(エリュシオン二次創作)十字架の下で祈りの他に
街を外れて森の小道を進んだ先に建つ小さな教会。
ステンドグラスを擦り抜けた西日が、少女の長いプラチナ・ブロンドと、その背の純白の翼とローブをカラフルに染める。
外見上の年齢は、人間で言えば十五の辺りだが、天使の歳は見た目では測れない。
自身の体をスクリーンにして映し出された聖母マリアの慈悲深き眼差しとはあまりにも対照的な光景を、長いまつげの目の前にして、ビアンカは戸惑いを隠せずにいた。
「ねえ、アレックス。わたくし達、正しいことをしていますのよね?」
「どうしてそんな当たり前のことを訊くんだい、ハニー? まさかこんな奴ら相手に同情でもしているのかい?」
ビアンカの視線の先で、輝くばかりの金髪と氷のような目を持つ天使が振り返り、彫像のように端正な顔をわざとらしく崩しておどけてみせる。
ビアンカは唇を噛んだ。
アレックスの言葉にイエスと答えることは、自分の未熟さを認めることに他ならない。
ついさっきまでは慎ましいながらも美しく整えられていた礼拝堂は、今はひどく荒れ果てて、散乱した家具のせいで足場も不自由になっている。
ビアンカとアレックスのせいだ。
逃げ惑う獲物を捕えるために、机をひっくり返し、椅子を吹き飛ばし、十字架にかけられた等身大のキリスト像を、倒れるギリギリまで傾かせたのだ。
そしてそのキリストの足元では、天使達が捕えた獲物…
聖歌隊の少年十人が、天界の力を込めた金の鎖で縛られて転がされていた。
「ど・れ・に・し・よ・う・か・な!」
場違いに楽しげな声を上げながらアレックスが子供達を品定めして、とりわけ激しく脅える一番小さな少年に指先を止めた。
少年がボーイ・ソプラノの悲鳴を漏らす。
その子を含めて全員が、まだほんの小学生だった。
ビアンカは顔をしかめ、何か言いたげだが結局は何も言わなかった。
「!」
狙いをつけられた少年の隣に居た少年が、仲間とアレックスの間に、自分の体を割り込ませてきた。
重い鎖がジャラリと響く。
「ほう…」
アレックスがにやりと笑って舌なめずりする。
勇敢なだけの、普通の少年。
皆と同じ聖歌隊の制服のスモッグを着て、他の子供と比べても別段変わったところは見当たらない。
ただその少年は、やけに強い目をしていた。
「あの、アレックス…必要なのはわかっていますけれど、死なない程度にしておいてくださいましね」
「ああ…。わかっているさ、ハニー」
ビアンカの言葉にすんなり応じつつも不満げな表情のアレックスの口から、形の良い唇には似つかわしくない、カメレオンのように長い舌が伸び、いでた。
「まるで悪魔みたいですわね」
「酷い言い方だな。悪魔と戦うために必要な力だ。正義の力だよ」
アレックスの舌が、強い目の少年の顎をなぶるようにちろちろと撫で、それから一気に顔全体をベロリと舐め上げた。
「うっ!?」
少年がうめき声を上げた。
最初に襲いかかった気持ちの悪さを、後から来た得体の知れない脱力感が塗りつぶしていく。
アレックスが、少年の心の力、精神のエネルギーを舐め取ったのだ。
「ペッペッ! 何だこいつは!? 天使の血が混じっているのか!?」
「まあ! それじゃあこの子は堕天使の子ですの?」
アレックスは露骨な嫌悪感を、ビアンカは哀れみの色を表す。
「理解不能だな。高貴な天使に生まれていながら、何故にチンケなニンゲンなんかとわざわざ子を成すのか…」
「アレックス! そんな言い方をしてはいけませんわ! 堕天使の子だなんて悲惨な運命を生まれながらに背負っているのに、この子があまりに可哀相ですわよ!」
少年の静かな歯軋りは、天使達の耳に届いただろうか。
「バカにするな! 小虎のとーちゃんもかーちゃんも立派な撃退士だったんだぞ!」
聖歌隊の一人、丸々と太った少年が叫んだ。
