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暁月夜に想ふ

 夜明け前に早馬がもたらした書状を丁寧に懐に忍ばせると、左軍将軍周永紅しゅうえいこうは束の間目を瞑り、ほろ苦い笑みを浮かべた。取り急ぎしたためられたのだろう。唯二行ばかりの文である。



         偉、身罷る。

         将軍の武運長久を祈る。



 久方ぶりに届いた便りは、突然の兄の訃報であった。まるで時期を図ったかのようなそれに、


「また先を越されてしまった」


 永紅は小さく呟くと、白みかけた明けの空を見上げた。

 暁月夜(あかときづくよ)

 明け方に残る月をそう呼ぶのだと教えてくれたのは兄だった。そういえば大層な博識であったと思い出す。ふと目を閉じて浮かぶのは、柔らかく微笑むひたすら優しい顔ばかりだ。

 武の家に生まれ、若い身空の、それも女だてらに左軍将軍にまで上り詰めた永紅は、この体の弱い虫も殺せぬと蔑まれていた兄と常に引き比べられて生きてきた。女の身ながら、全ての面で上回ると評された永紅が、自分を兄より上だと思ったことは実の所一度としてなかったのだが。


「最後の最後まで、兄上には敵わずじまいか」


―――先に行って待っているよ。


 穏やかな声が聞こえた気がした。永紅のやりたいようにやるといい。柔らかく背を押す兄の手を確かに感じて、永紅はもう一度苦く笑う。もう思い残す事は何もなかった。


「全く、一度くらい先に行かせていただきたかった……兄上」






  **********************






 戦況は悪化の一途を辿っていた。

 もとより国力の差は歴然であり、よくもここまで持ちこたえたものだと感心するほど兵力は大きく隔たっていたのだ。戦の行方はもはや素人目にも明らか。自国の敗戦はすでに決したと言っていい。民は疲弊し兵は倒れ、ここへきて国は雪崩をうって傾きつつあった。



 相手方から和議の使者が訪れたのは、昨夜遅くの事である。

 早朝、慌ただしく開かれた朝議の席で、王は声を荒げ怒りも露わにまなじりをつり上げた。以前は思慮深く聡明に見えたその相貌は、もはや別人のように面変わりしてまるで鬼の形相であった。


「大人しゅう聞いておれば其の方、余をどれほど愚弄すれば気が済むのだ!そのような愚かしい話、聞く耳持たぬわ!えい、忌々しい。今ここでその首切り落とし、其の方の主に送り届けてやろうか!」

「そう為さりたくば為さるがよろしかろう。しからばこの戦は止まず、王の臣民はより多くの辛酸を舐めることになりましょう。和議をお受けなされ、王よ。我が主は情け深い御方。王がその座を明け渡されれば、和平は成りまする。これ以上の争いは無駄にございます」


 まさに天晴れという他ない。永紅は凪いだ海のごとき無表情をわずかに崩して、目の前の年若い、だが恐ろしく肝の据わった敵国の使者をじっと見つめた。

 名を崔というこの男。恐らく生きて帰れるとは露とも思っていないだろう。負けの見えた戦の渦中にある敵陣に、単身乗り込んで和議を迫ろうというのだ。生半可の覚悟でできる道理がなかった。嬲り殺しにされて当り前の役割を受けとめた男の忠義と、それを任せた王の技量を見せつけられた気がして、永紅はなんともやる瀬ない心地になる。


「なかなかに良き面構えではないか。これではどちらが王だか分らんな」


 冷やかに呟けば、遥か頭上から永紅より更に輪をかけて冷淡な声が囁き返してくる。


「全くでございます。我が軍の命運も、もはやこれまでという事でございましょう」

「縁起でもない…と言いたい所だが、まあその通りだな、広達」


 これまたあっさりと答えれば、副官の劉広達(りゅうこうたつ)お得意の皮肉げな薄笑いが、同意する様に耳に響く。


「これが上に立つ者の格の違いというものでございましょうか」


 痛烈な物言いは、また限りない本音であった。広達を良く知らぬ者が聞けばなんと底意地の悪いと感じるだろうその声は、しかしその性分から何から知り尽くしている永紅には、ひたすら苦しい胸中を表わしているだけと分かる。その冷たく整った容姿と口利きから誤解される事の多いこの男が、実は誰よりも情け深く愛国の心に溢れていると知る者は少ない。


