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OH!ルリ コネクション  作者: みみつきうさぎ
2/3

おりかえし:「フミヲ Rival Part」&「ジャンキー Guitar Part」

■登場人物


大嶋ルリ 

父の形見のギターでバンドコンテストに出場したいと強い思いをもつ十七歳の高校生、

大嶋アイサ

 ルリのおませな妹 小学三年生

大嶋サナエ

 ルリの母親 元アマチュアバンド界の歌姫の過去をもつ

高橋さん

 ルリのバイト先に勤めるさえない中年男 あるきっかけでルリの亡くなった父親と関係があることをルリは知る

四葉ヒタキ

 アイサの同級生 学校の友達には言えない特技をもつ

白江コージ

 自称天才的なパーカッショニスト クールな外観に反し某アニメ信者の一面をもつ

喫茶店のマスター

 高橋とルリの母親の過去を知る音楽好きの老人

ツグミ

 しっかり者のルリの友人

ヒヨ

 おとぼけ感あふれるルリの友人

鮎川フミヲ

 ルリの同級生 地元の少女たちに熱烈な支持を受けるプロデビューを控えたバンドのボーカリスト

ユウキ

 フミヲのバンドのギタリスト ルリに好意をもつ

譲司・ガラテア

 人気アパレルショップ『ガラテア』のオネエオーナー フミヲのバンドのスポンサー


「フミヲ Rival Part」


(一)


 バス通りに面した上倉楽器店の五階スタジオがフミヲたちの録音場所である。

「何だ、ミスが多すぎだろ」

「わりい、今日はあんま気分がのらないんだ」

 フミヲに指摘されたユウキはそう言って下ろしたギターをアンプの上へ無造作に置いた

 いつも落とせない女はいないと豪語するギターのユウキが、珍しくふられたという話をベースのイクミが面白おかしく話した。

「うるせぇぞ、イクミ、お前には関係ないことだろ」

「へぇ、俺は初めて聞いたぜ、誰なんだよ、隣の北高生か」

 キーボードのテツヤが話にのってきた。

「同じ学年の大嶋だよ、まぁ顔はそこそこかもしれねぇけどな、胸はないぜ」

「てめぇ、ベラベラしゃべりやがって」

 イクミにばらされたユウキは空のペットボトルを笑う彼に投げ付けた。

「驚いたぜ、またユウキのバージン狙いか、気付いたら同級生全部喰っちまったなんてことになるんじゃねぇの、たまにはコウにまわしてやりゃいいのに」

「俺は遊びなら余りもんでもいいぜ」

 冗談にのるドラムのコウも怒るユウキを見てゲラゲラと笑う。

「うるせぇ……」

 壁にもたれ立つフミヲは小さく言葉を吐き付けた。

 不機嫌なフミヲの様子に他のバンドメンバーに緊張が走った。

「やりたくないならやめろ、このバンドに入りたい奴ならまだいる」

「わ、わかったよ、やるよ、そんなに怒るなよ」

 他のメンバーが黙る中、ユウキはギターを手に取った。


 フミヲのカリスマ性でこの高校生バンドが成立しているといっても過言ではない。妖艶な表情の中に、時折垣間見せる少年の無垢な微笑が女子中高生の心を刺激した。テレビ出演が終わってからさらに評判は上がり、それに応じて定期的なライブにも客足は増加している。『日本の音楽界を変えていく高校生バンド』地方テレビ局のプロデューサーも彼らの人気を本物と見て、バックアップ体制に入っていた。

今、平成はじめのバンドブームを支えた若者らが親となり、その子供達が中、高校生となって活動を始めてきている。その兆しは楽器の売り上げにも良い影響を与えており、バンドブームの再来を下降気味と言われる音楽業界も期待していた。

 バンドコンテストもそのような経緯で、地元商工会も総力を上げ盛り上げる機運が高まっている。


(二)


 コンテストのエントリーシートを持つルリの手は字が読めなくなるほど震えている。

「これに出られるなんて……私は今、猛烈に感動している」

「何、泣いてんのよ、ルリったらおおげさなんだから」

 放課後、人の少ないランチルームの席でツグミは半ば呆れながら、感動に打ち震えるルリを見て言った。

「だって、だって、出られるんだよ、コンテストに!それもフルメンバーで、奇跡だよ、奇跡が今まさにこの瞬間に起きているんだよ、信じられる?神様が私のバンドにのりうつったみたい、嬉しいよぉ」

神様がのりうつった救世主にしては、泣き虫である。

「まぁ、ルリの力だけじゃないことは確かだけど、あんたいつこれを書くの、締め切り近いでしょ」

「ルリ、ツグミ」

 フルートケースを持ったヒヨが二人の姿を見付け駆け寄った。

「ヒヨ、ルリの興奮が止まんないのよ」

「ジャーン、これを見よ!」

 ツグミの顔を隠すようにしてルリはエントリーシートをヒヨに見せた。

「まだ部活途中なんだけど……へぇ、これが正式なエントリーシート、ふぅん、バンドの名前と演奏曲とメンバーの氏名を書くのかぁ」

「そう、これからツグミに相談しながら書こうと思って」

「バンドの名前が決まったんだね」

「!」

「演奏曲も決まったんだぁ」

「!」

「そういえばさぁ、コージさんと高橋さんの名前って聞いたことなかったよねぇ」

 泣いたり笑ったり忙しいルリの顔の変化まだ続く。

 ルリは目が点の状態のまま静止した。

「さすがヒヨ、そのとぼけながらも的確なツッコミ、私も真似したいものだ」

「別にとぼけてなんていないよぉ」

 冷や汗を額ににじませたルリはようやく我に返った。

「バンド名とか、どうしよう……」

「この前、考えているって言ってなかった?」

「うん、私もそう聞いていたよ」

「色々候補は考えていたんだけどね、でも考えているうちに考えるのやめてギターを練習しちゃっていた」

 必死に弁解するルリの目は泳いだままである。

「もうこの際何でもいいでしょ、ほら、紙コップスとかペットボトルズとか」

 ツグミはテーブル上の飲みかけのジュースを指して言った。

「アイスコーヒーズとかオレンジジューズとかでもいいんじゃない?」

 ヒヨの発想もテーブルから離れていない。

「いや、いや、そんなのかっこ悪い、ね、ツグミ、ヒヨ、お願い、一緒に考えて!」

「蛍光灯ズとかエルイーディーズなんてどうかな」

 ツグミはランチルームの天井を見ている。

「プランターズとかマリーゴールズとかもかわいいね」

 ヒヨは窓際の花を見ている。

 この二人は私をからかっているのかとルリは思った。だが、二人の目はいつになく真剣であった。

 そのうち、ヒヨは部活が始まるという理由を付けてその場から離れていった。

「プリンターズとかアップルジョブズなんてどう」

「ううん……」

「さっきから全部却下されてんだけど、そう言うルリは何か無いの」

「やっぱり……ペットボトルズかプランターズにしようか……」

 とりあえずルリのバイトが終わったらマスターの店で相談しようということでこの場はおさまった。



(三)


「バンド名ですか、私も考えていなかったが、おしゃれに『アンサンブル・ラ・フォリア』とかどうですか、じゃなかったら『ゲルググカルテット』とか、『デンドロビウムズ』とかもかっこいいですね、その中から飛び出す『ステイメンコージ』……悪くない」

「もう、落差大きすぎですよ、コージさん、マスターも早く買い物から帰ってこないかなぁ」

 ツグミはそう言って、帰ったばかりの客の食器をテーブルからカウンターへ下げた。

「ツグミ君、そうやって君たちが悩みながらバンド名を考えている時は私から見れば楽しそうだ」

「えっ……」

「恥ずかしいが、私はここのオーナーやジャンキー氏と出会うまで、音楽を勘違いしていたように思っている」

 コージは明日に使う出汁の味見をしながら鍋に醤油をおとす。

「どういうことですか」

「クラシックの世界は無限に広がる大宇宙だが、商業的恩恵を受ける者の枠は狭い。少なくとも日本ではショップの商品陳列棚の幅、それが全てを物語っている。私は音楽の女神に一方的に見放されていたと恨んでいた、それと共に腕もなまっていった……他の者よりも完璧だとは今も思ってはいるがね……」

「コージさん……」

「しかし現実は遠慮などしない、残ったものは何か……挫折感と失望感だ、慰めてくれたのは……」

 カウンターの中からコージは出て、入り口の扉を開けた。コージの顔を見た瞬間、野良猫のグルーピーが嬉しそうな鳴き声を一斉に上げた。

「この子たちだけだ……だが、今は変わった、見下していたロックやポップスにもクラシックと変わらぬ熱い精神があることを、音楽の女神が与えてくれた数々の曲を合奏することの楽しさを、そして信じていなかった友情もね……君たちのおかげだよ、ルリちゃんのバンドには必ずふさわしい名前が女神より与えられるはずだ」

 野良猫に餌をやるオタク臭を漂わすコージをツグミはいつもと違った感じに見た。

「おぅ、帰ってきたぞ!ツグミちゃんは来てるか、バンドネーム考えているんだって?ルリちゃんからメールきてたんでなぁ、俺がバッチリなネーム考えてやった」

 音楽の女神とはほど遠いマスターが酒瓶の入った買い物袋を抱え、通りの向こうからにこやかな顔で二人に呼びかけた。



(四)


 バイトを終えたルリはマスターの店に行く途中にある楽器店へと足を向けていた。昨晩、チョーキング(弦を指で押し上げる奏法)の練習時に、一番細い弦を切ってしまったからである。

居酒屋が建ち並ぶ通りの右手にある複合ビルの一階に、CDショップを兼ねた目的の楽器店はある。同じビルの地下にある中華料理店の大きな看板が通りから見た時の入り口への目印であった。

「赤丸急上昇中!」

 店内に入ってまずルリの目に飛び込んできたものは、かわいい丸文字で書かれた売れ筋商品を知らせるポップ広告である。並み居るミュージシャンの名前の中にフミヲたちのバンド『エルドール・ヴァルキリー』があった。

 インディーズとはいえ、大手アイドル事務所のアイドルグループに次ぐ売り上げである。彼らのことを好ましく思っていないルリでも、その実力は認めている。

「すごいなぁ」

 きれいにディスプレイされたアルバムを手にしたルリの脳裏にユウキの自慢げな顔が思い浮かんだ。

「だめだめ、私は私でやんなくちゃ」

 CD売り場を通り抜けた奥のギターが並ぶスペースは、たとえ買わなくても今のルリにとってはわくわくする場所である。中でもガラスケース内に飾られた色違いのストラトギターは、自分のギターの弟か妹のように思えてならなかった。

(はっ、だめだめ練習に遅れちゃう)

 だめを頭の中で連発するルリは、様々なメーカーの弦が入る棚の前に移動したものの、そこでもどれを買うか決めるまでに時間がかかった。

「ダダリオにしようかなぁ、アーニーボールを試してみようかなぁ、うーん、ヤマハのスーパーライトも……でも、やっぱり、これでいいや」

 結局手に取ったのは値段の一番安い弦であった。

 会計を済ませている時、CD売り場に一人佇むフミヲをルリは見た。彼は自分たちのCDが平積みになっている場所から離れ洋楽が並ぶ棚の前にいた。

 フミヲは一枚のCDを手にとってジャケットを長く眺めていた後、再び元の位置に戻した。結局彼は何も買わずに店から出て行った。

 ルリは弦を買い終えた後、さっきまでフミヲが見ていたアルバムが気になり、その場所に行った。

(確かこの辺だと思ったんだけど)

 どこかで聞いたことのあるミュージシャンの名前がアルファベット順に並んでいたが、どれかはわからない。

「うーん、赤い色だったかなぁ、よく見ていれば良かったなぁ」

 何枚か探してはみたが、どうも違っているようである。

「あっ、これお父さん持っていたやつだ」

 今まさに手術をはじめようとしている七人の男が立っているジャケットであった。ルリはこのアルバムの一番最後のトラック、ベートーヴェンの第九を模した曲を何回か聴いたことがある。最後の笑い声だけは怖いので、いつもそこで止めていた。

「へぇ、お前ハードロックなんて聴くんだ、随分おやじくさいんだな、昔のヘビメタとかハードロックばっか聴いているからそうなるんじゃねぇの?」」

 振り向くと、ユウキが立っていた。

(最悪……)

「この前のことなら許してやるぜ」

ルリの血圧が二十パーセント上昇した。

「な……なにを……」

「ただの友達でもいいから俺のメンツもあるってもんでしょ、メンバーに紹介させてくれよ」

 ルリの我慢花火の導火線が今まさに着火されようという時に、いかにもだるそうな足音が聞こえてきた。

 高橋であった。

 ルリはピンチになっている自分を助けに来てくれたのだと思った。

「高橋さん!ありがとうございます!」

 高橋という思わぬヒーローの登場にしつこかったユウキが臆した。

「あれ、お前何でこんなとこにいるんだ、まだ店に行ってなかったのか」

 高橋は声をかけられるまで、ルリのことに全く気が付いていなかったようであった。

「ははん、不純異性交遊というやつか、母親には内緒にしておいてやる、ガキはガキらしいつきあい方をしろよ」

 助ける素振りも見せずに、ほろ酔い加減の高橋は奥のカウンターにそのまま歩いていこうとした。

「ちょっと待って」

 ルリは高橋の腕をむんずと掴んだ。

「何すんだ」

 高橋は床の上で靴を滑らせよろけた。

「ユウキ、ごめん、私、この人とつきあってんだ、すごく仲がいいんで……あの……この人誤解しちゃうから邪魔しないでくれる?」

 ルリはそう言いながら自分のどこにそんな大胆なことを言う勇気があったのかと思ったものの、この状況下である。背に腹は代えられない。

 高橋の腕にからみ付き、顔を付けて甘える素振りを見せた。

「ちっ、不純異性交遊してんのはどっちだよ」

 ルリのいかにも嬉しそうな様子を見てユウキは捨て台詞を吐き、その場から逃げるようにしていなくなった。

「高橋さん、ごめんなさい、あの子、本当にしつこくて……本当に本当にすいませんでした」

 ルリはすぐに腕から離れ、恥ずかしさに顔を真っ赤にしたまま頭を何度も下げた。

「高……」

 普段取り乱すことが少ない高橋だが、彼は口をあんぐりと開けたままその場で数分凍っていた。



(五)


「はは!ルリちゃんも役者だなぁ」

 ルリから事情を聞いたマスターは大声で笑った。ツグミも涙を流して笑っている。

「若さゆえの過ち……だが、年の差を超えた愛という形態も良いものかもしれない」

 コージは皿を拭きながら静かに笑いをこらえていた。

「で、そのルリちゃんのオールドボーイフレンドの馬鹿はどうした、あいつから今晩修理しているギター取りに行くって昼に連絡があったきりだからな」

「別の用事があるって、裏の出口から出てっちゃいました……本当に悪いこと言ってしまって……このままギター弾いてくれなかったらどうしよう」

 ルリはマスターの入れてくれたレモンティーを一口も付けずに半べそ状態である。

「マスター……」

 さすがに笑っていたツグミも心配になった。

「コージ、お前はどう思う」

 客席のソファーに座るマスターのにやけ顔は止まらない。

「若い女性に彼氏だと言われて嫌がる中年男は存在しません、だから美人局などという犯罪が今でもあります。特に音楽をしている者は古今東西そのような浮ついた話ばかりですから……誤解されては困りますがあくまでも私個人の意見です。ルリちゃん、ツグミちゃん、心配に及ばずです」