「そーだそーだ! 二人ともすっげー強かったんだからな!」
「あの二人が居たら、お前らなんかイチコロなんだから!」
少年達が次々と、変声期前の甲高い声を張り上げる。
しかし肝心の西沢小虎は何故かうつむいていた。
「ほう? 面白い。堕天したのみならず撃退士にまでなった天使か。ならば倒せば手柄になるな。それでその堕天使はいつ息子を助けに来るんだい?」
アレックスの言葉に、聖歌隊が急に水を打ったように静かになった。
一人だけ事情を知らないのか、一番小さな少年だけがキョトンとしている。
「二人ともとっくに死んでるよ。天使と戦って、たくさんの人を守って。今はこの教会の墓地で眠ってる」
小虎が年下の少年だけに向けてささやいたつもりの声は、しかし人よりも聴覚の優れた天使達の耳にも届き、アレックスはゲラゲラと笑い転げた。
「ちょっと! アレックス!」
ビアンカが金切り声を上げる。
「奇遇だな。ハニーのお父上がニンゲンに殺されたのと同じ場所とはね」
「わたくしのお父さまはまだ死んだと決まってはおりませんわ!」
そのやり取りに小虎が伏せていた顔を上げた。
「そっちもそっちで事情があるみたいだね」
「…っ!」
ニンゲンに話す必要なんかない。
そう思いつつもビアンカの唇は、小虎の瞳に導かれるかのように、自然と動いていた。
「わたくしのお父さまも立派な戦士ですの。だからあなたのご両親を殺したのは、わたくしのお父さまかもしれませんわね」
「…………」
「わたくしのお父さまは、今から十三年前に、ニンゲンとの戦いで行方不明になりました」
「天界の誰もがハニーを殉教者の子として称えたのさ」
アレックスが口を挟む。
「お父さまが死んだなんてわたくしは信じていません! だからわたくしは、お父さまを探すために、戦士になってこの世界へやってきました。わたくしがこの世界へ行く許可をいただくためには、戦士になるしかなかったのですもの。そしてこの世界に来てすぐに、わたくしの召喚獣がお父さまのにおいを嗅ぎつけましたのよ!」
「古すぎていつのものかわからないぐらいかすかなにおいだけどね」
「この教会に、お父さまのにおいが残っていましたの。お父さまはこの教会で敵の手に落ちた」
「だから僕達は作戦を立てたのさ。ニンゲンの子供を餌にして地元の撃退士を誘き寄せる、ってね。仇の撃退士が来たら、死ぬまでエネルギーを吸い尽くす。違う撃退士が来ても、それはそれでおいしくいただく」
「これがわたくしの、戦士としての初めての仕事ですのよ!」
「皮肉なもんだよねぇ。ハニーの父上の遺言には、自分の娘を戦士にはしたくないって書いてあったのに」
「アレックス! 遺言ではありませんってば!」
不意に窓越しに獣の声が響いた。
ビアンカの召喚獣に教会の外を見張らせていたのだ。
「この吠え方は…相手は魔族ですわね」
「気をつけろよ。陽動作戦かもしれないぞ」
「わたくし一人で参りますわ。アレックスはここに残って人質を見張っていてくださいませ」
「ハニー、初仕事なのに張り切りすぎじゃないかい?」
「天界を出る前に申しましたでしょう? 一刻も早く手柄を立てて、お父さまやあなたに並びたいのですわ」
「そうだったね。わかったよ。気をつけていっておいで」
アレックスがビアンカに歩み寄り、頬に手をかけて唇を寄せる。
けれどビアンカは真っ赤になって顔を背けた。
「あ、アレックスってばっ。それは婚礼の儀までとっておく約束ですわっ」
「ああ…そうじゃなくて、これを渡したかったんだよ」
アレックスが目玉を引ん剥き、喉の奥からげっぷのような音を出す。
すると…
その唇から飴玉ぐらいの大きさの金色に光るエネルギーの塊が吐き出された。
「そこの坊やの精神エネルギーを固めたものだ。天使とニンゲンのハーフから作った弾だから、天使にもニンゲンにも効果はないが、相手が魔族ならば、上手く当てれば一発で殺せる」
