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作家吾妻の事件簿

電話越しのアリバイ

作者: 真波馨

始まり


「被害者は、サンライフコーポ二〇三号室に住む三堂聖子みどうせいこ、二十一歳。K大学の三年生です。第一発見者は、アパートの大家と、被害者の友人だという同大学の女子生徒。三日連続で連絡がつかないということで、心配になってここに様子を見に来たということです。部屋には鍵がかかっており、ドアをノックしても何の返事もなかったということで、一階の一〇一号室に住む大家に声をかけ、鍵を開けてもらって遺体を発見、というところです」

 サンライフコーポ二〇三号室の入り口で鍵を開ける仕草をしているのは、K県警捜査一課に所属する小暮こぐれ警部。白髪頭を丁寧に撫でつけた、物腰柔らかな紳士然としたベテラン刑事である。部屋の奥には、例の如き紺の作業着を着用した鑑識が数人、忙しなく動き回っていた。サンライフなどという名前に不釣り合いであるが、ここで人が死んでいたのである。

「遺体は、あの部屋のソファにもたれかかったような状態で発見されました。後ろの腰部分、腎臓辺りと言えばわかりやすいですかね。そこをナイフで一突きです。死因は、出血性ショック死。死亡推定時刻は、三日前の十五時から十八時にかけて、というところです」

「部屋には鍵がかかっていたということですが、その鍵は」

「部屋には鍵が二つあるそうですが、一つは被害者自身が所持しており、遺体発見当時は被害者のものと思われるカバンの中に入っていました。もう一つは、被害者の親御さんが持っているそうで、その親御さんは、被害者の実家であるN県で暮らしております。念のため、鈴坂くんにアリバイの確認をさせているところです」

 N県は、K県から飛行機で一時間弱というところだろうか。わざわざフライトしてまで、しかも家族を殺しに来るとは思い難いが、可能性は潰していくに限る。

「遺体には争った痕跡はなく、また金品が盗まれたり部屋を荒らされたりといった形跡もありません。玄関、及び部屋の窓にはしっかりと鍵がかけられていました。また、これは検死をしてみないことにははっきりしませんが、遺体の状況は自殺とも他殺ともつかないということで、念のため、先生にも来ていただいた次第です」

 黒のロングコートに両手を突っ込んだまま、警部に「先生」と呼ばれた男はソファにもたれかかっている女性の遺体に目を向けた。胸辺りで緩くウェーブのかかった黒髪に、雪国出身らしい色白の肌。眠っているかのような穏やかな表情から見ても、腰辺りから床一帯に広がった赤黒い血溜まりを除けばとても生命活動を断った人間のようには思えなかった。男は遺体の腰に刺さったままになっている凶器を顎で示す。被害者の右手が添えられていた。

「遺体には、凶器が残されたままのようですね。これについては」

「キッチンにある、包丁を収納するためのスタンドが、一本分空になっていました。おそらくそこにあったものが使われているのだと思います。指紋採取の結果はこれからです」

 ふむ、と頷くと、男はくるりと体を回転させ玄関に足早に戻る。小柄な警部が小走りで後に続いた。

「玄関には鍵がかかっていたということですが、何か偽装のような跡はありましたか」

「特に怪しむべきものは見つかっておりません。部屋の窓も同様です。おそらく、普通に鍵を使って扉は施錠されたものと思われます」

「外部の侵入者の形跡は」

「それもありません。なお、部屋からは被害者以外の指紋は今のところ検出されておりません」

「そうですか」

 事務的なやり取りを終え、男――吾妻鑑あずまかがみと警部は玄関から部屋の奥を見つめた。およそ人が死んだ現場には似つかわしくない、真昼の穏やかな陽光が、カーテンの開かれた窓から柔らかく注ぎ込んでいる。春の足音が徐々に近づく、三月上旬のことであった。



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



捜査一 関係者らの証言(事件当日)


「遺体の第一発見者の女子学生は、待木絵里まちきえり。三堂聖子と同じ、K大学に通う三年生です。二人ともテニスサークルに所属しており、また、ゼミ――というんですか。それも、同じところに入っていたそうです。後ほど、そのゼミ生の方々にも話を伺うことになっています」

 K大学は、その名の通りK県の国立大学である。文系と理系、理系はその中でも医学系とそれ以外とで計三つの大きな棟に分かれており、また、大学病院、図書館、体育館、講堂、サークル棟、自由棟――食堂や購買、フリースペースなどが併設されている建物だ――が各所に立ち並んでいる。大学全体がちょっとした小都市空間のようになっているのだ。県の中心市街地であるS市からは、車で十五分ほどの距離である。大学周辺には、学生用のアパートや住宅街、スーパーやコンビニが点在し、立地条件はまずまずといったところだろうか。

 待木絵里は、自由棟の入り口で待っているとのこと。果たしてそれらしき女性が、腕時計に目を落とし、顔を上げては辺りをきょろきょろと見回すという仕草を繰り返していた。

「待木絵里さん、ですか」

 警部が恐る恐る声をかけた女性は、茶髪のロングヘアをふわりと揺らしながらお辞儀をする。警部はほっとした様子で、懐から厳つい黒の警察手帳を取り出した。

「K県警の小暮と申します。ええと、お話は、こちらで?」

 目前の三階建ての建物を指し訊ねた警部に、待木絵里は「はい、こちらへ」と中を示す。食堂や購買にいる学生たちの好奇の視線を大いに浴びながら、三人は小ぢんまりとしたエレベーターに乗り込んだ。カーキ色と黒のコートをそれぞれはためかせた二人の男は、若者が賑やかに集うキャンパスとはおよそ無縁の空気感を醸し出していたのだろう。

 三階に到着した一行は、窓一面がガラス張りの広々とした空間に案内された。勉強や談笑のためのフリースペースといったところだろうか。お茶とコーヒーがいつでも無料で出てくる機械――いらぬ知識だろうが、これをドリンクディスペンサーという――が常設されている。手洗い場付近には別に自動販売機も置かれていた。街中のカフェテラスと大差ない空間に、警部は「今どきの大学は洒落とりますな」とコメントする。

「あの。聖子について、何かわかったことはあるんですか」

「わかったこと、といいますと」

 警部と吾妻の前に熱々のコーヒーが注がれたカップを差し出した絵里は、綺麗に整えられた眉を顰める。

「事故、ってことはないんですよね。もしかして、自殺なんですか」

「何か、聖子さんの自殺について心当たりでもあるのですか」

 質問に質問で返した警部に、絵里は「いえ、そういうわけじゃないんですけど」と口籠る。

「聖子が、自殺なんて。信じられないし、信じたくありません」

「まだ、断定はできません。最悪の場合、聖子さんは何者かに殺されたという可能性も出てきますので」

「殺された? 聖子が、ですか」

 あり得ない、というように、睫毛がしっかり上がった両目をいっぱいに見開く絵里。警部は「可能性の問題です」と冷静に切り返した。

「それで、ですね。お辛いとは思いますが、聖子さんのご遺体発見当初のことを、できるだけ詳しく教えていただきたいのです。再三、質問されたことではあると思うのですが」

「それは、構いませんけど。そもそも、三日前の金曜日に、聖子に一度連絡をしたんです。その日、他大学の人たちとちょっとした飲み会をすることになって。急なことだったんですけど、聖子も誘おうと思ってラインをしました。でも、既読がつかなくて。だから、その日は結局他の子を誘いました。土曜日にも、日曜日にも連絡を入れたんですけど、一向に返してくれる様子がなくて。普段の聖子を考えると、ちょっとおかしいな、と気になったんです」

