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それから、寝て起きて、朝が来たら、大分頭の中はすっきりしていた。
やはり昨日は寝不足だったのかもしれない。
「ただいま」
「あ、おかえり、玄。今日も早かったわね」
「ん、授業終わってすぐ帰ってきたから」
「そう」
そうして、今日のところは順当に一日を過ごせた。相変わらずアイドル仲間は塾だが、今日は大して気にならなかった。
「ふう」
胸の中の静けさに調子が戻った実感を新たにしながら、自室のドアに手をかける。
瞬間。
「あら?はーい」
インターホンが来客を知らせた。母がパタパタと廊下を駆けていく。
……こんな時間に誰だろう。
父ならインターホンを鳴らさない。また宅配便だろうか。
……そういえば、この前もこんな考えを巡らせたような。
「あ」
そこで、思い出した。
『ごめん、また寄らせてもらうね』。
佐原さん、だ。
「どうも、佐原と申します」
「ああ、この前、息子が名刺をいただいた……すみません、あの時は出かけてて」
「いえいえ、とんでもないです」
玄関から、あの優しそうな声が聞こえてくる。
―――会いたい。
準備を済ませていなかった心は、勝手にそんなことを呟く。
……こんなことを考えるのは、変なのだろうか。そもそもどうして、こんなに混乱してるんだろう。
渦巻く考えを静ませられないまま、何かに導かれるように、俺は佐原さんの声が聞こえてくるリビングへと足を踏み入れる。
「あ、道坂くん!こんにちは」
再会の言葉は、案外あっけなかった。
……それはそうだ。俺は佐原さんにとって顧客の息子で、それ以上でも以下でもない。
「はい、こん……ばんは」
「ああ、そっか、もう夕方だしね」
「はい」
途端に体から力が抜けて、自然に挨拶が出来た。
……何を身構えていたんだろうか、俺は。
「どうしたの、急に降りてきて」
そうしてほっとしていると、母さんが俺を怪訝な顔で見上げる。
こういう来客の場面で俺が場に加わることがほとんどないせいだろう。
「え……いや……、なんとなく?」
「……そう」
結局怪訝な顔は解けなかったが、それ以上の追求はされずに済んだ。
明確な理由は自分でも上手く分からないので、濁せてよかった。
「道坂くん、ネットとか詳しい?」
と、今度は佐原さんから話を振られた。
「え?ネット……あー、そういうのは、ちょっと……」
そういう先進的なことには、俺の一家は少し疎い。
「ああ、そうなんだ。じゃあ、出来るだけ噛み砕いて説明するから、なんとなくでいいし、一緒に聞いておいてくれるかな?」
「そうね。母さんもそういうのはからっきしだし、一緒に聞いといてよ」
「うん、分かった」
とりあえず、ここにいる理由も出来るし、聞いていることにしよう。
「分かりにくいですよね、この手の用語って。僕も営業を任されてから必死に覚えたんですよ」
「あら、そうなんですね。大変ですね、営業の方も」
「ええ、まあ。何より、この年になると物覚えが悪いもんですから……」
「ああ、分かります分かります!私も今の仕事、スーパーのレジ打ちなんですけどね、覚えるのがまあ大変で」
「それは大変でしょうね。そういえば、僕も若いころやってましたよ、レジ打ち。あの頃はぽんぽん出来ましたけど、今は多分無理でしょうねぇ……」
「寄る年波にはって言いますもんねえ」
「ええ、本当に」
しかし、いつの間にか普通のおじさんとおばさんの会話になっていた。
「物忘れも多くて」
「僕も増えましたねー。頭の上のメガネを忘れるってやつ、この間ついにやっちゃいまして」
「ああ!うちの主人もやりました、それ!」
「ははは、そうですか。良かった、僕ひとりじゃなくて」
「……」
その後もしばらく輪の中に入れない"寄る年波"のトークが続く。
「さて、それではそろそろ少しだけ説明をさせていただきますね」
「あ、はい」
