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OH!ルリ コネクション  作者: みみつきうさぎ
1/3

はじめ:「ルリVocal Part」&「コージDrums Part」&「クローバー Bass Part」

■登場人物


大嶋ルリ 

父の形見のギターでバンドコンテストに出場したいと強い思いをもつ十七歳の高校生、

大嶋アイサ

 ルリのおませな妹 小学三年生

大嶋サナエ

 ルリの母親 元アマチュアバンド界の歌姫の過去をもつ

高橋さん

 ルリのバイト先に勤めるさえない中年男 あるきっかけでルリの亡くなった父親と関係があることをルリは知る

四葉ヒタキ

 アイサの同級生 学校の友達には言えない特技をもつ

白江コージ

 自称天才的なパーカッショニスト クールな外観に反し某アニメ信者の一面をもつ

喫茶店のマスター

 高橋とルリの母親の過去を知る音楽好きの老人

ツグミ

 しっかり者のルリの友人

ヒヨ

 おとぼけ感あふれるルリの友人

鮎川フミヲ

 ルリの同級生 地元の少女たちに熱烈な支持を受けるプロデビューを控えたバンドのボーカリスト

ユウキ

 フミヲのバンドのギタリスト ルリに好意をもつ

譲司・ガラテア

 人気アパレルショップ『ガラテア』のオネエオーナー フミヲのバンドのスポンサー


鉄橋を渡る電車のリズムは馬の小走り。

ルリは、揺れる車両の窓から、遠くの景色を眺めている。

朝の通勤時、大崎行きの埼京線の車内は込み合っていたが、初夏の青い空と荒川の河川敷を越えておぼろげに見える山々は、広大な風景の中に、ゆったりとあぐらをかいている。

一年前に病で他界した父も若い頃、同じ景色を見ていたのであろう。

そう想像することは、彼女にとって安らぎのひとときである。

父が大好きだった思い出の歌『ライク ア ローリング ストーン』が今日もイヤホンで彼女に力強く問いかける。

(どんな気分だい?)

「I Feel Good(気分は最高)」

落ち込んでいる時も、悲しい時もルリは心の中でいつもこうして答えるようにしていた。それが父との病室で最後にした約束であった。

大嶋ルリ十七歳。

彼女の背中には父から譲り受けた大切なエレキギターが今日も寄り添っている。




「ルリVocal Part」


(一)


「ええっ!出られなくなったの?」

「ルリ、ごめん、婆ちゃんの所に家族で行くことになっちゃってさ、親父の奴も、もう年だから孫の顔が見たいって言われたら断ることもできなくなっちゃったみたいでさぁ」

 ランチルームでは、友人のツグミが申し訳なさそう顔でルリへ両手を合わせていた。大げさなその身振りが、彼女の一本にしばった後ろ髪を揺らした。

「しょうがないよ、ヒヨもブラスの合宿と予備校の補習があるって言っていたし、やっぱりだめかぁ」

 ルリは飲んでいたコーヒー牛乳のパックを机の上に置いた。真っ直ぐ刺さっていたストローが落ち込むルリの姿勢のように手前にゆっくりと倒れていく。

「だいいち、小学校の発表会じゃないんだから、コンテストだよ、バンドなんだよ」

「だって、私達のグループもバンドだって、言ったのはツグミじゃない」

「それはそうだけど……いざとなるとね…でも、田舎に行くのは本当だから」

 きまりが悪くなったツグミは無意識のうちに自分の前髪をいたずらしだした。

「それでさぁ、三組の鮎川に私から頼んでみようか……ルリもバンドに混ぜてって」

「馬鹿にされてお終いだよ」

 同級生鮎川フミヲのバンドは地元アマチュアバンド界の中でも一歩先んじていた。ビジュアルを前面に押し出したそのスタイルから中高生に絶大な人気を誇っており、将来プロデビューの噂もちらほらと出ている。

「そうだよなぁ、私もそう思っていたんだけど、ルリに悪くてさぁ、ならさぁ、私と一緒に田舎に遊びに行こうよ、それならルリも私も楽しい時間おくれるじゃん」

 人懐こい性格のツグミは、甘栗のような黒い瞳を見開き、ルリを誘った。

「ありがと、でもバイトがあるから、何日も休めないんだ」

夏休み中に行われるアマチュアライブ出場への夢、ルリの真夏の夜の夢は、妖精王のオベロンやパック達の気配さえも感じることなく、初夏にさしかかる前からガラガラと音を立てて崩壊していった。


 放課後、野球部のグランドを走るかけ声に重なって、軽音楽部の部室からフミヲたちのバンドの音が聞こえる。

 彼らの楽しそうな演奏は、ルリに数か月の出来事を振り返らせた。

あの日もこんな晴れた午後だった。


(せっかくギターがあるんだし、バンドやろうよ、そうしたらルリのお父さんだって喜ぶよ、ほぅら、アニメだってやってたじゃん、女子高生バンド)

 ルリがバンドの真似事をするようになったのは、父を亡くして以来ずっと落胆していた彼女をツグミが何気なく誘ったことから始まる。

(ツグミ、バンドって言ったらドラムとかベースギターとかじゃない?私、フルートしかないよ)

 中学校から吹奏楽部でフルートを吹いているヒヨは、突然の彼女の言葉につまんでいたお菓子を口に入れるのを止めた。

(大丈夫、大丈夫、お婆ちゃんから小学校の時に買ってもらったキーボードは、指一本でリズムが流れるんだ)

(あのチャカチャカしたおもちゃみたいな音のやつ?)

(おもちゃって言うな)

 二人の会話をルリは黙って聞いていた。

 遺品の中で埃をかぶっていたギターは父が学生の頃に趣味で使っていた物である。しかし、ルリは一度も当人が弾いている姿というものを見たことがなかった。弦だけでなく糸巻きやブリッジなど至るところに錆が赤い模様を浮かせている。色あせたボディやネックの至る所の擦り傷だけが、昔、相当使い込んでいたことを忍ばせた。

 楽譜が読める吹奏楽部のヒヨを除き、ピアノは「子どものバイエル」の数曲だけ弾けると豪語するツグミはもちろん、ルリも初めてであった。

 エレキギターとフルートとピアノ、全員が旋律担当のこの違和感ある組み合わせはバンドと呼べるものとはほど遠いものであったが、ルリは楽しかった。何よりも父を亡くしてから早朝から深夜まで働きずくめの母が垣間見せた笑顔がとても嬉しかった。

 桜の蕾が色付くまでに、ルリは父のギターで、三つめのディーセブンスのコードを奏でられるようになっていた。



(二)


 ルリはギターを練習するようになってからすぐバイトを始めている。

デパ地下の総菜販売の仕事はずっと立ちっぱなしで疲れるし、限られた時間しかできないので、手取りの金額はわずかなものであった。でも、それなりにギターのストラップやチューナーなどを、ここ数か月で少しずつ買い揃えることができた。

 若い頃の写真の面影が薄れるほど髪の毛に白色が混じる母に対し、あれ買ってこれ買ってとせがむことはもうできない。

(ルリ、どうしちゃったの)

 中学校の頃の自分の生活を知っていたツグミやヒナは一様にその話を聞いて驚いていた。

 一番甘えん坊で、寝坊で、寝癖をそのままに登校していた頃とはまるで変わっていた。

(でも無理しちゃってるのかな……夏休みもバイトかぁ……疲れたなぁ…ツグミと田舎行っちゃおうかなぁ)

 客の流れが途絶えた時、目標が潰えたルリにどっと疲れが押し寄せてきた。

「ねぇねぇルリちゃん、この前ね、例の高橋さんの噂を聞いたのよ、私の友達の近所に昔住んでいたんだって、私が息子のPTA役員をやっていた時の友達と、スーパーで偶然会ってね」

 パートの竹内のおばさんが、社員が休憩時間になったのを見計らって話しかけてきた。

 高橋というその中年男性は、最近ルリと同じバイトとしてこの職場に入ってきた。高い背を猫のようにかがめながら歩く無口な男は、いつもつまらなそうな顔をし、休憩時間になると店裏の通路で醤油ケースを椅子にして一人ぼんやりしていた。

「ねぇねぇ、聞きたいでしょ」

 周囲の人間とほとんど会話を交わらせない『変わった人』と皆から認識されていた男について、女性が多い職場ゆえ、すぐに彼の身上が噂の中心になった。

 ルリは自分と年が離れていることもあって、高橋の生活事情について全く興味がなかったが、この噂好きの古株女性に逆らうほどの勇気も持ち合わせていない。

「奥さんも息子さんもいたみたいけど、別れちゃったようなのよ」

「はぁ……」

「それでね、前は一流企業に勤めていたんですって、信じられる?毎日高そうな背広姿だったそうよ、今日なんて、あの人の私服見た?ジャージよ、古くさいジャージ、ちゃんと洗濯してるのかしらねぇ」

「はぁ……」

「奥さんはきれいだったらしいけど、本当かしらね」

「はぁ……」

「でもね、近所の人とのつきあいはあまりよくなかったみたいよ、ま、あの人を見ていたら誰でもそう思うわよね」

「はぁ……あっ、いらっしゃいませ」

「えーっと、のり弁三つ、それにこのサバの味噌煮三切れも」

「はい、のり弁三つ入ります」

 お客が来たことで、竹内さんの話は途切れたが、数時間も経たぬうち高橋の噂は、パート従業員の皆が知ることとなった。

(あの人の浮気が原因かしら)

(奥さんが新しい彼氏つくったんじゃない)

 しかし、高橋はどこ吹く風というように、黙々と仕事をし、時間が来るといつの間にか退勤していた。

 ルリも着替えるとすぐに家路へとついたが、その足取りは重かった。

(あーあ、疲れたなぁ……ツグミと田舎行っちゃおうかなぁ)

 同じ思いがメリーゴーランドの木馬のように何度も何度も頭の中で回っている。

 車道に出たルリの全身がいきなりライトに照らし出された。大きなクラクションとブレーキ音が響く中、彼女は横断歩道の信号を見落としていたことにようやく気付いた。

「あっ!」

もうダメだと思った瞬間、彼女は何か強い力に思いっきり後ろに強く引っ張られていた。

 歩道に大きな尻餅をついたルリは、罵声を浴びせ通り過ぎるドライバーの顔を見て、一瞬、何が起きたかを理解できなかった。

 事故にならないことを見て、周囲の通行人も再びそれぞれの行き先に足を向けていく。

「危なかったな」

 腰が抜けたままのルリが男の言葉に振り向くと、コンビニの袋を手にぶら下げた高橋が立っていた。

「高橋さん!」

「大きな怪我はなさそうだな、ありゃ?」

 高橋のコンビニの袋からおでんの汁がしたたり落ちている。

「いかん……重傷だ……」

「あ、高橋さんが助けてくれたんですか、あ、あの、ありがとうございます」

「引っ張っただけだ、気を付けろよ」

 高橋はこぼれたつゆで膨らむコンビニ袋を片手に、横断歩道を渡り始めた。

 ようやく正気が戻ってきたルリは、背負っていたギターがどうなっているか心配だった。

「ああ!ギター!」

 大きな悲鳴のようなルリの声に、高橋は後ろを振り返った。ルリはギターケースを開けようとしていたが、緊張の震えが止まらず思うようにチャックを開けることができないでいた。

 見かねた高橋は戻って、慌てるルリを落ち着かせ、ギターをソフトケースから取り出した。

「こいつは……」

 ルリのストラトタイプのギターを一目見た高橋は、小さくうなって無意識のうちにボディーを撫でていた。

「ギター大丈夫!大丈夫ですか!」

「あ……ああ、大丈夫だ、ネックもボディーも心配ない」

「うわぁ、ありがとう、ありがとうございます!」

「ところでこのギターの持ち主は元気か」

 予想だにしない質問をされたルリは、ギターを抱きかかえながら高橋の顔を見た。

「え?持ち主って、これ私のですけど……」

 自分の質問の仕方が悪いと気付いた高橋は、すぐに質問の内容を変えた。

「お前、リッチー大嶋って知っているか?これに似たギターを弾いていた、いやリッチーじゃない、大嶋えーと、何だったか、名前が思い出せない」

「リッチー?私は大嶋ですけど……、もしかして高橋さん、お父さん、お父さんのこと知っているんですか?」

「お父さん?」

 高橋は目の前にいるルリの顔をまじまじと見つめた。

「はい、大嶋康一郎っていいます」

「そうだ、康一郎だ、あいつは元気か」

「あの……一年前に亡くなりました」

 ルリは視線を下げ、ギターの一弦を親指で軽くはじいた。

「亡くなった……そうか、『天国への階段』を先に上っちまったのか、あいつ」

「高橋さん、お父さんとどういう関係だったんですか」

 立ち上がった高橋は、悲しそうに空を仰ぎ見ている。

「古い知り合いだよ」

「知り合い…」

「そのギター、大切にするんだぞ…って、ああぁ、てめぇ、今日の晩飯!」

 一匹の野良猫がおでんの入ったコンビニ袋を咥え、建物の狭い隙間に逃げ込んでいく。高橋はルリをその場において、野良猫を追いかけていった。

「高橋さん!」

 名前を呼んでも、彼はもう戻って来る気配を見せない。ルリは、この高橋という職場でさえない男と父との関係がとても気になった。



(三)