「普段の聖子さん、といいますと」

「基本、その日のうちに連絡は返してくれるし、忙しくて返せなかったとしても、次の日には必ず一言返事をくれるんです。三日続けて未読無視なんて、あの聖子に限ってあり得ないんです」

「それで聖子さんのことが心配になって、翌日の月曜日、彼女の住むアパートに様子を見に行った、と」

「ええ。聖子のアパートには何度かお邪魔したことがあるので、場所は知っていたんです。月曜日は、朝から同じ講義を取っていましたから、どちらにしても彼女と会うことにはなっていたのですが」

 しかし、それは叶わなかった。友人との再会は、あまりにも無残な形で断ち切られることとなってしまったのである。

「聖子さんのアパートに行った、具体的な時間は覚えていますか」

「授業が始まる三十分前だったから、確か八時二十分頃だったと思います。アパートに着いたときに、聖子に一度ラインを入れました」

 ここで、待木絵里のスマートフォンを拝借する。確かに、八時二十二分、某SNSアプリ上で、三堂聖子宛てに「もうすぐ授業だから、迎えに来たよ」というメッセージを送っていた。そこから遡って、日曜、土曜、金曜日の聖子宛てのメッセージのいずれにも、既読の文字はついていない。金曜日の時点で、既に彼女がこの世の者ではなかったことを物語る一つの証拠になるだろう。

「聖子さんの部屋のドアには鍵かかかっていたということですが、間違いないですか」

「はい。ドアノブを何回も回して確かめましたし、大家さんが合鍵を使って部屋の鍵を開けたところも、確かにこの目で見ましたから」

「大家さん、というと、一階に住まわれている?」

「はい。一度だけ会ったことがあります。優しそうなおじいさんでした。名前はたしか、戸倉さんだったと思います」



「玄関のドアノブから採取した指紋は三つ。うち二つは、被害者自身と待木絵里のものと判明しています。残る一つが、おそらく大家である戸倉兼三とくらけんぞうのものでしょうね」

「待木絵里のアリバイについては」

「事件のあった金曜日は、十六時過ぎまで大学で講義を受けていました。講義終了後、その足で市内へと向かい、話にもありました飲み会の時間までは、街中でふらふらしていたようですね。飲み会があったのは、夜の二十時から。その際に使われた飲み屋と、二十時までの間に訪れていた街中のブティックが何店かあるそうなので、若宮わかみやに裏を取らせています」

 待木絵里と別れて、二人は三堂聖子が所属していたというゼミの研究室を訪れた。聖子は社会学部の三年生。文系の学部でまとめられた講義棟の四階、彼女の所属していた「メディアと社会論」ゼミの研究室は四〇八と印字されたプレートのある部屋だった。

「いやいや。本当に驚きました。なぜ、三堂くんがそんな」

 鼈甲べっこうフレームの眼鏡を押し上げてため息交じりの声を上げたのは、神原惇かんばらあつし、五十三歳。社会学部の教授だった。くたびれたシャツとオークル色のズボンの組み合わせが、いかにも研究一筋の学者然とした印象を植え付ける。

「現場の状況から、事故死ということはまずあり得ません。自殺、あるいは他殺、その両面から捜査を進めている次第でして」

「自殺か他殺か、ですか。どちらにしても、信じたくはありませんがね」

 待木絵里同様の思いを述べた神原に、警部は沈痛な面持ちで手帳を開く。

「三堂聖子さんというのは、あなたから見てどのような生徒さんでしたか」

「授業態度も比較的きちんとしており、ゼミにも毎回しっかり参加してくれていました。次は四年生ということで、ゼミでは卒業論文の準備も進め始めているところでした」

「卒業論文ですか。懐かしいですね」

 唐突に部屋に響いたバリトンボイスに、神原はさして驚きもせずに「学業の集大成ですからね」と小さく微笑む。

「三堂聖子は、どのようなテーマで論文を?」

「『メディアが生み出すステレオタイプとその影響』というタイトルです。王道といえばそうともいえるテーマですが、多くの研究がなされているからこそ人によって研究結果は様々です。まだ序盤の段階でしたが、彼女がどのような論文を仕上げてくれるか――勿論、彼女に限った話ではありませんが――楽しみにしていたところでした」

「聖子さんと、ゼミ生の方々との関係はどうでしたか」

 警部の問いに、神原は白髪の見え隠れする頭を掻いて「どう、と言われましてもねえ」と困惑の色を浮かべた。

「学生同士のことまでは、あまり立ち入らないようにしていますので。ゼミ風景を見ている限りでは、およそ良好な関係だったのではないかと思いますが」

「学生生活面でも私的面でも構いません。聖子さんが、何かトラブルを抱えていたというようなことは?」

「いいえ。聞いたこともありませんね」

「そうですか。では、恐縮ですが、事件当日のあなたの行動を、お聞かせ願えませんか」

「アリバイ確認、というわけですか」

 改まったように椅子に座りなおした神原に、警部は「皆さんに確認していることですので」とあくまで低姿勢である。

「金曜日、でしたね。その日は、朝から夕方までずっと講義が入っていました。ああ、二限目は授業ではなく、教授会議に参加しましたね。最後の講義を終えたのが、十六時過ぎのことです。その後は、特に所用もありませんでしたので、雑務を片づけてそのまま真っ直ぐ帰宅しました。大学を出たのが、確か十七時過ぎ。帰り着いたのは、十八時過ぎだったと記憶しています。家族に確認してもらっても構いません。因みに、昼休みの時間も含め、日中は大学から一歩も外には出ていませんので」

 警部が部下に確認取りの電話をしているところで、客が現れた。研究室ドアの細長い窓ガラスから二、三の顔が覗いている。吾妻がドアを開けると、肩辺りまでの髪にパーマをかけた女子生徒が怪訝な表情で長身の男を見上げた。

「あの、先生、よろしいですか」

「ああ、加藤くんたちか。丁度よかったよ。三堂くんのことでね、警察の方が話を聞きたいということなんだ」

 パーマの生徒が、「え、警察ですか」と再度吾妻に顔を向ける。その後ろから「え、何、警察って言った?」と甲高い声が続く。神原に促され、三人の女子学生がテーブルを囲む椅子に着座した。