「ありがとう、アレックス」
ビアンカは白く細い指の先で弾を摘まみ、ローブの裾を翻して走り出した。
教会の玄関扉が閉まるのを待って、アレックスは人質を見渡して舌なめずりをした。
「君達は大切な人質だからね。死なせることなく楽しませてもらうよ」
冬枯れの木々の陰に身を隠しながら教会への接近を図っていた朱井鈴子は、自分の頭上から迫る召喚獣に気づくのが遅れてしまった。
熊のような大きさを持ち、羽もないのに空を飛ぶ、水泳中のカワウソのような姿のセフィラビーストに覆い被さられて冷たい土の上に押さえつけられた鈴子の耳に、ビアンカの澄んだ声が飛び込む。
「良くやったわ、コーネリアス」
「くっ!」
久遠ヶ原学園の制服のブレザーの袖に、セフィラビーストの爪が食い込み、血がにじむ。
ビアンカは敵の姿を観察して目を丸くした。
「書物に描かれていたのとはずいぶん様子が違いますのね」
ビアンカが想像していたのはもっとおどろおどろしい姿の化け物だったのに、目の前の名も知らぬ女子高生は、魔族のはずなのにニンゲンと見分けがつかないぐらいそっくりで、羽も見当たらないし、乱れた長い黒髪から覗く耳の先が辛うじて尖ってるかなという程度だったのだ。
「何さ! 馬鹿にしてんのォ!?」
鈴子が規定より短いスカートを翻してコーネリアスの腹を蹴り上げる。
「まあまあ、無駄なことを」
ビアンカの口から思わず笑みがこぼれた。
本来の彼女はこんなことで笑うような性格ではないのだが、敵が恐れていたほど強くないと知ったために緊張が解けたのだ。
しかし…
「え…!?」
召喚獣は一声鳴くと、鈴子から離れてフワリと浮き上がり、そのままどこかへ飛んでいってしまった。
「まさか! コーネリアスにその程度の攻撃が効くはずありませんわ!」
「効いたじゃないのさ!」
素早く起き上がった鈴子が、そのままビアンカに飛びかかる。
「!」
ビアンカは咄嗟に、アレックスにもらった弾を投げつけた。
カッ!!
閃光がほとばしり、衝撃が巻き起こる。
「きゃああああ!」
悲鳴を上げたのは鈴子だけだった。
至近距離だったのでビアンカも閃光に巻き込まれたが、吹き飛ばされたのは鈴子だけで、ビアンカは無傷で立っている。
アレックスが言った通り、この弾は天使には効果がない。
そして宙に舞い地にたたきつけられた鈴子は…
「痛…た、た…」
ボロボロになりながらも身を起こし、そのまま後ろの茂みの中に逃げ込んだ。
魔族ならば重症だし、ニンゲンならば無効。
鈴子が受けたのは、その中間のダメージ。
鈴子は魔族とニンゲンのハーフだったのだ。
「待ちなさい!」
ビアンカが茂みに駆け寄るが、そこにはもう鈴子の姿はなかった。
自分に武器がないことも忘れて、ビアンカは撃退士の足跡を追いかけた。
茂みを掻き分け、庭を抜け、たどり着いたのは墓地だった。
人気は、ない。
ビアンカの他には誰も居ない。
鳥も鳴かない静けさに、思わず足を忍ばせつつも、敵の姿を探して墓石の間を縫って歩く。
死は万人に平等に訪れるとは云うけれど、墓の大きさには値段が付くし、供えられた花には想いを残す人の様子が現れる。
二つ並んだ双子のような十字架に、それぞれ同じ花が供えられているのがビアンカの目に留まった。
天界に咲く、ビアンカの好きな花に良く似た白い花だった。
こちらの世界に来る前に、この世界の文字の勉強は一通りしておいた。
片方の墓碑銘は、何てことのない日本人女性のものだった。
もう片方の名を読み、ビアンカは叫んだ。
「お父さま…! どうして…!」
鈴子は墓地の外れの納屋の陰からビアンカの様子を伺っていた。
天使の少女はしきりに自分の召喚獣の名を呼んでいるが、ソレが戻ってくる気配はない。
チャンスだ。
鈴子の全身から赤黒いオーラが立ち上り、特殊な力・アウルを備えた肩当てや脛当てが鈴子の体を包んでいく。