「ただいまぁ」

「お姉ちゃん、お帰りぃ」

 小学三年生のアイサは、テレビゲームの電源をすぐに消してルリの帰宅を笑顔で出迎えた。

「お母さんは?まだ帰ってないの」

「残業があるから今日も遅くなるって、ご飯先に食べちゃった、ルリちゃん、今日ね、学校で面白いことがあったんだよ」

 まだ、幼いアイサの聞き役はもっぱらルリである。学級での出来事を嬉々として話すアイサに笑顔で応じながら、ルリはいつもより遅い夕食をとった。



「高橋さん……もしかしてジャンキーさんかしら?本当?」

 母は、上着をドレッサーにかけながら、早口で話すルリに答えた。まるで数時間前のアイサが自分におきかわっているようにルリは思った。

「ジャンキー(麻薬中毒者)?」

 ルリの顔色が変わるのを見て、母はその様子に笑った

「あだ名よ、あだ名。いつも寝不足で青い顔をしていて、目の下にクマをつくっていたから、みんなからそう呼ばれていたの。お父さんのアルバムにも写真が何枚か残っていないかしら」

 ルリは母の言葉が終わる前に押し入れの箱の中に入っているアルバムを探し始めていた。

「あ……本当だ、高橋さんがいる」

 アルバムの中では、ルリのギターをもつ父の横に長髪で高いかかとのブーツを履いた高橋が中指を立てたポーズでカメラのレンズを睨んでいた。

「お母さん、いたよ、いた、この人だよ」

 ルリが呼ぶ前に、既に着替えを終えた母は懐かしそうに彼女の背中越しにその写真を覗き込んでいた。

「懐かしい……元気だったのね……パパの時代はね、こんな昔のファッションは、はやっていなかったんだけどね、ジャンキーさんはライブの時、いつもこんなスタイルだったの」

「あのね、高橋さん、お父さんのことリッチーって言っていたよ、リッチーって、やっぱりあだ名?」

「ふふ、お父さんのあだ名、『リッチー』っていう外国のギター弾く人から名前をもらったの、みんな若かったから、ジャンキーさんはすごくギターが上手くて、お父さんはいっつもライバル心を燃やしていたの、でもこの人凄いのよ、音楽事務所からのデビューの話も就職するからって蹴ったくらいだし、それに……」

「デビュー……ギター……ギター!」

 ルリの心が稲光のように輝いたことも知らず、アルバムを見ている母の目は糸のように細くなっていた。



(四)


 あくる日、ルリがバイト先に到着した時、高橋は休憩時間に入っていたのか、くしゃくしゃのスポーツ新聞をいつもの店裏の通路で読んでいた。

「あ、あの高橋さん、昨日はどうもありがとうございました」

 高橋は新聞に目をやったまま、軽く右手を挙げた。

「あのぅ、そのぅ」

 もじもじとしながら、まだルリは高橋の横に立っている。

「ん、昨日のことはもういい」

 高橋は面倒くさそうにルリの方に顔を向けた。

「違うんです、あの……」

「用があるなら早く言ってくれ、この様子を見られたら、あの噂好きのばばぁ達、何言い出すかわからねぇぞ」

「あの、私達のバンドに入ってくれませんか!」

 高橋に頭を下げながら、ルリは力強く言い切った。

「バンド……?」

 二人の間に気まずい雰囲気が流れていく。

「あは……やっぱだめですよね……」

「どうして俺のことを誘ったんだ、俺はお前の親父の知り合いだったというだけで、今は興味もないし、関係もない」

「高橋さん、ううん、ジャンキーさんですよね」

 ルリのその言葉に、高橋はスポーツ新聞を床に落とした。

「伝説のギタリストだったって、お母さんから聞きました……あの、気を悪くしたらごめんなさい、バンドじゃなくても少しだけギターを教えてくれるだけでいいんです……あの、それでもだめだったらごめんなさい」

「お母さん?あいつの嫁さんか……何て言う名前だ」

「大嶋サナエ、結婚する前の名字は子規サナエって言います。」

(シキサナエ?)

 その名前を聞いた高橋は天地がひっくり返るほど気を動転させたが、女子高生の手前、格好悪い姿を見せることはできない。

「そんな名前は聞いたことがない……『シキサナ』のことなんて俺は知らない」

「シキサナ?」

「いや、ううぅん、まぁ、人違いじゃないか、俺はバツイチのさえないダメ中年、それ以上でもそれ以下でもない、いや、それ以下かもしれない、ギターだったら他をあたるんだな」

 どこかで聞いたようなありきたりな返答をする高橋は、がっくりと肩を落とすルリを横目に、新聞を拾い上げ読みかけの記事に目をやろうとした。

「高橋さん」

「何だ」

「あの……新聞逆さまになっています……あ、でも昨日は本当にありがとうございました」

 ルリはぺこりと頭を下げ、更衣室の中に元気なく入っていった。その様子を見ながら高橋は新聞の向きを元に戻し、大きくため息をついた。



(五)


「ねぇ、ルリちゃん、ルリちゃんの同級生、テレビに出てたんで録画しておいたよ」

 バイトを早めに切り上げたルリが自宅の玄関に入るや、妹のアイサは大きな声を上げて出迎えた。

夕方の地方情報番組の中で、レポーターは鮎川フミヲのバンドを紹介していた。

「へぇ、『エルドール・ヴァルキリー』ってバンド名なんだ、リーダーはボーカルのフミヲ君、あっ君だね、よろしく、うわぁ、メンバーみんな美形揃いだねぇ、今、地元で女子中高生の人気絶頂というのもわかるねぇ」

 レポーターの褒め言葉にフミヲは遠慮がちに頭を下げた。

「こんなに美形だったらもてるでしょ、えっ、どうなの」

「いえ、今の僕たちの恋人は音楽だけです、僕達、人への初恋もまだなんです」

 純情そうに答えるフミヲを制服のまま見ているルリは、プックリと頬を膨らませた。

「何、言ってんだか、もう、とっかえひっかえ、こいつに何人も泣かされている子いるのに」

「ルリちゃん、テレビに向かって何怒ってんの?」

「え、ううん、何でもない」

 レポーターは美辞麗句をフミヲのバンドにおくっている。

「間違いなくかっこいいバンドだねぇ、このフリップに書かれている日にライブをするんだね、うはぁ、ソロで三日連続、もうソルドアウト間違い無しなんじゃないの」

「頑張って演奏するんで、ぜひ見に来て下さい、それと夏にはこの街のバンドコンテストにもゲスト出演するんでよろしくお願いします」

「君達のような礼儀正しい子達は、今時珍しいね、それでは番組をご覧の皆さん、最後に耽美的な彼らの歌声と演奏をご堪能下さい」、

 巻き舌過ぎて何を言っているかわからないフミヲの歌声の中、その番組のコーナーは終わった。

 礼儀正しいどころか、教師をも見下す彼らの傲慢さと態度、それはルリだけではなく、ツグミもヒヨも常に思っていることである。彼らの嫌味に満ちた心ない言葉にみんな辟易としているのが事実である。

「ねぇ、ルリちゃん、このお兄ちゃんたち知ってるの?すごくかっこいいね、アイサ、ファンになっちゃおうかな」

「だめ、それはだめだよ」

「お姉ちゃんの顔、何か怖くなってる」

「え、そう?別に……」

 コンテスト出場にかけた夢のかけらをまだ拾えないルリは、妹と一緒の四畳半の部屋で、細々ギターの練習を始めた。



(六)


「高橋さん、お久しぶりね」

 総菜を売る高橋に声をかけてくる女性がいた。

「シキ……サナ……お前……」

 ルリの母であった。噂好きのパートのおばさま方も既に仕事からあがっていて、売り場には高橋しかいないことがもっけの幸いであった。

「ルリからここで働いているって聞いたの、随分お元気そうね」

「元気?元気なんて言葉、とうの昔に忘れたよ、あの子はお前とリッチーの娘だって?二人の子にしちゃ良くできた娘だ」

「ありがと、あの人のことを覚えていてくれたなんて、嬉しくてつい顔を見てみたくなったの……」

「お前、随分と老けたな」

「言ってくれちゃって、当たり前じゃない、あれから二十年近くよ、高橋さん、私のことを忘れていたと思ったわ」

「俺のことを先に忘れたのはお前の方じゃないのか……」

「忘れさせたのはあなたでしょ」

 二人の間に短い沈黙が出来た。

「……あいつ亡くなったんだってな」

「うん、倒れてからすぐ、昔からあの人、最後に幸運を手放しちゃうんだな」

「それは大きな間違いだ、奴は最高の幸運と宝石を手に入れた、その幸運で残りの運を使いこんじまったんだ、奴にとってそれは間違いのない事実だ」

 高橋の意味深な言葉にルリの母親は小さくうなずいた。

「あ、ついでにお総菜買いに来たの、今、選ぶね」

「ちょっと待ってな」

 高橋はケースの中の総菜を山盛りにとってパックに包んだ。

「これ持っていって、娘と食べな、金はいい」

「お店の物でしょ、こんなのもらえないわ」

「店の物じゃない、俺が今買った物だ、それなら問題ないだろう」

 遠慮する母に高橋は無理矢理総菜がいっぱい入った袋を渡した。

「ありがと……強引なところは昔のまま、久しぶりに顔を見ることができて楽しかった……高橋さんのギター、また聴くことができるのね、ルリのギターの先生としてこれからもよろしくね」

「何?俺はそんなこと……」

 最後の母の言葉に返答する間もなく、カウンターには次の来客が来ていた。

「ちょっとお兄さん、このなすの天ぷらとかき揚げ三つずつもらえる?」

「いら……っしゃい」

 ルリの母の後ろ姿はもう買い物客に紛れて見えない。高橋は客の総菜を包みながら、今日、自分が財布を忘れていたことに気付いた。



(七)


「見た?昨日のあいつら」

「うん、うちの妹がたまたま録画してくれていたんだけどね」

 英雄気取りで女子の取り巻きからちやほやされているフミヲをルリとツグミ、ヒヨは教室のベランダから見下ろしている。

「何が初恋もまだなんですって、よく言えるよね、ああいやだ」

 ツグミはいつも以上に噛みつくような鋭い語気だった。

「でも、テレビに出ている時だけ見ると、かっこよかったよね、ね、ルリ」

 そういうヒヨの言葉を否定するツグミはいらだっていた。そこまで怒ることはないのにとは思いつつも、自分も昨日アイサに同じことを言われたなと思っている。

「あ、んん……」

 ルリは適当な答えをさがしながら、青空の中、燕が気持ち良さそうに飛ぶ姿に目がいった。

「いいなぁ鳥は」

 思わず出たルリの言葉にヒヨは笑った。

「そうだよね、鳥はいつもみんなを空から見て気持ちよさそうだよね」

「お前たち二人だけで何、メルヘンチックな世界にひたっている。私はまだ世の不条理を憂えているんだぞ」

「ツグミ……難しい言葉だね、どんな意味なの、現国でそんな言葉習ったっけ」

 ヒヨの天然的なつっこみは一流である。

 二人のにぎやかな、いや、一方的なやりとりを聞きながら、ルリはまだ燕の姿を追っている。

(ああやって、高いところに飛ぶフミヲのような鳥もいれば、何もできない私は声だけうるさいにわとりだな)

 ルリがそう思っている言葉を聞いたとしたら、ヒヨは多分こう答えるだろう。

(でも、チキンっておいしいよね)



(八)


「今日仕事が終わったら俺につきあえ」

 仕事についたばかりのルリに、高橋は他のパートのおばさま方の目を盗み、いきなり話しかけてきた。

「つきあうったって、誰かつきあっている人がいるわけじゃないけど、今、私に好きな人がいるわけじゃないけど、結婚は二十歳になってからって、自分で決めていたし……お父さんの年齢の人ならなおさら……」

 ルリは訳も分からずどぎまぎしながら顔を真っ赤にした。

 右手に持ったままのトングをカチカチと鳴らしながら高橋はあきれ顔でルリを見ている。

「カチカチ山じゃあるまいし、誰がガキにつきあってくれって言った。今日からお前にギターを教えるって言ってるんだ」

 ルリは思ってもいなかった言葉に目をキラキラと輝かせながら、高橋の手をとり握った。

「あ、ありがとうございます!本当、本当なんですか、本当に、本当ですか」

 少女に手を強く握られ、顔を赤くしたのは高橋の方だった。

「ああ、仕事が終わったら東武線の改札口の前で待ってろ、八時だ」

 誰に見られているかわからない状況で、まずいシチュエーションであった。高橋はルリの手を軽く振り払い、すぐにコロッケを揚げる仕事に戻っていった。

「やった、やった!」

「あら、ルリちゃん、何か良いことあったの?」

 浮かれるルリの様子を見て、パートの竹内さんが声をかけてきた。

「はい、とっても嬉しいことです」

「もしかしてぇ、彼氏でも出来たの?」

「まさかぁ、それは百パーセントないです!」

(俺は馬鹿だ)

 少女の柔らかい手の感触を急に思い出した高橋の揚げたクリームコロッケは、中身が全てはみ出していた。


 時間よりも少し遅れて、待ち合わせ場所に高橋はやってきた。ジャージにサンダル履きのその格好はどうみても、競輪開幕の日、駅に多くいるおじさんの姿そのものであった。

 子犬が飼い主を追うように先に歩く高橋の後をルリは追った。

「まだですか?」

「もうすぐだ」

 商店街から跨線橋を抜けた先は、ホテルのどぎつい色のネオンが光り瞬く場所。

この街に住むルリが今まで足を一度も踏み入れたことのない禁断の地であった。

 腕を組む若いカップルが、建物の中に入っていくのが見えた。

高橋は気にする風も無く、路地の奥にまだ向かっている。

 制服姿のルリはもう胸がしめつけられそうであった。いつでも走って逃げることができるようにギターカバーのストラップをしっかりと手で握った。

「着いたぞ」

 ルリが正面を見ると予想していたとおり、休憩時間付きのホテルであった。もちろん日帰り入浴大歓迎の源泉掛け流し温泉はない。

「あ……あの……高橋しゃん……」

 ルリは涙目になり、膝をガクガクと震わせた。

「お前、どっち見てるんだ、こっちだこっち」

 高橋が立っている場所は目の前のホテルの横にある小さくて薄汚い喫茶店であった。


入店を知らせるベルが付いた木製の扉の先には、右側に伸びるカウンターと、四人掛けのボックス席が暗い照明の中に浮かんでいた。洋酒のボトルが並ぶ棚はどう見ても普通の喫茶店には見えない。

