おわり:「My Back Pages」&「Coda」
■登場人物
大嶋ルリ
父の形見のギターでバンドコンテストに出場したいと強い思いをもつ十七歳の高校生、
大嶋アイサ
ルリのおませな妹 小学三年生
大嶋サナエ
ルリの母親 元アマチュアバンド界の歌姫の過去をもつ
高橋さん
ルリのバイト先に勤めるさえない中年男 あるきっかけでルリの亡くなった父親と関係があることをルリは知る
四葉ヒタキ
アイサの同級生 学校の友達には言えない特技をもつ
白江コージ
自称天才的なパーカッショニスト クールな外観に反し某アニメ信者の一面をもつ
喫茶店のマスター
高橋とルリの母親の過去を知る音楽好きの老人
ツグミ
しっかり者のルリの友人
ヒヨ
おとぼけ感あふれるルリの友人
鮎川フミヲ
ルリの同級生 地元の少女たちに熱烈な支持を受けるプロデビューを控えたバンドのボーカリスト
ユウキ
フミヲのバンドのギタリスト ルリに好意をもつ
譲司・ガラテア
人気アパレルショップ『ガラテア』のオネエオーナー フミヲのバンドのスポンサー
「My Back Pages」
(一)
駅の正面に掲げられたデジタル気温計は三十五という、誰もが見ただけでため息をつきたくなるような数字を他人事のように軽く示している。
陽炎は今日も午前中からアスファルトでツイストを楽しみ、道の向こうを走る車の形をぼやけさせた。
真夏の太陽に熱せられたステージ上では、ルリたちの前に出演するバンドが、最後の音響チェックを行っていた。
「ハイハットのマイク、もう少し引いて……はいOK」
ステージから離れた仮設ブースでは、ヘッドフォンを首にかけた男が音響アシスタントへ細かい要求を付けている。
いつもであれば、この辺は客を待つタクシーで渋滞しているのだが、今は今晩のイベントに向けて大きなビヤホール会場と化していた。
近くの食堂から出てきたサラリーマンらは、スピーカーからの大きな音に少し顔をしかめ、足早に会場近くを通り過ぎていくが、軒を連ねる屋台のクレープ屋やかき氷屋の前では、夏休み中の小学生や中学生が、新しいイベントへの期待に心を躍らせていた。
商工会青年部の面々は、この日を無事迎えることができたことに感無量だった。
「ここまで来たらあとは本番だけだな、会長、もう半分成功したようなもんですよ」
「早く本番にならないかな」
「まぁ慌てるな、最後まで気を抜かないようにしよう、何が起こるかわからないもんな」
日よけのついたアルミ製の桟敷席に座る青年会長は、そう言いながらも満足そうにうなずいた。
(二)
駅ビル三階の一番端に位置する大会議室が、イベント出場者の控え室である。ブルーシートが敷かれた上にパイプ椅子が無造作に並べられただけの場所であるが、クーラーが効かないほど出場者の熱気がこもっていた。
ただ、その中に他よりも冷え込んでいる一角がある。
一人オロオロするルリの横で、ウトウトと船を漕ぐコージと、そのコージから贈られたスコアを食い入るように見る四葉少年、カメラを手にしたアイサが一列に並んで座っていた。
高橋と連絡がついたというマスターの電話から、一時間も過ぎているが、高橋が来る気配は今のところない。
風邪による熱は今のところ治まっているが、薬の影響からか常に頭がぼんやりしている。
「オオルリコネクションさん、リハどうしますか?二時半には、ヴァルキリーさんのセッティングしなくちゃならないんで、もう時間がないんですが」
連絡係の青年が、会場と連絡を取りながら、ルリに尋ねた。
「あ……あの……」
「私がミネバ様の代わりにお答えしよう。リハは結構、その代わりにボーカルマイクを二本、セカンドギターと、ドラムの所にそれぞれ一本ずつ用意しておいてくれると助かる、最終決戦の武装はアサルトバスター仕様とする」
「武装?」
「失敬、他に何か用件は……」
「調整の方はどうしますか?」
「ハウ(ハウリング)が出ない程度で、あとは君らに一任しよう。音響の性能の違いが演奏技能の決定的な差ではないことを教えてやる……では……よろしくお願いしま……ふ……」
コージが困っているルリの後ろで急に起き、そして、また寝はじめた。
「コージさん!」
「ルリちゃん、寝かせておいてあげようよ、マスターのおじちゃんが教えてくれたんだけど、みんな朝まで飲んでいたんだって」
寝ているコージを撮影しながらアイサは落ち着いて言った。
「でも、アイサ」
「こんなすごい人達はなかなかいないもん、夏休みの観察日記には最適だよ、ねっ、四葉くん」
「うん!僕も全然心配してないよ、僕もこんなかっこいい大人になりたいな」
「それはやめておいた方がいいと思う」
「えっ、アイサちゃん、何で?どうして?」
緊張度が全くない小学生二人の掛け合いを見るルリの身体は一層凍り付いた。
入り口からにぎやかな声が聞こえてきた。
「陣中見舞いに来てやったぜ」
レイバンのサングラスと星条旗Tシャツにケミカルウォッシュジーンズという昭和的ファッションのマスターの後ろにはルリの母とツグミ、ヒヨが手を振っていた。その後ろには四葉少年の祖父母もいる。
「みんな」
「おぅ、ルリちゃん、あの馬鹿がリハーサル、すっぽかすのは昔からのことだ、今に始まったことじゃねぇよ」
「そう、あの人、ああ見えても律儀な人だから」
「ルリ!これ、みんなからの差し入れ、演奏頑張ってね!普通のビールは絶対に飲ませちゃダメってマスターに言われたから」
ツグミとヒヨはシェイクとノンアルコールビールの入った袋をルリに渡した。
「ありがとう……でも、すごい緊張していて、どうしたらいいか……」
「風邪ひいている暇なんてないわよ、大丈夫、あなたの素晴らしいメンバーを信じてあげて、今日のステージは私よりもお父さんの方が楽しみにしていると思うから」
ガチガチに緊張しているルリへ、母は優しく声をかけた。
「お母さん……」