防具は魔装で武器は魔具。
左手の指輪に仕込んだヒヒイロカネに鈴子の右の掌を重ねて、魔具を取り出そうとしたところで…
「ハニー! 無事かい?」
不意に男の声が聞こえた。
アレックスは、ビアンカの異変に気づいたからか、ゆっくりと歩み寄る。
周囲を警戒しているが、鈴子を見つけてはいないようだ。
「帰りが遅いからニンゲンにやられたのかと思ったよ」
「ニンゲン…ああ、ニンゲン…許しませんわ…わたくしのお父さまを…」
礼拝堂へ戻っていく二人の後ろ姿を見送って、鈴子は首をかしげた。
「なぁんか変なカンジぃ」
アレックスが礼拝堂の玄関の扉を開けると、今まさに聖歌隊の子供達が廊下側のドアから逃げていくところだった。
追いかけようと慌てて走り出したビアンカの足に、床に落ちていた鎖が引っかかり、転ぶ。
鎖には、獣に食いちぎられたような跡があった。
「何てことですのっ? 人質の中にも召喚獣を扱えるものが居ましたのねっ!」
叫びながらビアンカは、小虎だ、と、直感していた。
目の前で閉められた扉にアレックスが飛びつき、ノブを回すが開かず、蹴破る。
短い廊下の、サイドのドアは司祭の寝室か食堂か。
正面のドアだけが開かれて、戸口の向こうで庭木の枯葉が無音で落ちる。
アレックスが掴むドアノブを、裏側で小虎が一人で押さえていた。
「堕天使の子が、生意気なマネを!」
アレックスがドアをガンガンと蹴りつけ、ドアの裏と廊下の壁の間に挟まれた小虎は、何度もたたきつけられる。
「お前の召喚獣はどこだ!? お前もろとも八つ裂きにしてやる!!」
「…ぼくのじゃない…パパの…」
「なんだ、呼んでも来ないような野良の気紛れか。ハッ! 必要な時に来ないなんてハニーのコーネリアスと大差ないな」
「…コーネリアス…?」
ドアにもたれながら膝をつく小虎の襟首を、アレックスが掴んで無理やり立たせる。
「いい目だ…さぞや強いエネルギーを備えているのだろうな…! お前も逃げた餓鬼共も皆殺しだ! 味なんざもう関係ない! まずはお前の精神エネルギーを吸い尽くしてやる!」
「やめてアレックス! ああ、小虎! 名前、小虎でしたわよね? どうしてたった一人で足止めしようなんて無茶なことをなさるの? 一人で死ぬつもりですの? わたくしが天界で教わったニンゲンの姿とはあまりにかけ離れていますわ! ニンゲンというのはもっと臆病なものなのでしょう? 死を恐れて醜く逃げ回るものなのでしょう? われわれ天使に歯向かってくるのは撃退士ぐらいなものなのでしょう? どうしてあなたみたいなただの子供が…」
「順番が逆になったってだけさ! 孤児院の先生からやっと許可が下りてね…中学からは久遠ヶ原学園に通うって決まってたんだ! 撃退士の仕事をするのが、撃退士になるより先になったってだけ…ただそれだけの話さ!」
「まあ…!」
「あなたもだよ、天使のお姉さん」
「…?」
「コーネリアス…ね。しっかり勉強すれば、もっと仲良くなれるよ。ぼくも久遠ヶ原学園に入ったら…」
「叶わぬ夢だな」
見つめ合う二人をアレックスが遮る。
「ハニー…僕をぶったな…」
「え? あ…ごめんなさい…」
正確には、ぶったのではなくアレックスを止めようとした時に無意識に手が当たっただけだったのだが、しかしアレックスの目は怒りに満ちていた。
「ハぁぁぁぁニィぃぃぃぃ!!」
アレックスがハニーと発したニの音で、笑うつもりもないのにニ(・)ヤリと笑ったような口になる。
その歯の間には無数の光の弾丸がくわえられていた。
「ちょ、ちょっとアレックスっ?」
「僕が怖いかい? だったらさっさとコーネリアスを呼んで助けてもらえよ。ハッ! あいつは肝心な時には出てきやしない。あのケモノは死んだ主のにおいを無才な娘に求めているだけで、ハニーを主と認めてなんかいないんだ。ハニー、気づけよ、君には召喚士の才能なんかない」
