まあ、つまりそういうことだ
「だから、やめたほうがいいと思うのですよ」
会って間もない向かい側に座る女は、熊避けの鈴のような声で男にそう宣言した。大きな木目をアクセントにする重厚な卓を中央に据える、十二畳の和室。二人で使うには広すぎるほどのその部屋で向かい合う男女は、出会ってから二人きりになり、特に語ることもなく五分以上沈黙していた。
女が沈黙の後にわずかにもらしたその言葉に、男は机にばかり向けていた視線を上げて、初めて女の顔を見た。女は憂うでもなく喜ぶでもなく、事実を伝えているだけの事務的な表情だった。スーツでも着ていれば少しは様になったのだろうが、彼女が着ているのは赤い着物であり、髪は洒落た茶髪の女子大学生もビックリするくらいの豪快な盛り上げようである。彼女に華やかさを求めるのであれば服のほうにまず目が行くはずだが、今の男にとってそんなことはどうでもよかった。着物は元より、女の華やかさにも興味はない。
彼女は今し方、男を見据えてはっきり述べたらしい言葉に悪びれもせず、再び明瞭でよく通る声を部屋に響かせた。
「やめておいた方が、あなたのためだと思うのです。もともと、私も気の進む話ではなかったのですよ。どうせあなたも、親に勧められて来ているのでしょう?」
これは一応返答をすべきだろうか、と考え、男は首を縦に振る。女も、ほら、予想通り、とばかりに男を見つめる。やがてため息をつくなり「でしょうね」と言って、窓の外へと視線を移す。女は何もかもがつまらなさそうな顔をしていた。男はそれを見つつ、懐からラベルのないペットボトルを出して、その中身を口に含む。
話が持ち込まれたのは九月もあと一日で終了というずいぶんと中途半端な時期だった。親の建てた会社を引き継ぐために宛がわれたマンションの一室に男が帰宅すると、ほとんど使われていない固定電話のランプが、闇の中で緑色に点滅していた。何事かと思って近寄ってみると、どうやら留守電を預かっているらしかった。男が確認ボタンを押すと、ピーッと甲高い音が鳴り、スピーカーの音を数秒の沈黙が覆い隠した後、もしもし、とくぐもった声が聞こえてきた。男の父親だった。
父親は男に何の説明もなく突然その場で、2ヶ月後にある見合いに出席するように、と告げた。場所は郊外にある広い庭付きの和風料理屋。相手は自分の会社の下請けを行っている中小企業の社長の娘。与えられた情報はそれだけだった。最後に、希望があれば相手の顔写真も送るので折り返し電話するように、と言っていたが、男はさして興味もなかったのでその後父親とは何の連絡も取っていない。
男は相手が誰であれ、自分に好意を抱くことはまずないであろうと思っていたし、そう思っていたからこそ、自分も相手に好意を抱くことはないであろうと思っていた。現に今まで生きていて、他人を必要とするような機会に恵まれたことがなかった。他人が自分を必要としてくることはあったがそれも仕事や勉強などの一時的なものであり、そうして頼られる度、どうしてこの程度のことも出来ないのかと内心思っていた。が、それを口に出すことに何のメリットがあるわけでもない。とりあえず適当に時間をつぶすだけの日常が男にとっての人生であって、すべてであって、それに対しても特に何の感想も沸かない。そうして三十年という時間をすごしてしまったから、遂に会社の存続を危ぶんだ父親が結婚相手を用意したのだ、としか言いようがない。道理は通っているし、事実そうなのだろう。それが定めだというのなら、男はそれに従うまでだった。今更相手が誰であろうと関係ない。
そうしてつれてこられた、この和風料理屋。顔を合わせてみれば女も似たような状況らしく、まるでこの世の終わりとばかりに目を伏せて黙り込んでいた。しかもいざ口を開けば、自分とは結婚しないほうがいいであろう、と言う。忠告なのか、本気でそう思っているのか、いまいち真意はわからない。相手に興味のない男からすれば、穏便に事をすませたかったのだが、このままでは女が断固として対話を拒否し続けるであろうことを察し、男は女に言葉を返す。
「俺たちに選択権などない」
女は窓を見ていた瞳を再度男に戻す。首の動きに合わせて結わえている髪がわずかに揺れる。
「正直、相手が誰であっても、あまり興味がない」
女は露骨に眉をしかめた。その表情からは、仮にもこれから一つ屋根の下で暮らすことになる生涯のパートナーに(あるいは今それとなりうるはずの女本人に)面と向かって興味がないなどと平気で言い放つ男に対する軽蔑が見て取れる。だが男はそんな彼女の胸中など意にも介さないというようにそれ以上何かを告げることもなく、また黙る。女は何か言いたげな顔をして唇を噛んでいたが、やがて諦めたように息を吐く。