 時代を感じさせるソウルミュージックがかかり、壁には見たことのないレコードのジャケットが所狭しと飾られている。

 お客はルリと高橋以外は誰もいない。

「いらっしゃい、何だジャンキーか、今日は随分早いな。おっ、今夜はガール連れ……おま、お前、女子高生じゃねぇか、マッポ(警察)にパクられんぞ、青少年何とか条例くらい知ってるだろう、あぁ時々そういう客も来るが、知り合いのお前が目の前でワッパ(手錠)かけられんのは忍びねぇ」

 カウンターの陰から出てきたのは、でっぷりと太り鼻の下とあごに、さながらトーキー映画に出てきた喜劇役者のような髭を生やした老人であった。すっかりとはげ上がった頭に店の白熱電球の光が七色に反射している。

「そんなんじゃない、マスター一時間だけ、奥の席を借りる」

「何すんだ、気持ちいいことするんだったら、隣に行けよ」

「あんた、そう言いながらニヤニヤ笑っているぞ、それとギターを借してくれ」

 高橋は、マスターの冷やかしの言葉を無視しカウンターの奥にオブジェとして飾られているフォークギターを手に取った。

 マスターは高橋の行動に目を見張った。

「あれほど、ギターを手にするのを嫌っていたお前が、どういう風の吹き回しだ、変なドラッグでもキメてんじゃねえか」

「事情があるんだ、マスターにもすぐに分かる」

「へぇ、お前さんがねぇ」

 二人の会話と雰囲気の中にルリは入っていくことができなく、まだ入り口の扉の前で立っている。

「おい、時間がない、早くこっちへ来い」

「は、はい」

 ルリは促されるまま、角がすり切れて中の綿がはみ出ているソファーに座り、ギターをケースから取り出した。

 その瞬間、高橋とルリの様子を興味深そうに見ていたマスターは、いつかの高橋のように大きなうめき声を上げた。

「ジャンキー、こ、このギターは」

「マスターも知ってるだろう、そうだ、あいつのだ」

「こ、この娘は……もしかして」

「あいつとシキサナの娘だよ、俺もつい昨日知ったことだ」

 高橋の言葉が切れる前にマスターはカウンターから出て、ルリに近付き、顔を覗き込んだ。目からは大粒の涙がこぼれ落ちている。

「あ、あいつは、あいつは元気なのか」

 ルリは全く変化したマスターの様子に戸惑いながら、すぐに答えることができず、首だけ大きく横に振った。

「逝っちまったってよ」

「まさか、まさかだろ」

 マスターはがくりと肩を落とし、テーブルに両手をついた。それでもゆっくりと顔を上げて、涙と鼻水の流れる顔でルリの顔を微笑みながらまじまじと見つめた。

「本当だ、よく見ると母親似じゃねぇか、生き写しとまではいかねぇが、そうか二人ともヘヴンにトリップしちまったのか」

「あの、お母さんはまだ生きていますけど……」

「そうだ、そうだよな、お嬢さん、この年になると、早とちりでいけねぇ、ずっとこの街に居たのか」

「いえ、お父さんが亡くなって、引っ越してきました、今は小和田駅の側のアパートに住んでいます」

「それで今はリヴィン・イン・サキタマか、そうだここはシキサナの、いや俺たちの街だったからな」

 自分とは関係ない時間と世界が動きだしているとルリは思った。

「マスター、思い出話はいい、こいつを連れ回すリミットは九時までだ、遅くなるとやばい」

「あっ、大丈夫です。お母さんには遅くなるってメール入れておきましたから」

「いや、そうじゃない、ガキを連れ回している俺が職務質問される確率が高くなる」

 つれない高橋の返答にルリは少し頬をふくらました。

「まずは、Aのペンタトニックスケール弾いてみろ、次はハーモニックマイナースケールだ」

「え?」

 高橋の言葉を聞いてルリの頭の中ではAという文字が書かれたTシャツを着る陽気なペンギンがハーモニカを気持ちよさそうに吹いている。

「ペンギンって……あの……どうやって鳴くのですか、いえどうやって弾くのですか」

「ペンタを知らないのか……」

「小さい頃、動物園で見たことはあるんですけど」

 本当の意味とかけ離れた気の抜けたルリの言葉にさすがの高橋も吹き出した。無論、隣のマスターも大きな腹をかかえて大笑いしている。

「この雰囲気もシキサナにそっくりだな、やっぱり遺伝子は偉大だ、なぁジャンキー」

「あ……そ、そうだな……わかった、まずは俺のを見ていろ」

 高橋は店のギターをチューニングして膝上に置いた。

「高橋さん、ピックこれ使いますか?」

 ルリの差し出すピックを断り、高橋は自分の薄い財布から十円玉を一枚取り出した。

「俺はこれでいい」

 右手の親指と人差し指の間に十円玉が自然と据えられた。

 何気ない仕草なのだが、ルリにはあのさえない中年の高橋が少し格好良く見えた。

「いいか、よく見ていろ」

 高橋はスケール(音階)を弾く前に一度、ダウンストロークで弦をかき鳴らした。その瞬間、錆びていた六本の弦は無惨な音を立てて全て切れた。

「あ……」

「わかりました!弦を切ればいいんですね、じゃ、いきます!」

「うわ、だめだ、お前、やめろ!」

 自分のギターに思いっきり振り下ろそうとしたルリの腕を高橋は慌てて止めた。

 ルリのギター練習の特訓はこうしてにぎやかに幕を開けた。





「コージDrums Part」


(一)


 白江はくえコージは、今日で三十五回目の誕生日を勤め先の立ち食いそば屋のカウンターの中で迎えた。バイトで入ったこの店でも十年勤めると、麺をおいしく茹でるタイミングを絶対に逃すことはない。疲れた顔のサラリーマンへ具の少ないかき揚げを載せたそばを今日もまた差し出している。

 終電がようやく到着した。そこからの三十分後が店を閉める時間であった。これ以上、新たな客が店にくる様子はない。最後の客が食べ終わり店を出た時、コージはいつものように食材を冷蔵庫にしまい、いつものようにのれんを外し、いつものように火元を確認し、いつものように店の電気を消した。


「白江君すごい」

「コージ、すげぇな」

 人生の中で、光輝く時期が最低一度はあると言われる。

今から二十年近く前、学生だったコージはまさにその時期に突入していた。

「あたり前だろ、コージの奴、そのために毎日練習十時間以上もやってるんだぜ」

「本当に『ニュータイプ』だな」

 彼はスネアドラムや木琴、シンバルに至るまで、もって生まれてきた完璧なリズム感で軽々と演奏をこなし、吹奏楽部の花形であった。

「僕に演奏できないリズムはない」

「君のスネアのロールは途切れて聴こえるね、いかに長く切れないように聴かせるか、これが基本中の基本だよ、それができなかったらスティック折れば?」

「交響曲の中にはたった一回だけシンバルを叩くだけのものもある、でも、その一打に大きな責任があるんだ、その緊張は弦や管楽器以上だよ、僕からしたら弦楽器奏者や管楽器奏者は気楽なもんだね」

 コージはいつも得意満面で皆にそう吹聴していた。

「白江先輩、私とつきあってください」

 そう下級生から交際を申し込まれたことは数え切れないほどあった。端正な顔立ちとは真逆の熱い演奏は聴衆の視線を集め、誰彼となく、彼のことを『ボレロの貴公子』『音楽の女神に愛された少年』などと呼んでいた。

 彼は推薦で一流といわれる音楽大学への進学を早々と決め、入学と同時に音楽の都ウィーンへと留学していた。田舎に住む古くからの級友は誰もが、彼は世界に誇る打楽器奏者になると予想していた。

(僕は、ニュータイプだ、オールドタイプの演奏家はもう必要なくなる)

 彼は何気なく目にしたアニメに出てきた言葉に強く共感した。はじめは子供の見るものだと馬鹿にしていたが、そのうち、未来につながる新たな人類の歴史が投影されている作品だと強く感じた。

(新たな音楽の世界が僕を導いてくれる……)

 しかし、彼の明るい未来は音楽業界の劇的な変化によって、大幅に変更せざるをえなかった。世界には彼よりも上手い演奏者は有り余るほどいたし、コンピュータを使ったDTMの普及により、演奏者の仕事は日本国内問わず海外でも減少著しかった。オーケストラ団員の枠は十年単位で空きを待つしかない。大学の講師枠もしかりである。そういう世界で生き延びるために必要不可欠な『コネクション』という手段をコージは見落としていた。時々舞い込む『トラ』と呼ばれるその日だけのコンサート要員の仕事では生活するだけでも苦しい。

 級友や親類に大見得切って飛び出して来た手前、田舎に帰ることもできずにうろうろと寄り道が続き、最終的に自分の進むべき道を人生という樹海の中で見失っていた。

(ボレロの貴公子どころかボロボロの物乞いだ)

 自信家であった彼はその現実を素直に受け入れることはできなかった。何とか音楽の仕事で食べていこうとしたが、無理な話であった。

練習時間がなくなることは、技術も衰えることとイコールであった、

「ニャー」

 残飯の入った袋を店裏のゴミ箱に捨てる時間を見計らって、近所の野良猫がワラワラと集まってくる。コージはいつものように余ったカマボコをその猫に与えた。これがいつものコージのいつもの一日の終わりであった。


 シャッターを下ろし、自転車で帰ろうとすると酔っ払った中年男と太った老人が駅とは逆の方向から肩を組んで鼻歌を歌いながらやってくるのが見えた。

「ジャンキー、違うだろ、ここのリズムはこうだジャッジャッジャーだ」

「違う、ここでカッティングの音が一度入るんだ、だから、カッ、ジャッジャッジャーだ」

「違う、俺の方が何年そのソングを聴いていると思ってるんだ、カッって一回入るんだろ」

「だぁから俺の言った通りだろ」

「お前は一度って言ったじゃないか」

「一回って言ったんだ」

 千鳥足の酔っ払い二人はパチンコ屋のシャッターに音をたてもたれかかっている。相当酒を飲んだ様子が伺えた。

(僕は、落ちぶれてもあんな奴らのようにはなりたくない)

 コージは彼らの醜態を見まいと横を向き、待つ人のない自分の家へと向かっていた。



(二)


「ルリ、そういえば、最近夜のメール少なくなったね、やっぱりバイトそんな忙しいの?」

生徒玄関の下駄箱の前でツグミは上靴を片手でブラブラさせながら、ルリが靴を履き終わるのを待っていた。

「う、うん」

 ルリは高橋とのギターの練習のことをツグミやヒヨにも話していない。

(どこから変な噂が出てくるかわかりはしない、俺はそういうゴタゴタが一番嫌いなんだ、ここで練習していることを人には言うな)

そう高橋から口止めされていたのだ。

「ルリ、何で口ごもる」

「へ?う……ううん……何もないよ」

 ルリは嘘をつくのがとても苦手な人種である。冷や汗をかき、視線をツグミから逸らし、黒目をきょろきょろさせる様子はあきらかに尋常ではない。

「ルリ、あんた何か隠してない?」

「あ、バイトが遅れちゃう、それじゃツグミ、また連絡するね。」

「あ、待って」

 ルリのそそくさと走っていく姿を見ていたツグミはすぐに部活前のヒヨにメールを入れていた。

「事件発生!Doしよう、時間あったら相談にのってfrom玄関」

 顔文字の入った文面はどう見ても重大案件には思えないのだが、メールを受け取ったヒヨは自分のフルートを組み立てる手を止め、すぐに生徒玄関へ走っていった。



(三)


