お嬢様の晩餐
この話には百合成分が多少含まれています。ご注意ください。
日はとうに沈み妖怪たちが騒ぎ出す頃に、私の主人は目覚める。誰もが自分の家に戻り、出歩くものは人に在らざる者ばかり。
妖怪、人、神もろもろが入り混じる世界、幻想郷。その勢力図の一角を担う吸血鬼の根城、紅魔館。その最上階にお嬢様はいらっしゃる。
今日もまた、誰かが喰われるのだろうか。眼下に見える魔法の森には、儚げに飛ぶ闇夜の蛍よりちっぽけな灯が見える。
こんな夜に出歩く意義などあるのだろうか?視線を外して数秒もすれば、その灯も消えてしまうのだろう。
今は人の時間ではない。妖怪の時間。そして、私の主人の時間…。レミリア・スカーレットの時間なのだ。
紅魔館の4階、赤一色で染められたこの屋敷で最も装飾が施された、主の部屋にたどり着く。時間は8時ジャスト。今日も異常はない。
一呼吸入れると、金があしらわれたドアを軽く3回ノックした。
「お嬢様、お目覚めの時間です」
だが、返事はない。これもいつも通りだ。目覚めが悪い。ドアノブを握ると、音を立てないよう細心の注意を払い、ゆっくりとドアを開ける。
部屋の中央、紅のレースが吊ってある、大人3人は寝られそうなキングサイズのベッド。大きなベッドの半分も満たない小さな体が、安らかに眠っている。
「お嬢様、お目覚めください」
小さく肩を揺らし、耳元にささやく。大声で起こしてはならない。目覚める最低限の声でなくては、機嫌を損ねてしまう。
「お嬢様」
「ん…」
長いまつ毛がゆっくりと開き、赤い瞳が私の視線とぶつかる。
「…おはよう、咲夜」
「おはようございます、お嬢様。お食事になさいますか?」
「そうね…お願い。着替えたらすぐ向かうわ」
「かしこまりました」
一礼し、ゆっくりとドアを閉める。これからが忙しくなる。お嬢様には出来たての料理を運ばなくてはならない。
私だけの世界に入り込むと、一人食堂へと向かった。
「ご馳走様。美味しかったわ」
「ありがとうございます」
ひとしきり口をつけると、食事は終わった。他人が見れば何か患っているのか疑いたくなるだろう。出された料理は完食されることはない。
それだけ小食なのだ。それでもきちんとしたものを出すのが給仕の勤めであるのだ。残しても妖精たちで食べてしまうから問題はない。
料理が盛られた皿には半分以上の食物が残っていた。これでも多く食べたほうだ。
「今日はどうされますか?」
「そうね…」
唇に手を当て、一呼吸間を入れる。数秒して、唇からのぞく牙がちらりと見えた後、ほほ笑んで私に申しつけた。
「デザートを。私の部屋に」
「かしこまりました」
お嬢様が自室に戻って数分後を見計らい、私はやってきた。早すぎても遅すぎてもいけない。ほんの数分時を止め、懐中時計で頃合いを確認した。
誰も周りにいないことを確認すると、3回ノックする。
「失礼します」
「入りなさい」
ドアを開けると、ベッドの端に座るお嬢様と目が合った。ロウソクのみで照らされた薄暗い部屋に、怪しく真紅の瞳が輝いている。
私は何も言わず、鍵を閉めた。デザートの時間だ。胸の高鳴りを抑えつつ、お嬢様の左隣に腰かける。
「じゃあ、いただきます」
「…はい」
うなずいたことを確かめると、軽く右肩をつかまれた。それと同時に、お嬢様が私に寄り添ってくる。
そのまま肩ごと抱きしめられると、優しく押し倒された。急激に距離が狭まる。お顔が私の首筋に触れる。緊張と期待でもう動けない。
柔らかな髪が鎖骨をなぞると、むずがゆいような感覚を覚えた。何度やってもこの感覚には慣れそうもない。むしろ欲求が激しくなる。
こうなったのはいつからだろう?人間に敗れ、人間と共に闘い、人間と酒を分かち合いだしてから、お嬢様は極力人間を食べることを止めた。
食料として人間を見られなくなったのだろう。食事も人間と同じものにされた。
「私は全部食べられない。残してしまうから、殺すこともないでしょう。ほんの少々血をもらえれば、私は生きていけるから」
それがお嬢様の言葉だった。ただそれでも、血は欲しくなる。だから時々、私がその欲求を受け入れることとなった。
抱きしめたままじわじわと上に移動し、私の眼前に向かい合った。磨き上げられた真珠をラズベリーで染め上げたような瞳に吸い込まれそうになる。
視線を外すことはもうできない。主人だから、という為ではない。そばに寄せたいのだ。このまま誰にも触れられぬよう密着してしまいたくなる。
その瞳が閉じられると、くちゅり、と唇が震えた。物言わぬ合図。たった1秒程度のキスが交わされた。
愛情表現ではあるが、私の第一希望ではない。これ以上進むことはない。これは合図。血を吸うことに対する、主人からもらえる最大限の愛の証。
これから進むことは無いのだ。その口に私から触れることは許されない。これ以上奥に触れようとしてはならないのだ。
それが出来るのは、互いに恋い焦がれた者のみなのだ。私にそれは叶わない。母の中で性が決まった時点で、それはもう無いのだ。
それどころか、主人の運命の方を見ることもできやしない。お嬢様が私と同じ成人だったら、婚約者ができたら、この思いも消えたのだろうか?