口内の弾丸のせいでしゃべり辛いはずなのだが、天使なのでそもそも普段から会話はテレパシーで行っている。
「ハニー。君が外で魔族ハーフと戦っている間に、この餓鬼以外の人質から吸い取った純正のニンゲンの精神エネルギーだけで作った弾だ。君が食らうとどうなるのかは知っているよねェ? ニンゲンには無効だけれど、ハーフには棍棒で殴られた痛み、天使と魔族には剣で斬られた痛みを与える。逃げ回れよハニー。君みたいな華奢な天使なら、かするだけでも二、三発で殺せるよ」
「アレックス? 冗談でしょ? そんな…」
「ハニー。君の父上の話をしよう。君の父上がどうして亡くなったのか」
「いきなり何を…それは…ニンゲンの撃退士に殺されて…」
「ハニー、父上の墓を見たのに気づかなかったのかい? 父上はニンゲンの手でニンゲンの墓地に埋葬されていたのだぞぉ? 君のお祖父様が君の初陣にこの地域を選び、父上の最後の場所をコーネリアスに見つけさせたのが、まさか偶然だとでも思っているのかぁい?」
「……………」
「君の母方の祖父は大変な野心家で、君の叔母も従姉妹達もそろって強引な政略結婚の駒にされているよね。お祖父様はずいぶん前から君の母上に再婚をさせたがっているのに、なかなか話が進まない理由は何だと思う?」
「そ、それは…お父さまが生きているって、お母さまが信じて…」
「お祖父様は、父上は死んだと言っている。お祖父様の命令に母上が決して逆らわないのは君も良く知って…うんざりするほど良く知っているだろう?」
「……………」
「年頃の姉上二人の嫁ぎ先がなかなか決まらないのも同じ理由さ。ハニー、君の父上は…堕天して撃退士に与したんだ」
「ありえませんわ! お父さまがわたくしを残して堕天するなんて! アレックス! いくらあなたでもお父さまへの侮辱は許しませんわよ!」
「君のショックはわかるよ、ハニー。堕天使を出すのは一族の恥だからね。でも事実なんだ。ハニーの父上のような名門の家の天使が堕天するなんて決して許されないわけだが、名門だからこそ家の力を使って隠蔽することができて、娘の君にすら知らされなかったのさ。だけど母上が再婚させられる予定の相手は国のお偉いさんだから、前夫の堕天は当然知っている。母君のお相手はイイお方だよ。ただの連れ子なら歓迎してくれたさ。だけど君は堕天使の血を引く子だ。君に行き場なんてない。
ハニー、君の救いになるものは、この世に一つだけしかない。何かわかるかい? 名誉だよ。天界の崇高な目的を妨げる危険な撃退士と戦って戦死したという名誉。殉教者を出した家という名誉があれば、堕天使を出した家という汚名を払拭できる。そうなれば姉上達も大手を振ってお嫁にいける。君だけが犠牲になるのは不公平だと思うかもしれないが、淑女な姉上二人が戦士になるのはあまりにも無理があるからね。ご家族を恨んじゃいけないよ。戦士になる気質、殉教者になる資質があるのは、姉妹の中で君だけだったんだ」
「アレックス…あなた、本気で…」
「本当に撃退士にハニーを殺してもらえれば、僕としてもラッキーだったんだけどね。どんな形であれ、報告書にはそう書かせてもらうよ。そう約束したんだ。君のお祖父様とね」
「アレックス…ッ!」
「娘婿が命を落としたのと同じ場所で孫娘も殉死する。お祖父様が考えた、なかなか美しい悲劇じゃないか。きっと評判になるよ。さよならハニー。僕も君と結ばれて名門の家に入りたかったけど、この仕事が成功して出世できれば、末席の君ではなく跡取りの長女を狙えるようになる。悪く思うなよ。ビ、ア、ン、カ!」
アレックスがビアンカに向けて弾を放つ。
その瞬間、小虎がアレックスに飛びかかり、成長途中のまだ小さな手でアレックスの口を塞いだ。
カカカカガガガガッ!!