 和議を受け入れ、戦を収め、国を立て直す。


 広達の願いは、また永紅の願いでもある。そのためにも、この死をも厭わぬ勇敢な男を死なせるわけにはいかなかった。国の為とはいえ、主ではなく敵を助けなければならぬとはなんとも皮肉な事だと、永紅はそう呟きを洩らす。


「この場にて、この男の首を刎ねよ!」


 上ずった叫び声に答えて、ワラワラと集まった兵士が使者の男を取り囲み刀を振りかざしたその時である。


「主上」


 凛然たる声は、静かだが有無を言わせぬ力があった。音もなく進み寄り、そうと悟らせぬように使者を庇って前に出たのは永紅だった。チラリと視線を寄越せば、呆れた事にこの男、永紅を見つめ笑みまで浮かべている。崔は永紅の背にすいと顔を寄せると、


「これはありがたい。命拾い致しましたなぁ」


 心の内は知らず、だが表面はあくまで呑気なものであった。

 優男の外見に似合わぬ豪胆ぶりに、


「はて、それはまた何の事でございましょうや」


 永紅は空惚けると、ニヤリと笑ってその背を邪険に押しやった。


「何用だ、周将軍!余は今――」

「神聖な朝議の席が血で穢れては、主上のご武運にも触りましょう。主上御自ら命ぜられるまでもなき事。その者はこの私が処遇致しましょう」


 しんと静まり返った朝廷の、重臣と臣下の兵士たちの注目の中、永紅は広達に目配せするとすっと王の前に片膝をついた。


「広達、その者を外へ」

「承知」


 打てば響くとはこういう事を言うのだろう。

 即座に意を酌んだ広達は、自らの背に崔を匿うと、あれよと言う間に部屋の外に連れ去ってしまった。そのまま配下の兵に何事か耳打ちしているのを見れば、周到に逃がす算段を付けたとみて間違いなかった。

 永紅と広達。

 名実ともに国軍の要たる二人を、人は「左軍の双璧」と呼んだ。阿と言えば吽と答えるその連携。余人には手も口も差し挟む隙を与えぬ、まさに早技であった。

 永紅は満足げに微笑むと、ゆっくりと顔を上げ自らの主の顔をハタと見た。これは将軍といえども本来ならば決して許されぬ事である。だが、その威厳に満ちた眼差しに気圧されて、誰一人、当の王ですら咎め立てすることはない。


「左軍将軍、周永紅。恐れながら、主上に申し上げたき儀がございます。何とぞ御聞きとげ下さいますようお願い申し上げる」


 戦場と見紛うばかりの覇気であった。朝議の席に降り立った戦女神は、その凛々しい面をただ真っ直ぐに王に向け、おもむろに口を開いた。




「和議を受け入れ、戦を終わらせて頂きたい」


 淀みない声には僅かの躊躇いもない。ハッと息を飲む音がそこここから聞こえるが、さりとて声を上げる者は一人としていなかった。周囲の動揺を余所に、永紅は堂々と落ち着き払って更に続けた。


「それが国主たる者のとるべき道にございます」

「そなたは余に生き恥を晒せと申すか!」


 怒りに全身を震わせて、王はその両眼をカッと見開いて怒鳴り散らした。玉座を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がり、持っていた牙笏を振り上げて永紅の頬を、一度二度と強かに殴りつけた。その勘気凄まじく、衆目はだた沈黙するのみだ。

 しかし永紅は目を開けたまま顔も背けず、静かに王の怒りを受け流すと、


「左様にございます」


 きっぱりと言った。


「黙れ、周永紅!そなたッ!」

「いいえ、黙りません。もとより処分は覚悟の上。主に逆ろうた以上、職も命も捨てる所存にございますが、みすみす国の傾くを見過ごせば臣としての申し訳が立ちません」


 確固たる意志を宿した瞳は、まるで鋼のようだった。強く鋭いその色に、王は声もなくただ茫然と立ちすくむのみ。


「我らが将軍よ王よと言われ、絹の衣を纏い良き暮らしを営むは何の為と思われましょうや。国の大事の斯様な折に、詰め腹を切るが為ではございませんか。民草を助け、国を富ませるが故、我らはここにこうして居りまする。であればこそ、それが成らなんだ時、生き恥を晒し命でもって贖うが上に立つ者の務めにございましょう」