 ヒヨは急遽、部活をサボり、ツグミとルリのバイトの様子を遠くから観察している。

「何も変わった様子はなさそうだな」

「本当に何か、私たちに隠していることがあるのかなぁ」

 ルリはお客の注文に笑顔で応対している。ツグミもヒヨの言う通り、どう見てもいつものルリとは変わらないように感じた。

「バイト終わるの七時でしょ、まだ一時間もあるよ、それまで休んでいようよ」

「そうだね」

「そうだ、この前ね、後輩がかわいい猫のぬいぐるみ、楽器ケースに付けてたの、聞いたらゲーセンのクレーンでとったんだって、すごくかわいいんだよ」

「ヒヨはそれを今とりに行きたいっていうんだ」

「ツグミすごぉい、どうして分かるの」

「誰だって分かるでしょ、ルリと一緒に天然記念物に指定してもらったらいいんじゃない?」

「どこで指定の手続きできるのかな」

「お前、本当に考えているのか」

「冗談です!早く行こう」

 軽く舌を出すヒヨは、もうツグミの手を握ってゲームセンターの方に強く引っ張っていた。


 目的のマスコットは、ぬいぐるみの山からクレーンで持ち上げられたものの、途中ですり抜け壁際まで転がり落ちていく。

ボタンを押していたツグミは、自分の顔を両手で覆った。

「まずい!こんなとこまでいったらとれないよ、ヒヨ、私あと二百円しかないぞ」

「私は三百円」

「二人合わせて五百円、あと三回できる」

「これだったらドーナツ食べた方が良かったかな」

「何、諦めているんだ、私はこの為に英世くん、二枚使ったんだぞ、英世くん二枚で、どれだけドーナツが食べられると思っているんだ」

「そうだね、諦めるのはいけないね、よしやろう!」

 最後の抵抗もむなしく、クレーンはぬいぐるみの山を撫でただけで、元の位置に戻っていく。

 ツグミとヒヨはしゃべる気力さえも失っていた。

落ち込む二人に軽快なリズムの音が聞こえてくる。人の少ない店内に響くリズムと機械の声の間の手。

 観客が誰もいない中、小ぎれいななりをした三十代くらいの男性が『太鼓のお達者人』というリズムゲームに興じていた。

「ハードランク、パーフェクト、キミッテ、テンサイダネ」

 機械の声と共に画面には花火が上がり、ファンファーレが鳴り響いた。

「ヒヨ……見たか……あの男のテクニック」

「あんな人もいるんだぁ、ルリにも教えてあげなくちゃね」

 男性は、ちらりとツグミとヒヨの姿を見た後、出口の方へ一人で歩いて行った。

「ルリ……ルリって、そうだ!いけない、もうバイトの時間終わってるよ」

「やっちゃったぁ!」

 二人はルリのバイト先の店に駆け戻ったが、もうどこにも姿は見えなかった。カウンターにはおばさんが二人、にこやかな顔でお客さんを呼び込んでいた。

 改札口にもいない、駅の階段にもいない。

しかし、ルリの姿を探し求めていた二人は、数分後、思わぬ衝撃シーンを見ることとなった。

「ツグミ、あれ!」

「!」

 背の高い中年男性に嬉しそうに笑いかけるルリの姿であった。ルリとその男性は人混みを縫いながら、連れだってホテルのネオン街の中に消えていく。

「ヒヨ、夢だ、これは悪い夢だよね」

「ううん、夢じゃないよ、私どんな顔して明日ルリに会えばいいんだろう」

 なぜか、二人ともその後は言葉さえ交わすことができなかった。



(四)


 今朝からシトシト小糠雨。

夏服のシャツの襟は張りが無く、むんとしたしめり気はこの街全体を包んでいるようであった。ランチルームのいつもの特等席。そこもまたしかりである。

 ルリと向かい合わせのツグミとヒヨは昼食も食べずに、もじもじとしている。そのいつもとは違う不可解な様子に、ルリも持ってきた弁当を開けることもなく何も言えずにうつむいている。

「ツグミが先に言ってよ」

「ヒヨ、ずるいよ、一緒にって言ったじゃん」

 周りの生徒には聞こえないように、コソコソと話す二人の姿はルリにもショックだった。一体何があったのだろうか、どんな悪いことを言ってしまったのか、ルリは昨日とはまるで違うツグミ達の様子に、自分の反省点をずっと心の中で探している。

「わかった、私が言う」

 ツグミが身体を乗り出して、斜め上からルリを見下ろした。

「ルリ、私達は親友だよね」

「は、はい」

「ずっと、未来まで仲良しでいようねって言ったよね」

「はい……」

「それなのに何で、困っている時に一言相談してくれなかったの?」

「は……い……」

 段々とルリの言葉は小さくなっていたが、何で怒られているかわからない。

「お金は必要かもしれないけど、そんなことは絶対にやっちゃダメだよ、自分の心と身体を傷付けちゃうんだよ、そんなにお金が必要だったら、私のお小遣い分けてあげるから」

 ツグミのヒソヒソ声は、余計、ルリの態度を萎縮させた。自分の総菜売りのバイトがそんなにいけないことなのか、高校生のバイトはそんなに問題行動だったのか。

ルリは前に読んだ本の中に出てくる年老いた刑事と青年刑事が警察手帳を持ち、逃げようとする自分の前に立ちふさがる姿を想像した。

「ごめんなさい……」

「そうよ、援助交際なんて絶対しちゃダメでしょ、補導されちゃんだよ、あの優しいお母さん、泣かせちゃうんだよ」

 ヒヨの言葉に、ルリの頭の中で想像した二人の刑事は疑問符で埋められていく。

「援助……交際……?」

「そうだよ、お金は簡単に手に入るかも知れないけど、絶対ダメ、病気になっちゃうことだってあるんだよ」

「あの……私、そんなことした記憶無いんだけど……頭、混乱しているのかな……私、馬鹿だから忘れちゃったのかもしれないけど……」

 ルリは自分の行動を何度振り返っても、そのようなことをした覚えはない。

「ルリ、ごまかさないで、私とヒヨ、見ちゃったんだ、中年のむさくるしい男の人と……ホテル街の方に歩いているところを、ごまかさないで」

「ええっ!援助!」

 顔を真っ赤にしたルリの大声に、他の席に座っている生徒達は一斉に三人の方を振り返った。

「違う、違う、絶対に違う、神様に誓っても違う、仏様に誓っても……それに……お父さんに誓っても!」

「座れ、ルリ、みんな見てるよ、先生に聞かれたらまずいでしょ」

「だ、だって、そんなこと絶対に、絶対にしてないもん、するわけないないよ、そんなこと、絶対に絶対にしてないからね」

 ルリの否定する様子を見た二人は、彼女が嘘をついているように思えない。なぜなら彼女が、ここまで芝居上手な人間ではないということを昔から知っているからである。

「なら、何でホテルのいっぱいある方に、変な人と歩いてたのよ」

 ツグミの追及は続く。

「それは……その……」

 ルリは、高橋との出会いから、ギターを習っていることまで、全て正直話すことだけしか、この二人の尋問から逃れられる術はなかった。



(五)


「お、いらっしゃいルリちゃん、何と!」

 ルリの後から女子高生が二人入って来たのを見て、マスターは一瞬コーヒーカップを拭く手を止めた。

「こんばんは、あの……友達連れてきました」

「フレンドがフレンドを呼ぶ……まるであの時代のようだな、他の客なんて来ることなんてめったにない、好きな所にシッダウンしな、今日のコーヒーは俺のおごりだよ」

 マスターはカップをカウンターに置いて、ルリたちに向かってピースサインを送った。ルリも笑ってピースサインを返す。

「こんな所にお店なんてあったんだね」

 ヒヨは本当に驚いているらしく、壁から奧のトイレに通じる扉まで観察をし続けている。

 喫茶店のソファーは、二人並んで座っているだけでも狭いとツグミは感じた。

「野郎に聞いていなかったか、この隣のスケベな建物が立っている土地に俺のライブハウスがあったのさ、土地ごと売っぱらって株買ったんだが、バブルはじけて大損よ、残ったのはオールドでプアな喫茶店、あれ以来、貧乏神しか寄り付かねぇ」

 ほんのりとレモンの香りがする水の入ったコップを三人の前に置くと、マスターはこれまた狭い通路を器用にすり抜けていった。

 ルリご一行が来てから十分もせず、カラリと入り口扉のベルを鳴らし、高橋は入って来た。

「ジャンキー、お前の取り巻きが増えているぞ」

「?」

 マスターに唐突に言われた言葉の意味を高橋はわからなかった。しかし、ルリたちがいる所だけ店の闇のオーラが薄れているように感じて見えた。

(いつもと何かが違う)

「高橋さん、ごめんなさい!」

 ルリはいきなり立ち上がり、開口一番大きな声で頭を下げた。

「お前……話したのか」

 高橋の一言にルリの表情は凍り付いた。今日は何度凍り付いたのかルリも覚えていない。

「本当にごめんなさい」

 高橋の顔も凍り付いている。

「何、年甲斐もなくタイムストッピングさせてんだよ、娘みたいなギャル困らせて、一人も二人もたいして変わらねえだろ、店にとっちゃそりゃありがてぇことだ」

 困った表情のルリは母親に似ていた。

「ガキに秘密なんて無理な話ってことか、まぁいい、ギターの準備しておけ」

そうは言ってもカウンター席に座る高橋はまだ、ルリ以上に顔を強ばらせている。そして、マスターにバーボンの水割りを注文した後、大きくため息をついた。

「年くったら丸くなるってのは、本当だな、俺も見習いたいぜ」

 マスターはニヤニヤとした表情で高橋の顔を覗き見つつ、ルリたちのコーヒーをおとした。


 ツグミもヒヨももうルリのことを疑ってはいない。昔取った杵柄とはいえ、なめらかに音階やコードを演奏する高橋に少しでも近付こうとあたふたするルリに、嘘偽りの様子は微塵も感じられなかった。

「あの……高橋さん!」

 ルリの練習を終えた高橋にツグミはいても立ってもいられず近付いて声を上げた。

「何だ、大声で、俺はマスターよりもまだ耳は健在だ」

「ルリと、ルリと……」

 ツグミが何を話し出すのかとルリは思った。

「ルリとバンドコンテストに出て下さい!」

 ヒヨもツグミの言葉を聞いて、すぐに彼女の横に並び、声を揃えた。

「ルリとバンドコンテストに出て下さい!お願いします!」

 ギターを片付けていたルリは二人のとてつもなく厚かましい願いに狼狽した。

「ツグミ、ヒヨ!高橋さんが迷惑するよ」

「前にこいつに言ったはずだ、俺はバンドなんて……」

「おおっと、今でこそ、こいつはグダグダしているが、ジャンキー高橋といえばこの界隈では伝説のギタリストだ、お前さん方のようなラブリーエンジェルのお願いだったら何でも聞き届けてくれる、何よりもよ、これは聖母マリーが野郎自身に与えただけじゃなく、残り人生リトルな俺にこいつの糞ったれな音を聴かせてもらえる最後のチャンスなんだからな」

 断ろうとする高橋の言葉をかき消すようにマスターは言葉をかぶせた。

「ありがとうございます!」

 当の高橋本人の答えを聞くこともなく、思わず父親に甘えるような仕草でツグミとヒヨは高橋に飛び付いた。

 女子高生の甘い髪の匂いが高橋の鼻腔をくすぐる。

(誰だ……一体俺の運命をもて遊んでいる糞野郎は誰なんだ……)

 その高橋の心の疑問に答えることができるのは、多分ルリの母親くらいなものである。「なすがままに、あるがままに、答えはいつか出るんじゃないってポールが歌っていたわ」と。



(六)


「ニャー」

 今日の夜も野良猫のグルーピーはコージの出番を店の裏口で待っていた。いつものように余り物のカマボコを手に彼は出てきた。

 野良猫たちの黄色い悲鳴が静かな真夜中の街にこだまする。

 残飯をゴミ箱に入れ終え、店前に落ちているゴミや吸い殻を箒で掃いていると、前に見た酔っ払いの二人が同じような千鳥足で肩を組みながら、各店のシャッターにぶつかりながら歩いてくるのが見えた。

 それがマスターと高橋であると言うことを、コージはまだ知らない。

「だから、何でこの糞ったれマスターは、あの時にあんなこと言いやがったんだ」

「俺が言ったんじゃねぇ、ロックの神様がお前のハートの叫びを代弁してくれたのよ」

「何が代弁だ、おめぇのような野郎の大便はトイレだけにしておけって」

「トイレシー・ローズって洋もんの訳ありピンク女優のことか、昔よく拝ませてもらったぜ、アーメンってよ、あいつは良いガールだった」

「糞助平野郎、いい年しやがって、まだ、そんなのに興味あるのか、切れ!そんな使い物にならねぇガラクタなんて、切れ!」

「糞野郎はお前の方だ、何だその修行僧のようなライフはよぉ、けっ、ジャンキー野郎のお前にゃ似合わねぇ、人ってのはもっと、こう何だ欲望がなくっちゃよぉ、生きていけねぇだろ、サティスファックショーンだ」

「ジャッジャッう、ジャジャジャーッジャジャッジャだな、何て良いリフなんだ、何で神は俺にそのリフを与えてくれなかったんだ」

「ストーンズのリフだったらブラウンシュガーだろうよ」

「違う、それも悪くはないが原点はブライアンだろう」

 彼ら酔っ払いの声が遠くになっていく。

掃除を終えたコージは、またいつものように冷めた目をしながら店のシャッターの鍵を閉めた。



(七)


(皮膚が湿って柔らかくなるだろ応急絆創膏なんて貼るんじゃねぇ、指の先使い切って、固くさせるのが、唯一の治療法だ)

 高橋が以前、そう言っていたように、ルリの左手の指の先はだんだん固くなり、触感もにぶくなっている。

 六校時目の数学の時間、教師の説明を上の空で聞くルリの頭の中は新しいバンド名を考えることだけでいっぱいであった。

(デッドツェッペリン……チープパープル……ヴァンケイレン……アイアムメイデン、うーんアイアンデンデン虫なんかかわいいかな)

 それらのアイディアの元は全て父の持っていたアルバムのミュージシャンである。

「大嶋」

 教師に指名されても指の先以上に頭がにぶくなっているルリである。

「大嶋!」

「あ、はい!」

 今のルリにとって、数式よりも覚えなければならないことが山ほどある。しかし、そのような都合の良い理由を許すほど世間は甘くはない。

 ルリの貴重な放課後が数学の補習に費やされることになるのは必然的な結果であった。

 補習授業には、ルリと同じような頭の中に春の陽気を引きずっている者が他にも何人かいた。その中にフミヲのバンドメンバーの一人もいた。

「前から気になってたんだけどよ、お前、どんなギター弾いてんの、ちょっと見せてくれよ」

 補習が終わってからルリに話しかけてきたのはギターを弾くユウキであった。特段断る理由もないので、ルリはケースから自分の古いストラトを取り出した。

「ボロボロじゃねぇか、どこから拾ってきたんだよ、パチもんにしちゃ古すぎるんじゃねぇの」

 口の悪さはさすがにフミヲのメンバーである。

「やめた、やっぱり見せない」

 確かにユウキの言っていることは的確な指摘であったが、このギターへの悪口にはルリも負けてはいない。

「冗談だって、わかったよ」

 フミヲほど、ユウキはひねくれてはいない、八重歯の覗く笑みをしながら軽く謝り、ルリが渋々取り出したギターを受け取った。

 はじめは馬鹿にしていたユウキも、このギターの木の感触、指板がえぐれた仕様を見て、他の高校生が持っていない代物だということにすぐ気付いた。

「これ、本当に大嶋のか」

「うん」

 ユウキが自分のポケットから取り出したピックで、バンドの曲のフレーズを軽く流した。吸い付くような弦の反動とボディーの共鳴は自分が普段使っている愛器とは格段に違っている。