「県警の小暮といいます」という警部の紹介に、三人は「すごい、本物の警察だ」「あ、ほら、警察手帳」「え、本物?」「刑事さん、ちょっとだけ見せてください」などと興味津々である。「おいおい、刑事さんの仕事の邪魔をするんじゃない」と苦笑する神原の声で、ようやく警部が本題に入ることができた。

「ええ、ではまず、それぞれお名前を教えていただいてもいいでしょうか」

 警部の最初の問いに、教授から「加藤」と呼ばれたパーマの女性が「はあい」と手を上げる。加藤真由子かとうまゆこ、二十一歳。ダンス部に所属しているのだという。

 続けて、背中まで伸びた栗色のストレートヘアの生徒が西村明日香にしむらあすか、同じく二十一歳、バスケットボール部所属。黒髪をハーフアップにしているのが大宮菜月おおみやなつき、二十歳。吹奏楽部所属。以上であった。

「ありがとうございます。皆さんは、亡くなられた聖子さんとは同じゼミ生ということですが、彼女との付き合いはゼミ外でもありましたか」

「私は、よく聖子と飲みに行ったり、買い物したりしていました。待木絵里っていう、聖子と同じサークルの子も一緒に」

 パーマヘアの真由子が答える。

「私と菜月は、プライベートでの付き合いはあまりなかったですけど、学校ではよく一緒に行動していました。お昼もよく一緒だったし、授業がないコマの時間はフリースペースで勉強したり喋ったりしていました」

 ね、と首を傾けるバスケ部の明日香に、菜月が「そうそう」と同意を表す。熱心にメモを取り続ける警部に代わり、吾妻が質問の舵を取った。

「三堂聖子が、何かトラブルを抱えていたというようなことは?」

 長身の吾妻を見上げた真由子が「お兄さんも刑事?」と興味深げな声を上げる。が、「質問に答えてくれると有り難いんだが」とそっけなく返されると、口を窄めながら「聞いたことないなあ」とぼやいた。

「トラブルって、消費者金融的な?」

「そんなことも含めてだ」

「どうだろう。聖子、そこそこ衝動買いの癖もあったけど、そんな借金するほどじゃなかったしなあ。二人はどう思う?」

「確かに。聖子、バイトもしていたじゃない。親の仕送りだってあったし。お金がないとか、聖子の口から聞いたことはなかったけどなあ」

「あ、あの子さ、前に“好きな人にはとことん尽くしたいタイプ”とか言ってたじゃん。実は彼氏に貢いでいたとか」

「ああ。あり得る。あの子ならやりかねないね」

「あの。聖子さんには、恋人がいらっしゃったということですか」

 割って入った警部に、明日香が「はい」とあっさり漏らした。聞くところによると、彼女と同じバスケ部に所属する勝村正孝かつむらまさたかという男子生徒らしかった。

「その、勝村さんと聖子さんは、良好な関係だったのでしょうか」

「上手くいっていたか、ってことですか」

「ええ」

「だいたい良好だったんじゃないですか。愚痴を聞いたこともあったけど、惚気話も多かったし」

 情報が飛び交うたびに、警部は手帳に忙しくペンを走らせる。真由子と明日香の会話が、「そういえばさ、勝村、もう新しい彼女候補がいるらしいよ」「え、マジで? やばいね」などと恋愛談に流れつつあった。

「――あんたはどうなんだい、大宮さん」

 吾妻の唐突な名指しに、視線をテーブルに彷徨わせていた大宮菜月が「え」と顔を上げた。黒のコートに身を包んだ長身の男にじっと見降ろされ、居心地が悪いのかしきりにスカートの裾を整えている。

「どうって。別に、これといったことは」

「あんたから見た、三堂聖子はどんな人間だった」

「どんなって。明るくて、華やかな綺麗な子だなあって。よく飲みに行ったり、サークルの人たちといろいろ遊びにいったり、アクティブな印象が強かったです」

 ぽつぽつと話す菜月に、明日香が「サークルの遠征とかもあったしねえ」と同調する。

 小暮警部が、加藤真由子から順にアリバイの有無を確かめ始める。吾妻は傍らでその様子を見ながら、心ここに非ずといった面持ちで髪をしきりに撫でつけている大宮菜月の姿もしっかりと目の端に捉えていた。



 K大学を後にし、再度現場へと車を走らせているところで若宮暢典わかみやのぶのり刑事からの報告が入った。警部のスマートフォンをスピーカーモードに設定すると、新米刑事の歯切れの良い声が飛んでくる。

「待木絵里のアリバイが確認できました。リストに上がっていたブティック三店舗に確認を取ったところ、監視カメラの記録に待木絵里の姿がしっかりと残されていました。あと、付近のコンビニに立ち寄っていたことも判明しています。二十時以降の飲み会で使用されていた店にも話を聞きましたが、確かに、待木絵里含め大学生七人が夜中の零時近くまで店で飲んでいたこともわかりました。店員複数名から証言が得られています。ブティックの監視カメラに映っていた時刻から考えても、ここから車で十分以上かかる被害者宅を往復し犯行に及ぶためのまとまった時間はなかったと思われます」

 通話を切った吾妻の「待木絵里は車を所有していたのですか」という問いに、ハンドルを握る小暮警部は「いいえ、免許も所持していません」と即答する。引き続き、若宮刑事には容疑者圏にあるK大学生徒を中心にアリバイの有無を調べてもらうということであった。

 サンライフコーポに到着し一〇一号室を訪ねた二人を、頭が綺麗に禿げ上がった戸倉兼三とくらけんぞうは快く迎えてくれた。紺色の半纏を着込んだ、齢七十の小柄な老人である。

「三堂聖子さんを最後に見たのは、いつぐらいだったか覚えていらっしゃいますか」

「そうですねえ。先週の、半ば頃だったと思いますけどね」

 つるりとした頭を撫でながら、兼三は記憶を辿るように目を斜め上に向けている。

「半ば、というと、水曜日とか、あるいは木曜日ですか」

「具体的な日にちまではなあ」

「できる限り、思い出していただきたいのですが」

「そうさなあ。ああ、そういえば、水戸黄門の再放送を見とったな。あれは、確か五時前くらいでしたか。ええと、あの話は、いつの放送やったかなあ」

 いそいそと部屋の奥へ戻った兼三を見守っていると、丸めたテレビ雑誌を手に戻ってくる。ぱらぱらとページを捲っていたが、程なくして「ああ、ここ、ここです」とその手を止めると皺の刻まれた指でページをトントンと叩いてみせた。先週の木曜日、十六時から十七時の再放送である。

「そのときの、聖子さんの様子に何か変わったところはありませんでしたか」

「いいえ。いつも通りだったと思いますけどね。遠目だったんで詳しくはねえ」

 ちょいちょいと手招きされ、二人は兼三の部屋へと足を運ぶ。お茶を淹れようと立ち上がったところ、窓の外のベランダ越しに三堂聖子の姿が見えたのだという。ベランダの柵の高さを考えても、証言に指摘すべき矛盾は見られない。