「俺も同感、いいんじゃねぇか、奴にも良いファンタジックな刺激さ」

「それよりもマスターのバンド名を聞きたいものですね、さっき私の考えたものより良いと言った方が気になります」

 皿を片付け終えエプロンを外したコージはカウンターから出てきた。

「そうだったな、最初に考えたのは……ルリちゃん、ツグミちゃん、聞いて驚くなよ」

 既に高橋の存在はマスターとコージの頭からとっくにサヨナラしていた。

「『ブギウギ娘百連発』」

「なかなかその発想にはたどりつけなかった、やはりオーナーはクラシックの呪縛に縛られた私よりも深い、利尻昆布の出汁に土佐の鰹節、それに関サバを使った極上のサバ節の合わせ技、究極の融合という訳か」

 コージは手をあごの下にあて、心から感心しているようであった。

 半べそだったルリが凍る番であった。

「だが、それはやはりロックバンドに合わないと考えた、ブギウギはいいんだけどなぁ」

 ツグミはルリよりも早く自分の身体を解凍した。

「そ、そうですよね、やっぱり色々なバンドを見て来たマスターですもんね」

「んで次に考えたのが二つ、『サノ○ビッチーズ』と『マザーファッ○—ズ』だ」

「放送局で名前が放送できない……そうか、それをあえて行うことで反作用的なアクションと問題を起こす計画……これぞロックの最終到達地点、まさに反体制だ」

 いちいち感心するコージであった。

「マスター、それは本気……ですよね、それだったら私の考えた『ペットボトルズ』の方が……」

 ツグミの援護もルリをさらに凍らせていく。

「ツグミちゃん、まさに弾幕薄いぞ、何やってんのという感じのアイディアだね」

 コージはさらにうなる。

「やはりかわいさで言ったらツグミちゃんが今言った『ゼットバトルズ』も捨てがたいな。バッハのフーガの技法のように思わぬ所からモチーフが表れ、聞いている者にバトル感を与える、やはり私は一つの兵器にだけにこだわっていたのがいけなかったのか、それでいうと『ダブルゼットバトルズ』とか、『ゼットプラスバトルズ』いや『リファインゼットバトルズ』か、バンドが二つに分離するのだな、それでダミーを放出して……やはり小惑星を地球に落とすのだけは阻止しなくてはならない」

 コージの誰も聞いていない想像は無限に広がる。

「で最後に考えたのが……」

「『オオルリコネクション』」

 高橋の声である。

 彼は皆が知らない間にギターケースを右手に、左手は四葉少年の手を握って店に入ってきていた。

「って、マスター俺にメール入れていただろう」

「先に言われちまったか」

「こいつが一緒にやる練習する時間は三十分だ、外の駐車場に爺さんを待たせている」

「こんばんは!よろしくお願いします!」

 小さなベースギターケースを背負っていた四葉少年の元気な声が店内を明るくした。

 マスターはバンド名を先に言われ少し残念そうにしていたが、すぐに元気を取り戻して次のように言葉を続けた。

「曲だけは俺に言わせろ糞野郎!俺がお前らのバンドで聴きたい曲はこいつだ」

 マスターはルリの目の前のモノを指さした。

「これ……ですか……」

 そこには冷めかけた『レモンティー』の入ったカップが置かれていた。

「『サンハウス』…………いや『ブラッドショー』のカバーか……」

 高橋は自分のギターケースをソファーに下ろした。

「違うな、シーナの旦那がプレイすりゃ、それは全てカバーじゃねぇんだよ、あいつの魂だ」

「確かにな、奴のギターの音は日本刀だ」

 マスターの言葉に高橋は珍しく納得していた。

「お前、それマイギターじゃねぇか、そいつで演るのは何年ぶりだ!」

 マスターが一際声を張り上げた。

高橋が取り出したのは黒色のレスポールモデルであった。ルリのギターと同じようにボディーには無数の傷があったが、弦を支えるブリッジにはこのタイプには珍しい『フロイド・ローズ』氏の考案で知られる『ビブラート・ユニット』が付けられている。

「忘れた……」

 コージも座席を高く積み上げるように片付け、バスドラムとスネアドラム、それにタム、シンバルそれぞれ一つだけのシンプルなセットを店の奧から引き出し組みはじめた。

 四葉少年も象の形のベースを黒に黄文字が書かれた小さなエフェクター、ベースアンプとつなぎ、いつでも音を出せるようにしている。

「お姉ちゃんも準備しないの」

「何、ぐずぐずしてるんだガキ、お前のバンドだろう」

 そう言って高橋は十円玉を口にくわえ、ギターのストラップを頭から自分の肩に滑らせ、音叉でチューニングをはじめた。

「は、はい!」

 ルリがあたふたと準備する中、マスターが元曲のLPレコードをターンテーブルの上に載せた。

「スネークマンショー版でかけるぜ、シーナに比べりゃセクシーさは全く足りねぇが、ルリちゃん、お前がボーカルだ、すぐ歌詞を覚えろよ」

「えっ……楽譜も何もないですけど」

「また、そんなことほざいてんのか、昔から言われているだろ『ロックに楽譜はいらねぇ』」

「いらねぇって言っても……」

 針が落とされドラムの音がスピーカーから流れ出す。

「テンポはアレグロアッサイ、スネアの音は私のより高めに合わせているな……ふむ、ここでブレイクか、ハイハットの刻み、タムが不足しているが、戦力的には十分だ、いける」

 コージは、スティックをスネアドラムの上に置き、まぶたを閉じて曲を聴いていたが、ツーコーラスが終わった後から小さく叩き始め、レコードに二度目の針が落とされた時には、完璧な仕上がりとなった。

「わー面白い!ブルブル震えてるよ!」

 四葉少年は自分の背ほどあるベースアンプのつまみを回し、スピーカーのコーン紙が震えるのに感動しながらレコードの音を真似て弾いた。

 ルリはチューニングをそこそこに、四葉少年とコージの才能に感動しながら、ややハスキーヴォイスの女性ボーカルの声の一句一句を心に刻み込むようにして聴いた。

 ツグミはカウンターの椅子に座っていられず祈るように両手を組んで立ち上がる。

最高にご機嫌のマスターはプレーヤーの前に立ち、小さいトリス瓶に直接口を付けウィスキーを何度もあおる。

 四葉少年の祖父が、遅れて店に入ってきた。

アンプから出る音にとても驚いていたが、大人の中に混じりながら真剣に演奏する四葉少年の姿を見て自然と通常より二倍遅いゆっくりとした手拍子をとった。

「さぁいよいよ、てめぇの番だ、ジャンキー、お前のリバース(後退)した人生はここで終わる!本当の復活した音、聴かせてもらうぜ……って、あいつどこに行きやがった」


「止まれぇ、俺の小便止まれぇ……ポン酒とのチャンポンがまずかったか、う……うおぇ……リバース(嘔吐)だ……鼻の奥がいてぇ……」

 一番始めに格好良く準備をしていた高橋は、既にけっこうな量の酒を飲んでいたため、ギターを早々に下ろしトイレの便器の友と化していた。



(六)


 駅西口に渡る跨線橋の横、私鉄線路沿いにウィンドウのない店が数軒、軒を連ねている。その中の一軒に『ガラテア』という店名を掲げたオリジナルデザインの商品を主に売るアパレルショップがある。

 店舗の入り口の幅はあまり広くはないが大理石から成る白を基調とした建物のつくりは高級路線の雰囲気を醸し出し、この店のママに客として迎えられることが、一部の者にとってのステータスとなっていた。

 店内は、建物と同じ白い大理石のテーブルが一台と彫刻の施されたカジュアルチェアが二脚置かれているだけで、洋服はどこにも飾られていない。客にあったデザインをオーナー自らプロデュースし、全てオーダーメードの商品を提供する。それがこの店の昔からの販売スタイルであった。

「フミヲちゃん、どうしたの?ママがかわいいかわいいしてあげようか」

ママとはいっても、齢四十を過ぎた筋骨たくましい男性であるが、心だけは花のような女性だと自負している。テーブルをはさんで座るその彼女は、濃いマスカラで彩られる睫毛の下の瞳で、フミヲの顔をなめるようにして見ていた。

彼女は、ライブハウスでフミヲたちのパフォーマンスを見て以来、ステージ衣装やマスメディア関係者の紹介など、スポンサー面も含め、バンドのバックアップを行っている実質的なオーナーである。

「それはうちのメンバーだけにしてください、俺はバイセクシャルじゃないんで」

 次のライブで着るフミヲたちのバンド衣装のデザイン打ち合わせをしている今も、フミヲの顔には不満の色が表れている。

「んもう、つれないわねぇ、新しい曲はもう完成したの?」

「だめ、みんなやる気がない」

「そんな程度のことだと思ったわ、でもそんな面白くなさそうな顔のフミヲちゃんも素敵よ、でもせっかくここまで有名になったんだから、解散するなんて馬鹿なことは言わないでね」

「譲司さん、俺はちっとも有名になったとは思っていません」

「譲司さんて言い方やめて、フミヲちゃんだったらジョージと呼び捨てでいいって言ってるじゃないの、フミヲちゃんお聞きなさい」

 譲司の瞳は獲物を狙うは虫類のように細く鋭い線になった。

「あなた達のバンドは私の服や願いをそれこそ世界で宣伝してくれ、そしてかなえてくれる才能を秘めていると思うの、だからこうやって無料で何もかもプレゼントしてあげてるってことだけは忘れないでね、世の中全てギブアンドテイク、いつも言ってるでしょ、お金は出すけれど口も出すって、解散なんてまだ許さないからね」

 段々と声のトーンを低くする譲司と視線を合わさずフミヲは制服のブレザーの内側から煙草の箱を取り出した。

「喉を壊すからそういうおいたはやめなさい」

「ちっ」

 喫煙を制止されたフミヲは煙草の箱をテーブルの上に置いた。

「このデザインなんかどう、ちょっとグラムロックの時代を意識してみたの、ほらこの羽かわいいでしょ、いやなんて言わないでね、私が良いと思ってるんだから」

 譲司は、天使のような羽の付いた衣装デザイン画をフミヲに見せながらウィンクをした。

「帰ります」

「あら、そう?それならバンドの子たちに伝えてくれるかしら、私の友達が個人的に会いたいらしいの、会ってくれたらお小遣いをいっぱいあげるって、良い機材をまた揃えられるわよ……嬉しいでしょ」

「わかりました」

 立ち上がったフミヲの椅子がガラスを爪でかいたような音を出した。

提示された譲司のデザイン画を一度も見向くことなく、フミヲは店を後にした。



(七)


 電線と架線の向こうに建つ商業ビルの窓の明かりがいくつか消えていく。そこを遮るように横切る列車の車内につり革だけが並んで揺れているのが見えた。

 客を乗せたタクシーがクラクションを鳴らし狭い路地をスピードを上げフミヲのすぐ横をすり抜けていく。

(ドラムの音……?)

 フミヲは車のエンジン音の中にかすかに現れては消えるドラムの音に引き寄せられていった。音の源に近付く程、エフェクトされたベースの輪郭がはっきりしていく。

(生音……こんな音を出す奴らがこの街にいるのか)

 剥がれ落ちたチラシを踏み、フミヲは音のする方へ早足で歩いて行く。

 リズムを刻むドラムとベースは完璧に近い美しさを際立たせていたが、最後に聞こえてきたギターは二つの音の上で大きく揺れていた。

(プロでも来ているのか、しかしこんな店でやる訳はない)

 音は小汚い喫茶店の中から聞こえている。

 フミヲはライブハウスの関係者から、近在のアマチュアバンドの情報をよく耳にしていた。上手い演奏者がいる時は、少しの噂でも必ず漏れ聞こえていた。

(誰だ……誰がやってるんだ)

 今弾いているギタリスト以外、自分のバンドメンバーと入れ替えたいという思いをフミヲは強くもった。

 店の扉の取っ手を引いた時、隙間から演奏している音が鉄砲水のように吹き出し、フミヲに激しくぶつかった。

(大嶋!?)

 ルリはフミヲが呆然と立っていることに気付いていない。少しでも歌詞と音楽を覚えようと目をつぶって一語一句聞きこぼすまいとしながらギターを弾いていた。

 一方、四葉少年のベース音を自称天才のコージはバスドラムで漏らさず受け止めている。

「四葉くん、君の象さんで私のリズムの檻を破ることは不可能だよ」

コージの挑発に四葉少年は、いたずら好きの妖精のように、わざと指を小刻みに滑らせたジャックオフビブラートの音で、コージのブレイク(音のない状態)の邪魔をする。

(おっさんとガキ……!)

 フミヲは見たことのないプレイヤー二人の駆け引きに目を疑った。

 ルリのギターは切れ味のある彼らの演奏とはまるで違っていたが、コージと四葉少年は後ろから坂道を上るルリの音の背中を時には優しく、時には追い立てるように押している。

「あれ、フミヲ……」

 近くにいたツグミが最初に気付いた時は、もう彼は扉を閉め、店から飛び出すようにしてその場から去っていた。



(八)


 いつもであったら、わざと浮ついた軽い単語を並べるトークでライブが進められるのだが、ある日を境にフミヲのボーカルは小汚い言葉で客を挑発するスタイルに変わった。始めは戸惑っていた観客も次第に軟弱さの消えたバンドスタイルに共感する声が上がってきた。それとリンクするように、圧倒的に女性客が占めていた客層にも変化が現れ、男性客の姿が少しずつ増えていった。

関係者しか立ち入ることができないステージを見下ろすブース内に、二つの影があった、

「ジョージさん、どんな魔法を使ったんですか、あいつらただの色モノじゃなくなってきましたよ、特にフミヲ、あいつはいい」

 このライブハウスの雇われオーナーである一見ホスト風の若い背広姿の男は、腰をかがめた姿勢で黒いパンツスーツ姿の譲司に聞いた。

 ステージ上のフミヲを見つめる譲司の微笑は続く。

「あなたの上司も喜んでいるでしょ、売り上げが上がったって、魔法なんかないわよ、多分つまらないことがあの子にあった程度のこと、女を知ったか、男を知ったかくらいのことでしょうけど、あのくらいの年は些細な出来事をさも大げさに考えるから」

「男……ですか」

 オーナーは驚いた顔で化粧の厚い譲司を見た。

「うふ、私じゃないわよ、私が寝る相手はお金と……」

 彼女の艶のある唇がなまめかしく動く。

「ちょっといい……」

「は、はい」

 若いオーナーは、振り向く譲司の妖しい視線に引かれるように、一歩前に歩み出た。

「えぇっ!さっきお金としか寝ないって言ってたじゃないですか」

「あの子の歌を聴いていて身体がほてってきちゃったのよ、ほら、これあげるから、私の火照った身体をを鎮めてちょうだい」

 ハンドバックから取り出された厚みのある諭吉翁札に、一瞬涙目であった若いオーナーは快く了承した。



(九)