「ぐおっ!?」
「うああああっ!!」
弾丸はアレックスの口の中で爆発し、アレックスの耳から煙が噴き出す。
小虎は両手を抱えて転げ回った。
半分人間なので両手が跡形もなく吹き飛ぶような事態にこそならずに済んだが、半分天使なので無傷ともいかず、その手は痛々しく焼けただれてしまった。
床に倒れ込み、目を硬く閉じて痛みに耐える。
「ああ、何てことなの…!」
ビアンカが駆け寄る。
「ビアンカ…コーネリアス…。ぼく、どっちの名前も知ってるよ…」
小虎がゆっくりと目を開けた。
「ビアンカ…! ぼくのパパの名前はレオンだ…!」
ただれた手をかばいながらフラフラと立ち上がる。
「小虎…? あなた、何を言っているの…?」
「ビアンカ! ぼく達は、姉弟なんだ!」
後退りする姉に向かって一歩踏み出す。
「嘘よ!」
「本当だよ!」
もう一歩近づく。
「嘘よっ! お父さまがそんな…っ!」
「本当なんだよっ!」
もう一歩。
「いいえ、わたくしは信じませんわ! お父さまが堕天したのも! ましてやニンゲンと子供なんて…!」
「お姉ちゃんの話なら、パパからたくさん聴いてきた! パパが堕天使になったのは、お姉ちゃんを守るためだ! お姉ちゃんには戦士の才能があるから! このままだとお姉ちゃんは戦士にされちゃうから!」
立ち眩みを起こした姉をただれた手で支えようとして、だけれど姉は後退りして、尚、逃げる。
「ああ…お父さま…」
「魔族と戦うのは仕方ないけど、そのために人間の命を奪うような子には、お姉ちゃんをしたくないって!! だから堕天したんだ! 地球を守るために! 天使が真の正義であるためには、天界を真に美しい場所にしておくためには、地球から搾取なんかしちゃいけないから!」
祭壇まで後退りしたビアンカの背中が何かにぶつかった。
十字架の等身大のキリスト像の土台部分だ。
見上げた像がグラグラ揺れて、天使の少女を見下ろしている。
聖歌隊の子供達を捕まえた際にアレックスが放った流れ弾が当たったせいで、ずいぶんボロボロになってしまった。
「ぐわあああっ!」
アレックスが雄叫びを上げた。
床に向かって血を吐き出し、天井に向かって煙を噴き出し、上を向いて下を向いて、のた打ち回って…
最後に真正面を向いた時、その唇には次の弾丸が充填されていた。
「ビアンカあああああああっ!!」
弾丸を撃ち出す。
「!」
小虎がビアンカを突き飛ばし、弾丸は二人を逸れて背後のキリスト像に当たり…
木材が弾け、床に伏せた二人に向かって、重厚な十字架が倒れてきた。
「きゃああ!」
ビアンカは思わず目を閉じた。
…何ともない。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
小虎の声にビアンカが目を開けると、いつの間に現れたのか、コーネリアスがキリスト像に体を巻きつけて支えていた。
「キュオン!」
鳴き声ひとつ。
コーネリアスがキリスト像をアレックスに放り投げ、アレックスは像の下敷きになった。
「どうして…? わたくしは呼んでいませんし…小虎も、コーネリアスを呼んでいる暇なんてありませんでしたわよね?」
「パパが呼んだんだよ、きっと」
小虎の言葉に答えるように、コーネリアスが姉弟の頬を交互に舐めた。