「伝説の歌姫がそう言っているんだ、そろそろ関係者以外立ち入り制限されるからよ、客席でおめぇらのハッピーなギグをシーンさせてもらうぜ」
「私達もだぜぃ」
マスターとツグミ、ヒヨは同時にサムアップした。
「アイサちゃんも行こうか」
「ご心配なく、私はこのバンドのマネージャーだから、前からコージさんにお願いしていたんだ」
ツグミに促されたアイサは首から提げているスタッフパスを自慢げに見せた。
「あなた……いつの間に」
「アイサちゃんはバンドのマネージャー仕事よりも、四葉くんと一緒の方が重要なのではないでしょうか?」
あきれる母親の横でヒヨが言った言葉に、珍しくアイサは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「え?僕がどうしたの、何で重要なの?一緒にいたら何でだめなの?」
四葉少年はキョトンとした表情で、自分の名前が急に出てきた理由を聞き返した。
「コネクションというより、天然コレクションよね、このバンドって……」
うつむきながらポツリと一言もらしたアイサであった。
(三)
フミヲのバンドメンバーがいる控室は同じ駅ビル内であっても、全く別待遇であった。それは今日のイベントの大口支援者、譲司の計らいによるものであることは言うまでもない。
「出るバンドって下手くそばっかりだな、おっ、こっちは、すげぇ!客がもう並んでるぜ!……よぉ、俺たち、アーティストってことでいいんだよな」
窓際に立つお調子者のユウキは、近くのホテルから運ばれた軽食を口にしながら、ステージを見下ろしている。
「これだけ取材とかも入ってるし、そう言っていいんじゃん」
ソファーに座りながら音楽雑誌を読むイクミとコウも否定はしなかった。ただ一人、ユウキ隣に立っていたフミヲだけは否定した。
「自称アーティストか?事務所のバックアップがなきゃ俺たちなんて猿回しの猿だろ、この国にバンド演ってるアーティストなんているかよ」
「また、そんなに冷めちゃって、この国の正真正銘のアーティスト第一号、それが俺たちになるんだろ」
そう言ってユウキはわざと大袈裟に笑った。
「それでもな、フミヲ、ローカルとはいえ、ここまで有名になったことは嘘じゃないよ」
コウは雑誌を開いて自分達について書かれた記事をフミヲに見せた。
「決められた曲、決められた衣装、俺たちが作った曲は全部キャンセルされて、どっかの作詞家と作曲がもってきたガキが喜ぶ言葉の羅列された曲を演奏する、お前らそれでいいのかよ!これが目指していた音楽なのかよ?」
フミヲは憮然な面持ちでソファーに座った。彼の辛辣な言葉に皆、黙りこくったその時、扉が開きライブハウスのオーナーが部屋に入ってきた。
「はいはい、当のガキくさいお前らの音楽観談義はおしまい、声がでかいぜ、フミヲ、そういう疑問持ちながらバンドって商品の価値は、ちょっとずつ高くなっていくんだ、ライブなんだから、もっとテンション上げていこうぜ」
「オーナー」
フミヲを除いて皆、起立した。
「譲治さんからの伝言だ、今日、大手のプロダクション関係者がお前らの演奏、見に来るってよ、その足でお前らの保護者に契約書を書いてもらう準備してるって」
「やったー!」
「すげぇよ」
バンドメンバーが喜ぶ中、フミヲは何も反応しない。
「今日のイベントのオープニングアクトキメてくれよ、あぁ、今日は演奏終わっても、ずっとヴィップハウスにいろよ、お前らを見に来た客が帰らないようによ、また、後から演奏するんじゃないかって期待だけもたせておけ」
「はい」
「オーナー」
フミヲは部屋から出ようとしたオーナーを呼び止めた。
「俺、今日の仕事終わったら、バンドやめます……いや……音楽やめます」
「!」
メンバーは驚きの色を隠せなかった。
「誰か、何か言ったか?この頃、青臭い鳥の幻聴がよく聞こえてな」
オーナーは足を一瞬止めただけで、部屋から出て行った。
「フミヲ、てめぇ!」
ユウキが走りより、フミヲの胸ぐらを掴んだ。
「お前は、お前って奴は!」
「やめろ、ユウキ!」
無抵抗のフミヲを責めるユウキをコウとイクミは無理矢理引き離した。
「馬鹿にするな!お前こそ!一番アーティスト面していきがってやがる!俺たちはお前の家来でも引き立て役でもねぇんだ、いつも勝手にしやがって!俺たちの夢を、俺たちの夢を潰す権利なんてお前になんかねぇんだよ!」
「よせよ!ユウキ!」
止めるイクミの横で、フミヲは襟を直し、部屋から出て行こうとした。
「フミヲ!」
「一人になりたい、今日のステージまでは歌う……」
扉が閉まった後、小さくなるフミヲの足音にかぶるよう、ステージのスピーカーから陽気なBGMが流れてきた。
(四)
楽屋にじっとしていると緊張でどうにもならないと思ったルリは、外の空気を吸おうとエントランスがある下の階に向かった。
事務所が並ぶ廊下は楽屋の中よりも少し気温が低かった。
そこに思わぬ人物が階上から降りてきた。
「あっ!」
視線の先にはフミヲがいた。
向こうもルリの姿に気が付いた。
この日のルリは、顔を上げてフミヲを見ることができない。
「あっ、待って!」
何も言わず通り過ぎようとするフミヲをルリは追った。
「ごめんなさい!」
踊り場で彼の先に回り、ルリは頭を下げた。
「何も知らないで……何もわからないで……あの……何か、変なこと聞いちゃって……」
一方的に謝るルリにフミヲは、はじめ何のことかと考えたが、父親のことを言っているのだとようやく理解できた。
「いいよ……別に……俺も余計なことを言ったしな……その前に鼻水垂れてるぞ」
「!」
赤面しながらあわてるルリは、ポケットにあったティッシュケースを取り出す時、勢いがついて宙を飛び、狙っていたようにフミヲの頭に命中した。
「あっ……」
「あっ、じゃねぇだろ、ほら」
硬直したままのルリへ、フミヲは床に落ちたケースを渡した。