 ライブが終了した楽屋ではフミヲを除いたバンドメンバーが、だるそうにパイプ椅子に腰を下ろしていた。爽快感よりもはるかに上回る疲労感があった。

「フミヲの奴、どこ行ったんだ」

 ユウキの問いかけにドラムのコウは指だけ、上を向けた。オーナー室に行っているという意味である。

 イクミはテーブル上のスポーツドリンクを取るのも面倒くさくなるほど疲れていた。

「あいつ、どうしちまったんだ?また、解散とか言ってんのかな……」

「我が儘な一人の奴に振り回されるって、俺たちロックバンドみたいじゃね」

 ユウキの心配を気にする風でもなくイクミは笑えない冗談を言った。

「来週のライブもこの調子だったら日曜に海に遊びに行けなくなるな、彼女と約束しちゃったんだよなぁ、あいつ、今日なんてドラムソロ二十分以上やれなんて言うんだぜ、昔のハードロックバンドじゃねぇんだから」

 ようやくコウが重い口を開いた。


 人が三人入れば肩がぶつかる狭い部屋にフミヲはいた。

「今日のギャラ、いつもより多くしておいたからな、受取書にサインしてくれ」

 蛭の吸い痕のような模様を顔中に付けているオーナーは机に座ったまま、前に立つフミヲに茶封筒を渡した。

「どうも……」

「あ、それとこれ、ジョージさんから、お前にだけご褒美だそうだ」

 続けて手渡された白封筒の中も札であった。

「お前達のライブ見て、すごいご機嫌だった、俺のふところもご機嫌なんちゃってな、また、次も頼むぜ」

「はい……」

 フミヲが出口の方に振り向いた時、オーナーは後ろから声をかけた。

「そういえば、どうして、お前バンドスタイル変えたんだ」

 そう聞かれたフミヲは振り向いて答えた。

「やりたかった音楽をやる、それだけで別に意味はありません」

「へぇ、男……いや、女でもできたんじゃないかって」

 冗談めかしく言うオーナーの言葉に、部屋から出るフミヲは黙って首を振り否定した。


 楽屋に戻ったフミヲは封筒の封を開けないまま二枚とも机の上に置いた。

「うわ、今日、結構入ってるじゃん、すげぇ」

「俺はいらない、みんなで分けていい」

「おい、本当にいらないのかよ」

「ああ」

 驚くメンバーを気にする素振りも見せず、フミヲはすぐに着替えて楽屋を後にした。

「俺たちをライブでこき使っているお詫びってか、それにしてもすげぇな」

 楽屋に残された他のメンバーはコウの言葉に皆黙った。

「気にしてもしょうがないじゃん、いらねぇって言っているんだしよ、うわ、すげえ、俺明日、服買いに行く……わ、なんだこれ」

ユウキが開けた白封筒に入っていた諭吉翁札には全て紫色のキスマークが付けられていた。



(十)


パチンコ店からは威勢の良い店員のあおり言葉とにぎやかな曲、ぎらついたネオン。夜の駅前通は飲食店が並んでいるので、午後九時を過ぎても人の波が途切れることはない。

 違法駐車の自転車がこの通りの歩道をさらに狭くしていた。

練習を終えたルリは、すれ違う通行人に背負ったギターをぶつけないよう、居酒屋や金融会社の看板の後ろで立ち止まりながら、駅へと向かっている。

 今日の練習はコージとルリの二人だけであった。

テンポの合わせ方や間の取り方、楽譜の見方など、コージはこと細かく教えてくれるので、とてもルリは感謝していた。四葉少年は週末と休日限定だが、高橋は練習しすぎるとテンションが下がると言って、最近はギターも出さず、酒だけ飲んで最後にはカウンターで寝ている日が続いている。今日などは「疲れたから行かね」という理由だけでマスターの店に顔さえだしていない。

 それでもほぼ曲は仕上がっていた、ルリのギターとボーカルを除いてはだが。

(あと一週間しかないもんね、頑張らなくちゃ!)

 ルリが気合いを入れた瞬間、車道を挟んだ居酒屋へ妙齢の美しい女性と連れだって入る高橋の姿をみとめた。

「!」

店の中へすぐに入りたいと思ったが、学校の制服のままである。

 高橋の私生活のことは全くわからないし、高橋が誰とつきあおうが、誰かに制限される筋合いのものではない。

 ただルリの胸中は少しだけ複雑な気分であった。



(十一)


「飲み物のご注文は何になさいますか」

「私はウーロン茶、この人には生ビールの中で」

「かしこまりました」

 男性店員に注文を終えた女性は、おしぼりで手を拭きながら向かいに座る高橋の顔を見て笑った。

「突然呼び出して悪かったわね、社の退職激励会の時以来からだっけ」

 どう見ても高橋より一回り年下に見える女性は、敬語を使うこともなく話を続けた。

「ぐだぐだ言わねぇで早く本題を言え、この後、別の用事がある」

「どうせ、前みたいにあなたの行きつけの店に飲みに行くだけじゃないの?」

「それも俺の仕事のうちだ」

 早々に飲み物と突き出しが運ばれてきた。

「お料理のご注文を伺います」

「この人の好きなのはたしか……ホッケの塩焼きとキュウリの一本漬、私はシーザーサラダだけでいい、以上でお願いね」

「はい」

「それじゃ、乾杯!」

 女性はコップを両手で持ち、テーブルに置いたままの高橋のジョッキに軽くぶつけた。

「それじゃ、私も待つの嫌いな女だから、すぐに本題を言うわね。あなたに社へ戻ってきてほしいの」

 高橋はまだジョッキに手もかけていない。

「新聞で目にしていたと思うけど、あなた達と対立していた岡田部長と一派は失脚したわ、前から進めていた東アジアへの投資で大穴開けちゃったの、みんなそろそろ危ないと思っていたんだけど、どんどん増資していって……相手先お得意のハニートラップにでも引っかかったんじゃないかって、今はみんなそう噂してるわ、あなたと左遷された工藤部長の言う通りになってしまったことは事実、次の人事で工藤部長も地方営業所から戻って来るし、また前みたいにみんなでプロジェクトを組めるの」

「断る」

 そう言って高橋は突き出しに出ている枝豆を一つ手に取り、自分の取り皿の上に一粒落とした。

「一度さやから出た枝豆はさやには戻れないってことだ、落ちた枝豆を塗箸でつまむのはさらに難しくなるしな」

「どうして!チャンスなのよ、あれほど悔しがっていたじゃないの、あなただったらすぐに次のプロジェクトのリーダー待遇よ、だってあなたの言う通りに全てなったことが証明されてるし、誰も反対する人なんていない、すぐに海外支社に行ってもらって現地のスタッフと……」

 高橋が箸でつまんで持ち上げた豆が床に落ちてテーブルの下に転がった。

「何、やってるのよ、私は本気なの!」

「さすがだ、身一つで社長の秘書から役員に成り上がっただけのことはある、そんで、お前が俺をここまで買ってくれることに対しても感謝している、だが返答はさせてもらった……でも、ちょっと待て、豆が足下まで転がった……後の客が踏んじまう」

 高橋は席を立ちテーブルの下に手を伸ばした。

「なかなか取れん……」

 座ったまま取るのを諦めた高橋は、テーブルの下に上半身を入れた。

「あ、踏むなよ、そんで足閉じとけ、お前のスカートの中を覗くつもりは毛頭ない」

「別に構わないわよ、あなたが望めば、もっといいものだって見せてあげるのに」

 女性は小ずるく微笑んだ。

 しかし高橋は聞いていない。

「よぉし、取れた、他にも豆転がってたぞ、同じような馬鹿なことする奴もいるんだな」

「あなたって変わらないのね……」

「変わるのは時代だけだ……」

「来週まで返事を待ってあげる」

「悪ぃ、もう先約が来週に入っている」

 高橋は取った豆二粒を殻入れに入れた。

「先約?もしかして別の社の……」

「そんなのとは正反対の所に住んでいる連中との約束だ、さぁ、話は聞いた、久々の再会の乾杯をやり直すか」

 微笑む女性に見つめられながら高橋はジョッキのビールを一気に飲み干す。昨日まで飲んでいた酒よりも今、飲んでいる味の方が何となく濃く感じていた。

 ただ、ルリが二時間以上も一人、居酒屋の前で彼を待っていたことだけは知らなかった。



(十二)


「前売りチケット完売です」

バンドコンテスト実行委員会が入る商工会議所の一室は、若い事務員の報告でどよめきが起きた。

「ほら、言っただろ、ゲストとは言ってもだよ、フミヲのバンドだけでも客は呼べるって」

 外回りから戻ってきたばかりの商工会の青年部長は、クーラーの効いた部屋の中で汗を拭きながら笑って言った。

「嬉しいには嬉しいのですが、追加販売はないかと問い合わせが殺到しています」

「駅東口広場を全面封鎖だな、こりゃ……少し会場拡張できそうか」

「JRさんとタクシー業界さんが良い顔しないでしょ」

 実行委員会のメンバーは若いとはいえ様々な職種の代表者で成っている。市をあげてのこのイベントを成功させたい思いだけは人一倍強い。

「客が来ればどちらも潤い間違いないんだ、それと、警察には会長から直接連絡入れてもらうよう頼んでおく、警備員増員の見積もりだけ立てといて」

「大丈夫ですか、そんな大盤振る舞いで」

 周囲の者の憂慮する声を青年部長は鼻の頭に汗を浮かべたまま自信満々の顔で否定した。

「心配すんなって、ドリンク飲み放題代込みのチケットだ、若い子いりゃ、ビールはそんなにはけないだろ?ソフトドリンクの単価なんてたかがしれているし十分ペイできる。終了時間も早く切り上げたら、周辺の店に人は流れるからな。誰も損はしないって、ようは、このイベントがどれだけ世間から注目されるか、そこが要だ」

 青年部長のポケットにあるスマートフォンの着信音が鳴った。

「あ、譲司さん、いつもお世話になっています。これから連絡しようと思ってたところですよ、ええ、はい、本当ですか?OKでた?うおぉ、ありがとうございます!」

 委員のメンバーはガラス窓が共鳴するほど喜ぶ青年部長の顔を見て、また、何か吉報が飛び込んできたと確信した。

 電話を切り終えた青年部長は聞かれるまでもなく、興奮さめやらぬ声で委員にその内容を早口で伝えた。

「テレビの中継入るってよ、午後の再放送枠とれたらしい、ウェブの『ミロ動』も入るし、完璧だ」

「テレビって本当ですか?」

「さすが譲司さんの濃い人脈だよ、俺たちのイベントのすごい宣伝になるぞ、ところで事前審査の結果は?こうなるとあまり下手なのも出せないからな」

「問題ありません、十組にしぼりましたよ」

 談笑する彼らの横の机上には、本選決定の印が押されたルリのつたない字で書かれたエントリーシートが、クーラーからの風に一辺を揺らしていた。



(十三)


「こんにちは」

 店のドアが勢いよく開き、四葉少年がギターを背に飛び込んできた。

「今日は早いな少年、おっ、マネージャー付きとは、その年でなかなかやる」

 後から入ってきたアイサの姿を見て、コージはコップを拭く手を止めた。

 コージの言葉に四葉少年は顔を急に赤くした。

「何で顔を赤くするの?マネージャーって好きとか嫌いとかっていう関係じゃないんだよ」

 アイサはきょとんとした顔で、玄関先で立ち止まる四葉少年の顔を見た。

「あっ、そうか」

「私も君と同じ頃は女子に騒がれたものさ、しかし音楽という戦場に恋愛は似合わないと思い、あえて避けていた」

「認めたくないものだな、自分自身の……若さゆえの過ちというものを」

「そうだ、それが今になって若さゆえの過ち……って、アイサちゃん、なぜ君がそんなことまで……」

 アイサの続けた言葉に今度はコージがかたまった。

「コージさんが好きなアニメに出てきたセリフを言っただけです」

「アイサちゃん、君はミネバ様のような娘だ、私の特製パフェを君に献上したい」

 二人が来るのを知っていたコージは冷蔵庫からクリームパフェを二つ取り出した。

「さすが、赤い彗星のコージ大佐、仕事も三倍早い」

「そう呼ばれたこともある、だが昔の話だ……」

 知らない単語の連なる二人の会話に、四葉少年は次に自分がどのようにしたらいいか考えていた。

「今日の練習ですけど、ルリちゃんはお休みです」

 二人の話が途切れたところでようやく四葉少年は、連絡しなければいけないことをコージに伝えた。

「何、傷は深いのか、最近機体の調子が悪いようだったが、やはり」

「ううん、ちょっと熱が出ただけです、本当は練習に来たかったんだけど、お母さんに止められました」

 カウンターの椅子にちょこんと座っていたアイサは、コージ特製のクリームパフェを食べながら答えた。

「なかなかみんな揃って演奏できないですね」

 四葉少年はアイサの横でパフェを口にしながら、カウンター横に無造作に置かれた状態の高橋のギターを見て言った。

「大人になればそれが普通の生活だ、音楽とはまるで違うことをしていて、練習をしなければと思いながら、日常の生活の中に音楽の占める割合が段々と減っていく。でもね、私はむしろこうした生活をしながら時々合奏ができる、今となってはそれだけでも人生のオアシスにめぐりあっているような気分だよ」

「オアシス……」

「少年、オアシスの意味を知っているのか、さすがだな」

「ロックバンドの名前ですよね」

 コージは真剣な顔つきの四葉少年に苦笑しながら話を続けた。

「少年にもいつかその気持ちがわかる時が来るだろう、今はまだ難しいとは思うがな、ああ見えて、心が一番繊細なのは、そこの機体のパイロットだと私は思う」

「高橋さんですか」

「よく見てご覧、あれだけ錆びていた弦が、今は全部新しいだろう、もうこれで三回は換えている。しかも換えたばかりの弦は伸びるからああして、時間をかけてネックに慣らしているのだよ」

「そういえば、僕まだ弦を交換していなかった」

「それも彼は知っている、ありがたく受け取っておくのだな」

 コージは昨晩、高橋から渡された紙袋をカウンターの下から取り出し四葉少年に渡した。

 中に入っていたのはショートスケールのベース弦のセットであった。

「ただ、値段をケチったのか、在庫品処分品で結局錆びているのが難だか……」

「詰めが甘い典型的なタイプなのね」

 そうつぶやいた後に、アイサはパフェの最後の一口を味わった。



(十四)


ゴミ袋に捨てられた四角い厚紙には薪を背負った老人の絵が描かれている。中には黒い円盤のようなものが入っていた。幼児はその絵が昔話に出てくるおじいさんのようで一目見た時からとても気に入っていた。

幼児の父親はその厚紙を他の絵の描かれた厚紙と一緒に部屋の壁に飾っていた。大きなアルマジロのような戦車、岩に彫られた人の顔、厚紙の絵はどれもきれいで見ているだけで楽しかった。