(同じメーカーでもここまで違うのか)

 彼の愛器だって、高校の入学祝いにようやく買ってもらえたものであり、決して安物ではない。ユウキは途端に悔しくなり、ルリへ押しつけるようにしてギターを返した。

「あまりいい音じゃねえな」

「大きなお世話」

「そういや、お前、コンテスト出るんだって」

「どうして、そんなこと知ってるの」

「俺の彼女がツグミから聞いたんだって、やめとけよ、恥かくぜ、それにメンバーなんているのかよ」

 ルリの想像では三つだけの和音のブルース進行で高橋が延々とアドリブしているコンテスト風景であった。

 のど自慢の鐘が一つだけどこかで鳴ったように感じた。

「いるに決まってるじゃない、そっちのバンドよりもマシかもしれないよ」

 と、ルリは反論してみたものの、再び彼女の頭の中では高橋一人だけが演奏を続け、当の本人はへたばってステージ上で休憩している。

「お前達の演奏をみんなで笑ってやるぜ、じゃぁな」

 ユウキはそう言って教室から出て行った。

 残されたルリは今の出来事をどのようにツグミやヒヨに話そうか迷っていた。明らかにルリの言葉は勇み足である。



(八)


 雨はまだ続き、不快指数は高止まりのまま。

 コージはチェーン店の会社総務課長からの連絡を受け、多くの雇われ店長と共に古いビルの一室にいた。

「今月末で社はこの事業から全て撤退することが決定しました」

 副社長の一言で、その場は騒然となったが、コージは何となくこうなることを予想していた。大手の軽食全国チェーン店が集中的に近隣の駅や街中にでき、客が全てそちらに流れていることは最近の来店者数からも明白であったからだ。

 契約社員は始めから首切り要員だと、社長が公言していたことも知っている。雇用期間を断続的に切られ、どれだけ長く勤めていようとも、正社員に登用されることもなく、わずかばかりの退職金で捨てられてしまう。不景気が続いているとはいえ、あまりにもひどい仕打ちではあるが、彼一人ではどうすることもできないし、何とかしようとする気力も残ってはない。

(野良猫の食い扶持も無くなるんだな)

 落胆から怒りの声に変わる室内の中で、コージの存在は哀れなほどピアニシモであった。



(九)


「あんた、馬鹿じゃない」

 練習場所のマスターの喫茶店は既にツグミにとっての憩いの場ともなっていた。エプロンを着け、バイトではなく、いつもおごってもらうジュース代の変わりとして店を自主的にいや勝手に手伝っている。

 ルリは高橋よりも早めにバイトを切り上げ、着いた早々、マスターとツグミに今日の出来事を打ち明けた。その返答が冒頭の言葉である。

「だってさぁ、何かあの人を見下している態度、何であいつらみんなああなんだろ」

 ツグミに思い切り飽きれられつつも、ルリは何となく面白くない。

「それはヤングだからだ、そういうルリちゃん、ユーもヤングだ」

 壁にかかっているアルバムからレコードを取り出したマスターは、プレーヤーに載せ、針を落とした。プチプチとしたノイズ音をかき消し、タンバリンとオルガンの軽快な音と共に、少し蛙のつぶれたような歌声が流れてきた。

「あ、この曲」

 ルリにはその曲がすぐに分かった。父が大好きだった曲、ボブ・ディランの『ライク ア ローリング ストーン』である。

「しかし若いとは言っても、このグレートなシンガーが教えてくれるように、今日、偉そうにしている奴もトゥモローにゃわからねぇってこった、ルリちゃんの言う通りビリだった奴がのし上がるかもしれねぇ、ただ……」

「ただ……?」

 ツグミとルリはマスターの顔を揃って見つめた。

「メンバーが揃わなきゃな、何たってバンドのコンテストだからよ」

「マスター、ドラム叩けますか?」

「無理だなぁ、俺はリスナーのポジションをこの年で変えるつもりはねぇ、叩けていたらとっくにジャンキーの糞ギターとギグしてたっつうもんだ」

「ツグミは?」

「私のリズム音痴、あんたの方がよく知っているでしょ」

 ルリの暴走的な願いがそういつでも易々と叶うものではない。

 ドラムほどメンバー探しに苦労するパートはない。楽器の置き場所、練習できる環境の無さなど演奏人口が圧倒的に少ないのである。ましてやそれがある一定以上の技量をもっている者なんて、どぶ川で砂金の粒を探すより難しいことであった。

「そういえばさぁ、この前ゲーセンで太鼓すごく上手い人見たよ、お達者人のランク全部クリアしていたんだ、それもノーミスでだよ」

 流れるリズムに合わせて正確に叩く人気ゲームなので、マニアはたくさんいるが、ハードランクをノーミスでクリアする者はあまりいない。

 ツグミの一言は迷えるルリというカンダタを天界に引き上げようとする蜘蛛の糸であった。

「どこ、どこの?」

「中央デパートの上の」

「私、行ってくる、マスター、ギター預かっていてください」

「待ってよ、ルリ!」

 止めるツグミの声を背に、ルリはもう店から飛び出していた。

 十分後には、中央デパート六階にあるゲームセンターの中でツグミの言うすごい人を捜していた。

(しまった……どんな人か聞くの忘れた)

 少し冷静になったルリは自分の携帯でツグミに連絡を入れようとしたが、制服のポケットには何も入っていない。

(店に忘れてきたぁ)

 その辺に歩いている老若男女、全員に声をかけようかとも思った。けれど、思っただけである。

 一人でおろおろしている間にツグミがようやく息を切らせてたどり着いた。

「もう、一人で行っちゃうんだから」

「どこにもいないよ」

「馬鹿、当たり前じゃない、この前って言ったじゃない、いつ今日って言ったのよ、今日だとしても……」

 件の男が『太鼓のお達者人』にコインを投入していた。

「畜生、畜生、畜生……」

 男はブツブツと独り言を言いながら、軽やかなスティックさばきを見せている。

「あの人だ……でも、ちょっと怖くね?」

 ツグミにあの人だと言われたルリも少し怖くなった。顔自体からはスッキリした印象を受けるのだが、画面をほとんど見ずに叩く姿は知り合う前の高橋とはやや異なる変質者のようにも見えた。

 声をかけようか迷っている間に、その男はゲームを途中で止め、スティックを戻した。ゲーム機からの賞賛の機械音声は全てエラー音に変わっていった。

「ツグミ、どうしよう」

「どうしようったって、怖い人に近付かない方がいいって」

 『太鼓のお達者人』はゲームオーバーを告げるビープ音で終わった。



(十)


「で、スカウトの方はどうだったんだい?」

 マスターはカウンターの向こうでルリとツグミに聞いた。

「怖い人だよ、ずっとブツブツ言ってたしさ、刺されちゃうかと思っちゃった、ねぇ、ルリ」

「うん……でも……」

 高橋はカウンター席で既にバーボンを飲んでいる。

「今日、練習無しな、もう九時になる。早く家に帰んな」

「ええっ、ちょっとだけ、五分だけでもいいですから」

「ガキが大人の時間を邪魔するんじゃない、時間厳守だ、それが大人のルールってもんだ」

 そう言って高橋は自分でボトルからコップに琥珀色の液体をつぎ足した。

「高橋さんだって、遅刻したことあるじゃないですか」

「それは大人の事情ってもんだ、お前がとやかく言う筋合いのもんじゃない、ギター教えるのもう止めるぞ、ガキ」

 ルリは高橋が帰宅の遅くなるのを心配してくれているのはわかっていたが、いつもの無愛想な言い方に口答えしたくなった。

「ガキ、ガキって言わないでください……私だって、私だって」

 すぐに涙目になるルリであった。

「ルリ、もう帰るよ、みんな遅くなるの心配してくれてんだからさ、マスター、また来ますね、それじゃ、高橋さんも」

 ツグミがぐずるルリを引っ張りながら、店を出て行った。

「いつから、この店はこんなにうるさくなったんだ」

 高橋も少し不機嫌になり、コップの中の酒を一気に飲み干した。

「まだ、サイレントだよ、お前らがいた頃よりもずっとな」

 マスターの言葉に、高橋は口の端を少しだけへの字に曲げた。



(十一)


「ねぇ、ルリちゃん何かあったの、今日ギター練習しないんだね」

 ルリは布団の上で、制服を着替えないまま大の字に寝、黙って天井を見ている。

 妹のアイサは自分の布団に入ったまま顔を半分だけモグラたたきのモグラのように出し、いつもとは違うルリの様子を気にしていた。

「何でもない、早く寝なさい」

「寝ようと思ったけど、いつものルリちゃんのギターのペンペンした音がないから、ちょっと違うなぁと思って」

「前にうるさくて眠れないって言ってたじゃない」

「うん、前はそう思ったよ、でもルリちゃん、上手になってきたらいい曲に聞こえてきたから……」

「本当?」

 アイサの言葉にルリは反応し、身体を起こした。

「うん、ルリちゃんも頑張っているから、アイサも頑張りたくなっちゃった」

「アイサ、あんたは何て良い妹なの!」

 ルリは、寝ているアイサに抱きついて頬ずりをした。

「やめてよ、ルリちゃん、くすぐったいよ」

「で、アイサは何を頑張るの?」

「今やっているゲームでね、クリアタイム世界ランク一位とるの、みんなにクィーンアイサって言われるのが夢なんだ」

 とてつもなく女王様視点の言葉を聞いて頬ずりを止めたルリであったが、アイサの何気ないさっきの一言は、今宵もう一度ギターを触らせるきっかけとなった。



(十二)


 『ビートルズ』はやって来るが、金の入ってない財布に、ヤーヤーヤーと諭吉、一葉、式部、英世の四人組は来ない。

(フローイデ、シェーネル、ゲーッテルフンケン!)

 ホールのステージを照らすライト、歓喜の合唱は神を讃える言葉を繰り返し、弦楽器のクレシェンドから金管楽器のファンファーレ、タクトを振り下ろす指揮者に合わせて高らかにシンバルを鳴らすコージ。

 客席はブラボーの声で沸き返る。

(君は天才だ!)

 その記憶が途切れた瞬間、目の前には野良猫がおいしそうに最後のカマボコを食べていた。今日はその他にコージが自腹をきった猫缶も振る舞っている。

「今日が最後だ、野良猫はいやがられる存在だけど、だからって存在そのものを無くせってのも勝手だよな」

 猫のうちの何匹かはコージの足に甘えすり寄ってきている。コージは猫の背中を撫でているうちに涙が出てきた。

 本社からの職員はシャッターの鍵をコージから受け取ると、何のねぎらいの言葉もなく、その場からすぐに立ち去っていった。

 無職確定の儀式は全て終了し、野良猫達との最後の晩餐もお開きの時間となった。

「馬鹿野郎!」

 おもむろにコージは立ち上がって、シャッターを思い切り蹴った。音に驚いた野良猫達は食べるのを止めて、さっと物陰に身を隠す。

「畜生!畜生!」

 幾度も蹴りつけられたシャッターは次第に変形していった。

 コージの怒りは収まらなかった。会議の時の副社長の顔、自分達を見下した社長の顔、そして、何も言わないで事務的に引き渡しの作業を行う社員の顔、そして、若い頃の自分自信の顔、全てが面白くなかった。

「おいおい、そのへんでストップだな、おっかないマッポが来ちゃうよ」

「いつもの真面目な勤労ミドルオールドボーイじゃないか」

 酒臭い息を吐いている背の高い中年男と老人が、コージの身体を後ろから押さえていた。我に返ったコージは、取り乱した自分を見られて急に恥ずかしくなってうつむいた。

「オールドボーイ、もう仕事はオーヴァーしたんだろ、ワーイズオーヴァーだろ、袖ふれ合うのも何かのコネクションだ、俺の店で一緒に二次会するか」

「そうだ、そうだ、この糞親父がおごってくれるんなら、どこへでも行くぞ」

「あったりめぇだろ、こっちが誘ったんだ、お前のようないい年こいてバイトライフ歩んでる奴から、マニー取れるかってんだ、でもなぁ今日だけだぞ、今夜だけスペシャルナイトだ、最近の中年はマニーさえろくに持っていねぇんだからな、こまった時代に変わっちまったなぁ、『時代は変わる』ってな」

「糞親父のディラン好きがまた始まったのか、とりあえず俺はただ酒飲めるんならどこへでも行くぞ」

 二人の強引ともいえる誘いを断ることはできない黙ったままのコージがいた。この二人の二重ブラックホール並みの強引さは実にルリやツグミ、ヒヨ以上である。

 先程閉めてから一時間もたってはいないマスターの店に再び明かりが灯った。

 男達のつまみは塩と海苔だけのわびしいものであるが、コージを除いて、あるだけまだマシだと考える者の集まりである。

 今の彼らは真水を飲んでも酔いがさらに深まっていくであろう。水割だか原酒だかの区別さえつかない口の中は酔いすぎてしびれていた。

「へぇ、そんな糞会社やめちまって正解じゃねぇか、俺もなぁ、やめるか出向してくれって言われてすぐに……すぐにだよ、こうバァーンって部長の鼻っ面の先で辞表を叩き付けてやったよ」