「ええい煩い!その様な世迷言、聞く耳持たぬわ!」

「どうあろうが聞いて頂かねばなりません。主上、どうかこれ以上の戦はお止めください。これよりの進軍は愚の骨頂。今すぐに兵を引き、和睦の道をお選び頂きたい。良く効く薬は苦いと申します。私の奏上を耳に痛いとお思いならば、何とぞその聡明なる眼を開かれて、寛大なる御心を下々に向けて下さいますよう、伏してお願い申し上げる」


 水を打ったような静けさの中、永紅は潔く両手をつき深々とその場に口頭した。




「この者を捕らえ、牢に入れよ!」


 王は叫んだ。駆け寄った兵に後ろ手を取られ、床に額を擦りつけた永紅は歯を食いしばった。王を諌め政を正すは臣の役目。それが果たせないことが、悔しくてならない。


「………永紅、余はまさかその方に裏切られるとは思うてもおらなんだぞ」


 ポツリ呟いた声は苦い。王と永紅は幼友達でもあった。故郷の街で、草原で、そしてお互いの屋敷で、王と永紅と兄の偉の三人は、心一つに国を支える誓いを交わしたものだった。あの日の願いはすでに遠く。失われて久しかったのだが。


「私は断じて主上を裏切ってなどおりません」


 ともあれ言葉はもはや空しいだけだった。しばしの間をおいて、どこか調子の外れたクスクス笑いがうつ伏せた永紅の頭上から聞こえてきた。


「くくくくっ、裏切ってはおらぬと申すか。………ならばその証を見せよ。さすれば、そなたの望み、一つくらいは叶えてやらぬでもないぞ。そなたが真実余の臣であると言うなら、その証に余の靴を舐めよ。臣は狗じゃ。そなたが狗ならそれ位簡単であろう。さあ、周将軍、余の靴を舐めよ!」


 楽しげに笑いながら、王は狂った瞳で永紅を見た。一国の将軍に、這いつくばって犬の真似事をせよと、そうして惨めに命乞いをせよと。そう言っているのだ。

 

 ―――分かっては頂けないのか。

 

 絶望感がじわじわと永紅の内側を犯す。

 永紅はゆるり身を起こすと、一瞬だけ周囲を見回した。顔を背ける者、嘲笑する者、呆然とする者。その中でただ一人、永紅の顔を真っ直ぐに見据える者がいた。入口近くの壁際に立つ、抜きんでて長身の男。

 広達である。

 普段のあの氷のような無表情をかなぐり捨てて、真っ青な顔で唇を噛んでいる。永紅は広達に何も言わなかった。それでも何かしら察していたようだが、まさか朝議の席で王に直訴するとまでは思っていなかったのだろう。