どんなに素敵な昔話が聞けるのだろうと想像していたが、大好きな父親は最後まで男児にそれが何であるかを教えてはくれなかった。

「ママ、パパはどこに行ったの」

男児から問いかけられた若い婦人は何も答えず、部屋一杯に広がる荷物を段ボール箱に詰めていた。

「ねぇ、どこに行ったの」

 男児のしつこい問いかけに、婦人は思わずその子の小さな頬を平手で打った。男児は頬をみるみると赤く変色させながら大声で泣いた。

「うちにはもうパパはいないの、何回言ったらわかるのよ」

 男児の顔は鼻水と涙の渦の中に消えた。


「フミヲ、そのゼップ(Led Zeppelin)のCD持ってなかったのか」

 話しかけてきたユウキにフミヲは我に返った。

「いや、このシンボルに何の意味があるか前から考えていたのさ」

 ジャケットには円や普段まず目にすることのない模様が四つ描かれている。

「あんま、意味ないんじゃないの、それよりもルリの奴にCDを贈りたいと思ってるんだけど、どれがいいか相談にのってくれよ」

「あいつには、あの辺が似合ってるんじゃないか」

 フミヲが指したのは、着物姿の中年女性が笑う演歌歌手のポスターであった。



(十五)


 夕方、ルリは微熱があるにもかかわらずいつもの総菜売り場のバイトに出勤した。

「おはひょうごじゃいます」

「あら、ルリちゃん、顔色悪いわよ、大丈夫なの」

「平気でしゅ、ちょっと風邪気味なだけで」

 調理場にいるパート従業員の心配顔をよそに、ルリは売り子に立った。そこには既に無愛想な高橋も立っている。

 ルリは彼に挨拶もせず、調理場からあがったばかりの総菜を並べ始めた。高橋も、足元がおぼつかないルリの様子に気付いていたが、特に話しかけもしない。

 デパ地下には多くの帰宅客で混み合っていたが、今日に限って二人の前で足を止める者は少なかった。

 高橋は呼び込みの声を発しないため、以前から上司に注意されることが多かったが、それを改善しようとする姿勢は未だに見せてはいない。

 仕様がなくルリはのどの奥の痛みを我慢し、無理して声を上げた。

「いらっじゃいまぜー」

 しゃがれた声は、彼女が思っているよりも通らず、客はどんどんと売り場の前を素通りしていく。

「お前……」

 ようやく高橋はルリに声かけたが、ルリはそれを無視した。高橋はその様子を気にする風でもなくまた黙ったまま、時折、意味もなくカウンターの中の商品を並び替えていた。

「いらっじゃいまぜー」

 ルリの無駄な抵抗は続く。

「いらっじゃいまぜー」

 声はもう、某ガキ大将の歌声のごとく「ボエーッ」としか周囲の者には聞こえない、それでもルリの無駄な抵抗は続く。

「いらっじゃいまぜー」

「もういい、わかった、俺がやる!いらっしゃいませ、今日は蟹クリームコロッケが特売になっています、どうぞいらっしゃい、タイムサービス品もご用意しています」

 ルリの態度に根負けした高橋は大声を上げて、今までしたことがなかった呼び込みを行った。これにはパートのおばさま方も目を丸くして驚いた。ルリも一瞬だけいつものようなにこやかな顔になったのだが、すぐにふくれ面に戻った。

 彼の声に気付いた通行人は足を止め、一人が来ると二人、三人と引っ張られるように店の前に集まってきた。

 小一時間もしない間に、今日のほとんどの商品は売り切れ、カウンターの中にはカッパ巻きとかんぴょう巻きが二本だけ残った。

 調理を終えたパートのおばさま方は、どういう風の吹き回しで高橋が声を上げたのだろうとコソコソ噂話をしながら、先に仕事場からあがっていった。

 ルリと高橋の二人はまだ肩を並べて互いに視線を合わさず正面を向いたまま立っている。

「大事な時期に風邪をひくんじゃねぇ、それもこの糞暑い時期に」

 いつもと全く違う様子のルリの無言攻撃に、高橋は我慢できなくなりとうとう口を開けた。

「高橋しゃん」

「ん……」

「私がこの真夏に何で風邪をひいたか知りたいでしゅか」

「いいや、知りたくない」

 二人の視線は正面から動かない。

「昨日、高橋しゃんが入った居酒屋の前で立っていました」

「何で」

「私の勝手でしゅ」

「ティッシュ配りのバイトでもしていたのか」

「違いましゅ」

「斎場への道案内看板でも持っていたのか」

「違いましゅ」

「変わった趣味に出会えたんだな」

「全然、違いましゅ」

 高橋はため息を鼻から出して、調理場へ空いた総菜の入っていたケースを持って行こうとした。

「あのきれいな女の人は彼女でしゅか……」

 高橋は別に何もやましいことはしていないのだが、ルリからの予想していなかった言葉を聞いて「うっ」と声を詰まらせた。

 その様子を見て、ルリは肩をがくりと落とした。

「図星でしゅね……そうでしゅか」

「お前に何の関係がある」

「関係ありましぇん、今日は練習に行くことを母に止められているので、もう帰りましゅ」

 ルリは、高橋に一礼だけして、カウンターから出、さっさと更衣室の方へ戻っていった。



(十六)


「俺、何かあいつに変なこと言ったか、ガキは本当に苦手だ」

 練習も終わり、コージとマスターは既に酔いが回っている高橋のぼやきを聞いていた。

「お前もガキだっただろう、どっちかというとお前の方が人生舐めている生意気な奴だった、ほら、腹減ったまま酒飲むと、内臓焼けるぞ」

 マスターは冷蔵庫から取り出した魚肉ソーセージを三本、カウンターの上に放った。コージは、コーラの瓶の栓を中身が噴き出さないように慎重に開けている。

「高橋さんがわからなくても、私には何となくわかりますよ」

 上手く開けることに成功したコージは、栓抜きをカウンターの引き出しにしまい、空になった高橋のグラスにコーラを注いだ。

「こんなの飲みたくねぇ」

「でも、昔はおいしく飲んでましたよね、青春を代表する味です」

「確かにな、はじめて飲んだ時、この不思議な味にKOされたぜ」

 マスターも珍しく自分からグラスを差し出した。

「甘かったり、苦かったり、辛かったり、言葉で説明できない味」

「何、くどいこと言ってるんだ、俺はお前が何を言いたいんだがわかんねぇ」

 コージは高橋のグラスにだけ、細いスティックシュガーを一本足した。

「それ甘くなりすぎだろ」

「偏ったこの味が高橋さんへの今のルリちゃんの答えですよ」

「それどういう意味だ?」

「ジャンキーてめぇは、脳みそまで錆びてやがんなぁ、それに比べコージ、お前詩人だなぁ、いつもの訳わからねぇロボット話じゃねぇしよぉ」

「これでも一度はミューズ(音楽の神様)に愛された男ですから」

「シミーズか、女の下着にも愛されていたのかお前は、人は見かけによらねぇもんだ、あれは昭和男の助平心をマックスにさせる一品だ。んじゃ、ルリちゃんのブルースプリングス(青春)に乾杯だ」

 面倒くさがる高橋を無理矢理誘うマスターの音頭で三人はグラスを鳴らし、グラスの飲み物を干した。

 マスターの店に三人のゲップのワンショット音が響いた。



(十七)


 バンドコンテストは目前。

当たって欲しくないと皆願っていた長期天気予報が見事に的中し、関東地方は例年にないほどの猛暑となっている。

この街には、昔の地名の元にもなった千年以上前から鎮座している社がある。

駅からアーケードをくぐり、アスファルトから立ちのぼるかげろうが揺らぐ商店街を抜けると、参拝者を出迎えるように大きな朱色の鳥居が建っている。

社殿まで続く長いケヤキ並木の参道の横には趣のある団子屋、手焼き煎餅屋などが軒を並べ、「冷房中」と書かれた張り紙の前でエンジ色の暖簾を垂らしていた。

駅の周辺では全く姿を見せない蝉達も、この聖地では大型自動車のエンジンよりも大きくそして元気よく、求愛バンドコンテストで一足早く自慢の歌を競っている。

参道の両脇には車道もあり、車の流れも多いのだが、あくまでも蝉の方が主役であることに変わりはない。

(蝉は暑くないのかな)

 ルリは補習からの帰り、大樹の木陰をたどるようにしながらお社へと歩いている。

(ねぇ、優勝するように神様にお願いした?)

(ううん)

午前中、ヒナに教室で聞かれた信心深くないルリは、その言葉を聞いてすぐ、にわか信者となって参拝に行こうと心に決めた。

車道が切れると広い境内が広がり、その先には鯉や亀が重なるようにして泳ぐ池がある。そこにかかる橋の欄干の擬宝珠が、屋台目当ての初詣に来たことしかないルリに、ここが歴史ある神社だということをあらためて感じさせた。

「ん?」

 珍しく心落ち着く雰囲気を味わっているルリの前に、能舞台の陰から思わぬ人物が姿を現した。

(フミヲ!)

 カメラマンと二人連れで歩く私服姿のフミヲもルリに気付いた。何を言おうか少しだけ緊張するルリに、普段話しかけることがないフミヲが声をかけてきた。

「お前のバンドのエントリーシートを見せてもらった」

「え、あ、そう」

 ゲストで参加するフミヲたちであれば、シートに目を通す機会もあることだろうと思ったが、普段は無視を決め込む彼がなぜ急に話しかけてきたのが不思議だった。

「どうして、ここにいるの」

「来月発行するフリーペーパー『ビッグパレス』用の撮影なの、あなたも読んだことがあるんじゃないかな」

 傍らの若い女性カメラマンが、馴れ馴れしい態度でフミヲのかわりに答えた。

「大嶋」

 フミヲは話を続けようとするカメラマンの言葉を遮って、ルリの名前を呼んだ。

「お前のバンドでギター弾くさえない男がいるだろ」

「うっ」

ただの知り合いかと思ったが、「さえない」ということまで知っているなんて、よほど近い関係にあるのだとルリは思った。

「あいつな……」

「さえないなんて、年上の人に対して失礼でしょ」

 ルリも高橋のことは、その通りだと思ってはいるが、他人から、特にフミヲからそう言われると何となく面白くない。

「最低な奴だから、信じない方がいい」

「何を……」

 ルリが反論しようにも、その次の言葉は口から出てこない。

 フミヲは黙ったルリを振り返りもせず、駐車場の方へカメラマンと二人歩いて行った。

 強烈な陽の光は、真昼ということもあり、その力をさらに倍増させていく。あまりの暑さのためか、先ほどまでのうるさい蝉の声が聞こえなくなった。



(十八)


 コージのドラムフィルから、ルリのギター音のフェルマータで、今日の練習が終了した。

「よぉし、今日も良い感じの演奏だった、これにボーイと糞ジャンキーが入ればもう心配いらねぇ」

 すっかりプロデューサー気取りのマスターの拍手が、いつもの練習切り上げの合図である。

 高橋はあの日から一度も練習に来ていない。

他市へ新規に開店した同じ系列店への出向という形で、上司から仕事を頼まれていたことは知っていても、ルリの心中は今も複雑だった。

「どうしたんだい」

 ライドシンバルをスタンドから外しながら、コージは物思いに耽るルリへ声をかけた。

「あ、あの、あと一回しか、みんなと揃えることしかできないのに、本当に大丈夫なのかなと思って……でも、大丈夫ですよね」

「四葉少年が会場の雰囲気に飲まれなければ、でも、最近の子はしっかりしてますからね、年の割にあれだけ、度胸が据わっている子は珍しい、まるで昔の私を見ているようだよ、彼もエスパーかもしれない」

「高橋さんは……」

「あの人なら、酒さえ飲んでなかったら大丈夫」

 ルリは、それが一番難しいことだと思った。

「それとルリちゃん、オーナーから今日聞いた話だけどね、制限時間いっぱいまで、あの人はソロを引っ張るのが癖らしい。曲の終わるタイミングが練習と違っても心配しないように、そうですよね、オーナー」

「ああ、予想以上のスリル、あいつのプレイスタイルの基本だ」

「練習と違う?」

 初耳であった。ちんどん屋ご一行が初物大売り出しのチラシをまく幻がカウンターの上を行き過ぎていく。

「コージさん、そういう時はどうすればいいんですか」

 心配顔のルリにコージとマスターは口を揃えて答えた。

フォースで感じろ」

 言い終わった二人は、同じことを言った偶然に、笑いながらカウンター越しに力強くこぶしをぶつけ合い、握手をしている。

 おろおろするばかりのルリに、コージは話を続けた。

「ルリちゃん、終わる十六小節前から二小節くらいドラムパターンをちょっと変えるから、ライドの裏でバスのダブルアクションとクラッシュを連続でかぶせるよ、それを合図にして、実際やってみたら簡単なことですよ」

(つんだ……)

 ルリはその確認の仕方が簡単に分かれば、魔法で動物の声を聞くことも簡単だと思った。ちんどん屋が消え、肩に白フェレットをのせた魔法使いの女の子の幻が光の粉を振りまいているのが見えた。

「そう深く考えんな、おっ、帰ってきたな」

 扉を開けたのは高橋ではなく両手に荷物をいっぱいかかえたツグミであった。

「あーん、もう練習終わっちゃったんだ」

「ツグミちゃん、どうしたんだい、その荷物は」

「明後日の本番が楽しみで田舎から途中で一人で帰って来ちゃった。車じゃなかったんで、電車賃かかったけど」

 コージの質問に答えながらツグミは、袋から土産物を取り出し、皆に配り始めた。

「ルリ、何か浮かない顔してるけど、練習上手くいってないの?」

「あ……いや……」

「楽譜という決められた道からのランナウェイだ、気にすることはねぇ、誰だって、その脱線するギリギリの所でテンションをマックスまで上げるんだ、警官マックスの『インターセプター』のようによぉ、モヒカンヘッドの野郎共にガツンと聴かせるための第一歩だ」

 マスターの言っている意味は、ルリのみならずツグミにも理解不能であった。

 ただコージだけは解読しているようで、続編の出来がエイリアンやターミネータと同じくらい最高だとか、ティナには、あそこで二曲は歌わせておくべきだったなど、突然降って湧いてきた映画の話で盛り上がっていた。