 三堂聖子や事件当日の様子について、その後の兼三の話からは大した証言は得られなかった。「健闘を祈って」と何故か差し出された紅葉まんじゅうの礼とともに、一〇一号室を後にする。結局、サンライフコーポの住人への聞き込みも虚しく、事件当日のアパート付近での怪しい人物や出来事に関する目ぼしい証言はゼロのまま、吾妻を乗せた県警の公用車は市の中心部へと向かった。

「時間帯を考えても、目撃者の一人くらいはいてもいいものだと思ったのですが」

 低く唸る小暮警部に、吾妻は「タイミングの問題でしょうね」と、兼三からの差し入れである紅葉まんじゅうの袋を開けた。日も落ちた薄暗い道も、中心市街地へ差しかかると人工的な眩い明かりに包まれる。家路を急く人々が、交差点を漫ろに横切っていく。

 吾妻の活動拠点である「ラルジュ水穂」は、S市水穂通りに聳え立つ十階建ての比較的新しいマンションである。その地下駐車場に到着した車の中で、警部のスマートフォンが震えた。再度、若宮刑事からの追加報告だ。事件当夜、待木絵里が参加した飲み会の中に、三堂聖子と同じ神原ゼミに所属する女子生徒がいたことがわかったのだという。明日、その生徒に話を聞きに行くと言い残し、小暮警部の乗った車は夜の街へと走り去っていった。



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



捜査二 関係者らの証言その二(事件二日目)


 事件当夜、待木絵里とともに飲み会に参加していたのは、佐橋菜穂さはしなほという女子生徒である。だが、佐橋菜穂に話を聞きに行く前に、先にアポイントメントを取ることができた勝村正孝――三堂聖子と恋仲にあった男子生徒の元を訪れることになった。

「最初に言っておきますけど、俺、何もしていませんから」

 大学からほど近いファミレス店は、まだ朝の十時という時間帯のためか人気は少ない。ソファ席にふんぞり返るように腰を下ろした勝村は、開口一番にそう言い放った。

「何もしていない、といいますと」

「自殺だか殺しだか知りませんが、俺は清廉潔白だということです。彼女を死に追いやるようなことは何もしていない」

「恋仲であった女性が亡くなったというのに、随分と冷静なようですね」

 懐疑的な視線を向ける警部に、勝村は彫りの深い端正な顔を歪めると「そう見えるでしょうね」と冷たく切り返す。

「三堂と付き合っていたのは、単なる上辺だけのことですよ」

「つまり、本気ではなかったと」

「それはお互い様です。あいつはただ、ステータスのいい男をとっ捕まえて見せびらかしたいだけだったんですから。それなら、こっちだって端から遊びでいた方がマシでしょう」

 思いもがけない辛辣な言葉が、勝村の口を突いて出る。三堂聖子という人物像に漂い始めた暗雲は、吾妻の興味を俄かに惹きつけた。

「三堂聖子の標的にされたかもは、あんたの他にもいそうだな」

 テーブルに肘をつき両手を組んだ吾妻に訝しげな目を向けながら、勝村はふん、と鼻を鳴らした。

「だからって、俺まで容疑者候補にされちゃ困るぜ、刑事さん」

「痴情の縺れ、ってやつか。ミステリドラマじゃ定石中の定石だな」

「言ったでしょう。あいつとは遊びの仲だったって。恨む要素が足りないですよ」

「これはまだ、自殺か事件かもわかっちゃいない。容疑者だとか怨恨だとか、あんたはだいぶ事件説に拘っているようだが、心当たりでもあるのかい」

 挑発的な吾妻の言葉に、勝村はあからさまにむっとした表情になる。

「あいつは、見てくれ通りの女なんかじゃないですよ。器用に吊り橋を渡って、甘い蜜を啜って生きているような、そんな人間ですよ」

 だから、恨む奴くらいいると思いますけどね――とまでは言わず、勝村は運ばれてきた朝食セットの食事を黙々と食べ始めた。

 部活に顔を出していた、という勝村の事件当日の証言は曖昧なものだった。バスケットボール部の練習は常時体育館で行われ、その日も例外ではなかった。だが、十七時から始まる試合までは各自練習とのこと。K大学から事件現場であるサンライフコーポまでは、徒歩でも十分ほどで着く距離にあった。練習の合間を抜け出して犯行に及ぶことは、十分に可能である。

 佐橋菜穂が午後の講義を終える十四時三十分までは、まだ幾分時間が余っていた。勝村の証言をまとめつつ早めの昼食としゃれ込んでいたところに、県警の鈴坂万喜子すずさかまきこ刑事から電話が入る。三堂聖子の両親が暮らすN県からの帰途に着いた知らせとともに、捜査の詳細が報告された。

「三堂聖子の部屋の鍵の一つは、確かに彼女の母親が所持していました。二、三ヶ月に一度は彼女のアパートを訪れていたそうで、その際に使っていたものだと。それから、念のためのアリバイですが、母親、父親ともに鉄壁のアリバイが確認されました。母親は、週に一度の陶芸教室に通っており、父親は会社勤めでその日も勤務先に缶詰め状態でした。陶芸教室、および勤務先双方からの証言が得られています」

 スピーカーモードの電話口から流れる涼やかな声に、とり天定食を食していた警部が箸を止めて先を促す。

「三堂聖子の検死の結果ですが、致命傷となったのは右腎臓部分の一突きだけですね。壁などに刃物の柄の部分を押し当て、自ら体を後ろに引けば十分自殺も可能だということです。傷の深さなどを見ても、自殺とも他殺とも取れるそうです。刃物についていた指紋についてですが、三堂聖子本人のもの以外は採取されませんでした。また、その刃物ですが、現場のキッチンに収納されていたものの一つで間違いないとのことです」

 引き続き、学内関係者の証言取りをあたる旨を言い残し、電話は切られた。再び箸を手に取った警部は、「またやっかいな問題が一つ増えました」とため息を漏らす。

「三堂聖子の部屋は密室だった、ということですか」

「ええ。玄関の鍵にも窓にも偽装の形跡はない、鍵は被害者のカバンの中と、遠く離れたN県にある。つまりあの部屋は、先生の小説の如き綺麗な密室だったということになるでしょう」

「そんなことはない。私からすれば、敢えて密室という言葉を使うのなら、あの部屋は“不完全な密室”という他ありませんけどね」

 最後のとり天を箸に挟んだまま「え」と抜けた声を上げた警部に、吾妻はハンバーグを切り刻んでいたナイフで、空中に丸印をつくってみせた。

「あの空間には、唯一の、しかし最大の、密室を不完全なものにした穴が存在していました」

「穴、ですか」

 口をもごもごと動かしながら、警部は眉間に皺を寄せ神妙な顔で考え込んでいる。ウエイトレスが彼の傍を通りかかったなら、「この人はとり天が嫌いなのにとり天を頼んだのかしら」と勘違いするかもしれない。