「お前、本当に世話かかる女だな」
「ツグミにも言われる……あんたはドジで同性から思いっきり好かれるか、嫌われるかのどっちかだって」
何気ないルリのつぶやきに、それまで暗い表情だったフミヲが今日、初めて笑った。
(五)
駅前広場まで延びる東口商店街通りも買い物客やイベントを楽しむ客で盛り上がりを見せていた。既に歩行者専用として規制されているため、路上は涼むためのパラソルが花のように並んでいた。
そこへ派手なファッションに身を包む性別不明の人物が、付き人をぞろぞろと引き連れて、新しいイベントの雰囲気を楽しんでいる。
「譲司さん、すごい人手ですね」
「聞きましたよ、今日のテレビは関東地方に全部放送されるんですよね、すごいなぁ」
付き人の若者達は皆、譲司の業界への影響力に感心していた。
「私がこの企画に絡んでるのよ、絶対、失敗なんかさせないわ」
彼のいる場所からは、人々の頭越しであるが、ステージに組まれた照明や音響装置が設置された鉄骨がよく見える。
(ようやくこの街から……)
譲司は一人、小さく笑みを浮かべた。
「どうしたんですか?」
「別に……それにしても今日も暑いわね」
「どこかで休まれますか」
「その時は、すぐに言うから、そんなことより、みんなも楽しみなさい、今日は記念すべき日なのだから」
譲司は軽く否定し、街の賑やかな雰囲気を楽しもうとしていた。
その時、譲司一行の脇をボロボロになったギターのハードケースを手にもつ中年の男がすれ違っていく。
ウィンドウガラスに一瞬だけ映る影を見た譲司の周りだけ時間が止まった。
「!」
それはほんの数秒のことだった。
スローモーションのように辺りの景色が再びゆっくりと動き出していく。そのはやさに合わせ人のざわめきやステージから流れる音楽が大きくなり譲司の鼓膜をくすぐる。
我に返った譲司が振り返ると、男の姿は混雑する買い物客とパラソルの波の中に消えていた。
(待って!)
「譲司さん、どうしましたか?」
足を二、三歩踏み出した突然の譲司の行動に付き人は驚いた。
「何でもない……何でもないわ」
忙しない譲司の視線は少し離れた店先に向いた。
そこには幸せそうな表情の家族連れの男性が、ワゴンに入った子供靴の品定めをしていた。
(見間違い……ふふ、馬鹿みたい……)
口では否定しても譲司の動悸はまだおさまっていなかった。
(六)
「あっ、高橋さん!」
アイサと四葉少年は、バンドの控え室にフラリと入ってきた高橋を見て、椅子から立ち上がり、二人で飛び跳ねながら両手を振った。
「すまん、遅くなった」
よれたシャツを着ている高橋は、ギターケースを下ろして、腕を組んで寝ているコージの横のパイプ椅子に座った。
「まだ寝ているのか、こいつは」
「遅刻してきたあなたのお言葉とは……妄想いや、瞑想していました。待っていましたよ、ジャンキーさん、今日だけはあなたをこう呼ばせてもらいます。」
顔を上げたコージは組んでいた手を外し、座ったまま上半身のストレッチを始めた。
「好きにしろ、あの泣き虫娘はどこだ、体調は大丈夫なのか?」
「ルリちゃんなら、緊張するから外の空気を吸いに行くって言っていました。熱の方は今のところ下がっています」
アイサの返事に高橋は、ちょっとホッとしたような表情を見せた。
「最後まで世話かけさせやがる」
高橋が、差し入れのノンアルコールビールに手を伸ばした時、お揃いのスタッフTシャツを着た若者が入って来た。
「これから、テレビの取材入ります、ご協力お願いします」
言葉が終わる前には照明とカメラ、マイクを手にしたクルーが、テンションの高い女性レポーターと共に飛び込んできた。
「皆さん、ご覧下さい、この緊張感に溢れた控え室!キャー、皆さんかっこいいですね!わわっ!今はやりのおじさんバンドですね!みんな映ってますよぉ!」
レポーターは何を思ったか、番組には一番不向きであろう高橋へマイクを向けた。
「すまん……二日酔いの頭に響く……」
高橋はそんなにぎやかな様子にまるで意を介せず、ビールの缶を開けた。
「うわっ」
飲み口から噴き出したビールは、ギターケースの上にボタボタとこぼれていった。
「たいへん!」
アイサは自分のピンクのポシェットから、ティッシュを取り出し、こぼれたビールを慌てて拭き始める。
「祝杯のシャンパンを模すとは気の早い、しかもハードケースに染みていく……侵食タイプだな」
「コージさん、感心してないで、コージさんの靴にもいっぱいかかってるよ」
「何?ビール臭い靴……それは私には似合わない」
「わっ、そっちにも流れていったよ」
動揺するコージの下で四葉少年も自分のハンカチで懸命に拭いている。
「僕のハンカチだけじゃ足りないよ」
「心配するな、四葉少年、こんなこともあろうかと、反射ナントカの技術を応用したこの温泉旅館の号入りの汗拭きタオルで……」
高橋は缶を持ったまま忍び足でその場から逃げていく。
「ジャンキーさん、私達を見捨てるのか」
「ちょっと、手が粘つくんで、すぐ戻る、コージ、お前ならできる」
「そう、僕が上手く後始末をできるんだ……って、待ってください」
背を丸めて出て行く高橋の姿を見て、アイサと四葉少年の二人は大きくため息をついた。
「最後まで世話かけさせるのはルリちゃん以上だね」
「僕もそう思う」
緊張感という語は、このバンドとは無縁である。
ビールの臭いが辺りに拡散する中、苦り顔のテレビレポーターは、何事もなかったかのように彼らの前を素通りし、違うバンドのインタビューを始めた。
(七)
「大嶋、お前に聞いてみたいことがあったんだ……あの時……」
そうフミヲが言いかけた時、階下から少女たちの賑やかな声が聞こえてきた。
「この上に控え室があるんだって」
「行ってみようか」
「前みたいに警備員に止められるんじゃない?」
「気にしないで行っちゃおう!