「まっ、いいじゃない、あと、これ、みんなで食べてください」

 ツグミから差し出されたのは、笹鎌と牛タンが詰まった二つの大箱であった。

「白い悪魔と赤い彗星のコラボ、うぅむ、ただ者ではない」

 コージが受け取ろうとする横から、マスターが奪い、喜びの声を上げた。

「ほーっ、こいつはポン酒の愛人じゃねぇか、コージ、さっそく杯の準備だ」

「了解、カタパルト展開確認、出撃します」

 片付けを終わらせたコージはカウンターの中へ戻り、手際よく湯の張った鍋に、日本酒の入った徳利を立てた。

「コージ、この真夏に真冬のような飲み方はバッドだぜ、冷だ冷」

 ツグミはルリのシートの横に並んで座った。

「ルリ、いよいよだね、もう歌詞はおぼえたの?」

「うん……」

「どうしたの、ねえ、聞いてる!」

 ルリがいつもと違って覇気がないことに気付いたツグミは、彼女に思い切り顔を近付け、大きな声を出した。

「わっ!」

「わっ、じゃないわよ、全く、いつもふわふわしているあんたが、それ以上ふわふわしてどうすんのよ」

「ごめん……」

「もう、ルリったらぁ、私のメールに書けないほど緊張してたの?そんな調子だったら、当日フミヲたちに笑われるよ」

「フミヲ……」

 ルリはツグミの言葉に、ずっと心の中でわだかまっていた疑問を口に出したい衝動に駆られた。

「あの……マスター」

「何よルリ、何でもいいから私に話してごらんって……えっ……私じゃない」

 ツグミは自分ではなく、ルリのうつろな視線がカウンターで酒盛りを始めているマスターに向いていることを知った。

「あん?何だルリちゃん、ハイスクールガールの飲酒は法律で禁止されているんだ、そこは踏み出しちゃならねぇ、デンジャーゾーンだ」

「マスター、知っていたら教えてください、『エルドール・ヴァルキリー』のフミヲと高橋さんって、どんな関係なんですか?」

 ルリは立ち上がってマスターの座るカウンター席へ駆け寄った。

「ああ……それはな……ああ……そうだな……話しちゃいなかったが……」

 マスターのいつものなめらかな口調が、その時だけはなぜか口ごもった。

「息子だよ」

 高橋が扉の前で立っていた。店内がしんとする中、高橋はルリの前を横切り、マスターの隣のカウンター席に座った。

「おめぇ、いつ入って来たんだ」

「ちょっと前、自分の名前が聞こえたんでな、今日は珍しいつまみがあるじゃないか」

「ご、ごめんなさい!」

 ルリは聞いてはいけないことを聞こうとした自分を恥じ、楽器を置いたまま店から飛び出した。

「ルリ!」

 ツグミもすぐに後を追って店から走って出て行く。

「いいんですか」

「ああ、いつかはあいつにも知られることだ、それが今か、先かなんていうのは俺が決めることじゃあないし、別に知られたからって困ることでもない」

 コージの心配顔をよそに、高橋は酒を自分の杯へなみなみと注ぎ、ぐいと喉へ一気に流し込んだ。



 仙台行きの『はやぶさ』が、跨線橋を左から右に通過する。すれ違いざま窓に乗客の影を映すシャトルは、駅の構内へ吸い込まれていく。

 橋上から見える光景は、プラットホームの明かりと車のライトで今が夜であるということをまるで感じさせない。

 ビルの赤い標識灯は、ルリの荒くなった呼吸をゆっくりと整える役割を担うかのごとく左右交互に明滅を繰り返していた。

 無我夢中で店を飛び出したものの、ルリは次に何をしていいのかわからなくなっていた。

 財布、携帯をはじめ何から何まで、全て店に置き忘れていたことに気付いたが、飛び出してきた手前、今、店へ取りに戻ることなんてできない。

「私って、馬鹿だ」

 ルリは自分の右手で頬を思いきりつねった。痛かったが、ただ痛いだけであって、その後に続くものは何もなかった。

 涙がじわりと瞳に浮かんだ。

「ルリ!あんたどこいくつもりよ!」

 道の向こうからツグミが自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。


 次の日、ルリの夏風邪はまた少しぶり返していた。 

 明日がいよいよ本番であるというのに……。





「ジャンキー Guitar Part」


(一)


俺は、この中途半端に地方色で塗られたこの街が嫌いだ。


 カブトムシを捕り、スズメバチに追いかけられた雑木林はマンションが急ピッチで建造中。ザリガニやゲンゴロウがいた沼地はあっという間に埋め立てられ、バイパス道路の工事中だ。狭い県道は拡張され、両側には同じようなメニューを出すファミレスがそれこそ軒を連ねるように建っている。

 自然破壊なんていうセンチメタリズムな言葉は、この未曾有の好景気の世界では些細な事象にすぎない。

ちょっとした簡単なバイトをするだけで、金が面白いように稼げ、会社説明会を大学の先輩に連れられ、ちょっと覗くだけで、旅費、日当がもらえるこの現実を楽しむことの方が今の俺にとっては重要だ。

その金で毎晩遊びに出かけることができたし、バイクも新しいのにすぐ乗り換えた。高校の時の友人のように、毎週末に峠に行くなんていうのは考えるだけでも面倒くさいが、白いタンクに青ラインのRZは気持ちいいくらいに加速した。

何でも思うように手に入り、何でも好きなことができる時間がある。俺はこの時代に生まれたことに少しだけ感謝している。

バラックの密集していた駅の西口は、都市再開発という名の大号令で、すっかりきれいになっちまって、昼間から酔っぱらってドブに嘔吐している爺さんどもの姿はすっかり消えた。あいつらは本当のゴミだ。社会からドロップアウトした奴らに、いくら金をつぎ込んだって、無駄だと思っていた俺にとっては大歓迎のことだった。


その日はいつものように、ゼミの連中と近くの女子大の子達を誘っての合コン。この会の目的は飲むことではなく、それぞれペアで分かれた後の時間がそれこそ本番だった。まぁ今はそのことは置いておくことにしよう。

新しく出来た商業ビルの地下の居酒屋、今日の第一会場だ。

教授から頼まれた書類を、隣県の大学に届けなければならない急用が入ったものの、何とか乾杯をちょっと過ぎた頃の時間に間に合った。

 

酒とタバコの煙で満たされた小規模のパーティールームは、若者特有の動物のような笑い声が響いていた。

「おそいじゃないか!紹介します!我々ゼミのヒーロー高橋君です!」

 幹事の友人は、俺がルームに入るやいなや、紹介した。

男十人、女十人がくじ引きで決めた順で座ることになっていたらしい。後から参加した俺は一番末席に座った。目の前には、ちょっと面白くなさそうにしている女がいた。

 その女は化粧っ気も無く、着ている服も見るからに普段着であり、その場からちょっと浮いているようにも見えた。

「ジュースでいいのか?少しアルコールが入っていた方がうまいぜ」

「ええ、でもいいの、私が飲みたいものを飲むから」

 その女は、俺にちょっとだけ愛想笑いを見せ、自分の腕時計で時間だけを気にしていた。

ぱっと見、あまり気付かなかったが、よく見ると長い髪に隠れる細面な顔は、今日来たメンバーの中でも美人のランクに属するんじゃないかと思った。

 それは俺の隣に座っていた友人も同意見らしい、彼女に馴れ馴れしく話しかけていた。

「何か、用事があるのかい」

「ええ、ちょっと」

「どこ行くの?気になるな?もしかして彼氏の所かぁ?」

「サナに彼氏なんている訳ないじゃない、毎日練習で忙しいんだもんね、今日だって無理矢理連れてきちゃったぁ!」

 サナという名の彼女へ寄りかかり酔っぱらう友人の姿は、俺にはナマケモノのように見えた。

「もう、幸子、気にしないでよ」

「何の練習?」

「バンドよバンド、歌は世界一ぃ!だもんね」

 彼女が答える前にその友人が先に答えていた。

「お酒のペース早過ぎなんじゃないの?」

「だって、楽しいからいいんだもん!でも噂通りね、高橋さんのこと、私ちょっと気になるなぁ」

 確かにバンドをしている連中は高校の頃から増えていて、俺の周りにも何人かいた。さすがにもう刈り上げている連中は少なかったが、髪をハリネズミのように立てている奴らはどこでも目にする。

「えっ、ああ、ありがとう、どんな噂か気になるけどね」

 すぐやらせてくれそうなタイプの女はそこそこに、俺はこの場に無理矢理連れてこられたオーラを振りまく目の前のバンド女の方が気になった。

「俺も結構、音楽好きだけど、どんなのが好きなの」

 俺はどうせコーミンとかタシローとか、ニューミュージック系と言われるおなじみの名前があがってくると予想していた。

「ちょっと古いけど『ベック・ボガード&アピス』とか、『クリーム』とかシンプルなグループが好き」

「ああ、あれね、あれは良い音楽だよな」

 俺は当然、そんなグループのことは知らないが、話を振った手前、知らないなんて若いプライドが許さなかった。

「これから練習なのか」

「あっ、練習というより、友達のバンドのステージがあるの、向こうにも行くよって言っていたから……」

「どっちか断れば良かったんじゃないのか」

「だって、無理に頼まれたから……でも、そういうの迷惑するよね、すぐに顔に出るってよく言われるし……」

 優柔不断な女だと思ったが、彼女なりに考えていたことは、微妙な表情から容易に想像することができた。

「俺もそのライブを覗いてみていいか、少し興味あるし」

 興味があるのは彼女の方だが、この際どうでもよかった。

「バンドか何かやっていただんですか……」

「ん、ああ……中学の頃だけどな、いや小学生の頃か、知り合いからストーンズのLPもらって」

 嘘だった。知り合いからもらったのは漫画の宇宙戦艦アマトのシングルで、B面の『真っ赤なスカート』が好きだった。

 目の前の女は、俺と話が合いそうだと思ったのか、さらに音楽関係の話をふってきた。

「何か、楽器とかやっていたんですか」

「ん……ああ……ギターを少しだけ」

 もちろん弾けない。

「こういう場に来る人たちってサーフィンとかスキーとかテニスとかの話ばかりだと思ったけど、音楽する人もいるんですね」

「そういうお前もな」

 それから三十分もしないうちに、俺たちは先に店を出た。俺の第一次ナンパ作戦は成功だった。



(二)


 彼女に案内された店はお世辞にもきれいな店ではなかった。地下に通じる階段の壁には、巷で流行る『ハートカクテル』の世界とは縁遠い手書きのチラシが何枚も重なって貼られている。メンバー募集であったり、次のライブ告知など内容は様々であったが、第一印象は小汚く最悪であった。

 防火扉のような重く錆びた鉄製の扉を開けると、鼓膜を貫くような轟音が俺を出迎えた。

 スモークが焚かれたステージに小学生の劇発表で使う原色そのままの照明。長髪のボーカルの男が身をクネクネとさせながら、十字架の小さな模型を振り回す姿は滑稽だった。

 客席にいる者は少なく、曲が終わった後のまばらな拍手がかえって哀れみを誘った。

「で、誰が知り合いなんだ」

「あの人達や、ここにいる人達みんな」

 そう言って女はステージで演奏している連中の演奏を楽しそうに見ていた。

「ここで俺たちの女王の登場だ!シキサナ!カモン、ベイベー!」

 ボーカルの男は女の姿を見ると、すぐに彼女をステージに上がるように指名した。彼女は最初断っていたが、拍手とコールに無理矢理立たされることになった。

 それまでのうるさいドラムの音がガラリと変わり、スネアドラムからはブラシで叩く繊細の音が流れた。

 マイクを持った女の声を聴いた時、俺は不覚にもその場で棒立ちになってしまった。

 居酒屋で周囲から埋もれてしまうような女ではない、彼女の吐息さえもが俺のいや、そこにいる男達の心を熱くさせた。

 後でこの曲がジャニスの『サマータイム』だと知ったが、その時の俺はギターの音と艶やかな彼女の歌声に誘惑されていた。



(三)


「へぇ、シキサナの新しい彼氏かい?」

 ライブの打ち上げに、なぜか俺も参加していた。客イコール打ち上げの参加者でもあり、会場も同じライブハウス内であった。

「そんなことある訳ないじゃないの、今日、知り合ったばかりなのに」

 ステージの上では強面であったが、小さな円卓を囲む男女は気さくな連中だった。

「ギター弾いていて、音楽に興味があるっていうから誘ったの」

「ギターか!どのくらい弾くんだい!」

 周囲は興味津々に俺へ質問をぶつけてきた。

 俺は、ぼろを出さないよう、最大限に言葉を選んで答えた。

「今度、一緒に演ろう!ちょうどギターの奴が転勤で抜けたばっかりなんだ」

「それ、すごくいいんじゃない」

 女……いやサナも嬉しそうだった。

「お待ちどう!これは俺のおごりだ、お前らのじゃねぇ、シキサナのシングによ、本当、お前らだけじゃ客が集まらねぇよな」

 声の大きい四十くらいの男が大皿に載ったピザを持ってきた。

「社長、ごちそうさまです!」

 この男はライブハウスのオーナーらしい、小柄だがパワフルなその男は、若者達に嫌みを言いながらもその実、一番愉快そうであった。スラングまじりの言葉にその場にいる若い男女は皆手を叩いて面白がっていた。

「シキサナ!お前、どこのバンドでやるのかもう決めたのか、ここにいない連中もみんなお前と組みたがっていたぞ」

「あ、ごめんなさい、あの……ピザに夢中で聞いていなかったの、もう一度聞かせてください」

しかし、それ以上に特にシキサナという一風変わった女はどこか皆をなごませてくれた。

「これが新しい野郎か!今度のライブでは、このボーイのプレイが見られるって訳だな、で、どんなメンツで組むんだ」

「あ……それは……」

音楽している連中の瞳は、想像以上に輝いている。人一番負けず嫌いな俺にとって、その場で「NO」という返事はできない。

「シキサナがボーカルをとるバンドならどこでも」

 俺は冗談を言ったつもりだったが、冗談だと受け止めたシキサナを除いて、そこにいる男達の殺気を俺は感じた。

「お前、そんなにテクあるなら、ちょっと弾いてみてくれよ」

「いや、今はあまり乗り気じゃない」

「本当は弾けないんじゃないの」

「冗談は休み休み言えっていうの、中学生じゃあるまいし、お前の頭はその程度か」

 売り言葉に買い言葉である。特にアルコールが入っている俺のスロットルは全開だった。

「ほほう、このボーイの言葉だけはロックだな、久々にエッジの効いた奴が登場だ」

 オーナーは俺たちのくだらないやりとりを楽しんで聞いている。

「やめなさいよ!もう!」

 つかみ合いになる寸前で一人の男が間に割って入った。

「まぁ、まぁ、音楽する奴が増えるっていうのは、それだけでも嬉しいことだろ、シキサナだっていい迷惑だ」

「でもよ、リッチー」

「今日は、それでもライブできたんじゃないか、それだけでもラッキーなんじゃん?」

 少し小太りながらも人なつこそうな顔をした男だった。

「でも、君も良いところ突いてくるね、みんなが言いたいことをこんなにもあっさり言うなんて、たいした奴だよ」

 こいつのにこやかな顔を見た途端、俺は拍子抜けしたように感じた。

「そうだ、音楽はラブ&ピースが基本だろ」

 オーナーの一言で、険悪な雰囲気は一気に消えた。


 家に帰り、酔いが抜けると俺は自分がとんでもないことを言ったことに気付いた。

 だが、全てはもう遅かった。



(四)


 次の日、俺は大学の講義をサボることから始めた。

 まず、バイクを売った。『ナナハンキラー』と呼ばれる車体は思ったよりも高く売れた。

 その足でお茶の水の楽器屋へ行き、とりあえずどんな物かと値段を確かめた。

「何でこんな高いんだ、ギター一本でバイク、買えるじゃねぇか」

「これでも安くなってますよ、安いのはやっぱ、それなりの音ですからね、高いのはほら、この響き、木から違ってますよ」

 俺には色の違いしか分からない。

「見た目は同じだからと安いの選んじゃう人もいるんだけど、今、この時代、中学生くらいだったらいいけど、大人だったら、その辺からもこだわりたいですね、このギターなんて今日入って来たばかりですよ。これだけの物はなかなか入らないですね、入ってきてもすぐ売れちゃうんですよ」