「もともとパパの召喚獣だもん。きっとパパが死ぬ前に、ぼく達を守るようにコーネリアスに命令していたんだ。コーネリアスはね、ぼくとお姉ちゃんの間を行ったり来たりして、ぼくら二人の召喚獣を一匹で勤めていたんだよ。呼んでも来ない時があったのはそのせいさ」
「ああ…コーネリアス…小虎…わたくしは…」
「お姉ちゃん。ずっと逢いたかった」
「ぐおおおおっ!!」
突然轟いた獣のような咆哮に、小虎達が慌てて振り返るが間に合わず、アレックスは十字架を跳ね上げると同時に口から無数の弾丸を撃ち出した。
弾は全てビアンカを狙っていた。
どさり。
響いたのは、コーネリアスが墜落した音だった。
ビアンカをかばって弾の起動に割って入ったのだ。
コーネリアスの姿は煙のように掻き消えて、それと同時に小虎が倒れた。
召喚士と召喚獣は体力を共有しているからだ。
「ああ、そんな…なんてことなの…」
だけど嘆いている暇はない。
アレックスは次の攻撃の準備をしている。
ビアンカは小虎の体を抱きかかえて祭壇の陰に転がり込んだ。
コーネリアスが受けたダメージがビアンカに伝わらなかったのは、コーネリアスが召喚士と召喚獣としての関係を、小虎だけと結んで、ビアンカとは結んでいなかったから。
コーネリアスは、ビアンカのものではなかったのだ。
「そうですわね…小虎って、お父さまに似ていますものね…」
だけど主の小虎が傷つくのがわかっていても、コーネリアスはビアンカを守ることを選んだ。
「お姉…ちゃん…。コーネリアスは…? コーネリアスはどこ!?」
小虎が今にも泣き出しそうな顔で尋ねた。
「まあ…あなた、弱い顔もなさいますのね」
それは、父とは似ていない部分だった。
だけどそれは父が大人だったからで、弟も成長すれば父のようになるのかもしれない。
弟。
ビアンカは、その未来を見てみたいと思った。
「コーネリアス…もしかして死んじゃったの…?」
「あらまあ小虎ってば、大丈夫ですわよ。セフィラビーストは死にませんもの。別の世界へ避難しただけですわ」
「弾はまだまだたっぷりあるぞおおお!」
アレックスが次々放つ弾丸に撃たれて、祭壇がボロボロになっていく。
「小虎! わたくしがアレックスを引きつけている間に逃げなさい!」
ビアンカは十字架の破片を棍棒の代わりに掴んだ。
「いやだ! おとりにはぼくがなる! お姉ちゃんこそ逃げてよ!」
「アレックスの狙いはわたくしです!」
「ぼくは撃退士だ!」
「まだなっていないでしょう!? アレックスは素人が太刀打ちできる相手ではありませんわ!!」
「お姉ちゃんだって初陣だって言ってたじゃないか!! 天使と戦うのはこれから撃退士になるぼくの役目だ!!」
「ならばわたくしは堕天します!! いいえ、もう堕天しました!! わたくしは今もうすでに堕天使です!! 堕天使こそが天使の真の相手です!!」
続く攻撃に耐え切れず、ついに祭壇が粉々に吹き飛んでしまった。
もう、逃げる隙など探せない。
小虎が祭壇の破片を両手に構えた。
「お姉ちゃん…」
「小虎…!」
お互い頼りない得物だが、目を合わせてうなずき合う。
その時…
礼拝堂の玄関が大きな音を立てて開かれ、同時に左右の壁でそれぞれのステンドグラスが破られて、その三箇所から…
青や緑の顔をして漆黒のローブを纏った子鬼の群れが、一斉になだれ込んできた!