「――新聞受け、ですか」

 しばらくしてからぽつりと囁かれた警部の言葉に、吾妻はにやりと笑みを浮かべる。

「ええ。今どきのアパートで新聞受けとは珍しいとも思いましたが」

「しかし、新聞受けの幅は決して広くはありません。まして、玄関の鍵には細工の痕跡は残されていなかった。まさか、新聞受けからバスケットボールのシュートの如く、被害者のカバンに鍵を投げ入れたとでもおっしゃるつもりですか」

「おや、やはり勝村正孝は疑惑の拭えない男ですね」

 おどけてみせる推理作家に、警部は降参するように両手を上げる。吾妻はコートの内ポケットから革の手帳とペンを取り出した。

「被害者宅のおよその見取り図です。玄関から真っ直ぐキッチンを抜けて入った部屋で、まずは玄関から直線状のところに化粧台がありました。その右隣には背の低い二段の棚、上段には小さなテレビが置かれていました。部屋の中央には小さな丸テーブル。左の壁側にソファ。ソファに寝そべってちょうどテレビが見える位置です。ソファの右隣に三段の棚。何やら小物やぬいぐるみがごちゃごちゃと飾られていましたね。さらにその右手の壁にはウォークインクローゼット。部屋の奥、玄関に立ってちょうど真正面を向いた先には掃き出し窓。ちなみに、カーテンはグリーンとオレンジの大きな水玉模様でした。生地はホワイトです」

 狭いページに書き込まれた雑多な見取り図に、警部は「よく覚えておいでですね」と感嘆の意を示す。推理作家は最後に、部屋の鍵が入っていた問題のカバンの位置を図に加えた。化粧台の椅子、その足のところに。

「この図から、密室を不完全なものにする方法が導き出されるというのですか」

 見取り図とにらめっこ状態の警部に、吾妻は「ええ」ともったいぶった声で頷く。

「勿論、密室のトリックが解けたからと言って、犯人が芋蔓方式にずるずると割り出されるなんてことはありません。ただ、小さな謎が一つ消去できるというだけです。方法さえ思いつけば、誰にでもできるごく簡単な仕掛けですからね」

 腕時計に目を落とし、吾妻は「そろそろ聴取の時間ですね」とコートを手に取る。佐橋菜穂の住むアパートは、ファミレス店から車で五分とかからない場所にあった。



「三堂さんとは、プライベートな付き合いはほとんどありませんでした。むしろ、彼女と仲の良かった待木さんから、時々飲みに誘われることがあったくらいで。待木さんは誰にでも分け隔てなく親しくするような人なので」

 佐橋菜穂は、平坦な声のトーンで話を続ける。

「あの日の飲み会もそうでした。夕方頃、待木さんから電話を受けました。“秀和大学の学生と急に飲み会をすることになって、人を集めているんだけれどよかったら来ないか”って。特別用事があるわけでもなかったので、参加することにしたんです。実際行ってみると、秀和大学の男子三人と、K大学の女子が三人いて。待木さんも、勿論その一人です。合コンの数合わせだったのかとも思ったんですけど、別にいいかなって。意外と話も盛り上がったし、最終的には面白い会だったと思います」

 内容とは裏腹に淡々と語られる佐橋菜穂の話の話題は、三堂聖子のことに移る。

「トラブル、ですか。いいえ、特に聞いたことはないですけど。最近様子がおかしかったとか、そういったことも心当たりはありません。さっきも言いました通り、三堂さんとはあまり付き合いがなかったものですから」

「では、聖子さんの男性遍歴について、何かご存じのことは?」

 警部の質問に、菜穂は「男性遍歴、ですか。随分固いお言葉ですね」と小さく笑う。

「時々噂を耳にしたことはありましたけど。男をとっかえひっかえ、っていうんですかね。嫌な言い方をすると。でも、あくまで噂程度ですから。具体的に、どこの誰と、というところまではわかりません」

「佐橋さんは、卒業論文のテーマはどのようなものになさっているのですか」

 唐突に割り込んできた吾妻の言葉に、菜穂は虚を突かれたような表情をつくる。

「あの、何のことでしょう」

「卒業論文、ですよ。三年生はそろそろ準備に取り掛かっている頃だと、神原教授から伺ったもので」

「それは、何か三堂さんと関係しているのでしょうか」

 静かに訊ねた菜穂に、質問者の吾妻は「いいえ、ただの個人的な興味です」と肩を竦める。

「私は、『メディアの報道と受動者との認知のズレ』というテーマですが」

 それが何か、と言いたげな菜穂に、吾妻は「ほお、それも面白そうな題材ですね」と大袈裟に頷いてみせた。質問者は小暮警部に戻り、事件当日のアリバイについて触れる。

「その日は、今日と同じように二時半まで講義が入っていました。その後は、真っ直ぐ家に帰りました。疲れていたのか、部屋に入ったら眠気が襲ってきて。お気に入りの音楽をかけながら、しばらく仮眠をとることにしました。待木さんから電話を受けたのが、確か四時半から五時の間だったと思います。そこからは、適当に準備を済ませて七時前くらいには家を出ました。アパートで独り暮らしなので、一連の行動を証明してくれる人はいません」

 最後に、吾妻の希望で彼女が音楽を聴いていたというCDプレイヤーを拝見する。特段珍しいものでもない、どこの電気店でも売っているような代物だ。彼女が夢うつつに聴いていたのは、フランスの作曲家ドビッシューのピアノ独奏曲『夢想』だった。



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



捜査三 吾妻の考察



『神原教授、勝村正孝、佐橋菜穂。それぞれのアリバイを確認しました。神原についてですが、証言通りの裏が取れましたよ。学内関係者の証言、監視カメラともに、彼が日中大学にいたことはほぼほぼ間違いないでしょう。帰宅時間も証言通りで、これは神原の妻とその子どもから証言が得られています。

 次に、勝村についてですが、十七時以降のアリバイは成立しています。試合に参加していた複数のバスケットボール部の生徒の証言があります。それ以前についてはやはりはっきりしませんね。勝村を見たという部員の証言はあるにはあるのですが、時間もばらばらで確固たるアリバイにはつながりません。

 佐橋菜穂については、十四時三十分までのアリバイは、当時彼女が受講していた講義の教授及び複数の生徒から確認が取れました。そこから二十時までのアリバイはなしです。ただし、待木絵里からかかってきた電話についてですが、これは待木に確認を取るとともに、両者のスマートフォンにも通話記録が残されていました。十六時四十分から四十六分の六分間に、両者の通話が確認されています。“確かに、通話口からクラシック音楽のような音が聞こえてきた”という待木の証言も得られました』