 ―――広達を道連れにせずにすんだのが、せめてもという所だな。


 今となってはそれだけが救いだ。

 永紅は王の足元に膝をつくと、躊躇うことなく平然とその靴を舐めた。一心に舐め上げて顔を上げ、息を飲む王の顔を一瞥して再び深く叩頭した。


「主上の御厚情に御縋りし、今一度御願い申し上げる。民草の困窮を御汲み取り頂き、何卒一人でも多く、この国の民を救って頂きたい」


 どうか、と一言。淡々と言い切った永紅を呆然と見下ろす王の、その血走った眼に瞬時殺意にも似た暗い光が宿る。


「永紅、この期に及んでまだその様な戯言を申すか!」


 王はブルブルと拳を震わせて永紅を睨みつけた。


「余を愚弄しおって!」

「愚弄などしておりません。これは、臣としての務めにございます」


 がっちりと交錯した視線を逸らしたのは―――王。


「……この様なことをして、そなた一人の命で済むと思うたか。偉とて道連れぞ」


 それは泣き笑いのような顔で。それをどこか痛ましげに見上げて、永紅は溜息をつくと、ふっと目元を緩ませた。


「兄は……周偉は亡くなりました。昨夜の事でございます」


 静かに告げた。王が愕然と目を見張る。よろりよろけてそのまま玉座にへたり込んだ。


「……そうか、あやつ死んだか。……そういえば、あれは昔から周到な男であったよ。そなたの枷になる前に逝くとは………誠に偉らしい」


 ほんの一瞬ではあったが、昔に帰ったような懐かしい眼差しを永紅に向けると、王はくっと喉の奥で苦く笑った。覇気の失せたそれに、永紅が切なげに眉を寄せる。


「主上――」

「無駄だ、永紅。もはや後戻りなど叶わぬ。諦めよ」


 王はそう呟くと、気だるげに肘掛に肘をついた。永紅に向けられた視線は空虚で、悲しいほどに力ない。


「余の最後の命だ。周将軍、愛しい兄の元に行くがよい」

「……御意」


 もはや言うべき言葉はなかった。

 いったん狂った歯車は、もう止めようのない歪みを抱えてただひたすらに回り続ける他はない。





   *************





 薄暗い地下牢は、じめじめとして微かに血の匂いがした。

 光の射さぬ牢獄に好んで近づく者はなく、もはやどれ程の時が経ったやら判然としなくなった頃のことである。

 両手両足に鉄の枷をはめられた永紅は、両目を閉じ剥きだしの地面に一人端然と坐していた。何かの気配にふと顔を上げれば、遠くからコツコツと規則正しい靴音が聞こえる。永紅は目を開けると、その顔に薄らと笑みを浮かべた。

 注意深く聞かなければ分からないほどの、だが聞き慣れたその癖のある靴音は。


「お前か、広達」


 慣れた気配に目を細めると、鉄格子の先から馴染みの仏頂面が近づいて来るのが見えた。


「何ぞ気に食わない事でもあったのか。顔が怖いぞ」

「そういう貴方は何を笑っておられるのです、永紅様」


 広達は不機嫌もあらわに、己の上官を睨みつけた。


「私が気に食わぬのは貴方です。永紅様、貴方は何故、副官たる私に何の説明もなくこの様な羽目に陥っておいでなのですか。独断専行は許さぬが口癖の鬼の周将軍とも思えぬ為さり様。一言仰っていただければこの劉広達、地獄なりと喜んで御一緒致しましたものを。双璧とまで言われた私を蚊帳の外に追いやって唯御一人でとは、あんまりではありませんか。情けのうございます」

「まあそう言うな、広達。仕方あるまい。臣として道理を尽くせばこうなるは必定。唯でさえ、わが軍は人材不足の折なのだぞ。むざむざ有能な部下を道連れにしてどうする。責めを負うは私一人あれば事足りるのだ。お前まで死ぬ事はない」