短い口づけだが、永遠のように長かった。唇はさっきと同じ、唾液で濡れることなどない。触れたかどうかも怪しくなる。
頭の中で先ほどの出来事を思い返すと、体が一気に火照るのがわかった。この熱さを見越してか、お嬢様はまた首筋に顔を寄せる。
「…っ」
ティースプーンのように小さな舌が、優しく首筋を伝っていった。それだけでもう、体中の力が抜けてしまう。
これがお嬢様のやり方なのだ。小食のお嬢様は量が無いぶん質にこだわる。メインディッシュを飾る生き血ならなおさらだ。
だからじっくりと手間をかけて味わう。血は命そのものなのだ。肉体と精神の健康に左右される。
だから噛まれたときにストレスや恐怖があってはならない。口づけにはそれらを和らげる意味もあるのだ。筋肉が緊張すると、牙が刺さりにくくなる。
無理やり噛みつけば刺さるが、それだと恐怖で不味くなる。幻術や魔術で快楽を感じさせるのも趣向に合わないそうだ。これに関しては無理やりを嫌う。
すっかり筋肉が弛緩し、見てわかるほど血流が浮かぶと、ようやく食事が始まる。触れていた舌が離れると、いよいよその時が近づく。
「…んっ」
声を極力押し殺す。心配などかけたくはない。従者としての務めだ。歯を食いしばると首に力が入るから、目を閉じてこらえた。
少し太めの釣り針が二本、引っかかったような感じだ。痛くは無いが、噛まれる驚きにどうしても声が出そうになる。
それを感じたのだろうか、一層の優しさをかけてくれる。背に回した手が小さく動き、指の腹でさすられた。
私の体が全部お嬢様に包まれていく。大きく広がったコウモリの翼が、二人にかけられた黒いシルクのように覆っていく。
噛まれた驚きで緊張した筋肉が、だんだん緩んでいく。無意識に止めていた息が、穏やかに口から抜けていった。
刺さった牙はゆっくりと首をえぐり、血管にたどり着いた。長い晩餐のフィナーレが始まる。急には吸わず、ゆったりと召し上がっていく。
牙と同時に、唇が動く。噛まれるというより、ついばまれた感じだ。時折、舌がまた首筋に触れる。
こういっては何だが、このときばかりは主人なのに母性を抱いてしまう。母親になったらこんな気分なのだろうか?
私ももう、我慢の限界だ。自分から求めたくなる。肩ごと抱きしめられているが、肘から先は自由だ。両手で優しく、背中を抱きしめた。
幼い、華奢な背中が手のひらに吸いついた。お嬢様は拒まない。許された喜びに打ちふるえながら、触れ合える幸せを噛みしめていた。
数分して、牙が抜かれた。ぺろり、と舌で傷を舐められる。終わりの合図だ。このまま終世ずっとこうしていたい思いを振りほどき、手を離した。
首をもたげ、まだ放心状態の私と目が合う。思いが溢れて泣き出しそうな私に覆いかぶさり、互いの頬が触れ合った。
背に回された両手が、ゆっくり離れていく。気持ちとは裏腹に少し体を浮かした。
「…ありがとう。いつもありがとう」
鎖骨の上、噛まれた傷跡を指でなぞられた。私しか知らない、お嬢様のもう一つの顔。大きな、大きな優しさに身を預けた。
涙は一気に引いていった。夜の王など全く感じさせない、一人の少女の温かさが、乾いた心に行き渡った。
「…いえ。欲しくなったらまた申しつけてください。私はこの程度で倒れたりはしませんから」
荒い呼吸を整え、耳元にささやいた。与えられた温かさが、より温かみを帯びて声になった。
「…そう。でも今日は少し仕事を減らしなさい。多少手を抜いてもかまやしないわ。いい?」
「はい。ありがとうございます」
「…じゃあ、私ちょっと外に出るわ。風に当たりたいの」
「かしこまりました」
起き上がり、部屋から出ていく主人を寝そべったまま送りだした。無礼ではあるが、無理に立とうとすると心配をかける。
私もそんなに血が多いわけではない。立ちくらみなど起こしては、罪悪感を増してしまう。
血を吸った夜は、手を抜いていいことになっている。とはいえ、メイド長の私が手を抜いては示しがつかない。
だから手を抜かない代わりに、少しだけわがままをすることにした。ほんのちょっと、誰も知らないお楽しみ。
(咲夜の世界)
また、世界が私だけになる。一人きりの世界。誰も私を見ることはできない世界で、私はそのまま眠りについた。
お嬢様の晩餐、いかがでしたか?
自身初の百合系作品です。百合ってこんなんだっけ?西洋ではキスは挨拶…らしいからセーフなのでしょうか?
実は私、先日遊園地に行きまして、そこのアトラクションの一つに暗闇で立体音声を聞く部屋があったんです。
そこで流されたのが、吸血鬼が客の血を吸おうとする話でした。自分の首の近くに吸血鬼がいるようで少々怖かったです。
その体験から思いつきました。女性なので無理やり噛みついて吸うイメージは無く、優しくソフトに頂く想像を膨らませていったら百合になったんです。
書いた作者が一番びっくりしています。どうしてこうなった?
それでは、読了ありがとうございました。