 若い店員は、一本、一本手に取らせてくれた。もう俺が必ず買うとふんだのであろう。

「このチェリーレッドのストラトなんて売れ筋ですよ、ジョンも持っているし」

 この色違いの形は昨日の男が使っていた。

 俺の中では、この形はない。

「高いけど、安くて、高そうに見えるのない?」

 店員は俺の難しい注文にちょっと、首をかしげたが、店の奥から、塗装の剥げた片側が丸いボディーのギターを持ってきた。

「レスポールの中古ですけど、物はギブソンなんで良いですよ。ピックアップもこの時代のは、結構良い音出しますし、塗装が剥げて傷が目立つんですけど、これだったら安く卸せます」

 店員が示す値段はまだ高いと思ったが、俺はしぶしぶながら即決した。ボロボロのボディーは今のきらびやかな時代に合わないと思ったが、使い古された感がかえった所だけは気に入った。

 ワンルームの部屋に戻った時、俺は重大なことに気付いた。

「ギターの弾き方がまるでわからなかった」

 あまりにも重大すぎたので、余計に見えなくなっていた、いや、考えたくなかったのであろう。

 俺は東京まで戻るのが面倒くさかったので、商店街のレコードや小学生が授業で使う楽器が売っている小さな雑貨店へ行った。

 そこの店の親父に聞くと、良い教則本があるという。

 俺は助かったと思い、その運の強さをもつ自分を褒めた。

「これ、これがいいんだ、わかりやすいよお兄ちゃん」

 親父の差し出したギター本の表紙には『南こうせつ』がにこやかな顔で写っていた。



(五)


 喰う物も喰わず、飲むものも飲まず、自分でも馬鹿だと思うくらいに、俺は練習を続けた。睡眠時間の少なさはすぐに身体に表れた。

目の下にはクマができ、頬はみるみるとこけていく。

そんな俺を見てゼミの友人は病気になったと思っているらしい。様々な性病キャリアだと噂もされたが、俺はそんなことを無視し、自分のプライドを崩されないためだけに必死になって練習をした。

いや、ちょっと違う、俺は周囲からチヤホヤされて、ちょっと違う世界から見下ろしているあの高慢女を俺のモノにしたかった。

惚れたのか、いやそんなことはどうでもいい。

まず、ビデオを何回も繰り返し見て、ギターを弾く姿勢から徹底的に真似をすることから俺は始めた。首の落とし方、背の曲げ方、俺がかっこいいと思った奴のスタイルを鏡を見ながら何度も仕草を真似た。左手の指の先が痛くなったので、瞬間接着剤を塗ってガチガチに固めた。

自分でも馬鹿だと思ったが、もう止められなかった。だが、楽器というのは不思議なもので、少し弾けるともう少し、また少し弾けると、さらに色々なことを試したくなっていた。

 映像で見るギタリストは皆、かかとがやけに高いブーツを履いていた。見ると他のプレーヤーもその靴を皆履いている。お茶の水にある楽器屋の店員とはあれからやけに親しくなる間がらとなっていたので、さっそく俺は質問した。

「それ、ロンドンブーツですよ、あれを履いているだけで、ギター少年は皆、胸が熱くなったんすよ、高橋さんのスタイルだったら、絶対似合いますよ、でも今売っているかなぁ、それとサイケデリックな衣装は、テクノとかニューウェーブとは別次元で歴史を感じますね、やっぱ真のロックっていうか」

 次の日には、俺は都内の靴屋を回り、倉庫でほこりがかぶっていたロンドンブーツを手に入れた。しかし、思っていたよりも歩きにくく俺は何回も足をくじいた。

ついでにサイケな衣装は古着屋で手に入れた。この模様を見た時、俺はウルトラへブンに出てくるペロリンパ星人のようだと思った。

「ほほぅ」

 長髪は間に合わなかったが、鏡に映る自分の姿はほぼ完璧であった。



(六)


 約束の日、ライブハウスに来た俺の姿を見て、皆、驚きそして黙り込んだ。

(こいつは馬鹿……いや狂人だ)

(嘘……冗談と言って……本当にこんな時代錯誤な人がいるの……嘘よ……)

(麻薬でもやっていたのか、このディープパープルな顔色はよぅ……まるでジャンキー(麻薬中毒者)じゃねぇか、それとも俺の店にロックのゴッドが降臨しやがったのか……)

 シキサナをはじめ、奴らがどう思ったかはわからないが、俺の究極ロックなスタイルに文句を付ける者は誰もいなかった。

「約束の曲だ、ただ面倒くさいから一曲しか弾かないぜ、さぁ、誰だい、俺のバックで演奏してくれる奴は」

 一曲しか弾かないのではなく、一曲しか弾けないのだが、そんな大きくて……いや些細なこと、ここにいる奴らは誰も知らない。

 俺が取り出したお買い得だった中古ギターを見て、またみんな一様に黙り込んだ。

(すごい使い込んでいやがる……これはただ者じゃない……やはり奴は本物だったのか)

(あれは間違いなく六十年代物のレスポール、どれだけこの野郎はこだわりを俺たちに見せつけるんだ)

(恥ずかしげもなく履いている奴のロンドンブーツ……あれは俺がナウでヤングな頃、履いていたのと同じデザインだ、まだ、あったのか、この馬鹿は全てがパーフェクトだ)

 店のオーナーは釣り上げられたばかりの魚のように目をギラギラと輝かせ俺を見ている。

「俺、叩くわ」

 常連客の中からベースとドラムが遠慮がちに名乗り出た。

「えっと、何だったっけ、ゼップのロックンロールだったよな、あれは簡単だけれどまぁいいな、永遠の詩版でいくぜ」

 そう言った俺は今、それだけしか弾けない。

 ドラムから入り俺が叩きだした音、俺は自分でも感動するくらい本物の音だった。楽器屋のお兄ちゃん店員が言った通りのアンプとギターのボリュームとトーン、ビデオで見たとおりの演奏スタイル。高校生の時に友達から内緒でもらったアダルトビデオ以上に繰り返し見た甲斐があったというものだ。

 ライブハウスにいた連中は、演奏が終わった時、それまでの冷たい目線から俺を見る目が変わっていた。

「最高だよ!こんな演奏する奴がいたなんて!」

 最初に立ち上がって拍手をくれたのは、リッチーと周囲から呼ばれている奴だった。彼は興奮しながらステージから降りる俺に手を差し伸べた。

 俺は奴の裏を感じさせない笑顔に、普段は誰ともしない握手をついしてしまった。

「君がリードギターで決定だよ、僕が保証する」

「いや、俺はちょっと遊んでみたかっただけだ、楽しかったぜ」

 リードギターなんかにされたらたまらないと思った。また、コンパにも参加しなければならないし、練習だけの世界なんてまっぴらごめんだ。

 後から、俺を弾けないだろうと馬鹿にしていた奴も謝ってきた。

「俺は何も気にしていないよ、バンドが好きな連中に悪い奴はいない」

 お前の言っていることは間違いない、謝りたいのはこっちの方だと思ったが、そのようなことは言えない。

「すごい高橋さん!」

 シキサナは拍手しながら、俺を出迎えた。

「いや、たいしたことないよ」

 そう、お前のその笑顔が見たいから、俺はここまでやれた。俺はデートの約束をどうやって取り付けようか考えた。

「あのさ……」

「何?」

「次の……」

「このジャンキー野郎!次のライブで演奏してもらうぜ、ここまで「ジミー・ペイジ」が演れる奴がこの街にいるとは思わなかったぜ、すぐに俺のダチに連絡を入れてメンバーを集める、『ロバート・プラント』まではいかないが、結構、高音の出るボーカルもいるんだよ、決定だ、お前と専属契約決定だぜ、糞野郎!」

「ちょっと待ってくれ、俺は専属なんて……」

「すごいじゃない!オーナーにこれだけ気に入られる人なんてあまりいないでしょ!」

 シキサナも嬉しそうだった。俺は全然嬉しくなかった。というか、誰がこの泥沼に俺を引き入れているのかとさえ思った。

「高橋さんの音がまた聴けるなんて楽しみだわ!」

 泥沼に引き入れているのは間違いなく目の前のシキサナだったことに俺はようやく気付いた。



(七)


俺は木こりの恰好をして、濃い霧に包まれた大きな沼の側、木を斧で一本一本切り倒している。

 何かの拍子で、手を滑らせた俺はその大切な斧を沼へ落としてしまった。

 途方に暮れていると、沼の中央からそれはきれいな女神が現れた。俺はまぶしくてその女神の顔を直視できなかった。

(シキサナに似ているような……)

「斧を落として困っているようですね、あなたの落とした斧はこれですか」

 女神が見せたのは銀の斧だった。

 俺は欲しいと思ったが、この話はどこかで聞いたことがあった。正直に言えば両方もらえる結果になると。

「いえ、女神様、私が落としたのはそれではありません」

「では、この白いロンドンブーツですか」

 何かが違うと思った。

「それとも『テレビジョッキー』のマークが入った白いギターとジーンズですか」

 どれも欲しい物ではなかった。

「いえ、違います」

「ガタガタ言ってねぇで、お前のその黒いレスポールとエロいサウンドで俺をエレクトさせろ」

 女神の顔は、ちょっとなぎら健一の顔に似たライブハウスのオーナーに変貌していた。

 俺の悪夢はちょうどそこで終わった。


 あれからというと、マスターの企画したバンドは流れ、俺はライブハウスの常連、リッチーというあだ名を持つ人の良い速弾きギター野郎とシキサナ、お調子者のドラムの中村かん太、むっつりベースの吉場健と『スリッピング・アウェイ』というバンドを組み活動を続けていた。

 ほとんどがシキサナの力だということに俺も同意しているが、この界隈では、だいぶ名の売れたバンドになり、客足もだいぶ増えてきていた。

 俺の私的な時間は、全くもって不本意だが、ひたすら修行僧の読経のようにギターを弾くことだけに費やされていた。

 何度やめようかと思ったが、メンバーが俺を見るまなざしに尊敬の色が浮かんでいるうちはどうしても俺の性格上無理だった。

「今日のソロは最高だったなぁ、やっぱりジャンキーさんは違うな」

「速弾きリッチーさんと違って、ほとんどチョーキング(弦を押し上げて音程を上げる奏法)なんだけど、その後のヴィブラート(音を細かく震わせる奏法)で泣かせる音色を響かせるツインギターなんて、そうそういないぞ」

(違う、チョーキングしか出来ないんだ、たまたま俺の指が伸びたところがハーフトーンになっているだけで、ヴィブラートは、指が疲れて痙攣しているだけなんだ)

とは言わない。

「高橋さん、今日も素敵ね」

 シキサナのライブ終了後のいつもの笑顔……ここまできてやめることなんて、本当は小心者の俺にはできなかった。


 もう一人のギター、リッチーと呼ばれる昼行灯のような男がウォークマンを聴きながら、ギターでコードを鳴らしていた。

「何、単純な曲弾いているんだ」

 俺は、いつもの運指の練習じゃないリッチーのギターの音に、興味がひかれた。

「この曲ですか『ライク ア ローリング ストーン』ですよ、ボブ・ディランの」

「ボブ・ディラン?古くせぇ奴の聴いているんだな」

「この曲はロックの原点ですよ、ジャンキーさんも聴いてみますか、いつかみんなと演奏したいと思っているんです」

「時代遅れの曲をか?」

 渡されたイヤホンから流れてくる曲、ミディアムテンポの中にボブの蛙のつぶれたような声が、心の何かに訴えかけてきた。

(どんな気分だい?)

 ボブのメッセージを聴きながら歌詞が書かれた紙に目を通した。

「ここに出てくる高慢ちきな女、これ、シキサナにぴったりの歌だな、ああいう女へのメッセージソングだということはわかった」

 俺は、揶揄しながらリッチーにその紙を返した。

 リッチーの顔は俺を見て少しひきつっていた。

「高慢ちきな女、へぇ、私のことなんだ、高橋さんは、そう私のことを思っていたのね」

「歌詞になるくらい良い女ってことだ、褒めているんだよ」

 と答える前に、俺は楽譜集の角で頭を叩かれていた。

「こんな人、相手にするのももったいない!みんな、次のライブが決まったわ」

 頭を押さえる俺の横でメンバーは次の仕事の話を始めていた。

「とひま園の野外コンサート、アマチュアバンドの祭典だって」


 俺たちのバンドは、他バンドからの羨望のまなざしの対象でもあった。

 特に熱烈なファンだったのは、時々、タイバン(一緒にライブをするバンド)もするカルチャークラブのコピーバンド、樺沢という名のボーカルだった。

「ジャンキーさん、もう、大好き、本気になったらすぐにプロになれるわよ」

 オカマ臭を漂わせるその青年のルックスは『カーマはきまぐれ』というより『カバ(河馬)はやさぐれ』という感じであったが、衣装のデザインは抜群で、女のファンは結構ついていた。

 それに比べて、俺たちのバンドの取り巻きは、脂ぎった男子学生が多かった。

「痛ぇ!お前の剃り残しのある顔を俺に擦り付けるな!やめろ、てめぇ」

「もぉう、そう言いながらも嬉しいんじゃない?」

 いやがる俺に抱きつき頬をすりつける姿を見て、他のメンバーはいつも腹をかかえて笑っていた。



(八)


 遊園地でのコンサートが始まる前、楽屋控室の隅に座って、俺はリハーサルの時に切れたギターの弦を交換している。

「もう、私なんて最低、バカバカ!」

 シキサナではない。河馬の奴だ。

 奴は野郎のくせによく泣いた。

 星占いで今週の運勢が悪いとか、自分の飼っている犬の餌を食べる量が今朝は少なかったなど、俺にとっては糞もたいしたことではないことでも、そいつは何度もしゃくり上げて泣く。鼻水とマスカラがつくる黒い涙で汚れた顔は、ある意味、滑稽でありながら俺にとっては恐怖の対象であった。

「んなの、たいしたことねぇだろ」

「ジャンキーさん、冷たいのね、だって、だってさ、あの子が私の言葉で傷付いていたらって考えると……」

 そいつは、鼻息がかかるくらいまでの距離まで自分の顔を俺の顔に近づけてきた。

「やめろ、お前のその顔で間近に突っ込まれる方が傷付くぞ」

「そんな、悲しいこと言ったら、私、もっと泣いちゃうよ……」

「もう、高橋さん、もっと話聞いてあげればいいでしょ」

「そうですよ、ジャンキーさんの経験が彼、いや彼女には必要なんですから」

「リッチー、てめぇ、人ごとだと思いやがって」

 シキサナや他のメンバーは素知らぬふりをし、パイプ椅子でコーヒーを飲んでいる。

「ごめんね、ジャンキーさん、私が悪いの……そう、私が悪いのね、今日もベッドの中で一人悩むのがお似合いなの……」

「人生、そういう時間も必要だ」

 俺はそう言って、また、ギターの弦をブリッジに通し、ペグ(糸巻き)に巻き付ける作業を続けた。

「人生、そう……私の人生……私の人生をジャンキーさん、いつまでも見守っていてほしい……でなければすごく不安なの」

「何で、俺が見守らなきゃいけないの」

「ジャンキーさん、あなたが私にかけてくれる愛の言葉は、ナイフのように冷たくて痛い。それでも、その後にしっかりオロナインやメンソレータムを塗ってくれるようなフォローをしてくれるから」