と、自然な流れで話が変わり、佐原さんは不意に大人の顔になった。
「今道坂さんのお宅では、インターネットはどのようなプランをご契約されていますか?」
「えっと……ちょっと待ってくださいね、ここに書類が……あ、あったあった。えっと……」
「失礼します。……ああ、速度が遅めの安いプランをご契約されていますね」
「あら、そうなんですか?……そういえば、よく分からないから安いやつを、って契約しちゃったかも……」
「ああ、それは仕方ありませんね。今の業者さんが説明不足だったのかも」
「そうですねぇ……それに、早くネットが使えればと思って、急いでましたから」
「なるほど。……今はお急ぎではないですよね?」
「ええ、大丈夫です」
「分かりました。では、少しお時間を取らせていただいて、基本的なことから整理させていただきますね」
「はい、お願いします」
スラスラと出てくる丁寧な言葉に、呆気にとられる。
……本当に、佐原さんは立派な大人で、営業の人なんだ。
今更ながら、そのことを実感する。
少し目元が凛としたその表情には、さっきまでの"のほほん"とした佐原さんは見当たらない。
「……と、いうわけですので、道坂さんのお宅の場合は、こちらのベーシックコースがおすすめになります」
そうしてぼーっとしているうちに、いつの間にか佐原さんの説明は終わってしまっていた。
「あ、テレビもついてくるんですか?」
「はい、ネットと、テレビ番組が見られるサービス、それと電話のセットで、お安いプランになってます」
「へえ……」
一瞬慌てたが、佐原さんの説明で母さんは理解できたらしく、俺に話題が振られることはなかった。
ほっと息を吐いたところで、リビングに電子音が割って入る。
「あ……すみません、電話です」
「ああ、どうぞどうぞ」
「もしもし。あら、あなた、どうしたの?……え、飲み会?」
どうやら父さんからの電話らしい。
"大人の付き合い"が好きな父さんは、一週間に一度は会社の人を数人集めてプチ飲み会を催している。母さんの口振りから察するに、今日もやるのだろう。
「ねえねえ、道坂くん」
考え込んでいると、突然近くから声がした。
「うわっ……は、はいっ」
飛び出そうになった心臓のあたりを無意識に押さえる。
振り向くと、佐原さんが何故か俺の隣に来ていた。
「あのね、ちょっとだけいいかな?」
驚いた俺の様子に頓着した様子もなく、佐原さんは内緒話でもするように顔を寄せて言葉を続ける。
「は、はい……?」
「道坂くんが良ければ、なんだけど……メールアドレスとか、交換してもらえないかな?」
「メ、メアド……ですか?」
「うん。本当は、こんなことは良くないかもしれないけど……まくるちゃんのこととか、色々話をしたくて。どうかな?」
どうやら、本当に内緒話だったらしい。
「いい、ですよ」
少しだけ考えてから、その質問にはっきりと頷く。
俺としても、佐原さんとはもっと話をしたいと思っていた。
だから、この申し出は願ったり叶ったりなのだ。
「本当に?……じゃあ、早速」
「はい」
母さんが電話をしているうちにと、大急ぎで作業を済ませる。
……何だか、いたずらでもしている気分だ。
「……これからよろしくね、道坂くん」
「俺の方こそ、よろしくお願いします、佐原さん」
「すみません、お待たせしました」
と、まさに交換を済ませたタイミングで、母さんが電話を終えた。
「ああ、いえいえ。大丈夫でしたか?」
「はい、大丈夫です」
「そうですか。では、話を続けさせていただきますね」
慌てて携帯をしまった俺とは対照的に、佐原さんは驚くほど自然に大人の顔に戻った。
「……」
背徳感にも似た気持ちと、その背徳感に舞い上がってしまう自分と、そんな自分を認めたくない気持ち。
……佐原、信。
曖昧な感情の中で揺れながら、俺は結局ずっと電話帳に追加されたその名前を見つめていた。
やっと2人が絡みました。