 フラフラになった手で高橋はカウンターを叩いた。

「だぁからよ、てめえに会社勤めなんて似合わないって前からティーチしてたじゃねぇか」

「誰だって事情っつうもんがあんだろ」

「で、結局こうなっちまったら元も子もねぇや」

「マスター言うねぇ、ただの死にかけたボケ老人じゃなかったんだぁ」

 普段無口だとは誰も想像できないであろう、酔いつぶれる寸前の高橋は饒舌である。

「ボケ老人たぁ何て言いぐさだぁ、半分人生捨てているお前にそんなことはぁ、そんなことはぁ……何だっけ」

 コージを無理矢理誘った割に、二人だけの漫才は続く。

「そうだ、この兄ちゃんだぁ、この兄ちゃん、名前は?」

「白江です。白江コージって言います。」

「コージ?奴のドラムは最高だ、リズムが締まるっつうのかな、まさに奴もミューズの申し子だ」

 高橋の言っているのは伝説のドラマー、『コージ・パウエル』のことである。

 しかし、白江コージは自分のことを言っていると疑わない。

「あなたは(僕のことを)知っていたのか……」

「あたり前よぉ、コージのスネアの深い音で、バラバラだった全ての音が、何つうかな、光るんだよ、ドラムと言ったら数多の奴らがいるが、本当の音を引き出せるのはコージしかいない、だからあれ程、全盛期は引っ張りだこだったんだ」

 どん底に沈んでいたコージの表情が急に変わった。

「そうなんだ、僕の才能は半端じゃなかったんだ、あの頃は色々な所で仕事をした、何で何で知っているんですか」

「伝説の男のことは命が消えるまで心に刻みつける、それが音楽に一時でも命をかけた者の礼儀だ」

「そうだ、素晴らしいコージに乾杯だ」

 マスターはグラスを掲げた。

「コージに乾杯」

 別人のコージを褒め称える二人との話題は、相変わらずずれたままであったが、酔いがまわっているコージは自分を賞賛する声に心の底から嬉しくなり、掌を上に向けたトラディッショナルグリップという持ち方で二本の割り箸を構えた。

「ん?」

 コージの割り箸はカウンターの上で、細かいロール音を響かせる。そしてロールが途切れた瞬間、まるでメトロノームのような機械的に正確なビートが刻まれた。

「お前さん、すごいな」

 マスターが驚いている所に、高橋が店のギターで軽やかなカッティング音が重なっていく。

「おおっ!」

 目まぐるしく変容する高橋の和音に、コージの割り箸が奏でるリズムは蛇のようにからんでいった。高橋もコージも呂律が怪しくなっているが、酔いが生み出すその微妙な揺れがたった一人の観客であるマスターの耳に心地よく響いていく。

 酔っ払い二人のセッションは白熱電球のあたたかな灯りの下で続けられた。


 さて、当の言い出しっぺであるルリはというと、自分の家の布団の中で何も知らずスヤスヤと寝息をたてている。

「この際、変な人でもいいよ……」

 彼女の寝言は誰も聞いていない。



(十三)


正面の木の扉には「閉店中」という札がぶら下がったまま。

 学校帰りのツグミはマスターの店の前で足を止めている。

「あれ?店休みなんて聞いてないんだけどな」

 ちょうどルリからもメールが来ていた。

開いてみると、「高橋が今日仕事を休んでいるどうしよう」という内容であった。

 少し不安になったツグミは、確かめようと扉に手をかけたが、鍵がかかっていて動かない。

「マスター、マスター、いますか!」

 ツグミは扉をドンドンと大きく叩き続けると、ようやく中で人の動く気配と鍵が開く音がした。

「よかった、マスターどうしたんで……」

「おはよう、トゥディはやけにファーストじゃねぇか、うげっぷ」

 マスターの吐いた息は全てのものが一瞬で発酵してしまいそうなほど、酒臭かった。彼の前に今立つモノは全て石と化すであろう。

 石化した最初の犠牲者はツグミであった。

「新しいドラムを見付けておいたぜベイベー、うげっぷふぅ」

 強い酒の匂いは店内から漏れ出し、いや、押し寄せてくる。

 アルコールが目にしみたツグミは目をうるませた。

「そうだろ、泣くほど嬉しいだろ、アイムグラッドトゥーシーユーだぜ」

 ソファーの上で動かない二人の男の姿は、まさに殺人事件現場のようなあり様であった。

「ああっ!変質者!」

 この後は何も語るまい。ただ、この日を境にマスターの店に、そばがメニューに加わったこと、そして、なぜかマスターの店の周りに野良猫が集まるようになってきたことは付け加えておく。









「クローバー Bass Part」


(一)


 妹のアイサと四畳半ほどの狭いキッチン。

ルリは、小さなテーブルを向かい合わせに朝食をとっていた。

 母はもう仕事に出ていていない、いつもの朝である。

 アイサはまだ起きたばかり、寝癖をそのままにパンの耳をトーストからはがして、その耳だけを野菜スティックのようにつまんで口を動かしている。

「アイサ、先に行ってるからね」

「うん、ルリちゃん今日もバイトで遅くなるの?」

「ううん、だって今日は『ケーキの日』でしょ」

「そうだった!やったぁ、早く帰ってきてね」

 一月に一回、ルリが家にケーキを買っていく金曜日をアイサはいつも楽しみにしている。

その日の夕方だけは、唯一家族が三人揃って夕飯を食べることができるので、この家族のほんの小さな幸せの時間でもあった。この日ばかりはルリと高橋のギター教室も休みである。

「あ、ルリちゃん、あのね」

「何?もう早くしてよ」

「ううん、帰ってきてから話す」

「もしかして、学校行くのにいやなことでもあるの?」

「まさかぁ、学校は楽しいよ、あわてることじゃないから、ルリちゃんが帰ってきたら教えてあげる」

 心配するルリをよそに、口をまだもぐもぐとさせながら、アイサはミルクの入ったコップを両手で持ち、飲む風でもなくじっと眺めている。

「ミルクに虫でも入っているの?」

「成分分析表だと、いつも飲むのより脂肪分が少ないみたいなんだけど、見た目の違いは何だろうと思って」

 アイサほど大人顔負けの探求心をもつ子供は、なかなかいない。ルリは妹を天才じゃないかと思うことがしばしばある。だが、今、そのことはさして重要ではないので割愛する。



(二)


「よぉ」

 電車の中で声をかけてきたのはユウキであった。

「あれ、いつものギターどうしたんだ?」

 ルリの背中のギターは、自宅で休憩中である。

「今日はすぐに家に帰らなくちゃいけないから、持ってきてないんだ」

「で、バンドメンバーは見つかったのか、俺、楽しみにしてんだけど、もしかしてぇ、見つからなくてキャンセルかぁ」

「あんたに関係ないでしょ」

「知ってると思うけど、俺たちゲストだぜ、全く関係なくはないと思うけど」

 視線をそらしてもユウキは回り込み、ルリの視界の中にグイグイと侵入してくる。

「んもう、しつこいなぁ」

「そういえばさぁ、俺、この前、彼女と別れたんだ」

 フミヲのバンドメンバーはツグミの弁を借りると「色魔」である。

「それが私と何の関係があるのよ」

「俺とつきあわないか」

「はぁ?」

 ユウキという目の前にいる男子高校生はこうも馬鹿なのかとルリは思った。

本人は青春ラブコメマンガの主人公でいるようにさわやかな笑顔をしているが、最近、一癖も二癖もある年上のむさい男たちばかりと関わっているルリには、彼がデビューしたばかりの喜劇役者のようにさえ見えた。

「同じギターが趣味だしさ、絶対合うと思うんだよね、俺、本気だから」

 朝早いとはいえ、周囲には乗客がいる。こいつには羞恥心というのがないのかとルリは人ごとながら、かえって自分の方が恥ずかしさで頬を赤くさせた。

 その頬を見て、ユウキは強い手応えを感じている。

「返事は聞かなくてもいいよね……この俺がお前を好きになるんだから」

 そう言ってユウキはルリの手を握ろうとする。

「……最悪」

 いつも少しおどおどしているルリが、この時とばかりは妹アイサの生き霊が乗り移ったかのように、女王モードへと移行した。

「え?」

「そうやって、何でも人を見下して自分たちの言うことが通用すると思ったら大間違いなんだから、そういうの大嫌いなんだから、私たちの演奏はあんたなんかのところよりずっと上手いんだから、次はあんたたちが恥をかく番なんだからね」

 電車がホームに着いた瞬間、あっけにとられるユウキを置いてルリは降車し、人にぶつかりながら階段を駆け上っていった。



(三)


「あは」

 廊下でルリの話を聞いていたヒヨとツグミは思わず吹き出した。

「あはじゃないわよ、全くもう、こっちは朝からずっと最悪の気分なんだから」

「だってさぁ、よく恥ずかしくないよね、マスター、この話聞いたら喜ぶよ、これだから若い奴らはハッピーだぁなんて言って」

 ツグミはマスターの声色と表情を真似しながら言った。

「でもさ、別れたのって二組のナオでしょ、ツグミの知りあいなんじゃない」

「うん、一年の時、同じクラスだったからね、でも、すごく浮気性でついていけないって前から言ってたから、別れて正解でしょ?で、次の獲物はルリってちょーおかしくない、ねぇヒヨ、おかしいよね」

 馬鹿にされているんだかされていないんだか、ツグミの言葉はルリに理解しがたい。

「それって私がおかしいってことなの」

「え、ルリ、気を悪くした?」

「別に」

「でもさ、ルリ」

 次のヒヨの一言でルリは平成の大横綱に土俵から遠くへ突き飛ばされた光景を想像した。

「相手に恥をかかすほどのメンバーはもう揃ったの?」

 平成の大横綱は場外に飛び出して、なおもルリを責める。

「曲は決まったの?誰が歌うの?ねぇ、ねぇ」

前回の勇み足を遙かにしのぐ決まり手により、ルリの黒星はまた増えていった。



(四)


マスターの店ではコージの作るそばの旨さを聞きつけた客で賑わいを見せはじめた。味に独特の工夫を加えるなど、チェーン店ではできなかったことを、コージは挑戦し続けている。

「楽譜に忠実にそして、その楽譜に書かれていないことを読み取るのが良い演奏につながります。ソバ作りも同じこと、レシピに忠実に従いながら、そこに自分の独創性が加わることによって、さらに味がより深みをもったハーモニーを奏でるのです。オーナーの店にとっても革命です、ショスタコビッチの交響曲五番を日本人がそう称するように」

 コージの冷静且つ第三者的な訳の分からない説明はマスターにとってどうでもいいことであった。適当に場所を提供して、自分は昼酒を飲んで、好きな音楽を聴くことが出来る毎日。これこそが彼の求めていたワンダーランドである。そして、この一か月の間に、店の中が昔のように賑やかになってきてくれたことが、最高の時間でもあった。

「この店の雰囲気いいね」

「ちょっとレトロっていうか渋いね」

 今までこの店に来たことのない客は、そう言ってマスターの店を褒め称えた。

(何も変わっちゃいねぇんだが、やっぱりボブの言う通りだった、今の負け犬は次の勝利者になるってことを、こんなミラクルの中に俺はいるんだ、ありがとよボブ)

 一人感慨にふけるマスターであるが、彼は特段何もしていない。怠惰な、いや幸福な時間を過ごすうち、いつものように仕事を終えた高橋が、店の扉を開けて入って来た。

 狭い店内にいる若いカップルの客層を見て、高橋は思わず足を踏みとどめた。

(違う……何だここは、……ここはいつからこんな店になったんだ……、もしかして隣のラブホと提携でも結んだのか……)

「ジャンキーか、奧に座んな、今日はルリちゃん来ないから、お前も来ないと思ったぜ」

 マスターはサムアップしてから、奧のカウンター席を指した。

「どうも」

 コージは食器を洗いながら高橋に声をかけた。

「いつも来る女子高生のように、ただ働きさせられてんのか、このどん欲爺ぃ、俺が働かせてくれと言った時、時給五十円とか言いやがった狸だぞ」

 その言葉にマスターはすぐに反応した。

「ジョークもほどほどにしやがれ、貧乏神のお前と、このボーイとは待遇にヘヴンとヘルほどの差があるのがあたりめぇじゃねぇか、こうやって新規のお客さんがいるのが、その証拠っつうもんだ」

「ちっ」

 高橋は腐りながらも、コージの差し出すボトルと氷入りのグラスに酒を注いでいた。

 客が帰った後、コージを加えたマスター、高橋三人がボックス席でいつもの飲み会を始めるのが最近のパターンである。

「ベースの当てはあったのか」

 つまみの塩をなめた指でマスターは、チョッパーベースの弾き真似をした。

「私の知り合いにコントラバス奏者はいますが、エレキベースとなると、あまりにジャンルが違いすぎると」

「なら、なんでお前はできるんだ」

「それは私がジャンルの幅を超えて何でもできるニュータイプだからです」

 高橋の短い質問に答えるコージのさらりとした自慢は本能的なものである。

「楽器屋によく募集が貼ってあるじゃねぇか、そこは見たのか」

「最近は、販売形態の変化で、当の楽器屋もつぶれてしまっていますからね」

「何だ?その販売形態の変化って」

「ネットの通販とかオークションとかですね、確かに値段は人件費がかからない分安くなっていますから、楽器を買うくらいなら、新しい携帯端末を買おうと思う人が増えているのも影響しています」

 マスターは、コージの人件費がかからないという言葉だけ理解した。

「バンド人口も平成初期のブーム後は右下がりですから、バイク乗りと同じように平均年齢も上がっているそうですし、また、昔やっていた人が高橋さんのようにすぐに弾けるようになるとは限らない」