「フォローしてねぇよ、えぐってるんだよ、かさぶたはがしているんだよ、辛子と塩を塗り込んでいるんだよ」

「嘘、そんな冷たいこと言っていても私はわかる」

 そいつは、そう言っておれの太ももを触ってきた。

「やめろ、この野郎、お前の頭にこのギター振り下ろすぞ」

「ジャンキーさんのギターだったら耐えるわ、ううん、耐えなくちゃいけないの」

 リッチーとベースの野郎は俺たちの会話の内容を聞き、我慢しきれず腹をかかえて笑い出した。

「でも、高橋さんは優しいよね、私もそう思うな、もっと甘えちゃいなよ」

「シキサナさんもそう思うでしょ、ほらぁ、みんなそう思っているのよ」

 シキサナにそう言われた俺の心は、全てのジェダイを敵にまわしたくなるほどの暗黒面に落ちていった。

「『ネオカルチャーショッカー』さん、アクト十分前です、ステージ横、準備お願いします。」

 バイトの係員が河馬を呼んだ。

「オーケー、ジャンキーさん、今日の歌は全部あなたに捧げるわ、モニター見ていて、右耳触って、投げキスしたら、それはジャンキーさんへの、愛の信号よ」

「そんな呪いのビデオのような信号はいらねぇよ」

「いや、見ていてほしいの」

「頑張ってね」

「ありがとう、先に楽しんでくるわ」

 河馬とそいつのバンドメンバーはみんなで尻を振りながら、楽屋から出ていった。

「さすが、ジャンキーさん、人気者ですねって……うぐ……」

 涼しげな顔をして近付いてきたリッチーの首を俺は黙って絞めた。



(九)


 今日のコンサートのトリは俺たちのバンドだった。

 素人の俺たちの演奏でも、客はすごくのってくれた。俺は女子中高生の黄色い声に心揺れながらも、ドライな演奏スタイルに徹した。

 愛嬌のあるシキサナのボーカルに自称親衛隊の野郎共は猿のような奇声を上げ、会場を盛り上げた。

 軽快な曲ではリッチーの早弾き、しっとりとしたバラードの時が俺のギターの出番だった。ギターのことがわかり、音楽の面白さを知るほど、リッチーの演奏が本当に上手いことがわかった。それは技術だけではない、普段控えめな性格が嘘のように、生き生きと、ライトハンド奏法を取り入れながら、陽気なカラーで俺たちのバンドを支えてくれている。奴は俺のような独りよがりなギターにも演奏できるような場を、さりげなく、それでもしっかりと用意してくれた。まさに名監督と大女優に挟まれた新人若手俳優が俺というスタイルであった。

 コンサートは盛況のうちに幕を閉じた。このライブを主催した担当は、予想以上の入場者数に大喜びで俺たちの楽屋に挨拶に来た。普段オーナーのライブハウスでただ働きさせられている俺たちは、手渡されたギャラの入った封筒の重みに驚いた。

「ねぇ、少し遊園地で遊んでいかない?久しぶりに来たんだし……」

 シキサナの提案に反対するバンドメンバーは誰もいなかった。

 ここは俺の出番だ。二人きりの都会の夜景を見下ろす観覧車、景色は流れていくが彼女だけは正面でしっかり見つめることができるティーカップ、怖い人形に驚いて、俺に彼女が抱きつくお化け屋敷。

 これ以上、誰が望むものか。俺の想像力はフルパワーの域に達した。

「一緒に観覧車に乗ってくれる?」

「ああ、いいぜ」

 俺の中ではシキサナとの甘い空間が広がっていた。

「本当、嬉しい!シキサナさんありがとう!ジャンキーさん、一緒に乗ってくれるって!」

 抱きついてきたのは河馬だった。


 ネオン瞬く都会の夜景の反対側は、狭山丘陵の森が所々黒い穴のように見える。オレンジ色のライトに照らされた首都高には車のヘッドライトが連なっていく。

「何てロマンチックなのでしょう!」

 目の前でギラギラと輝いた目を見せているのは河馬だった。

「ああ、吐き気がするほどな……」

「えっ、ジャンキーさん、高所恐怖症?うっそー」

「閉所恐怖症とカマ恐怖症も付けておいてくれ」

「いやーん、でも大丈夫よ、私がいるから」

「いや、いない方が安心する」

「もう、喜んじゃって!嬉しいなら嬉しいって言って、今日のステージも素敵だったわ、ジャンキーさんのギターの弾き方、本当にジミー・ページに見えたり、ジェフ・ベックに見えたりするの、不思議なくらい」

 あたり前だ、演奏するスタイルだけが俺の音楽の全ての原点だ……とは言わない。

「私、いつかジャンキーさんに釣り合えるような人になるのが夢なの」

「小さい夢だな」

「小さくなんかない、私は日本でううん、世界で一番のデザイナーになりたいの」

 確かにこいつの服装のセンスだけは認める。

「なれるんじゃないの」

「うん、ジャンキーさん、見てたらなれるような気がしたの、だって、短期間であれだけギター弾けるようになったんでしょ、奇跡よ」

 時間が止まった。

 俺は耳を疑った。

「何のことだ……」

「私の行っている楽器屋さんの子のバンドの服を私がデザインしてつくってあげていたのよ、そうしたら、信じられないくらいギターがすごく上手くなった人がいるって言うんで、話を聞いたら、ジャンキーさんのことだったの」

 俺はこの閉所から今すぐ飛び降りたくなった。

「たった、数週間よ、こんなことできる人なんて、世界でも数少ないと思う。その奇跡を私の身近な人がかなえるなんて、私、感動しちゃった。」

「あは……それ……人違いじゃないの」

「私もそう思って、写真とかじゃなくて、店に来る時を待っていたの、いつもだいたい来る曜日と時間が決まっていると聞いていたから」

 バイトの休日は確かに決まっていた。

「そしたら、やだぁ、本当にジャンキーさんだったの」

「本当に俺だった?本当なの?他人のそら似ってこともあるよぉ」

「ううん、ジャンキーさん、ほら、お茶の水の駅で声をかけたことあったでしょ」

 確かにあった。

「でも、これは私とジャンキーさんの秘密、だって、大好きなんだもん」

 もう、どうでも良かった。

「うふ、このことずっと伝えたかったんだけど……」

「俺はずっと隠したかったがな」

 俺と河馬はなぜか、観覧車の狭いゴンドラの中で大笑いした。


 奴が言うとおり、それから奴は俺の秘密を一切話すことはなかったし、それをネタにゆすられるようなこともなかった。

 きっかけはどうあれ、そいつらとライブをしている時は本当に楽しかったし、『青春』なんて言葉はこそばゆかったが、まさにこんな感じなのだろうなと俺は思った。



(十)


 空は高い。

キャンパスを涼しい風が吹き抜け、目の前を行き過ぎる女子大生のスカートの裾を軽く揺らしている。

「お前、最近出席率悪すぎるんじゃん、バンド生活に沈んで、留年決定か?何、馬鹿なこと考えてるんだよ」

 エントランスから出てすぐのベンチで一服している俺に、ゼミの友人は缶コーヒーを目の前でぶら下げ手渡した後、横に座った。

「何も考えていねぇ」

「これだけの売り手市場だぜ、条件良いところが結構あんだよ、ほら、この前の会社説明会でももらった名刺、この人、話聞いたら、うちのゼミの卒業生だってさ」

 俺はその名刺をちら見して、もらったコーヒー缶のふたを開けた。

「初任給も良いし、外国にも支社があるって、しかも、うちのゼミ出身だったら、試験も免除だってよ、ニューヨークとかで働いてみたくね?」

 昔の俺だったら、その街の名前を聞いても、キングコングが高層ビルの上で暴れたくらいのイメージだったが、今はレノンが撃たれたダコタ・ハウスやボトム・ラインを連想する知識程度は身に付けていた。

「行って演奏してぇな」

「バンド脳か、やめとけ、やめとけ、今のブームなんてすぐに終わるよ」

 笑って夢を否定するそいつは、まるで別世界の人間のように俺は見えた。

「もう若くないさと俺に言い訳してんのか」

「髪は切ってないけどな、じゃあな、後で説明会のパンフ一部やるよ」

俺は、苦いブラックコーヒーを飲みながら、そいつの後ろ姿を無言で見送った。

そいつの残した何気ない言葉と初秋の風に、俺の心の裾がかすかに揺れていた。



(十一)


 その日の夜、俺はいつものようにライブハウスに足を向けている。今日は、常連のフュージョンバンドが、さわやかなサウンドを響かせていた。

「ジャンキー、おい、そんな隅にいかねぇで、こっちに来い、紹介したいのがいる」

 カウンターに近い円テーブルに、シキサナ、リッチー、オーナー、そして見知らぬ男がいた。

「この人が、例のギターの人、噂以上のオーラを感じるねぇ、あっ、紹介遅れたねぇ、私、こういうもんで」

 ぞんざいに差し出された名刺にはテレビ番組名と、その男の氏名がプロデューサーという肩書きの横に書かれていた。

 その『ナウい、バンド楽園』(通称ナウ天)という番組は、このライブハウスにいる奴らが、全員必ず見ていると言っても過言ではない。プロへの登竜門として、素人バンドが目の色変えて出場を狙っている。

 べっこう縁の眼鏡と金色の腕時計が印象的な、三十代くらいの小男は、一言一言ごとに、大袈裟な笑い声を上げた。

「そうっ、やっぱ噂通り!君と彼女ちゃんのキャラ良いね、僕の番組はもう知ってると思うけど、ここから何人もプロになったんだよ、ほら、『ピッタリンピン』とか『スイミングキッズ』なんて知ってるでしょ、あの子たちはみんな僕が手がけたんだよ」

「そのプロデューサーさんがどうして?」

 シキサナは珍しく少し緊張していた。

「とひま園の君達のギグ見てね、ちょっと気になっちゃったんだよ」

「ありがとうございます」

 リッチーとシキサナは驚いているオーナーの横で頭を下げた。

「おっと、まだ勘違いしないでね、こっちも仕事だからさ、売り出す前の段階でこっちもさぁ、色々考えていることがあるんだよねぇ」

「どんな考えですか?」

「今はまだ言えないんだけどさぁ、聞いちゃったら後に引けなくなるよぉ、あ、彼女ちゃんの目を見てるとそんな心配はいらなそうだね、少しだけなら教えてあげちゃおうかな」

 そこにいる皆が息をのんだ。

「今度の新規プロジェクトでは、バンドは女性ボーカルの四ピースって決めてるんだよねぇ」

「四人……ですか」

「そう、彼女ちゃんとギターが一人、ドラムとベースは他のバンドの子が決まっているから」

 それまで話を聞いていたオーナーの顔色が変わった。

「それって、バンド解散させてボーカルとギターだけ引き抜きってことか?」

「だからぁ、後に引けなくなるよって、言ったでしょ、何たってプロの世界が厳しいのは、みんなご存じでしょ、バンド王になって顔が売れたところで、すぐにデビューって順番は他のバンドでもやってきたことだから」

「えっ、あの審査は、その場で決めてるんじゃないのか」

 オーナーはちょっとムッとした顔で聞き返した。

「一般参加バンドはね、でも、プロデューサーの僕が直接来ているってことはわかるでしょ、そういうルートもあるかもしれないってことが言いたかったんだよねぇ、売れてるミュージシャンの横で彼女ちゃんも歌いたいでしょ」

 その軽い男は言いたいことを言って、ライブハウスから浮かれ足で出て行った。皆が囲むテーブルの上には残された名刺が一枚。

「プロか……ちょっとやってみたかったけど……僕はこの話から降り……」

 リッチーの次に言うことが俺にはだいたい想像がついた。あいつは自分が身を引くことでシキサナの密かな夢をかなえようとしている。

 俺は奴の言葉をすぐに遮った。

「ちょっと待った!あの糞男はいつまで連絡入れろって言ってた?」

「明日までって……」

 シキサナはかなり動揺している。無理もない、目の前にシンデレラ城への階段が続いているのだから。

「まだ、この話はここでストップだ、お互いにちょっと頭を冷やそうぜ」

(やめとけ、やめとけ、今のバンドブームなんてすぐに終わるよ)

 そう言いながらも、今日の昼に聞いた言葉を俺は思い出していた。


 沈黙した時間は、すぐに動き出した。

河馬のバンドのギターとベースの二人が青白い顔で、俺たちの話の輪に割って入ってきた。

「ねぇ、うちのボーカルに連絡全然とれないんだけど、どこいるか知らない?今までこんなことなかったのにぃ」

 確かにここしばらく河馬の奴は顔を見せていない。

「家には行ってみたのか?」

「行ったわよ、でも鍵が閉まっていてピンポン押しても全然出てこないのよぉ」

「彼氏の家にしけこんでんじゃねぇのか、何か兆候とかなかったのかよ」

「そういうことを隠す人じゃないのよ……ただ……ファッションコンテストに応募する作品をずっとつくっているって聞いていたくらい」

 ギターの奴は、そう言いながらずっとオロオロしている。

「でも、何日徹夜しても大丈夫って、最近なんて、ここずっと、いつもより明るくて元気十倍だったのよ、ダイエットに成功してウェストが細くなったって、夜かかってきた電話にずっとつきあわされていたくらいだもん」

「それはいつのことだ」

「もう一週間くらい前」

「これからまたコーポに行こうと思うんだけど、ジャンキーさんも来てくれる?私達だけじゃ不安なのよぉ、だって怖いじゃない」

「そうよぉ、私達だけだと……想像しちゃうだけで漏れちゃいそう」

 いつもであれば、すぐに断っていたようなことだが、そいつらの話を聞いて、俺は何か心にひっかかるものがあった。

「私も行くわ」

 シキサナもリッチーもすぐに椅子から立ち上がった。

「別に事件とかじゃねぇんだ、俺がいくよ、お前ら二人は明日までの返事ゆっくり考えてな、特にリッチー、お前だ」

「でも……」

「あいつにはちょっとした借りがあるんだよ」

 俺は二人のオカマメンバーを引き連れて、河馬の家へ向かった。



(十二)