 小暮警部に続き、電話口から「鈴坂です」と、凛とした女性の声が聞こえてくる。

『加藤真由子ら含め神原教授のゼミ生にも話を聞きました。やはり、三堂聖子がトラブルを抱えているといった証言は得られませんでした。異性関係についても噂程度の話しか聞くことができず、これといった決定的な証言は今のところありません。神原ゼミ生のアリバイはいずれも確認が取れました』

 捜査会議の最中なのか、電話口の向こうは資料を捲ったりガタガタと椅子をならしたりする音と、捜査員たちの声らしき音とが混じり合い喧騒立っていた。通話を終え一人きりの空間に引き戻された吾妻の耳には、通りを走り抜ける車と人のざわめきはどこか遠く感じられる。

 三堂聖子の死が他殺だとするならば、犯人がいかようにして現場を密室状態にし立ち去ったのかということは、犯人を特定する上では大した問題ではない。遺体の状況が自殺とも他殺とも取ることができるという状況は、犯人にとって幸運だったに違いない。遺体をソファにもたれかけ、被害者の手を凶器に添えるように細工したのだとしたら、犯人には偽装工作の考えがあったということになる。現場から目立った指紋が検出されないのは、おそらく犯人が念入りに拭き取ったためだろう。玄関のドアノブに残された指紋についても、被害者本人と第一発見者の待木絵里、及び戸倉兼三のものであることがわかっている――指紋が拭き取られていないということは、犯人は被害者によって招き入れられたということだろうか。

 と、ここで吾妻が戸倉兼三のアリバイが不明であることに気がついたのと、彼のスマートフォンに再三の連絡が入ったのとはほぼ同時のことであった。一コールで電話口に出た吾妻の耳に、「吾妻さん、貴重な証言が」という息も切れ切れの若宮刑事の声が飛んできた。その背後から「少し落ち着いてから話せ」という警部の呆れ声がついてくる。

『サンライフコーポに住む主婦の女性が、金曜日に被害者らしき女性と挨拶を交わしたと証言したんです。“夕方の五時頃に、部屋を出てきた被害者とすれ違った。軽く挨拶を交わした程度だったが、着ていた服や身に着けていた帽子も、以前たまたま見かけたときのものと同じだった。マスクをつけていたので顔ははっきりと見てはいないが、おそらく被害者なのではないか”ということなんです。その後の被害者――三堂聖子らしき女性を見かけたというその他の証言は得られませんでした』

 捲し立てるような若宮の話をもとにするならば、三堂聖子の死亡推定時刻は金曜日の十七時から十八時の間に狭められる。容疑者圏内にあった勝村正孝は圏外となり、大学を出てから家路に着く十八時までの間にアリバイのない神原惇が、容疑者候補として浮き上がってきた。佐橋菜穂に関しては特段変わりない。なお、この若宮刑事からの電話で戸倉兼三には町内会に参加していたというアリバイがあることが判明した。

 単純に考えれば、犯人が三堂聖子の服を拝借して彼女に成りすまし、部屋を出た可能性が高い。背格好が似ている者ならば十分に可能であるし、帽子やマスクで顔を隠せば決して難しいことではなかった。挨拶の一言程度なら、例え声が多少不自然であったとしても風邪だとでも言えばいくらでも誤魔化しが効く。犯人のとっさの機転によるものだろう。これが、他殺であるならば、の話ではあるが。

 ぼさぼさの頭を掻き、吾妻は部屋をぐるりと一周すると洒落たレコードプレイヤーの前に立った。数年前にふと思い立って、数枚のレコードと一緒に購入したものである。さしてクラシックに興味があったわけでもなかった吾妻の気まぐれを、彼のとある知人は「印税の無駄遣いだ」と一蹴した。それ以来、プレイヤーに積もりかけていた埃が払われ、彼の部屋からは時折優雅なクラシック音楽が流れてくるのである。

 手当たり次第に一枚を取り出し、機械にかける。モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第五番」だ。モーツァルトが作曲した最後のヴァイオリン協奏曲とされており、その曲色は第四番までと比較すると多彩であるため、完成から二百年以上が経った今でも高い人気を誇っているのだとか――レコード盤のカバーに書かれた注釈の受け売りだ。

 春の麗らかな陽気と長閑な原風景を想像させるメロディが続く中、吾妻はふとある人物の証言を思い出した。入り乱れる思考を整頓するうちに、無意識にコートとスマートフォンに手が伸びる。素早い操作で小暮警部に連絡を入れた吾妻は、口調も荒く電話口でこう告げた。

「ああ、警部。至急、確認していただきたいことがあります。CDです。佐橋菜穂が仮眠時にかけていたというCDに収録されていた曲の順番を、調べていただけますか」



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



真相 電話越しのアリバイ(事件四日目)


「今日は、三つの大きな議題をもとに、話を進めていきたいと思います」

 教師然とした口調で部屋の中を行き来する吾妻に、佐橋菜穂は猜疑の目を向けていた。吾妻は慣れた様子で講義と称した話を始める。

「一つ目は、犯人はいかようにして事件現場を密室と化したのか。これについては、実はさほど重要視するほどの問題でもありません。ということで、最初に手っ取り早くその謎を紐解いていくことにします。

 二つ目は、被害者、すなわち三堂聖子はいつ殺されたのか――ああ、言い忘れていましたが、前提として、我々は今回の事件を自殺ではなく、殺人事件であると断定しております故、それを承知の上で話を聞いていただきたい。

 最後は勿論、誰が犯人であり得たか、です。衝動的な犯行であったにも関わらず、犯人は慎重で機転の利く人物であったようですね。現場には一切の証拠を残していませんでした。では、一体何を根拠に、我々は犯人を導き出したのか。それも、是非とも最後までご清聴願いたい。よろしいですか、佐橋さん」

 肯定も否定もしない佐橋菜穂に、吾妻は「では、先を続けましょう」と大仰に肩を上下させた。

「一つ目の議題。密室の解明、ですね。解明なんて大袈裟なものでもありません。犯人は、実に初歩的なトリックを用いて、玄関を施錠した鍵を被害者のカバンの中に忍ばせたのです。