「わかりました。そこまで言うのならば、もう結構です。あなたがどう思おうと、私は何も言いません。しかし……」
女はそこで言葉を切った。ふと、また窓の方へと視線を移して、つぶやくように言った。
「事実は知っておくべきです。これは私やあなたがどう考えていようと避けることなどできません。事実はありのまま、受け止めなくてはいけないのです」
「何を言っている」
女の意味深な言葉の真意を測りかねて、男は今まで崩さなかった表情を疑問の形にゆがめた。今度は女が男の言葉を無視して、座っていた座布団から立ち上がる。視線を外に向けたまま、きわめて静かな声で、彼女は男に言った。
「外に出ましょう」
深まった秋も時期に終わりを迎える11月の下旬。
木造を模した外壁に身を包む和風料理屋の中心には、直接青空を望むことのできる吹き抜け構造の下に、人が悠々と散歩できるほどの庭園が設置されている。縁側から足を伸ばせば黒白の小石を敷き詰めた庭が目に入り、その先には三メートルほどの石畳が続く。そこを通りぬけると、あとはひたすら樹海と見紛うほどの深い緑が広がっている。実際には背の高い樹木は数本しかないのだが、自然に任せて下草が伸びているので光を通して見るとあたかも庭全体に相当な奥行きがあるように見えるのである。
女に導かれるまま、男はその箱庭を彷徨った。女は着物を着ていて動きにくいはずなのに、なぜかスーツに身を包む男よりも早い速度で歩いていた。おかげで少しばかり追いつくのが大変だった。女は玄関を抜けて庭園を不規則に進み、五分くらいしたところで、不意に、この辺りかしら、と言って足をとめた。立ち止まったのは、アーチを描く朱塗りの橋の上だった。下は聖域のように静かな池がひっそりと広がっており、その水の中で二匹の錦鯉が優雅に尻尾を振らして泳いでいる。
男は女が足をとめたのを確認して、懐からペットボトルを出し、口をつける。
女は橋の上からきょろきょろとあたりを見回していた。何かを探しているのか、妙に落ち着きがない。池を覗き込んでいる、というわけではなく、その視線は寧ろ宙を漂っている。女自体には興味のない男であったが、こうも理解不能な行動ばかりされるとどう扱っていいか迷う。女が橋の欄干から身を乗り出して落水しないことを祈りつつ、男はゆらゆらと尾を振る錦鯉を眺めていた。
「先ほど言ったことですが」
女が不意に口を開く。男は無言に徹する。
「おそらくあなたは今から信じられない光景を目にすることになると思います。しかし、それは紛れもない事実です。事実であるからこそ、あなたがそれを受け入れられなければ、私としてもあなたについていこうとは思えない」
何を言っているのかさっぱり理解できなかったが、別に理解しようとも思っていなかった。女は聞いているのかいないのかわからない男に向かってそのあとも少し喋っていたが、やはり雲を掴むような話で何を言っているのかわからない。その中でもかろうじて理解できたのは、今から女があることをする、それは常識を超えていて、それを受け入れなければ女は結婚を断固として拒否する、ということだけだった。
男は女が何を言いたいのか、選択権がないと言っているのにこれほどまでに自分に忠告し結婚を諦めさせようとするのはなぜなのか、わからなかったがとりあえず成行きに任せてみることにした。男は黙り、女の行動をぼんやり眺める。女は暫くじっと、何もない空間を見つめていた。空気でも捻じ曲げるのか、いや違う。池の向かい側にある木を、超能力で動かして見せるのか、いや違う。彼女が言ったことを男が理解したのは、女の前を、一匹のトンボが通り過ぎた時だった。その瞬間、女は人差し指をすっと目の前に持ち上げて、そのトンボを指に止まらせると--目にもとまらぬ速さで胸からピンと伸びた網のような翅を掴み、そのままトンボ身体を持ち上げて、口の中に放り込んだ。
男は目の前の光景をどう解釈していいのかわからず思考を停止させた。女はその間にも生きたままのトンボを歯で噛み砕き、あまつさえ咀嚼するような形で顎を滑らかに動かしている。口腔に入りきらずに唇からはみ出したトンボの翅が、その律動に合わせて彼女の鼻の前でわずかにぴくぴくと動いた。それは男に、以前どこかで見たトカゲがハエを捕食する光景を想起させた。あの時も、確か捕食動物は被捕食動物を音もなく食べていたものだ。今の彼女も、無言でトンボを噛んでいる。昆虫の足はいくつもあるが、そんなものの爪に刺されて、舌や歯茎は痛くはないのだろうか。