 俺は河馬のねぐらの前に立っている。

「良いところ、住んでんじゃねぇか、これ、デザイナーズマンションって言うんだろ、一月で俺の部屋一年は借りられそうだ」

「ジャンキーさん、そんな古いアパートに住んでるの、いやー、イメージが違うぅ、もしかして和式共同トイレとかぁ?いやぁー、うっそぉー」

「馬鹿野郎、和式トイレなめんなよ」

「いやよぉ、そんな便器なんてなめられない、えーやだぁ、信じられないぃ」

 俺はそいつらを無視し、呼び鈴を押して扉を叩いた。

「おぉい、いるのかぁ、返事しろぉ」

 近所迷惑にならない程度に、俺は郵便受けを開け、室内に向け声をかけた。

「ジャンキーさん……」

 最初はしんとしていたが、少したって生気のないか細い声が部屋の中から聞こえてきた。オカマ達の今までの不安は一気に消えたが、何か様子が違っていた。

「いるのか、いるんなら早く開けろ、ツレのオカマ野郎が心配して……」

 ゆっくりと玄関の扉を開けた河馬の顔を見て、俺は息をのんだ。

「お前……」

 河馬は見るからにやつれ、時折、首を傾けながら目だけをせわしなく動かしている。どう見てもいつものあいつではなかった。

 玄関からリビングにつながる短い廊下は汚れ、床には着衣やゴミが散在していた。

「何これ!どうしちゃったのよ!あんなにきれい好きだったのに」

「そ……それは……」

 メンバーに問い詰められた河馬は、顔から汗を流し、全身を小刻みに震わせている。

奥のリビングに人の気配を感じた。

「誰か来ているんだな」

「あ、あの……いや……入らないで!」

 俺は河馬に止められながらも、靴を脱ぎ捨て、リビングへの扉を開いた。大きなソファーには、刈り上げた髪をした狐目の青年がニヤニヤ笑いながら座っていた。

「誰だい、この連中は」

「お友達……」

「そうか、邪魔なようだな俺は帰るわ」

「ちょっと待って、置いていってくれるっていったじゃない」

「用意しているもん用意してねぇからだ」

 そいつは、そう言ってジャケットを手に取り、ソファーから立ち上がった。

「少しだけでもちょうだいよ!」

 河馬はその男の腕に必死になってすがりついた。

「どけよ」

 男は河馬の手をふりほどいて俺の正面に立った。

「お前……バイヤーだな」

「ああん?」

「河馬野郎をドラッグ漬けにしやがって、あとどれだけ値段釣り上げて売る気だ?」

「いやぁー」

 俺の言葉に河馬は泣き叫んだ。

「何、言ってるんだお前、証拠でもあんのかよ、えぇ、なめんじゃねぇぞ、この野郎!」

 その男は俺の胸ぐらを掴み上げた。

「証拠……そこに馬鹿なオカマがいるだろう?それ以上の証拠がどこにあ……」

 俺が言い終わる前に、そいつの頭突きが俺の鼻柱に直撃した。

「冗談はほどほどにしときな、てめぇ、殺すぞ」

 睨み付けてくるそいつは、俺の襟をさらに締め上げていく。俺の口中に塩っぱい血の味が広がっていった。

「冗談……なんかじゃねぇよ!」

 やはり、俺は何かの才があるらしい。適当に放った俺の膝蹴りがちょうどそいつの股間に命中した。そいつの手は俺の胸ぐらから離れた。

 子供の頃からけんかなんて好きじゃない俺の目の前には血走った目の男がいる。奴は何かわめいてポケットから小さなナイフを取り出した。

 俺も真似をしてポケットをさぐったが、ギターのピックしかない。

「お前、ただのチンピラだな、もう、刃物取り出しちゃったの……ああ、もうダメだねぇ……逮捕決定だな」

「うるせぇ」

 時間稼ぎをしている俺の挑発に、ナイフを構えるそいつは顔を真っ赤にした。

(早く、この間に警察に連絡しろって!)

 しかし、俺の願いはむなしく、オカマメンバーの二人はかたまって震えていた。

事なかれ主義者の俺の人生は、バンドを始めた頃から何かが変わっているようだ。身体をかばおうとした俺の右手と脇腹に激痛が走った。

 デザイナーズマンションにふさわしくない、悲鳴が部屋中に響いた。

 周囲の騒ぎに気付いた男は、玄関から飛び出すように出て行くのを、床に座り込む俺は見ていた。

「ジャンキーさん、ごめんね!ごめんね!ごめんなさい!」

 薄れていく視界は頬のこけたでかい河馬の顔が占めていた。奴の涙と鼻水が俺の顔に垂らされる。

(あれ、俺……どうなってんの……いや……どうなっちゃうのよ……これ……)

「いやー!」

 俺の方が「いやー」と叫びたかったが……。



(十三)


 気が付いたら俺はベッドの上だった、しばらく顔を会わせていなかった両親は、少し動いた俺を見て初めこそ飛び上がるように喜んでいたが、容体が回復してくるとすぐに、俺の荒れた生活をなじり、否定した。

 シキサナやリッチー、バンドメンバーは何度も見舞いに訪れてくれていたらしい。枕元の台上に霞草の花が活けられていた。

 一般面会が可能になった日、ライブハウスのオーナーが病室にやってきた。

「災難だったな……」

「なるようになっただけだ……」

「どうしておめぇは樺沢の奴がドラッグキメてんのが分かったんだ?」

「自分のあだ名で興味をもった世界でね……俺自身が手を出す前で良かったよ、運が良かったんだな」

「運の悪い方の樺沢はマッポにパクられた、お前を刺した奴と一緒にな、しばらくは出てこれねぇよ」

「そうか……あいつも晴れて前科持ちか……そういえば、シキサナのデビューは?」

 オーナーは一つため息をついてから話した。

「おめぇの刃傷沙汰があってすぐに、向こうの連中から話を流してきたよ……ただ、ほとぼりがさめたらまた話をするかもしれないなんてあいまいなことを言ってな、でも、バンド連中は何も不満は言ってない……」

「悪いことしたな……」

「おめぇが悪いことなんて、ア、リトルほどもねぇよ、おめぇは何も悪くない」

「オーナー、俺の我が儘聞いてくれるか」

「何だ?」

「俺はバンドやめる、もうこんな面倒くさいことはごめんだ」

「な……何……それは本気か……本気なのか」

「嘘でこんなことが言えるかよ……もう、あいつらとはかかわりを持ちたくない、また刺されたらたまらないからな、見舞いにも絶対に来るなと言っておいてくれ、あいつらのバンドと俺は全く関係がない、あの何とかプロデューサーとかいう奴にも連絡を入れておいてほしい」

 そう言いながら俺は病室の天井のボードにあいた穴を霞んだ目でぼんやり見ている。

 オーナーは驚いたが、俺の表情を見て納得し、じわりと涙を浮かべた。

「何泣いてやがるんだ……おめぇは嘘つくのが下手な男だな、そこまであいつらのことを考えているなんて」

「消毒液の臭いが目についただけさ、だから我が儘だと前置きさせてもらった、泣いてんはそっちの方だろ」

「糞でもくらえ、ジャンキー、気が向いたら俺のライブハウスにいつでも帰ってきな、カウンター席一つだけなら、いつでも空けて待ってるぜ」

「徒労に終わるな……」

「俺は昔から利口で器用な奴より、馬鹿で不器用な奴が好きなんだよ」

 涙目が似合わないオーナーが帰った後の病室は、いつよりやけに広く見えた。



(十四)


 退院の日が差し迫った小春日和の午後、俺は金網に囲まれた病院の屋上にいた。白いタオルが長いのれんのように何枚もぶら下がり、その間から見える空には飛行機雲の一筋の細い線が描かれていた。

 骨組が錆だらけのベンチで、周囲から聞こえる街の音をただ何とはなしで聞くこと、傷もだいぶ癒えた俺の最近のお気に入りの時間だ。

 退屈度は限界まで達していた。事件の経緯をひっきりなしに聞きに訪れていた刑事も最近は顔を見せることがない。

 カラスが一羽、集合アンテナの上にとまり、俺を見下ろしている・

「餌なんてねぇよ」

 そいつは俺の言葉が分かったのか、近くの児童公園から聞こえる仲間の声の方へ、一声鳴いて飛び去っていった。

「気の合う仲間は楽しいよな……」

 俺はベンチの背に寄りかかり、秋にしては陽気な太陽に顔を向け目を閉じた。

(ギター弾きてぇな……)

 半分うつらうつらとしていた俺にあたる陽の光が突然遮られた。

「高橋さん」

 忘れもしない声で起きた俺の前に金の斧ではない女神が霞草の花束を持って立っていた。

「シキ……」

「ごめん、約束破っちゃった、そこの横に座っていい?」

 黙り続ける俺たちの間に、気まずいながらも静かな時間が流れている。

「もう傷の方はいいの?」

「ああ……」

「もうバンドに戻ってきてはくれないの?」

「ああ……」

「帰ってきてほしいの、私……みんなとの演奏していた楽しい時間が好きなの」

 俺の胸は女神の哀願に吐きたくなるほど締め付けられた。

「楽しい時間……そうだな……俺もだ……」

「なら……」

「だから、楽しい時のまま終わらせたい、勘違いするなよ、俺はもう就職先が決まるところなんだ、いつまでもバンドなんてしてらんねぇよ」

「就職……」

 嘘だった、いや嘘じゃなかったかもしれない。俺の心の片隅には、安定したノーマルな生活を強く望む気持ちがあったのだと思う。

 突き放すような俺の言葉に、女神は弱々しく肩を落とした。

「就職……そうだよね、高橋さんって前から意志が固い人だもんね……無理だって……絶対に無理だってことわかっていたんだ……」

 女神の力ないつぶやきを聞き、俺は自分がとんでもなく嫌な男だと思った。

「あきらめ……っ」

 固持する俺に女神は、ほんの一瞬だけ唇を重ねてきた。

「楽しい時間ありがとう……ギターを弾いている高橋さんのこと……私、大好きだった」

 最後まで無理して微笑んでいた女神が屋上から消えた後には、霞草の白い花がベンチの上にいくつもの小さな影をつくっていた。



(十五)


 それから俺は、ライブハウスに行くこともなく、ギターを手に取ることもなかった。

 俺は就職し、同じ職場の同僚から紹介された女と結婚し、子供も生まれ、俗に言う幸せな家庭を築いた。仕事も面白く、まさにおれにとって順風満帆な生活だった……いや、だったような気がした。

 一人の上司に気に入られた俺は、まだ三十前にもかかわらず、いくつかのプロジェクトのサブを任されたりもした。

 出張先のニューヨークのバーで、ジャズピアニストの演奏を聴きながら酒を飲んだり、ライトアップされた自由の女神像を見ながらの夜景クルーズだって楽しむことが出来た。

 しかし、バブル経済という名が示した通り、好景気が全て泡と消えつつある頃、勤めていた会社の勢いと経常利益も急激に下がっていた。

俺の所属していたプロジェクトチームはインドや東南アジア諸国を中心とした経営戦略を立てたが、ある新興国を中心に取引を強めてきた別の上司が率いるチームに人材、予算を根こそぎ持って行かれた。

 最後まで俺の上司の下に残った者は社内でわずか数名となった。当然、俺もそっちの上司の取り巻きに何度も誘われたが、その都度断ってきた。

 理由は簡単だ。

 これから確実に手に入るであろう大金に目がくらみ、社の特許や技術を合弁会社にどんどん流すその姿勢が気に入らなかった。

 つまりロックのスピリットだった。いや、俺にロックを語る資格なんてないのはわかっている。だが、ずるいと思った生き方はもうしたくなかった。

 しかし、若造社員のたわいない反抗は、歴史ある強固な組織には不必要なものである。地方の子会社に左遷出向するか、退職するかの選択を目の前に突きつけられた。

 俺は追い詰められた状況になってから、ようやく妻に、その件を打ち明けようとした。

 だが、隣の部屋で寝息をたてているフミヲの横で、妻はそれよりも早く離婚届を俺の前に差し出した。

 俺は理由をなかなか言わない妻に突き詰めて聞いた。ようやく話したことは、俺が仕事に夢中でほとんど家に帰ってこない寂しさに負け、男をつくっていたという予想だにしていない内容であった。昔つきあっていた大学時代の同級生だと言った。俺は生まれて初めて女を殴ろうとした……だが、殴ることなんてできやしなかった。

 目の前で泣いて詫びる女のその原因をつくったのは間違いなく俺だったからだ。

 見かけだけは美しい人生の帆船は、いともあっけなく荒海の底深くに沈んだ。

「俺がお前を捨てたことにしろ、フミヲには本当のことを言うな」

 自分勝手な生き方をしていた俺が妻に対して最後に贈った言葉だった。



(十六)

 

 坂は上るより転がり落ちる方が早い。

 事件があって以来、避けていたこの街へ、無一文に近い状態の俺は引かれるように戻ってきていた。

駅の西口は大きなビルが建ち並び、別世界のように変わっていた。ただ、雑然としていた東口の『中央デパート』や『すずらん通り』はあの頃と全く変わっていなかった。

 俺は迷いながらも、あの思い出が詰まったライブハウスへ足を向けていた……もしかしたら、そこにまだ何かがあるんじゃないかと淡い勝手な期待を抱いて。

 しかし、ライブハウスがあった建物は全て壊され、連れ込みホテルへと様変わりしていた。地下に続く階段があったところは、赤いネオンに照らし出された建物の入り口になっていた。

 見えない何かに期待していた自分があまりにも愚かであった。

 自ら選択してきた道とはいえ、過ぎていく時間は何て残酷なものなのだと感じた。

 ライブハウスのあった場所から、ほんの少しだけ離れたところに時代から取り残されている薄汚い喫茶店があった。俺が演奏していた当時は、老婆が一人で切り盛りしていた店だったような気がする。

 店に入ると人が二人も座ると窮屈なボックス席と、カウンター席。全てが埃っぽく、間違っても若者が好んで来るような雰囲気ではなかった。

しかし、俺はその扉を開けた瞬間から一歩も足を動かすことができなくなっていた。

 壁面に飾られたレコードジャケット、流れてくるイーグルスの曲『デスペラード』、それは俺がとうの昔に捨ててきたものばかりであった。

「おっ、珍しいな、こんなアフタヌーンからゲストなんて……」

 カウンターの中にいる眼鏡をかけ、頭のはげ上がった男は、俺の顔を見るなり言葉を詰まらせた。

 俺もその男の顔を見て何も言うことができなかった。

「よう、そこの糞野郎、カウンター席なら一つだけ空いているぜ、古い椅子だけどな」

 涙声で男が親指で指した場所には、ライブハウスに置かれていた一番色の煤けた椅子が、情けない俺を静かに出迎えてくれていた。



(十七)


 俺は木こりの恰好をして、濃い霧に包まれた大きな沼の側、木を斧で一本一本切り倒している。

 何かの拍子で、手を滑らせた俺はその大切な斧を沼へ落としてしまった。

 途方に暮れていると、沼の中央からそれはきれいな女神が現れた。俺はまぶしくてその女神の顔を直視できなかった。

(シキサナに似ているような……)

「斧を落として困っているようですね、あなたの落とした斧はこれですか」

 女神が見せたのは銀の斧だった。

 銀もそこそこの金になる。俺はすぐに欲しいと思ったが、この話はどこかで聞いたことがあった。正直に言えば両方もらえる結果になると。

「いえ、女神様、私が落としたのはそれではありません」

「では、この金の斧ですか」

 思った通りだ、ここでの返事は決まっている。

「いえ、違います」

「では、この黒いレスポールですか」

「えっ?」

「高橋しゃん、私、頑張ります!」

 俺の目の前の女神は満面の笑顔のルリであった。


 俺の訳わからない夢は携帯の呼び出し音で終わった。

 部屋の中は夏の太陽で蒸し風呂のように暑くなっていた。もっと寝続けていたら熱中症になっていたに違いない。

「はい……もぉしもぉし」

「この!何がもしもしだ、もじもじしてんじゃねぇぞ!いつまでスリーピングしてやがるんだ、午前のリハ終わっちまうぞ、糞野郎!」

俺の夢はまだ続いていると思ったが、マスターの声はまぎれもない現実だった。



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