 まず、犯人は遺体が自殺に見えるように細工をし、部屋に残っていると思われる自身の指紋を拭き取った。そして、部屋の中からあるものを探し出した」

 吾妻が手で示したのは、鈴坂刑事が手にしている裁縫用の糸だった。どこにでもあるような、ごくごく一般的な裁縫糸である。

「糸でなくても、鍵についているキーホルダーの輪に通るような太さのものであれば、例えばビニール紐なんかでも代用可能です。

 室内の偽装工作をあらかた終えた犯人は、鍵のついたキーホルダーの輪に糸を通し、玄関から直線上にある化粧台の椅子にこれを通します。椅子の背もたれ部分に、糸で大きな輪っかを作るようにして、輪の部分を背もたれに引っ掛けるんですね。これを玄関まで伸ばすと、糸が二重になった即席のロープウェイのようなものが完成します。あとは、問題の鍵で普通に玄関を施錠し、新聞受けから一直線上にある化粧台の椅子までのロープウェイに、鍵を通す。新聞受けは糸をかけた椅子の背もたれよりもやや高い位置にあるので、重力の力が働き鍵はするすると椅子のところまで糸を伝って滑っていきます。椅子の足元に置かれたカバンの口を予め開けておいて、鍵がカバンの真上にくるように二本の糸で調節する。糸に引っかかっている鍵をゆっくりカバンの中に落とし、最後に糸を回収して完成、というわけですね。糸を輪っかにして背もたれにひっかけ二重になるようにしたのは、糸二本の方が一本よりも鍵の位置を調節しやすいこと、そして回収がより簡単になること、というメリットがあります」

 佐橋菜穂は目を丸くさせると、「凄い、平凡な私の頭じゃそんなこと思いつきもしません」と頭を振る。吾妻はそれにはコメントをしないまま、「では」と次の議題に移る。

「次に、三堂聖子は一体いつ殺されたのか、ということについてです。鑑識によると、事件当初、三堂聖子の死亡推定時刻は金曜日の十五時から十八時の間ということでした。無論、我々は鑑識のその言葉を信じて捜査を進めていましたが、昨日、そこの若手刑事の得た情報により、少々事情が変わってきます」

 指名された若宮刑事は、無言で二度ほど首を縦に振る。

「現場のアパートに住むとある主婦の証言です。“夕方の五時頃に、部屋を出てきた被害者とすれ違った。軽く挨拶を交わした程度だったが、着ていた服や身に着けていた帽子も、以前たまたま見かけたときのものと同じだった。マスクをつけていたので顔ははっきりと見てはいないが、おそらく被害者なのではないか”というのが、その証言内容でした。この言葉を参考にするならば、被害者は少なくとも十七時頃までは生きていたということになり、死亡推定時刻は十七時から十八時の間と、大幅に狭まります。しかし、この証言にはあまりにも曖昧な点が多すぎる。検証の余地がありすぎるのですね。

 まず、そもそもマスクをつけて帽子を被っていたという部分からして怪しいものです。今どきマスク姿の学生など珍しいものでもありませんが、第三者が三堂聖子に成りすましている可能性がいとも簡単に導き出されます。軽く挨拶を交わした程度ならば、多少声に違和感があっても風邪だなんだでいくらでも言い訳はききます。三堂聖子の部屋に犯人がいたのならば、その部屋から彼女の衣服を拝借し、三堂聖子が生きているように見せかけた方が警察の捜査を混乱させることができる。もっとも、犯人は単純に、三堂聖子の部屋から抜け出すのに、本人の恰好をしていた方が仮に誰かに見られたとしても違和感がないだろう、くらいにしか考えていなかったのかもしれませんが。偶然にも、犯人を目撃した主婦が見た服装は、彼女が記憶していた生前の三堂聖子の服装と一致していた。遺体のことといい、犯人にとっては都合のいいこと尽くめだったわけです。密室のトリックを実行している間にも、目撃者は現れなかったようですし」

 一呼吸置いて、吾妻は最後の議題について触れる。佐橋菜穂は、感情の籠らない瞳で瞬きもせずに、長身の吾妻の背中をじっと見つめていた。

「しかしながら、今までの二つの議題は、あくまで犯行時に起きていた出来事をなぞっているだけにすぎません。これらの議題からは、“三堂聖子と似た背格好の人物で、なおかつアリバイが不確実なものならば誰にでも犯行が可能”という仮説しか立てることができません。

 では、この事件の犯人は誰であり得たか。これが最も大きなテーマ、本題であることは指摘するまでもないでしょう。では、我々が犯人を予想できたきっかけは、一体何だったのか――佐橋さん」

「はい」

「あなたが、待木絵里さんから電話を受けたとき。たしか、事件当日の十六時四十分でしたね。部屋で音楽を流しながら仮眠をとっていたとおっしゃいました」

「ええ」

「そのときに、あなたが流していた曲を、もう一度教えていただけませんか」

「ドビッシュー作曲の、『夢想』という曲ですが」

 菜穂の返答に呼応するように、吾妻は棚の上に置かれたCDプレイヤーの前へと進んでいく。その手に取ったCDケースは、『世界の名曲クラシック全集・第三弾』。中からCD盤を慎重に取り出すと、プレイヤーにかけ再生ボタンを押す。囁きのようなピアノの調べが、佐橋菜穂の部屋にゆっくりと流れ出した。夢幻的な世界を醸し出すピアノの独奏はしかし、まるで一時の儚い幻であったかのように、僅か四分半ほどでぷちりと途切れる。すぐに、力強さを感じさせるピアノのメロディが始まった。CDケースの収録リストによると、『夢想』に続くのは、ドビッシュー作品の中でも最も有名な『月の光』を含む計四曲からなる『ベルガマスク組曲』というものだった。音のボリュームを下げ、軽快なピアノの音を背に吾妻は佐橋菜穂を振り返る。

「確かに、このCDの最初には、ドビッシューの『夢想』が収録されています。あなたはこれを子守唄に部屋で寝ていたのだと」

「先ほどもそう言いましたが」

「待木絵里にも確認を取ってきました。この曲を電話越しに聴かせたところ、確かにあなたに電話したときに聞こえたものだと」

「何も矛盾はないように思いますけど」

「ありませんかね。では、お訊ねしますが、あなたはあの日、この『世界の名曲クラシック全集・第三弾』をプレイヤーにセットして音楽をかけ、仮眠をとっていた」

「ええ」

「音楽をかけ始めて、すぐに」

「――ええ」

「そして、しばらく経って、待木絵里からの電話を受けた。BGMにドビッシューの『夢想』が流れる中で」

 ここで、佐橋菜穂は初めて吾妻から目を逸らした。吾妻は「おかしいですよね」と念を押すように問いかける。

「『夢想』は、CDの一番目に収録されている、僅か四、五分足らずの曲です。あなたはアパートに帰ってからすぐに仮眠をとったと証言した。大学の授業を終え真っ直ぐに帰宅したならば、遅くとも三時頃にはアパートに到着していたはずです。そこから待木絵里の電話がかかってくるまで、少なくとも一時間以上の間があって、あなたはその間、一度も目覚めることなく眠っていた。最初に流れた『夢想』は、すぐに次曲である『ベルガマスク組曲』に移ります。CDは基本的に、プレイヤーで繰り返し(リピート)の操作をしなければ同じ曲が再生されることはない。仮眠を始めてから次にあなたが目覚めたのが待木絵里からの電話を取ったときであるならば、おそらく」

 と、再びプレイヤーに体を向け、おもむろに機械を操作するとボリュームを大きくした。どこか落ち着かない、人の心をも言われぬ衝動に掻き立てるようなピアノの旋律が部屋に響き渡る。