「魔族!? こんな時に!!」
ビアンカが悲鳴を上げる。
「魔界のやつら!? それとも、はぐれ魔族!?」
小虎がビアンカを背後にかばいながら目を凝らすが、少なくとも彼らは久遠ヶ原学園の制服を着てはいない。
ただ、いずれにしてもアレックスの敵であることに変わりはない。
「おのれ魔族め!!」
アレックスが、小虎達に向けていた弾丸を魔族に向け直して放つ。
数は多くともたかが子鬼。
さほど強いとは思えない。
しかし…
魔法の弾丸を正面から食らっても、子鬼達のローブがはためいただけで、子鬼達の体には傷一つつかなかった。
「な!? 何故だ!?」
アレックスが叫び、さらに弾丸を放つ。
けれど二発、三発、十発、二十発と食らい続けても子鬼達は眉の一つも動かさない。
アレックスの魔法が、天使にしか効果がないというわけではない。
その証拠に木製の像や祭壇は壊れた。
人間から吸ったエネルギーで作られた弾丸は、人間以外の全てのものに効くはずだ。
五十発、百発…アレックスが悔しげに口を閉じる。
弾切れだ。
それを待っていたのだろう、魔族の群れがアレックスをぐるりと取り囲んだ。
「おのれ! 魔界の者め!」
「残念でした~!」
ボーイ・ソプラノを響かせて、子鬼達が色とりどりのお面を脱ぎ捨てた。
それは、教会の倉庫から引っ張り出してきたハロウィンの仮装グッズ。
一番小さい“子”が、輪から外れて小虎に抱きつく。
彼らは魔界の子鬼などではなくて、聖歌隊の少年達だったのだ。
「ニンゲン風情がナメたマネを!!」
アレックスが、近くにあった椅子を掴んだ。
大勢居たって相手は子供。
撃退士でも何でもないような者達に、天使がやられるわけがない。
が…
「残念! チェックメイト!」
いつの間に忍び寄っていたのか、魔具と魔装のV兵器で全身武装した鬼道忍軍・鈴子がアレックスのすぐ背後に立ち、アレックスの首元にクナイを突きつけた。
しかし、まだ終わりではなかった。
アレックスが、振り向きざまに鈴子に弾丸を放った。
ビアンカに使うために、一発だけ残していたのだ。
「うぐっ!?」
至近距離からまともに食らって、鈴子がその場にうずくまる。
その隙にアレックスは小虎に椅子を投げつけて、そのままの勢いでビアンカに掴みかかった。
バシッ!!
戻ってきたコーネリアスが長い尻尾を鞭のようにしならせて、ビアンカの首に伸ばされたアレックスの手をはたき飛ばした。
「くっ!」
勝負があったと悟ってからのアレックスの対応は早かった。
意地も何もなく身をひるがえし、礼拝堂の脇に設えられた告解室に飛び込む。
そこは本来ならば司祭が人々の悩みや打ち明け話を聴く場所なのだが今は司祭の姿はなく、代わりに並行世界同士を繋ぐ時空のゲートが鎮座している。
アレックスは迷いなくゲートに飛び込み、その向こう、天使達が本来住む天界へと逃げ去った。
まだ動けない鈴子の側にビアンカがしゃがみ込み、アウルの力で治療して、その様子を小虎が横から覗き込んで目をキラキラさせる。
「わたくし本当は召喚術よりもこちらの方が得意ですの。あなた達はアストラルヴァンガードと呼んでいますのよね?」
「お姉ちゃん、すごーい!」
「何を言っていますの? 小虎にも先ほどかけたでしょう?」
「あれ? いつの間に?」
「あなたが“コーネリアスぅ~!”って泣いている間にですわ」
「なっ、泣いてなんかないよ~っ!」
「ほらまた泣きそうになってますわ」
そう言いながらビアンカは、横目でゲートをちらちらと気にしている。
治療が終わると鈴子は礼もそこそこにおもむろに立ち上がった。
「これ、壊しちゃっていーよね?」
そう言うと鈴子は、問うておいて返事も待たずにクナイでゲートを切り刻んで破壊した。
「ちょっ!?」
「何さ? どーせもう帰れないってカンジっしょ?」
「じゃあさ、お姉ちゃん! ぼくと一緒に久遠ヶ原学園に入ろうよ!」
「ちょっと小虎!?」 弟が姉の手を引っ張って、教会の外へ向かって歩き出した。
小さくても温かい手。
戦いで荒れた床の上でも迷いなく堂々と進む足。
「お父さま…」
玄関をくぐる瞬間、ビアンカは告解室を振り返った。
天界に帰ったところで今の自分にはアレックスを倒すことはできないけれど、学園に入って力をつければ、再戦のチャンスはきっと訪れる。
春を待つ日差しが門扉を照らす。
まだ互いに名前を聞いてもいない先輩撃退士が、微笑みながら隣を歩く。
ビアンカは、小虎の手を強く握り返した。