「それは俺が何でもできるからだ」

「何もできてねぇだろ」

 なぜか高橋の自慢にだけ、マスターはいつも反論する。

「ま、ここまで揃ったんだ、もう少し探してやろうや」

 マスターの言葉に高橋はうなずこうとして、首を止めた。

(何で、俺があのガキのためにメンバー探さなくちゃならねぇんだ、何だ、何がおきているんだ……悪夢なら覚めてくれ……)

 それから酔っ払いどうしの井戸端会議は、ルリのギター練習がない分だけ長く続いた。



(五)


 ケーキの日を祝うルリの家の中は明るい。

「わぁい、ケーキ!お母さん、ルリちゃん、私から選んでいい?」

「私が選ぶも何も、みんな同じでしょ」

 ルリと母は無邪気に喜ぶアイサの姿に微笑んだ。

「ううん、イチゴの大きさはね、微妙に違うんだよ、ほら、ルリちゃん、こっちのは三角でかっこいいけど、この先の丸い方が大きいでしょ、指で円つくって、覗いて見たらすぐにわかるよ」

 確かにアイサの言う通りである。ルリは小学生の妹の言葉に感心した。

「アイサ、すごいね、将来、大学の教授とかになれるんじゃない?」

「私そういうのにならないって決めてるんだ」

「それなら何になりたいの」

「エリザベス女王様」

 王冠をかぶった『フレディー・マーキュリー』がユニオンジャックの旗を持ってルリの脳内にあるステージを横切っていった。

「あ、ルリちゃん、朝言ってたことなんだけど」

「うんうん」

「うちのクラスにね、四葉よつば君って男の子いるんだ、普段は静かで何にもしゃべらないんだ、先生に言われても小さい声でしか話さないんだけど、アイサとはね、ゲーム友達なんだ。でね、カコちゃんから聞いたんだけど、ネットに顔はちょっとしか映らないんだけど、そっくりな男の子が出ているって言うの」

(静かで何もしゃべらない人……高橋さんみたいな人かな)

 ルリはそう思ったが、まずはアイサの言葉を聞くことにした。

「でね、昨日カコちゃんの所に遊びに行って、保存されていた動画を見せてもらったんだ、そしたらね、やっぱり四葉くんなの」

「へぇ、で、どんな動画なの?」

 ルリのケーキの食べ方は、後の楽しみをとっておくタイプなので、イチゴをケーキの横に置くことから始める。

「『小学生がベースを弾いてみた』って動画、すごく上手いんだよ」

 アイサの言葉に、フォークで掬ったばかりのイチゴをルリは床へ落とした。いつものルリであったら大騒ぎするのだが、気にする余裕もなく、すぐに居間にあるパソコンの電源を入れた。

「ルリちゃん、イチゴ落ちたよ」

「アイサ、食べて良いから、洗えば平気、それよりどれなの」

 投稿動画サイトの検索を始めたルリは、それらしいのをクリックしていく。

「ルリもアイサも、ケーキ食べてからにすればいいじゃない、紅茶冷めちゃうわよ」

 母の言葉はルリの耳に届かない。

「あ、これだ」

 首から下しか映っていないが、小さい象の形を模したベースを持つ小学生くらいの男の子が椅子に座る所からその映像は始まる。

 『ジャコ・パストリアス』の『ドナ・リー』というルリの知らない短い曲を、その少年はミスもなく軽々と弾きこなしていた。最後にカメラが動き、二、三秒だけその少年の顔が映ったところで終了となる。コメント欄は驚きと賞賛の英語と日本語の文字でうめられていた

「やっぱり、四葉くんなんだよなぁ、でもね、聞いても知らないよって言うんだよ、何で隠すのかなぁ」

「本当に人違いなのかもしれないけど、アイサ、お願い、明日、もう一度だけ聞いてもらえないかな」

「うん、いいよ、多分ね……四葉くん、アイサのことが好きだから、私が頼めば絶対本当のことを言うと思うよ」

 女子児童版フミヲバンドがあったとすれば、間違いなくセンターポジションに立つのは、この妹であるとルリは思った。



(六)


 次の日、アイサは大好きな姉のために早速一肌脱いでいる。

「四葉くん」

 休み時間、一人で教室に座っている四葉にアイサは言葉をかけた。ルリと違ってアイサは社交的で明るく物怖じすることはない。

「何?」

 マッシュルームカットの小柄な少年は、アイサに声をかけられて小さく返事をした。アイサは男女問わず誰にでも話しかける方なので、子供ルールにありがちな他の男児や女児にはやされることはない。

「四葉くん、あのね、アイサにだけ本当のことを教えてくれる?絶対に誰にも話さないから」

「何のこと」

「ベースのこと」

 急にアイサにそう言われた四葉少年は、きょろきょろと周囲を気にした。

「僕はそんなの知らないよ」

「昨日ね、私、お姉ちゃんと何回も見たの、耳の形とか、鼻の形とか、眉毛の長さとか、絶対に四葉くんだよ」

「似ているだけだよ、僕は知らないから知らない」

「アイサはね、馬鹿にしたりとか、そんなこと絶対にしないもん、助けてもらいたいからそう言ったの」

「助けてもらいたい?どうして?」

「それは言えないよ、だって本当に四葉くんじゃなかったらそんなこと恥ずかしくて言えないもん」

 傍目で見ていたらアイサの駆け引きは見事である。四葉少年は眼鏡の下のアイサのつぶらな瞳を見つめた。

「もし、僕がその子だったら?」

「すぐに助けてもらう、だってその人にしか頼めないことだもん、アイサにとっての王子様になるかもしれないし……」

 アイサは母シキサナの血を受け継ぐ者である。まして相手は小学生男児である。

 すでにアイサの術中にはまった四葉少年であった。

「王子様……アイサちゃん」

「なぁに?」

「あの……絶対に言わないって約束してくれる?」

 四葉少年はまだ周りを気にしているが、二十分休みなので、他の子たちは体育館やグラウンドで遊んでいて誰もいない。

「うん、約束する」


 その日の放課後、アイサはバイトと練習で遅くなるルリの携帯に伝言を入れた。

「ルリちゃん、今度の土曜日にね、約束のお客さんが来るからその日は空けておいてね」



(七)


「明日は雨だな」

 そう言って老爺は茶碗から米を一口食べた。煮物の人参の橙と野沢菜の緑が今日の夕食の一番明るい色である。

 天気予報が終わり、夜のニュースが始まった。

 四葉ヒタキという名のこの少年の家もルリの家と同じ、老夫婦と彼の三人だけの静かな食卓であった。それでも四葉少年は、祖母の手作りの夕食を頬張りながら、終始にこやかな表情だった。

「ヒタキ、お前が笑っているなんてめずらしいね、楽しいことでもあったの」

「そう……別に何もなかったけど」

 四葉少年は祖母にそう言われたことを驚いた。

「婆ちゃん、タダシおじちゃんは今度いつ来るの?」

「仕事が忙しいからって言ってたから、七月の海の日の連休くらいになるのかねぇ、また、三味線みたいなの撮ってもらうのかい」

「もう恥ずかしいからいいや……」

「タダシの奴、ヒタキの三味線ほめてたもんな」

 四葉少年の祖父は米粒が残る自分の茶碗に、番茶を注ぐ。

「三味線じゃないよ、ベースだよ、ごちそうさま」

 四葉少年は食卓の椅子から降りて、自分の部屋に戻った。

 彼の机の上に一枚だけ写真がマグネットで貼ってある。上野動物園の象をバックに祖父母と母、そしてチューリップハットをかぶる保育園児の四葉少年が写っていた。

 四葉少年が物心ついた時には、もう父親はいなかった。しばらく母と二人暮らしであったが、三年前に一人の若い男が同居を始めたことを機に、祖父母と暮らすようになった。

「お爺ちゃんのところで良い子にしていなさいね、お母さんは仕事だからしょうがないのよ、良い子にしてたら一緒に暮らせるから、何たってヒタキはママのかわいい王子様なんだから」

 その母の言葉を信じ、四葉少年は寂しい気持ちをずっと我慢していた。本当はあの良い匂いのする布団で一緒に寝たいのに、お母さんのおいしいグラタンを食べたいのに、わがままを言わないで良い子にしていたらお母さんは帰ってくる。今でもその母の言葉を信じている。

「母親とあの男が行方不明になった」

 行方不明という意味は四葉少年にはわからなかった。ただ、祖父母や親戚が慌ただしかったあの日を境に、母親からの電話はなくなった。

 母親の部屋につながる電話には誰も出ることがない。時々、祖父母が留守の時、こっそりかけてみるのだが「お客様のおかけになった電話番号は現在……」と、母親の声とは似てもにつかぬロボットのような女声が聞こえてくるだけであった。

 クリスマス前、祖母とデパートに買い物に行った時、四葉少年は象の形をしたキラキラと光るおもちゃを見付けた。形もそうだが、写真の中の母親が着ているワンピースの色にとても似ていると思った。

 それは結構な値段がする楽器であったが、母親のいなくなったばかりの孫を不憫に思ったのか、祖母はすぐにそれを買い与えてくれた。

(何で糸が四本の物がいいの?六本の方がいいんじゃない)

「うんとね、僕とお母さんとお爺ちゃんとお婆ちゃんだから」

 はじめは、それが楽器だと知らなかったが、叔父のタダシが読めない漢字ばかりのベースの入門書を買ってきてくれ、使い方と簡単な弾き方を教えてくれた。

 小さい指ではたいへん難しかったが、四葉少年はこれを上手く弾くことができればできるほど、母親に会うことができるのだと勝手に思っていた。

 幼い四葉少年の保証のない「願掛け」と言ってしまえばそれまでだが、もしかしたら自分の姿を気付いてくれるかもしれないという思いが、指から血が出るほどの練習と最後に少しだけ顔見せをする映像公開へとつながったのである。

 母親だったら数秒の短い時間でも自分だと気付いてくれるそれが理由であった。

 ただ、学校やみんなにばれてしまうと母親はまた隠れてしまうのではないか、四葉少年は幼いながらも、このことを学校や友達には内緒にしようと思った。

(ヒタキはママのかわいい王子様なんだから)



(八)


 ルリの家の呼び鈴が鳴った。

「はぁい」

 ルリが扉を開けると、身長と同じくらいのギターのソフトケースを背負った男の子がいた。

「あ……僕……」

 おずおずと下を向いて話す様子は何となく自分に似ているとルリは思った。

「四葉くん、はじめまして、アイサのお姉ちゃんしてるルリです」


 ルリの目の前の少年は一回大きく息を吸い、その小さい指を弦上に添え、軽く二、三回人差し指と中指で交互に弦の場所を確かめた。すぐに彼の手にする象の形をしたベースギターのスピーカーから潰れた音が争うように飛び出して来た。

(こんな子がアイサの同級生なんて嘘でしょ)

 すぐ側で見ているルリは、器用に指板上を滑るように弾く四葉少年のテクニックに驚いた。指の先で弦をはじく力自体は弱いが、一つ一つの粒が揃っていて、コージが叩くリズムのように縦の線がぶれることはない。

 演奏が終わった瞬間、ルリとアイサは驚きの声を上げて拍手するのさえも忘れていた。

「四葉くん、すごい!そうしてそんなに弾けるの?」

「僕のおじさんが好きなCDを何回も聴いて、本の数字を見ながら真似しているだけだから、まだ、本の全部の曲は弾けないけど……」

四葉少年の顔のすぐ近くまで、ルリは顔を寄せていた。

「ちょっと、ルリちゃん、顔近付けすぎ、四葉くん、困ってるよ」

 なぜか、顔を赤くするアイサは、ルリの腕を引っ張った。

「ごめんね、とても驚いちゃって、ねぇ、あの動画通りだよ、ちょっと待ってね、私もギター出すから」

 ルリは自分のギターを出して、四葉少年の前に座った。

「コードはなぁに?私もあわせてみたい!」

「この曲ですか、えぇっと、ディーマイナーセブンのオンナインスからジーセブンスのツーファイブで始まるから……」

「……やっぱり見ているだけにしておくね」

 高橋やコージ、四葉少年、楽器を弾いている時の顔は皆それぞれに違いながらも、楽しさが湧き出す泉を表情のどこかにもっているとルリは思った。

 四葉少年の演奏を聴いている間中、アイサや母親が客席で見守る中、ライトきらめくステージ上で、ルリはバンドのみんなと演奏している姿を想像していた。

「もう良いですか」

 四葉少年にそう問いかけられて、ルリは我に返った。

「ルリちゃん、どうしたの、よだれ出ているよ」

「はっ……いけない」

 ルリは、何事もなかったかのようにごまかしながら、四葉少年に本題を切り出した。

「私達のバンドに入ってくれない?四葉くんがいて全員揃うの」

 しかし、四葉少年は、にべもなくその誘いを断った。

「みんなの前で演奏するのは……ごめんなさい……」

 さっきまでの演奏していた四葉少年の表情と態度はガラリとうって変わり、目をルリと合わせようとはしなかった。

「どうして?そんなに上手いのに、恥ずかしいの?」

「そういう訳だけじゃないんですけど、みんなの前には出たく……ない……」

「えっ?」

「ルリちゃん、四葉くん嫌がってるよ」

「あ、ごめんなさい、そんなに嫌なことだとは……」

「あ、お姉ちゃんは悪くないです。僕がいけないんです、ごめんなさい……」

「四葉くん、ゲームしよ、蟻ん子いっぱいでてくるの撃つやつだけど、まだレベルインフェルノの烈火の面クリアしてないんだ、アイサはライサンダーZの二丁持ちでいくから、四葉くんはZEXRガンで火線引いておいてね、危なかったら自爆してもいいよ」