 いささかの後悔もなくそう言い切ると、永紅は穏やかに微笑んでその揺るぎない眼差しを広達に向けた。広達は珍しくすっと目を逸らすと、


「……全く、貴方という方は……」


 そう呟いて深い溜息をつく。

 よくよく見れば広達の端正な面は、苦悩の色に染まっていた。震える指先で額を押さえるその様は、正しく悲嘆にくれる人のそれで。


「すまん」


 永紅はそれだけ言うと、しばし瞠目した。明日をも知れぬ戦場で、それこそ幾度となく背中を合わせて戦ったのだ。広達の心が分からぬ永紅ではない。

 だが――。

 広達はどんな危機的状況に晒されようと、常に飄々として毛ほども動じない機械のように冷静な男。劉広達とは、本来そういう人間だったはずだ。

 雨あられと降りしきる矢、四方から向けられる刃の前にあってさえ微塵も動揺しなかった男が、今感情を押し殺すことも忘れて懊悩している。

 言葉もなく、永紅はただ目の前の血の気の失せた顔を見つめた。

 ヒタリヒタリとどこかで水の音がする。


 ―――嗚呼。


 前触れもなく、永紅の胸に不意に去来するものがあった。多くを手にしながら、ついに本当に欲しい物は得られないと悟った己が、最後の最後で手にしたもの。


 ―――私はこの男のこういう顔が見たかったのかもしれない。


 じっと枷の嵌った両手を見つめる。

 身の内から迫り上がる思いの全てを、永紅はただ黙って押し殺した。






 カチリと音をたてて、足枷が外された。

 永紅の足元に跪く広達は、しかしいつまでたっても立ち上がろうとはしない。


「広達?」


 どうしたのかと問いかければ、夢から覚めたようにビクリと広い肩が揺れる。


「いいえ。……なんでもございません」


 そう言って顔を上げると、広達は立ち上がりそのまま手枷も外そうとする。永紅は苦笑してその手を避けると、


「これは外さずにおけ。刑場に引き出された罪人が、何の拘束もされておらぬでは格好がつくまい」


 差し出された手をやんわりと押し戻しながら言った。


「貴方は罪人などではない」


 きつく睨まれ、だが永紅はゆるゆると首を振った。


「愚かな事を。私は将軍職にありながら主上に逆らったのだ。立派な逆臣で罪人だろう」

「貴方が逆臣なら、あの場にいた腑抜け共が忠臣だとでも?貴方ほど国を思い主を思う臣はいないでしょう!」

「どう言い繕おうが逆臣は逆臣。何であろうが事実は変わらん。いいか、広達。我らにとり、主に逆らうは万死に値する重罪だ。私心に駆られて理を曲げてはならん。お前もこの国の臣であるならば、罪人は罪人らしく扱うことだ。これ以上の情けは無用。枷は外さず、このまま刑場に引きずって行け」

「お断り申し上げる」

「広達!」


 カッとして詰め寄れば、ゾッとするほど冷たい瞳が睨みかえしてきた。広達は冷やかな眼差しを永紅に向けると、傲然と言った。


「貴方はもはや将軍でも上官でもない。私が貴方に従う義務はない。それに――」


 そこで広達は一旦口を閉ざすと、その形良い唇をくっと歪めた。なまじ整っているだけに、その微笑みは残酷で容赦ない。初めて向けられたあからさまな冷笑に、永紅が驚いて目を見張った。


「貴方が行くのは刑場ではない。刑はすでに滞りなく成され、上に楯ついた逆臣はもうおりません。分かりますか?周永紅という将軍は死んだのです。今の貴方は生きた幻。名もないただの流民にすぎない」

「私が死んだだと?それに名もない流民とはどういう意味だ。広達、お前一体なにをした!」


 薄らと冷たい汗が背を伝う。

 広達の言葉に嘘は感じられない。理屈では無く本能で理解して、永紅は声を荒げた。広達はそれには答えず、じっと何かに耐えるように目を伏せると、おもむろに懐から何かを取り出して口に含んだ。


「答えろ!広達」

「嫌でございます!」


 火を噴く様な拒絶と共に、永紅は手枷ごと両手を頭上に縫い止められた。そのまま勢いよく鉄格子に体を押し付けられ、鼻が触れ合うほど近くで睨みつけられる。

 永紅と広達の剣の腕はほぼ互角。だが、武器もなく長時間拘束され手枷を嵌められた今の永紅に、抗う術はない。


「広達!貴様、何をっ」

「……永紅様」


 それは、生まれて初めて見せる、この男の本気の胸の内であったのだろうか。

 その瞳のその熱さ。全てを溶かす焔にも似た。永久に解けぬ万年雪のような眼差しの奥に隠した荒れ狂う感情の奔流に、永紅は束の間言葉を無くす。微かに震える唇が近づいて来るのを、永紅は魅入られたようにただ茫然と見つめた。


 ヒヤリと冷たい感触は一瞬で、後はひたすらに熱かった。


「こう……たっ」


 永紅の目が大きく見開かれた次の瞬間、口付けはゆっくりと落ちてきた。






 それはさながら戦のようであった。

 穏やかさとは無縁の茫然とするほど激しいそれ。痛みさえ覚える口付けは、与えるのではなく根こそぎ奪うものだった。甘さなど欠片もない。炎の苛烈さで睨む永紅と、それを上回る熱で貪る広達と。


「ん……っあ……」


 舐る舌で強引に押し込まれた何かを訳も分からず呑み込んで、永紅が呻く。それは小さな丸薬のような物で喉の奥でトロリと溶けた。先ほど広達が口にした物を口移しに飲まされたのだと悟った永紅が、一際激しく抵抗する。