「驚いたでしょう」
やがてトンボの翅までも煎餅と同じようにパリパリと平らげた女が、男の方を見て言った。男はやはりどう返していいかわからず、また懐に忍ばせたペットボトルを取り出して、それを煽る。
「外国では虫を食べる文化もあると聞きますが、何でも食べる、というわけではありませんしね。私の場合でしたら、毒のある虫以外だったら何でも食べられますよ」
トンボだけではなく、アリとか、カマキリとか、蝶なんかでも問題ありません、結局は全部、動物性たんぱく質ですから。女は淡々とした調子で述べる。そのあとに、どうしてこんな身体になってしまったのかということを切々と語り始めたようだったが、男はそれを右から左に聞き流した。正直そんなことはどうでもよかった。
「……ですから、私とお見合いをしても、あなたが不幸になるだけだと思うのですよ」
女は話の最後にそう締めくくって、男をしかと見つめた。その態度には彼女なりの誠意と遠慮、そして多少の躊躇いが見て取れたが、すぐに視線の強さがそれらを全て覆い隠してしまった。
「親同士が決めたこととはいえ、いくらなんでもこんな女と縁組をさせるほど、あなたのご両親もモノグサではないでしょう。ましてや、あなたの家は大企業、こちらはその下請け。私の噂が流れたら、おそらくあなたの会社にとってはマイナスにしかなりません」
「一つ聞きたいんだが」
女が一方的にまくしたてるのを遮って、男は突然片手を胸の高さまで挙げる。
「結局、あんたは、どう思ってるんだ」
「どうって」
女は当然、というように声を少し荒げる。
「そんなの、結婚しない方がいいに決まってます。あなたにご迷惑です」
「だから、俺のことはいいから、あんた本人としては。このままその訳の分からない体質で他人と距離を取って、誰にも寄りかからず、一人で生きていければそれでいいのか」
それは、と女は口ごもった。何か言いかけたが、それはうまく言葉に乗らず、彼女はそのまま目を伏せ、何か思案し始めた。男はふむ、と鼻を鳴らしてまたあのペットボトルを取り出した。それから当たり前のようにそれにまた口をつける。
「あの」
しかし今度はそれを飲み下す前に、女に声をかけられた。中身と入れ替わりに空気がごぼごぼと音を立てるペットボトルを上向きにさせたまま、男は女に視線を向ける。
「話は変わりますが、その中身、何なのですか?」
男が話の合間に夢中で飲んでいるのを見て、さぞうまい物なのかと思ったが、ラベルがないので先ほどから気になっていたらしかった。男はああ、これ、とペットボトルから口を放して、言う。
「これはその、なんだ、あれだよ……洗剤、という奴だ」
それを聞くと、女は不意に目を丸くした。何を言っているのだ、こいつは、という視線が遠慮なく男の体を射抜いた。男はどう説明していいかわからず、とにかく無表情に徹することにした。
「あんたはさっき、毒虫以外なら食えると言ったが、俺も似たようなものだ。一応中性洗剤なら飲める。PHが極端に偏っているのは飲めんがな」
女の頭にクエッションマークが浮かんでいるのが手に取るようにわかった。虫が食えると宣言するのもさぞ勇気がいることだろうが、その勇気をこんな形で返されるとは思ってもみなかったのだろう。男もまさか、たまたま初めての見合いで顔を合わせた相手が、このような者だったとは思ってもみなかった。
「まあ、つまりそういうことだ」
男は自分でも何が言いたかったのかわからなかったが、そう言い置いて女の肩をポンと叩いた。呆気にとられた女は、男の言葉にすぐに反応出来なかったが、数秒するとはっと我に返った。女がその間、何を思ったのかは分からない。しかし、呆然とする女を放置し、来た道を引き返そうとした男の背中を、女は慌てて小走りに追いかけてきた。女の履いていた厚手の草履が歩く度にカラカラと音を立て、やがて、その足音が男に追いつく。二人はやはり暫くの間沈黙していたが、それは先ほどまでの無関心や気まずさとは少し違った空気を孕んでいるような気がした。隣で小さな歩幅で歩く女が男に肩越しに、声のトーンをやや高めにして、尋ねた。
「私たちみたいな人のこと、ことわざでなんて言うんでしたっけ」
「さあ、俺は教養がないのでよくわからんな」
それが大企業次期社長候補の言う言葉ですか、と言って、女はこの日初めて笑った。