ヴァルキリーのおっかけをしている少女達であった。
「ちっ、うるさいのが来たか」
フミヲはルリへの言葉をそのままに、貸し切りとなっているフロアの一室へ身を隠すようにして入っていった。
『小会議室』とは名ばかりの事務机が十も入れば狭い一杯の部屋の窓際には、折りたたみ式の長机が積まれ、少し茶色がかった壁には、パイプ椅子が乱雑に立てかけられている。
音はよく響いて聞こえるがこの部屋の窓からは今日の会場を見下ろすことができない。
東北本線のホームの南端と複雑に絡まる線路が遠くまで延びているのが見えている。
「話を途中で止めて何なのよ、気になるじゃない!」
一度、窓の外を眺めたフミヲはルリの声に慌てて振り向いた。ルリは彼がわざと平静を装うとしているような態度がはっきりわかった。
「途中で話が切れちゃうと気になっちゃうでしょ、ただでさえ、歌詞覚えたり、コード覚えたりいっぱいいっぱい考えなくちゃならないのに、話が切れたら何を言うのかなとか、何が言いたかったのかななんて、関係ないこと考えなくちゃならないでしょ」
「そんなことで」
フミヲの目は点になった。
「あんたにとっては、そうかもしれないけど、言われた方になってみてよ……だってさ、本番間違えたりしたり、歌えなくなったりして……」
ルリの真剣に訴える表情を見てフミヲは微笑んだ。
「そういう時が楽しいよな」
「えっ?」
「お前の演奏している姿を前に見たよ、下手くそだけど楽しそうだった、ドラムとベースは上手いけどな」
微かに笑いながら話すフミヲの言葉にいつもの棘はなく、かえって少し淋しそうに聞こえた。
二人の後ろで扉が突然開いた。
高橋であった。
部屋の中にいる二人には気付かず廊下の様子を伺っている。
「コージさん、私は下に行ってみるね、四葉くんは上の階を捜して」
「わかった」
「アイサちゃん、必ず見つけなくては手遅れになるかもしれない」
追いかけて来るコージから、逃げてきたようであった。
「何でこんなことで追いかけられなきゃならないんだ、全くよ……って……」
残りのビールを口にしながら振り返った先に、フミヲとルリがいたことにようやく気付いた高橋であった。
「お前……」
フミヲの目がつり上がった。
「よぉ」
高橋は驚くこともなく、左手を軽く挙げた。
「高橋さん、何してるんですか」
「何もって、ビールこぼしたことが原因で追いかけられている、お前こそ何してんだ」
オロオロとするルリを残して、おし黙ったままのフミヲは高橋を押しのけ出口のノブに手をかけた。
「ようやくお前の生の音を聴ける」
高橋はそう言って、ビールの缶を電話台の上に置いた。
「!」
フミヲはノブを回す手を止めた。
「お前は……何て自分勝手な奴なんだ……俺がどんな思いで」
「すまない……」
「馬鹿野郎!」
吐き捨てるように叫ぶフミヲは、その勢いのまま高橋につかみかかった。
高橋は無抵抗のまま、壁に押し当てられる。電話台に置いたビール缶が乾いた音をたて床に転がった。
「殴りたきゃ殴ればいい、蹴りたきゃ蹴ればいい、俺はお前にそれくらいされて当然の野郎だ、弁解はしない……」
「くっ」
そう高橋に言われたフミヲのねじ上げた手の力は抜けていた。
今、ルリが見ている高橋は、マスターの店での様子とはまるで違っている。何とも言いようのない感情がルリの心を支配した。
「やめて、やめてよ!」
ルリは思わず二人の間に割って入った。
「鮎川、何で、そんなにつらいこと言うのよ、高橋さんも……高橋さんだって……口は悪いけど、みんなをいつも見守ってくれている高橋さんだってこと知っている……理由があったんじゃないの?高橋さんは何で言われるまま黙ってるのよ!」
フミヲと高橋は何も言わない。
「鮎川だって鮎川よ!いいじゃない、どんな父親だって!いいじゃない、馬鹿な父親だっていいじゃない、あんたの音楽を楽しみにしてくれているんでしょ、あんたの演奏を見てくれるんでしょ、自分が置いていかれたかもしらないけど、その理由だって聞いてるの?今、目の前にいるじゃない、こうして言葉をかけてもらえるじゃない!生きているのよ、生きている……すぐに触れられる所にいてくれるの!私なんて、私なんて、私なんて……」
「ちっ!」
目に涙をためるルリを見たフミヲはうつむき、片手の拳を握りしめたまま、扉から出て行った。
廊下から彼のファンから黄色い声が聞こえてくる。それに反し、部屋の中は外のステージからのBGMが聞こえてくるほど静かであった。
「生意気なことを言ってごめんなさい……でもどうしても……」
我に返ったルリが壁に寄りかかったままの高橋に頭を下げた。壁から背を離した高橋は優しく微笑み、そしてルリが思ってもいなかった言葉を口にした。
「ありがとう、お前に世話をかけさせたな」
「な……」
「今日のステージ、お前を必ずバックアップしてやる……それが、お前と死んじまったあいつのために俺ができることだ……だからお前も今日のステージを思う存分楽しめ」
そう言って高橋は転がったままのビール缶を拾おうと背を向けた。
かすかなぶつかる感触の後、高橋の背に柔らかであたたかな感触が広がった。