 それを易々と封じて、広達が更に深く唇を合わせた。息もつげず、湧き上がる熱に翻弄される永紅の体が、不意にクラリと左右に揺れた。広達の目が、途端に獣じみた色をなす。


「……こう……た……つ」


 薄れゆく意識に残るものは、この男にまるで似つかわしくない泣き出しそうな表情と、頼りなく掠れた囁き声。


「……愛しています。永紅様、貴方だけを」


 ―――いい年をした男が何を泣くか。


 馬鹿者と、呂律の回らぬ舌で呟けば、暑苦しいほど強く抱きしめられて永紅は苦笑するほかない。

 そして、そのまま何も分からなくなった。





 ぐったりと力の抜けた体を掻き抱き、広達は永紅の肩口に顔を埋めた。言うつもりなど毛頭なかった台詞を衝動に任せて口にしてしまったのは、腕の中の愛しい人がどんな時でも決して「らしさ」を見失わないと分かったからだった。


 ―――愛しています。


 墓場まで持っていくつもりの言葉だったのだが。

 広達は意識のない永紅の顔を見つめながら、深い吐息を漏らした。女としては大柄の体は、よく鍛え上げられて女性らしい柔らかさとは無縁である。日に焼けた肌に吊り目がちの瞳。すっと通った鼻梁の下の大きめの口からは、微かに白い歯列が覗く。

 永紅より美しい女なら星の数ほどいるだろう。

 だが、どれ程の美姫であろうとも、この戦女神の隣に立てば、たちまち翳んで色褪せるにちがいない。その強い眼光と明るい陽光に似た笑顔を見る為だけに、一体どれだけの兵が命を賭けてきたことか。

 何の後ろ盾もない平民出の、金も伝手も持たない広達は、これまでずっと士族や金持ち連中の下で好いように利用されてきた。軍の中でもそれは変わらず、軍功は全て上官に掠め取られて広達はずっと辛酸を舐めてきた。

 世を拗ね、嫉み、妬み。いつしか世間を斜めに見ることしかできない、偏屈な人間になり下がっていた広達を拾い上げてくれたのが永紅で。

 命尽きるその瞬間まで傍らにいたい。

 望みといえば、ただそれ一つきりだったのだが。


「それももはや叶わぬ夢」


 だが、代わりにこうしてこの人を腕に抱けるのなら、それもまた良しとするべきなのだろう。

 永紅が投獄されてからの広達の動きは迅速だった。あらゆる手段を用い、永紅と似た死体を調達。関係する官吏や武官を金で抱き込んで刑の執行を巧妙に捏造した。今は戦時下の混乱期。この程度の工作は、だから広達には造作もなかった。遺体はすでに荼毘に付され、故郷に向け旅立っているはずだ。

 この国で周永紅の名は大きい。永紅が王に諫言し処刑された事は、もうすでに人民の間に広まっていることだろう。


「……永紅様」


 だから一刻も早く、この国から出さないといけないのに。

 広達はもう一度溜息をつくと、永紅の頬に手を当てた。目じりから頬、鼻を撫でて唇に触れる。この唇に口付けた時、永紅は目を閉じるどころか逸らしもしなかった。あの時のあの眼差しは、ただ一人広達だけのものだった。峻烈に過ぎるその視線が、どれ程己を煽り立てるのか、この人は気づきもしなかったのだが。

 離したくない。いっそこのまま攫って逃げてしまおうか。


「なんと愚かな」


 くっくっと喉の奥からこみ上げる自嘲の笑みをそのままに、広達は掌で顔を覆った。許されるはずはなく、もはやこの人の傍に己の居場所はないというのに。


「目覚めたら、貴方はきっと酷く憤慨なさるだろう」


 この人にはそうする権利があるのだ。広達のした事は、永紅からその名を奪い、矜持を土足で踏みにじる行為に等しい。有体に言って、手ひどい裏切り以外の何ものでもないのだ。この誇り高い人は、おそらく死ぬまで広達を許さないだろう。