 アイサが気を利かせ、黙ってしまった四葉少年をテレビがある居間の方へと連れて行った。

 自分のギターを片付けながらルリは四葉少年が断る理由を色々想像した。もし、自分が小学生の時、見も知らない大人や高校生に囲まれたら演奏どころか固まって動けなくなってしまうだろうとか、曲が弾けないことに不安があるのかなど。ただその日、どれも四葉本人に確認することはできなかった。



(九)


「最近のチルドレンは色々難しいっていうからな、今の時代、話合いすっ飛ばしてすぐ親が裁判起こしたりするクレージーな世の中だしよ、コージ、ユーはどう思う」

 ルリの話を聞き終えたマスターは吸っていた煙草の火を灰皿に押し付けて消した。

「私の意見は自分の演奏で全ての国民を酔わせたいと思っていたので全く参考にはならないと思います。おっ、うん、やはり高知産のカツオと利尻の昆布の割合を変えるだけで、こうも変わるのか、素晴らしい、まさに味のミケランジェロだ」

 明日の出汁の仕込みをしながら、コージは答えた。

「高橋さんなら何て答えるだろう」

「ジャンキーの糞ったれか、あいつなんて歩くネグレクト(育児放棄)だ、聞くだけ時間の無駄だよ」

 マスターの言葉が遠く伝わったのか、別の店で総菜を作っている高橋はくしゃみを一つした。

「ただいまぁ」

 ツグミが店の買い出しから戻ってきた。

「おっ、サンキューベリーマッチョだ」

 マスターは買ってきてもらったばかりの牛乳やクリームを冷蔵庫にしまい始めた。

「あれ、ルリ早かったね、今日バイト休んだの?」

「うん、ほらこの前話したでしょ、今日その子がうちに来てさ」

「えっ、どうしたの、聞かせて聞かせて」

 ツグミはルリの話を聞き終えると腕を組んで考え込んだ。ちょっとして出した結論は

「やっぱ、無理なんじゃない、何たって相手は小学生でしょ」

という一言であった。


 あれからアイサは四葉少年とよく遊んでいる。

 いつもどちらかの家に遊びに行ってマンガを読んだりゲームをしたりしているらしい。元々インドア派の二人であったから、気が合うらしく今日の夕飯の時も、アイサは四葉少年の家であった出来事を楽しそうに話している。

「今日も遊んだんだ、もしかして二人はつきあってるのかな?」

 ルリは冗談めかしてアイサのことをからかった。

「ルリちゃん、私と四葉くんはクラン(プレーヤー仲間)を組んでいてね、いつもね外国人のパーティーを全滅させてるの、この前のMLGの大会では世界で六位入賞したんだよ、でもね、ちょっとだけマイクを使って話していたらフレンド登録いっぱい来ちゃって、でもルリちゃん心配しないでね、危ない変な人もいっぱいいるから全部受信拒否してるんだ」

「アイサの言っている意味、全然わからないんだけど……」

「ネットには気を付けなさいって先生にも言われているから大丈夫だよ」

「変なゲームして、お母さんに言ったらネット切られるよ」

「いいよ、もうそのゲームも飽きてきたし、そうしたらもっとレジェンドになるかもしれないじゃん、ファントムクィーンとハッピークローバーって」

「誰のこと?」

「アイサと四葉くん」

「クィーンとクローバーねぇ……」

「それとね、ルリちゃん、四葉くんまだ迷ってるみたいだよ、ルリちゃんとバンドするかしないかって、また土曜日家に来るって約束したから、後はお姉ちゃん次第かな」

「アイサ……あんたそこまで……私達のこと」

 まるでアイサが小さくかわいいお姫様に見えてきたルリであった。

「こういうの、マインドコントロールって言うんだよね」

 アイサの眼鏡のレンズがキラリと光った。



(十)


 神社の参道に沿うケヤキ並木に夏の到来を告げる蝉の第一声が上がった。アスファルトのかげろうの向こうに日傘をさす女性が歩いて行く。

 四葉少年は、すれ違いながら傘の下の女性の顔を確かめたが、いつも同様、見知らぬ人であった。

 アパートの外階段を上り、ルリの家の呼び鈴を押すまで、四葉少年は少しためらいを見せた。

「四葉くん!アイス買ってきたんだ」

「いらっしゃい、ごめんね待たせちゃって、留守だったでしょ」

 突然の自分を呼ぶ声に四葉少年が振り向くと、階段の下にルリとアイサがそれぞれコンビニの袋を持って立っていた。

「アイサちゃん、お姉ちゃん、こんにちは……」

 四葉少年の手にしているのは、いつものゲームソフトではなく、ベースギターの入ったソフトケースであった。

 四葉少年はアイスを食べ終わってもなかなか、ベースギターを袋から出さなかった。

「あれ、四葉くん弾かないの?」

 アイサは口の周りにクリームを付けながら四葉少年の隣に座った。

「あ……うん……」

 おずおずとケースから取り出したギターは傷一つ無くピカピカに光っている。四葉は楽器を構えたが、自分から音を出すことに躊躇ちゅうちょしていた。

「四葉くん、ねぇ聴いてくれる」

 ルリは、自分のギターでカッティングを始めた。それは先週、四葉少年が弾いていた曲の出だしの部分であった。指に引っかかりポコポコとした音になってはいたが、それらしい和音が何となく響いている。

「あのね、この前の楽譜見てすぐに同じ楽譜買ってきて、高橋さんって人に教わったの、もう一人のコージさんも知っている曲だったんだ、ねぇ私下手だけど合わせてくれる」

 四葉少年は少しテンポを落として曲を弾き始めた。すぐにルリのギターが入って来て曲に賑やかさが加わっていく。

(楽しい、ううん、すごく楽しい)

 相手がいて一緒に弾くことの楽しさを四葉少年は気が付いた。ゲームも一人でやっているとすぐに飽きて面白くなくなるものであったが、アイサとやり始めてから共に協力するという別の面白さを見付けていた。それとこれとはイコールであった。

「それでね、四葉くんこの曲が好きだったってアイサから聞いて、すぐに練習したんだよ」

 その曲は全くジャンルの違う日本のフォークソングループが歌う京都地方の子守歌であった。ルリの澄んだ声に、まだ口の周りを白くさせているアイサがコーラスを被せていく。小鳥のような姉妹の歌声がギターのアルペジオの林の中を広がっていった。

寂しげでありながら、美しく流れるようなメロディーは四葉少年の琴線に触れた。

 四葉少年の祖母が好きな曲で、いなくなった母もその曲を四葉少年が寝る前に歌ってくれた記憶がかすかに残っている。

(ヒタキはママのかわいい王子様なんだから)

 母の優しい手が、四葉少年の背中をゆっくり規則的に叩いてくれた思い出。母の顔をいつまでも見ていたかったが、眠りの誘惑に知らぬ間に目を閉じてしまう自分。

 そして、どこか母親と似ているルリの歌声。

「ママ……」

 少年の大きな瞳から涙がこぼれ落ちた。突然、泣き始めた四葉少年を見てルリは驚き、歌を歌うのを止めた。

「泣いちゃうとは思わなかったから……ごめんね」

「四葉くん、どうしちゃったの?」

(四葉くんはお姉ちゃんと私の王子様になってくれる力を持っているんだよ)

 心配するルリとアイサに四葉少年は涙目ながら笑顔で返した。

「平気だよ、お姉ちゃん、今度は僕がその曲に合わせるね」

 清らかな歌声とは真逆のフワフワとしたルリの不安定な演奏を支えるように、四葉少年の奏でる低音はしっかりと一音もこぼすことなく音の隙間を埋めていった。



(十一)


「クリームソーダ飲みに行こう!私がおごるから」

 演奏を終えたルリの突然の提案で、二時間後にはマスターの店にルリとアイサ、そして四葉少年が三人、カウンターに並んでクリームソーダを飲んでいた。

「天才は天才を呼ぶ……ここにもいたのか、私の化身のような少年は、いやこれは昔の私そのものだ」

 ルリに紹介されたコージは、聞いていた通りの小学生の姿に感動していた。

「噂通りのリトルボーイ、お前がアストロボーイだっていうことは知っていたぜ、どうだい特性二倍盛りクリームソーダのティストは。アイサちゃん、おめぇはルリちゃんとは違って知性が顔に溢れてるな」

「ありがとうございます、かわいいと言ってくれるよりも嬉しいです」

「マスターそれ、どういうことですか」

 マスターの余計な一言にルリが少しふてくされる。

「ルリちゃん、おめぇの愛嬌は誰にもかなわねぇってことだ」

 マスターは終始ご機嫌であった。

「すぐに音を聞かせてくれねぇか、コージ、おめぇも叩くパッドを用意しておけ」

「もう準備はできています。見せてもらおうか、その小学生の性能とやらを」

 コージは指の間にはさんだスティックを器用に回転させた。

「マスター、お客さん来たらどうするの?」

 ルリはマスターからの突然の注文に驚いた。

「決まってんじゃねぇかよ、その客を楽しませるんだ」

「……何の曲を弾けば良いですか」

 自分の知っている大人とはまるで違う雰囲気に飲まれかけている四葉少年である。

「ボーイの一番得意な曲だ、遠慮はいらねぇ、その象さんベースでパオーンと一発かましてくれ、なるべくご機嫌なナンバーで頼む」

「なら、本に載ってた『ウッドチョッパーズボール』でいいですか」

「『テンイヤーズアフター』か、最高だ」

「えっ、どんな曲、どんな曲ですか?」

 一番慌てているのはルリである。

「おめぇもギタリストの端くれだったら、コードくらいすぐに分かる、んでリードを弾くのはもちろん……」

 店の扉が勢いよく開く。

「マスター、コージてめぇらか!せっかくの休みで寝てるのに呼び出し何回もかけやがって、携帯ぶち壊すところだったぞ」

 何も事情を聞かされていない高橋が立っていた。


 ルリはサイクリング中のママさん自転車であったが、グングンと前に進んでいく高橋とコージの演奏はまさにスポーツカーであった。楽譜や元演奏とはまるで異なるアドリブの展開を彼らはいとも簡単にこなしていく。四葉少年はついつい木陰に休みたがるルリの演奏を引っ張り上げながら、彼らとの間を橋渡していくことに精一杯であった。

(ママ……僕は王子様にまだなれないよ……でも……)

 四葉少年の誰にも言えなかったつたなくも重い願かけの鎖は、この演奏の瞬間から既に外れかかっている。だが、四葉少年の心中は学校生活とはひと味違った出会いの楽しさに満ちみちていた。

 四人の演奏が終わった時、ルリは嬉しさの余り、大声を出して泣いていた。

「ルリちゃん、大げさだなぁ……でも、かっこよかったよ」

 この、世にも奇妙な組み合わせのバンドの演奏を心の底から楽しんでいるアイサは、そう言ってコップの中のチェリーをつまみ口の中に入れた。



(十一)


 ある日の夕方、四葉少年の家を訪ねてきた男がいた。

「どちら様でしょうか」

 四葉少年の祖母は見慣れない背広姿の長身で身なりの良い男の訪問に驚いた。しかし、その名前は孫から聞いていた名前だったので、すぐに男を家の中に招き入れた。

ちょうど四葉少年はルリの家に遊びに行っていたので留守であった。

 いつも暗く沈みがちだった孫が、昨日から興奮して目を輝かしていることに、祖父と祖母は礼を言った。

 孫のためならと、男の頼みを祖父母はすぐに承諾した。そして、茶を飲み歓談しているうちに、四葉少年の身の上話を恥ずかしながらと断ってから切り出した。

 男はうなずいたり、相づちしながら、少年と母親の関係を聞いていた。

 男がその場を辞して、ほどなくしてから四葉少年が帰ってきた。祖父が男の頼みを承諾したことを少年に告げると、飛び上がるようにして喜んだ。


「うまくいったんなら何よりだ」

「あいつも年の割には苦労してるようだ、それにしてもこの服装は苦しいな」

 カウンターに座る高橋はそう言ってネクタイを外した。

「さすが高橋さんです、やはり元勤め人だっただけありますね、私は初対面の人とはなかなか上手く話すことが出来ない」

 コージは高橋の見たことのないスーツ姿に驚いている。

「今でも勤め人だ、勤め人。それよりマスター、約束のボトルもらうぞ、あぁ頭かぃい」

 整えていた髪を自分の指でボサボサにしている高橋であった。

「ああ、約束は約束だ。何しろ小学生連れ回すんだからよ、保護者の許可は必要だからな、特にお前の普段のだらしない姿そのまま見てみろ、ただの誘拐犯だろ」

「誘拐犯は余計だ、マスターだって随分と女子高生に入れ込んでるじゃねぇか、やっぱり若い女がいいのか、愛人囲えるほど土地売った金あったんだろ」

「つまり真面目なのは私だけということだな」

 コージの独り言を高橋とマスターは無視した。

「入れ込んでる?入れ込んでるどころか、惚れまくっているよ、今すぐにでもやりてぇとさえ思っている、勘違いするんじゃねえぞ、あのケツの青いプリティなガールじゃねえ、この店でレアな音楽が流れる時間とだ」

「マスター、私もクールですが、あなたも最高にクールですね」

 コージがマスターの言葉に笑った。

 夏の夜に合う『サンタナ』の泣くようなギターの音色がスピーカーから流れる。

「吐き気がするほど、ロマンチックって歌ったのは『遠藤ミチロウ』だったか」

高橋は、そうつぶやいて新しいボトルから、バーボンを自分のグラスに手酌で注ぐ。そして、入っている氷がカラリと軽い音を立ててグラスの中で倒れるのを確かめてから喉に流し込んだ。



つづく

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