に残し、身辺警護の衛兵を一人連れて外出したらしい。


 クリストファーは執事から聞いた通りに、シェルナが担当している水汲み場まで自ら足を運んだ。


 「シェルナ」


 クリストファーが呼びかけると、水が満杯に汲まれたバケツを両手に持ち難なく運んでいるシェルナが反応し、一度バケツを置くといつものように無言で頭を下げた。水汲み場にはシェルナしかおらず、クリストファーは彼女に内々の話を持ち掛けるのに丁度いいと思った。


 「済まない、作業の邪魔をした」

 「……いえ、何かご用命でしょうか?」


 顔を上げたシェルナはいつものように無表情で、およそ愛想というものがかけらも見られない。だがそれもいつものことなので、クリストファーは特に気にしなかった。


 「ああ、今日はヴィヴィアンと一緒じゃないんだね。彼女の行先は分かる?」

 「……今日は、ヴィオレット商会の新たに代行で取りまとめをお願いするミランダ殿に会いに行かれているはずです。1、2時間会談するだけと仰っていたのでもうそろそろお戻りになるのでは?」

 「……そう。良かった、ベンジャミン殿のところじゃないんだね」


 面会相手が女性と聞いて、思わず胸を撫でおろすクリストファー。表情が無意識に緩んだ。


 「ベンジャミンであれば絶対にお嬢様お一人にはしません」


 間髪入れずに返って来た言葉に、何故かクリストファーは鋭利な刃物のような印象を感じた。やはりあの男には何かあるのだろうか。


 「そ、そう、それは頼もしいね。これからも頼むよ」


 そう言ってしまってから、はたとクリストファーは思い出す。そうだ、シェルナを訪ねたのは何もヴィヴィアンの外出先を聞きたいだけじゃない。もう一つ大事な用件があった。


 「と、ところで、シェルナ、ぶしつけな質問をするようだけど、いいかい?」

 「……何でしょうか」


 自分に向けられた褐色の瞳の迫力に、一瞬クリストファーはたじろぐ。やはりこんなことは男の雇い主が聞くべきではないことだろうか。


 「もし、ヴィヴィアンに言いにくいことで悩んでいることとかがあれば、僕にでもいつでも申し出て欲しいんだけど、君、このまま住み込みの侍女勤めでいいのかい?」

 「……どういった意味でしょう」

 「つ、つまり、君も妙齢の女性だし、例えば一緒になりたい相手がいるとか、逆にそう言った相手を斡旋して欲しいとか、そう言ったことは無い?もし希望があれば僕の同僚や知り合いの中から、信頼の出来る男を探してみてもいい。君は器量よしだし仕事も正確で優秀な女性だ。きっと引く手あまただと……思う……よ」


 説明しながら、クリストファーは何故か目に見えない威圧感に、喉の奥が締まって行く気がした。使用人相手の会話で、どうしてこんなに緊張するんだろう。何やら背中まで変な冷や汗をかいてきた。


 目の前の侍女は相変わらず無表情のまま、しかし心持ちさらに寒々しい視線が自分に突き刺さるほど向けられているとクリストファーは感じる。


 「つまり、旦那様は私がお嬢様にお仕えしていることを邪魔に思われているということですか?」

 「ち、違う違う!もちろん結婚後も通いで勤めてくれてもいいし、出来る限り君が一番働きやすい環境を提供したいからだよ!ぼ、僕はただ、あまりにも長い付き合いであることで逆にヴィヴィアンに君が遠慮をして自分の人生を犠牲にしているなら、それは良くないと思って……!君が今まで通りの働き方に満足しているなら、僕だってそれを歓迎する。ヴィヴィアンは君を本当に頼りにしているからね」