「ありがとうを言うのは私の方です……いつも変なことばかり言ってごめんなさい……」
ルリは高橋を背から抱擁していた。ルリの心は彼に対するここまで来ることの出来た感謝の気持ちでいっぱいであった。
バイト先での出会い、自分のギターを見て目の色を変えた瞬間、文句は言いながらもしっかりとできるまで教えてくれた時間、そして、父親のような厳しさと眼差し、全てが凝縮した感謝の思いであった。
「ああっ!二人で何してるんですか!」
扉の前にコージが立っていた。二人だけの時間は、夏なのに春の夜の夢のごとしである。
「あっ……それはその……何だな……ビールの件は……」
ルリ顔を赤くして黙ってしまうのはいつものことだが、今回の件について高橋もうろたえ説明に窮している。
「ビールの件なんてどうでもいいです、ただ色恋沙汰については、マスターとゆっくり酒のつまみとして事情聴取させてもらいます。それよりも今、事務局から連絡があって、今日の演奏する曲を各バンドもう一曲増やして欲しいってことを伝えたかったんです」
横から聞いていたルリの耳にも水であった。
「もう一曲増えるんですか……全く練習してないんですけど……何の曲をやるかも……」
ルリの脳内がフォーマットされていく。
「本当の実力を見せてくれ……ってことか、なかなか運営にも音楽好きな奴がいる」
高橋は全く動じていない。
「コージ、お前の勝手にハモり用マイクは?」
「ドラムの所に一本、用意済みです」
「なら、もう心配はない、あの曲やるぞ」
コージは少し目をつぶって考えていたが、すぐに指をパチッと鳴らした。
「了解、少年にも伝えておきます」
ルリは何が起きているかわからない。
「高橋さん、どうしたら……」
「心配するな、お前の曲だ」
それから三時間後、控え室に最初のバンドのスタンバイが告げられた。
(八)
夏の駅前広場は一大コンサート会場となっていた。
ファンの歓喜の声援に包まれた『エルドール・ヴァルキリー』は、プロと言って何の遜色もないほど、輝くパフォーマンスの翼を広げ、そこにいる全ての観客を魅了した。
少年の声を残すフミヲのボーカルは、バンドに興味のなかった女性も次々と虜にしていく。まさに魔性の力を秘めていた。
観客でひしめき合う通路の隅で、アイサを肩車しながら無言のまま高橋は演奏を見ている。
「上手いなぁ、ルリちゃんの同級生じゃないみたいだぁ」
アイサは彼らの演奏に拍手している。
「小さい女王様、よく見えたか?」
「はい、とてもよく見えます、良い写真も撮れました」
「かっこいいか」
「はい、でも……」
「でも?」
「私はルリちゃんと高橋さんと四葉くんとコージさんのバンドが一番大好きです」
「その年でお世辞か?」
「ううん、本当、何が起こるかわからないスリルがいつもあります」
「それはほめているのか、けなしているのか?」
「すごくほめています」
「それなら、肩車の時間を延長してやる」
アイサの言うとおり、フミヲのバンドは確かに上手かった。だが、多くのビジュアルバンドのコピーとしか見えないところもある。
(あいつも苦しんでいるんだな)
高橋が物思いにふけっている間に、彼らのパフォーマンスが終わった。
よくテレビで顔の映る司会者でもある地方局の男性アナウンサーが、最高の賛辞と共に彼らの退場を見送った。
「素晴らしい演奏でした、『ヴァルキリー』の皆さんには、コンテスト後の表彰式にも登場してもらいます、さぁ、次はお待ちかねのご家族の方もいるんじゃないかな?」
「そうですね、ほら、いっぱいの観客ですよ!」
あいの手を入れた女性アシスタントの言葉とは違い、フミヲたちの演奏が終わると同時に若者たちはアリーナ席から離れていく。
わずかばかりの者がステージを見続けているだけで、その他、多くの観客は近くの露店や店へと移動していた。
「お客さん、いなくなりましたね」
観客のあまりにも正直過ぎる行動にアイサは驚いている。
「これだけいりゃ、十分すぎるくらいだ」
「ふぅん……」
「ちょっと喉渇いたんで、ビール買ってきていいか」
「あっ、そろそろ集合時間です、どうやらその時間はないようですね、あきらめましょう」
「お前……実は俺の監視役だったな……」
「はい、でも肩車がこんなに気持ちいいとは知りませんでした」
全く悪びれもせず、屈託のないアイサの笑顔に高橋も笑った。
「お前たち姉妹はたいしたもんだ」
「それはほめているんですか、けなしているんですか」
「すごくほめている」
そう言って高橋はおどけてアイサを肩にのせながらクルクルと回った。アイサの嬉しそうな笑い声が周囲の人々の頭上を越えて響き渡った。
(九)
屋台からの焼き鳥やクレープの匂いが漂う中、ルリから二つ前のバンドの演奏が終わった。この頃にはすっかり日が落ち、冷やかしの会社帰りのサラリーマンも含め、観客の数は徐々に戻ってきた。
フミヲのバンドの時と客層はかわり、辺りはすっかりと夏のビアホールモードに突入している。
「みんなご機嫌なプレイじゃねぇか」