「ドビッシュー作曲の『喜びの島』――ここ辺りでしょうかね。『夢想』から一時間と三十分後に収録されている曲です」

 背後から、ピアノの音にかき消されそうな細いため息が聞こえてきた。プレイヤーの「停止」ボタンを押すと同時に、小暮警部が久しく口を開く。

「用心深いあなたのことです。三堂聖子の部屋から持ち去った服はすでに処分済みでしょう。今、鑑識に再度、現場の指紋採取をお願いしているところです。部屋に残された指紋は望み薄ですが、もし密室トリックがあなたによるものであるならば、せめて新聞受けの口のところには僅かでもあなたのものが残されていないか、とね」

「三堂聖子と学内で親しくしていたという大宮菜月に、再度話を伺いました。プライベートではバイトと遊びに明け暮れ、講義の空き時間にも卒業論文を進めている様子は見られなかった。一体いつ論文を書いているのか疑問に思っていた、と。他にも、同様の証言が複数の生徒から得られています。また、一部の生徒から、あなたと三堂聖子が一緒に勉強しているのをたまたま見かけ、珍しいと思ったから覚えていた、という話も聞くことができました。三堂聖子さんとの話を、もう少し詳しくお聞かせ願えますか」

 鈴坂刑事の詰問が功を奏したのか、佐橋菜穂は、音もなく静かに床に座り込んだ。『喜びの島』の残響が、三人の刑事と一人の作家が佇む部屋に静かに尾を引いていた。



「三堂聖子は、佐橋菜穂に卒業論文の代筆を頼んでいた。いや、断ろうと思えば、当然それもできただろうさ。しかし、彼女にはそれができなかった。

 佐橋菜穂は、三堂聖子に脅迫されていたんだそうだ。とある店で佐橋菜穂がCDを万引きしていたのを、三堂聖子がたまたま、目撃していた。それを皮切りに、佐橋菜穂は講義の課題の代行や、果てには金銭まで要求されていたと。勿論、自業自得と言えばそれまでなんだろうがな。しかし、運の悪いことに、目撃者は自供を勧めるでもなく、しめたと言わんばかりに佐橋菜穂を恐喝することを思い立った」

「佐橋が、そんなことを」

 K大学の最寄りのファミレス店、客のピークも超えた平日の十五時。前回と同じ場所のソファ席に腰を沈めていた勝村正孝は、深いため息とともにのろのろと頭を振った。

「三堂聖子の脅迫行為は、一年近くにも及んだ。そして、彼女の長きに渡る支配に限界を感じた佐橋菜穂は、とうとうその支配者の元を訪れた」

「もう、いいです。同級生の人殺しの話なんて、聞きたくありません」

 頭を垂れる勝村に、吾妻は腕を組んで虚空を仰いだ。彼が飲み終えたコーヒーカップの底には、溶けきらなかった砂糖の粒子が僅かに残っている。

「佐橋菜穂の咄嗟の機転は、よく考えたものだった。“部屋で音楽を聴いていた”という彼女の証言は、嘘ではなかったんだからな」

「三堂の部屋で、持ち歩いていたポーダブルCDプレイヤーを使って音楽を聴いていた。そういうことですね」

 三堂聖子を刺殺し証拠隠滅のため部屋の指紋を拭き取っていたところ、待木絵里からの電話が鳴った。カバンの中に持参していたCDプレイヤーを使ってのアリバイ工作が、そのとき彼女の頭に咄嗟に閃く。持ち合わせていた『世界の名曲クラシック全集・第三弾』のCD盤をプレイヤーにセットし、再生をかけた。そして、待木絵里の電話に出たのだ。まさか、自分が犯した殺人事件の現場に、現役の推理作家が捜査に踏み込むなどとは思いもしなかっただろう。

「三堂がもし、万引きのことで自首を勧めていたら。佐橋の人生は、もう少し良い方に変わっていたのでしょうか」

 顔を上げた勝村に、吾妻は「それは、神のみぞ知る、ってところだな」とだけ返す。「そうですか」と力なく笑む彼の顔にはやるせなさが滲んでいた。

「俺、一度だけ、あいつから誕生日祝いの電話をもらったことがあったんです」

 不意に、勝村は訥々と語り出した。店内に流れる名も知れぬクラシック音楽を背景に、吾妻はその言葉に耳を傾ける。

「バスケ部の遠征に他県に出ていたときでした。ちょうど、俺の誕生日と重なっていて。夜、あいつから“直接言えないけど、誕生日、おめでとう”って。あいつと付き合ってからの、初めての誕生日でした。普段はラインでごてごてした顔文字のメッセージばかり送ってくるようなやつだったから、何だかしおらしいっていうか、あいつらしくないなって。でも」

「でも?」

「正直、少しだけ嬉しかった。わざわざ、電話で伝えてくれたことが。単純ですけどね。それが、あいつとの唯一の良い思い出かな。当の本人は、そんな小さなこと覚えてもいなかったんでしょうけど」

「案外そうでもないかもしれないぜ。電話越しじゃ伝わらないことだって、沢山あるだろうからな」

 吾妻はコートのポケットから、三堂聖子のカバンに残されていた部屋の鍵を出すとテーブルの上に置いた。鍵に付いたキーホルダーに目を向けた勝村は、その整った顔に僅かだが困惑の色を浮かべる。

「三堂聖子の部屋の鍵だよ。これ、一番見覚えのあるものなんじゃないのか。彼女があんたをどれほどの存在としていたのかは、今となっては死人に口無し、だ。あとは、残されたものが事実をどう受け取るか、それだけだろう」

 三堂聖子の誕生石であるムーンストーンが施されたブレスレットの飾りが、店内の灯りを受けて鈍く輝いている。静かな瞳でそれを一瞥した勝村は、何も言わずにゆるりと首を振った。

 彼のスマートフォンが、テーブルの上で着信音を立てて震えた。再び増え始めた客の喧騒に紛れて耳に届いたのは、聴き覚えのあるピアノの独奏曲である。三堂聖子の鍵につけられた「恋人たちの石」とも称される六月の誕生石に、目を凝らしてようやくわかるくらいの小さな亀裂が入っていたことに吾妻はそのとき初めて気が付いた。

タイトル、内容ともに、不完全燃焼の気がある作品でしたが、せっかく仕上げたので投稿。

誤字脱字、内容の矛盾等含め、「こうしたらもっと面白くなるんじゃないか」「ここの表現はこっちの方がいい」といったようなアドバイスがありましたら、是非。



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[良い点] シンプルなタイトルに惹かれました。容疑者がたくさん出てくるフーダニットに、個別の事情聴取とアリバイ調査。短編として申し分なく贅沢な中身です。 タイトルから考えれば、犯人はあの人なのかなと…
2020/12/02 18:29 退会済み
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