 良かれと思ったことがどうやら裏目に出たようだ、とクリストファーはばつが悪そうに後ろ頭を掻いた。


 何が彼女の勘に触ったか分からないが、自分はシェルナの地雷を踏んでしまったらしい。


 ああ、こういう女心を思いやれない朴念仁だからヴィヴィアンにも最近放っておかれているのだろうか、と内心密かにへこむ。


 まだまだ良き夫、良き一家の主には程遠いな、とため息をついているとクツクツという低い笑い声が聞こえた。


 見ると、シェルナが口元に手をあて肩を震わせている。クリストファーを射抜く褐色の瞳が、角度によるものか、まるで漆黒の炎を宿しているように見えた。


 ひとしきり笑った後、シェルナは小さく漏らした。


 「……本当に、旦那様は……憎らしい程、人が良い。まるで人間の醜悪さとは無縁のように、馬鹿正直な人間ですね。でも……」



 ―――そんな人間こそ、その本性を暴いてみたくなる。



 彼女の口から飛び出した言葉が、耳に入り込んで来たものと同一の物か、クリストファーはにわかには判断が出来なかった。向けられているこの感情は……敵意?


 不覚にも一瞬思考が停止したクリストファーが気付いた時にはすでに、シェルナはいつもの能面に戻っていた。ガラス玉のような褐色の瞳からはすでにどんな感情も見受けられない。


 「……旦那様、もうそろそろお嬢様はお戻りかと思います。お嬢様のお部屋にお茶をご用意致しますので、そこでお待ち下さい」

 「……え?あ、い、いや、ヴィヴィアンの許しなく勝手に部屋に入るのもなんだし、自分の部屋で―――」

 「―――ご夫婦ですのに、何を遠慮されることがあります。お嬢様もお気になさいますまい」


 クリストファーの言葉を遮るようにシェルナは有無を言わさぬ口調で言った。その勢いに呑まれ、クリストファーは思わず、「そ、そうだね」と返してしまう。


 促されるまま主人が不在のヴィヴィアンの部屋に移動し、クリストファーはソファに腰をかける。


 シェルナはいつも通り実に手際よく、クリストファーのためにお茶を淹れ、日差しが十分入るように窓際のカーテンを脇に束ねる。ヴィヴィアンのライティングテーブルの上を少し整頓した後、なぜかソファの前のリビングテーブルに置いてあった呼び鈴を、部屋の奥のベッド脇にあるナイトテーブルまで移動させた。


 なぜ、自分がソファにいるのに、彼女や他の使用人を呼ぶための呼び鈴をわざわざ遠くまで離したのだろう?


 不思議に思いつつも、シェルナはいつもの寡黙な彼女の態度でろくな説明もせずにクリストファーだけを残し部屋から下がってしまった。


 自分の妻とは言え女性の部屋に一人取り残されたクリストファーは落ち着かず、手を何度も組み直したり、きょろきょろと辺りを見回したりする。


 せめて何か読む本でも持って来るんだった。今からでも取りに行こうか、でも取りに自室に戻るんだったらもうそのまま自室で待っていた方がいいんではないか。


 そうしばらく逡巡するクリストファー。


 なんとなくベッドの方には近寄るのを躊躇われ、代わりにヴィヴィアンがヴィオレット商会の事務仕事に使っていると思われるライティングテーブルに歩み寄る。


 自分も共同経営者に名を連ねていることだし、これからはもう少しヴィオレット商会の業務も学び、彼女の負担を減らす努力をしよう、そうクリストファーは考えながら机の上に視線を滑らす。


 

 ―――ふと、妙なものが目に入った。



 彼女の部屋には似つかわしくないもの。いや、彼女の部屋というよりは、貴族の夫人の持ち物として存在すべきではないものだった。



 瞬間的に心臓が大きく跳ねた。



 濃い茶色のガラス瓶。その表面にあるラベルに書かれているその薬の名を、クリストファーは知っていた。


 

 あまりの驚愕に、心臓は収まるどころかドクドクとうるさく早鐘を打ち始めた。


 

 以前、ユングの麻薬密売調査に協力のため目を通した違法薬物のリストの中に、目の前の瓶とそっくりな絵と、同じ薬品名を見た。



 ―――堕胎薬。



 それは、長きに渡りブラン聖王国の裏の歴史上何度も登場し、公に出来ない愛人に子供を身籠らせた王侯貴族らが、その幼き命を秘密裏に葬り去るために使用することで悪名高い忌まわしき薬だった―――。



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