ステージから少し離れたテーブルには赤ら顔のマスターを囲むようにして、ルリの母、ツグミ、ヒヨ、四葉少年の祖父母が座っている。
「わぁ、もうすぐルリだよ、どうしよう!」
「ツグミがそんなに緊張してどうするの?」
ツグミは、四葉少年の祖父母が差し入れてくれた焼き鳥にも手を付けず、ずっと心配顔。控え室から一人戻ってきたアイサは椅子に座ったまま、そんな様子をカメラで撮り続けている。
高校生のバンドは、ステージの端から端まで駆け回る元気の良いステージパフォーマンスを見せていた。
「あの頃のようだな」
隣に座るルリの母にそう言ったマスターは終始笑顔である。
「本当……あの頃のよう……」
ルリの母はそれ以上何も言わない。
彼女の十分すぎる返答に、マスターは満足げに焼き鳥をまた一本頬張った。
(十)
音響用テント横にあるトレーラーハウス。
ソファーやクーラーが備えられた部屋に譲司と業界関係者、そしてフミヲを除いた『エルドール・ヴァルキリー』のメンバーがいる。
フミヲは中座してからまだ戻ってきていない。
いらだつメンバーの様子にも譲司は全く気にせず、お気に入りのバーから運ばせた『ブラッディ・マリー』の味に酔いしれていた。
音楽プロデューサーの男は、今日の演奏に満足し、残されたメンバーの一人一人に、質問を繰り返している。
「例えば、君たち全員をスカウトしたとしても、二つのユニットに分けたりすることもあるけど、それでもいいね」
「二つにって、それどういう意味ですか」
「まぁ、メジャーリーグとマイナーリーグって例えがわかりやすいかなぁ、これからの売り出し方にもよるけどね、その辺は一任してくれないと困るよ、勘違いしないでほしいが、そういう場合もあるってことだ」
「解散する場合もってことですか」
ユウキはたまらず聞き返した。
「解散じゃない、発展、いやエヴォリューション(進化)だ」
幾多の難しい交渉を乗り越えてきた業界人である。彼のたくみな言葉に残されたメンバーは首を横に振ることなどできなかった。
(十一)
(みんな、何でこんな上手いんだろう……)
ルリは、他のバンドの演奏が全部上手く聞こえる。入賞するなんてことは針の先ほども考えていない、どうすれば無事に演奏を終えるかということだけが大きな命題であった。
スタッフの動きがまた慌ただしくなった。
「オオルリコネクション、お願いします!」
黒いタキシード姿のコージは自分の銀色の蝶ネクタイを軽く直す。
四葉少年は、少し緊張はしているものの、このお祭り騒ぎを無邪気に楽しんでいる。
そして、高橋はマスターとのアルコール禁止の約束を反故にし、レギュラーサイズの缶チューハイをあおっていた。
「高橋さん……お酒」
「すまん……喉の渇きに我慢できなくなった、先に行く」
「オオルリコネクション、白江コージ出る!」
ステージに上がる狭い階段の前で二人がぶつかる。
「指揮者は最後だろ普通」
「指揮者ではない、私はプレーヤーとして出ます、それよりもジャンキーさん、何でそんなに先に行こうとするのですか……うぉっ、その発酵飲料は……」
「ジンジャーエールだ」
「また見え透いた嘘を、缶にお酒は二十歳になってからと……」
「俺は二十歳じゃない、倍以上は生きている」
「また中学生のような屁理屈を……そんな理屈は修正してやる!」
いい年をした二人のやりとりの様子はあまりにも自然である。四葉少年は慣れっこになっていて、にこにこ笑って聞いている。
司会者がルリのバンド名をコールした。
声援も拍手もルリには何も聞こえない。
(熱い……)
スピーカーの後ろからステージに上がった瞬間、ライトはこんなにもまぶしいものだったのかとルリは思った。
(十二)
化粧の濃い着飾った女性たちがつめたマンションの一室、客から来た電話を受けた男が場所や料金、システムを早口で説明している。
電話を切ると、すぐさま待機している女性の名前を呼び、ホテル名と部屋番号を告げていく。
残っている数名の女性は爪や髪を手入れしながら、部屋に据え置かれたテレビ番組を見ていた。
「へぇ、こんな駅前でコンサートしてるんだ」
「さっきの若い子、かわいかったね」
女性は口々に勝手なことを話し、客からのコールを待っている。
「わぁ、何、この子小学生じゃない、かわいい」
画面の中には象の形を模したベースギターを持つ四葉少年が映っていた。
司会者はルリの後に、小学生の四葉少年にマイクを向けている。
「すごいねぇ、君、天才小学生だね、名前は四葉ヒタキ君だね」
「はい」
テレビを流し聞いていたそのうちの一人の女性は、マニキュアを塗る手を止めテレビの近くに駆け寄った。
「何、どうしたのよ」
「ごめん、ちょっと見せて」
「この子、知り合いの子?」
司会者のインタビューは続く。
「今日は、会場にお爺ちゃんとお婆ちゃんが来てるんだ、あっどこにいるかな?ステージからは暗くてよく見えないけど、絶対に応援してくれているよ、それじゃ、これからの演奏に何か一言」
司会者がヒタキの口元にマイクを持っていった。
「ママ……ママ……また、動物園一緒に行こうね、僕、ずっと待ってるよ、お婆ちゃんもお爺ちゃんも待ってるから、僕も頑張るから」
普段、あまり話さない四葉少年もこの時だけは、カメラを正面に見たまま、大きな声で自分のたまっていた思いを口にした。
司会者もその言葉に何かを感じ取った。
「多分、お母さんは、ヒタキくんや、このバンドの演奏最後までしっかり見てくれているよ!さぁ、演奏してもらいましょう!今日最後のバンド『オオルリコネクション』、一曲目は『レモンティー』!」
後ろに身体の半分だけ映るコージは、自分までインタビューが回ってこないことに落胆している。
テレビを食い入るよう見ていた女性は、周囲を気にすることなくテレビの前で泣き崩れた。
(十三)
(熱い……でも……もっと熱くするんだ)
目を小さく閉じて、ルリは大きく深呼吸する。
(お父さん、お母さん、見ていてね)
コージの繊細なドラムロールから、クラッシュシンバルが高い音を響かせる。ヒタキのベースギターも彼のバスドラムの音を飛び跳ねるように跳ねていく。そして、四小節の二人の絡みの後に高橋の黒いレスポール歪んだトーンが叩き出された。
ビートに合わせて照明の色がめまぐるしく変化し、ピンスポットがルリの姿を照らし出した。
(届いて!みんなのところに!)
ルリの歌声は、風邪気味だったのがかえって効果があったのか、いつもよりややハスキーボイスであった。ただ、それが一人一人の聴衆により魅力的に聞こえてくる。
演奏しながら小鳥が戯れるように四葉少年は、ステージをスキップする。
コージは、メトロノームのような正確な演奏の間に、細かいフィルをこれでもかと詰めてくる。
高橋の演奏を見るマスターは雄叫びを上げて泣いた。
「最高だ!シキサナ!見えるか!聞こえるか!いるだろ!そこにあいつらが!俺はゴーストを見ているんじゃないか、夢じゃ、夢じゃないよな!」
高橋の立ち位置は、スペースが空いているにもかかわらず昔のバンドの時と同じ中央よりやや左気味であった。
そこで半身を軽く曲げ、うつむき加減で鋭い刃物のような音を輝かせる。
ルリの母には分かっていた。彼が空けている横はルリの父の位置であったことを。
ルリの母には見えていた。当時のままの二人がルリを守るようにして演奏している姿を。
「目にしみる、目にしみやがるぜ!今日のスモークはよぉ!」
幼児のように興奮し涙を流すマスターの姿に、ツグミ、ヒヨまでもらい泣きをした。
(十四)
目の前の『ヴァルキリー』とプロデューサーのやり取りを見ていた譲司は、何かに憑かれるように勢いよく起立した。
右手に持っていたカクテルグラスがテーブルの上に落ちて割れた。
赤いしぶきが譲司のドレスに滲んでいく。
「いやだ……何……何よ……」
放心する譲司の姿に、周囲の者たちも驚く。
「どうしましたか!」
「どこか具合でも!」
譲司のドレスの裾がテーブルの脚に引っかかり、縦に破けた。
「この音は……この弾き方は!」
譲司は皆を押しのけて、今まで気にも止めていなかった会場の方へと飛び出していく。
「譲司さん!」
鬼女のような勢いで人の波をかき分ける譲司の目に、ずっと追い求めていた姿があった。
「ミラクル……ミラクルよ……ああ神様……」
痙攣するような震える思いが河馬を包み込む。
高橋は河馬の姿にまだ気付いていない。
「リード、ジャンキー!」
ルリのかけ声で高橋はステージの前にゆっくりと歩み出た。
このバンドの間奏は高橋、コージ、ヒタキの真剣勝負の時間である。グイグイと自己主張する高橋のギターの音をコージのドラムが押さえにかかる。その間を縫ってヒタキのベース音が顔を覗かせる。ルリは芝の上で組み合い、じゃれる三人の姿を空の上から眺めている青い翼の鳥であった。
河馬がこの街からバンドを求める理由は『後悔』と『懺悔』であった。
自分の愚かな行いが、伝説と言われたバンドの未来を潰してしまった。出所してからの彼の心にのしかかった思いを払拭するのには『この街から世界へ羽ばたくバンド』を育てるしかない。そのためだけに、どれだけの資金を費やしたことであろう。
奇しくもそのバンドのボーカルの少年が、高橋の息子であることを彼はまだ知らない。
ステージ下の河馬は純粋に高橋へ狂ったような黄色い悲鳴を上げ続けた。
(十五)
一曲目が終わった時、会場は一瞬静まりかえった。大きなどよめきと拍手が湧き起こるのに時間はかからなかった。
ルリは、何が起きたかまだわかっていない。頭の中は次の曲のことだけを考えている。
この拍手を当然のことだと思っているコージは、ブルースハープのホルダーを首にかけ、手前のマイクの位置を確かめた。
(リッチー、まだ楽しもうぜ)
高橋の目には若い頃のルリの父の姿が見えている。
ルリの父の幻は、マスターのように自信ありげに笑い、高橋に向けて親指を上げた。
スネアのワンショットから、コージのドラムとブルースハープ、四葉少年のベース、高橋のギターの音が広がっていく。
『ライク ア ローリング ストーン』
心地よいテンポの中に、オオルリの高らかなさえずりが会場に響く。
毎日聴いていた父との絆の曲。
転落していく女性への乾いた哀れみ。
ルリだけでなく、コージ、ヒタキも歌う。
(どんな気分だい?)
(どんな気分だい?)
(どんな気分だい?)
客に嫌みを言われながらも、料理を運ぶ居酒屋の店員は歯を食いしばる。
タクシードライバーは、遠い目をして信号が赤から青に変わった瞬間ハンドルを持つ手に力を込める。
恋人と待ち合わせている男性は、時間を何度も確認しながら、リズムにのせて身体を揺らす。
育児に疲れている母も、子供の見せる笑顔に「頑張らなきゃ」とつぶやく。
仕事に疲れたサラリーマンは、京浜東北線のホームに立ったまま自分の今の姿を見て泣く……今の俺の本当の姿ではないと。
ルリの言葉は皆に問いかけ続ける。
(どんな気分だい?)
「畜生!」
フミヲは、建物の壁を叩きながら、父や譲司、『ヴァルキリー』のメンバー、そして捨てようとする未来が自分を確かめているのだと思った。
高橋の言葉はフミヲに問いかける。
(どんな気分だい?)
昭和と平成が入り乱れている街、人々のそれぞれの複雑な思いは、ルリの歌声にほんの少しだけ、輝きを取り戻した。
(十六)
マスターのタオルは、汗と涙と鼻水で三倍の重さになっているであろう。酔いも重なってマスターは演奏が終わった後もずっと泣いていた。
ルリの母は、バンドの演奏の凄さに放心しているアイサを抱き寄せて頬ずりをする。
「いよいよ順位の発表か」
「ツグミ、どうしよう!大丈夫だよね、入賞するよね」
ヒヨとツグミの二人は、落ちつきなく手を握り合っている。
ステージ上に今日、エントリした-バンドが並ばされた。
ツグミたちのテーブルから、ルリとコージの姿だけがかろうじて見えている。
司会者が興奮さめやらぬ声で、三位から入賞者を発表していく。
ルリたちのバンド名は呼ばれない。
「さぁ、お待ちかね、記念すべきバンドコンテストの優勝者は……」
固唾をのむ観客は、その発表の結果を待った。
「Coda」
参道のケヤキの葉が黄から茶に塗り替えられ、自転車の葉を踏む乾いた音が石畳に小さく鳴る季節。
キャップをかぶったアイサが白い壁の家の呼び鈴を鳴らすと、優しそうな女性に続いて四葉少年が出てきた。
四葉少年は、女性に何かを言われるとちょっと照れくさそうにしながら、アイサの手をとり家の中に迎え入れた。
店の前まで風に導かれてきた落ち葉をコージは竹箒で掃く、集めてはどこからかまた落ち葉がコージの方に集まってくる。繰り返されるその様子を三匹の猫は、ただじっと待っている。だが、そのうちに一匹の猫は、彼が気付いていない様子にたまらず甘えた鳴き声を一つ上げた。
コージはすぐに詫び、ポケットからドライキャットフードの小袋を出すと、店の扉の横にあるアルミ容器に入れた。
落ち葉がまた集まる。
一番年若な猫は目の前で舞う落ち葉を両の手でおさえた。
レコーディング中のフミヲの後ろには、いつものメンバーがいつもの場所で演奏している。プロデューサーの指示に従うふりをしながら、フミヲはまた、同じように歌う。締め切りを気にするプロデューサーは根負けし、渋々とテイクにOKを出した。
学校のランチルームには賑やかにさえずる小鳥が三羽。
「ルリ、今日のバイトは?」
帰りがけにツグミに声かけられたルリは首を振った。
「今日は『ケーキの日』なんだ、早く帰らなくちゃいけないから」
ルリは、手を振って二人に別れを告げた。
「いいなぁ」
「ヒヨ、私たちはクリームソーダでも飲んでいこうか」
「クリームソーダは言い訳で、本当の目的は違うところにあるんじゃないの」
「あんたのツッコミ……この頃、さえてるね」
「そりゃ、長く友達してるもん、あの時の演奏見た同じ部の子がね、紹介してってうるさいんだ」
「えっ、紹介!」
「男子だけどね」
「そうか」
ツグミはほっとしたような表情をヒヨに見せる。
「ほらぁ、やっぱり」
ヒヨの言葉にツグミは顔をさらに赤くした。
鰯雲の浮かぶ夕焼け空の下、山々の向こうに富士山のシルエットがなだらかな稜線を描く。校門からつながる坂道沿いに秋桜の花が咲き並ぶ。
帰路につくルリの背中で、今日も父のギターは揺れる。
古い木肌をあたたかく照らす 店の入り口の白熱電球。
男が扉を開けた瞬間、懐かしいロックの音楽が店外へ押し流すようにあふれ出る。
カウンターの中、エプロン姿の青年と、コップを拭く初老の男。
マスターと呼ばれるその男の言葉は、いつも決まっている。
「よぉ、今日はどんな音楽を聴かせてくれるんだ?」
「Oh!ルリ コネクション」 おわり