「どうか私をお恨み下さい。ですが、例え貴方になんと罵られようと」


 広達は低く呟く。止める気など全くない。永紅を死なせるくらいなら、この世が滅びた方がましだ。たとえどれほど憎まれても、そしてこれから生きていく全ての喜びを失うことになったとしても。


「貴方に生きていて欲しいのです。太陽を失って、どうして月が残れましょう」


 明け方に残る月。それを暁月夜というのだと永紅は言った。いつまでも陽光に寄り添おうとする白い月は、まるで自分のようだと広達は思う。まるで縋りつくように、ぐずぐずと最後まで傍に居座ろうとする、霞のような月。


 ――どうかお元気で。貴方がどこかで生きている。ただそれだけが望みなのです。


 広達は懐から小刀を取り出すと、永紅の艶やかな黒髪を一房切り取った。丁寧に懐紙に包み懐に戻す。そうして、宝物を抱くが如く恭しさでもって永紅を横抱きにすると、ゆっくりと地下牢を後にした。





  **********





「御目覚めですか、将軍」


 どこかで聞いた声に目を開ければ、にこやかに微笑む穏やかな顔が目の前にあった。


「貴公は……確か、崔殿」

「はい、私は崔玄選。円国の使者にございます、周将軍」


 男は件の使者であった。よく見れば、永紅は崔と共に馬車に揺られている最中なのだ。幌の隙間から周囲に目をやると、ここは緑深き森の中。遠くに聞こえるのは、あれは川の流れる音であろうか。永紅は僅かに眉を寄せ、一つ溜息を落とした。


「使者殿は、どうやら無事に国境を越えられたようですね」

「ほう、これはこれは。…驚かれませんか」


 崔はそう言って、わずかばかり残念そうな顔をした。


「無論、驚いておりますが。崔殿は私に驚いてほしかったのですか」


 逆に問えば、崔は笑って、はいと答えた。


「この状況でその様に泰然とされては、逆にこちらが驚いてしまいます。それでは少々癪ではありませんか」

「別に泰然としてなどおりません。腹は煮えるし戸惑ってもいる。ただ」

「ただ、何でしょう」


 興味津津という顔で聞かれて、永紅は苦笑すると、


「ただ、私は劉広達という男の性格をよく理解しているだけなのですよ。崔殿がアレとどのような密約を交わしたかは是非とも伺いたい所ですが、今更じたばたしても遅うございましょう」


 アレは周到で抜かりない男なのですと顔をしかめる。崔はなんとも楽しげに口元を綻ばすと、大きく頷いた。


「流石は、左軍の双璧。成程、全てお見通しということですか。莱国の戦女神の評判は伊達ではなかったようだ。これは御見それ致しました」

「……崔殿も大概お人が悪い。その様な名で呼ばれた女などもうどこにもいないというのに。今の私はただの流民。何しろ名すらないのですから」


 大して気に病む風もなく言えば、崔は大きく笑って、


「では、その名もなき御方に申し上げたき事がございます」


 言いながら居住まいを正した。永紅は目を細めると、やはりこちらも身を正し唇を引き結ぶ。


「何なりと」

「これから世界は大きく変わりましょう。群雄割拠して国の形も移ろい変わる。東の至宝と謳われた莱はじき滅します。西の雄たる我が円も、また安穏と胡坐をかいては居られぬ定め。北の朔、南の浪、そして遠く山脈を越えた先の草原の民、沿海地方の国々。脅威などそれこそいくらでもある。今すぐに、とは流石の私も申しません。が、もし貴方にその意志あらば」


 そこまで一気に言うと、崔は脇に置いた袋から何かを取り出した。そうして、すっと差し出したのは見事な細工の一振りの太刀。スラリ鞘から抜けば、輝く刀身が鏡のように光を弾く。


「これを携えて円に来て頂きたいのです。これなるは我が崔家に伝わる宝刀、天光。貴方様に差し上げる故、好きにお使い頂いて結構」

「これはまた見事な。……ですが、私は敵国の将であった身。これを使って円に仇なすやもしれず。更には、このまま持ち逃げするかもしれません。それでも良いのですか」


 問いかける永紅の目がギラリと光る。しかし、崔は一瞬身を引きはしたもののニッコリと微笑んで刀を鞘に戻し、永紅の前に置いた。


「差し上げたのですから、どうなさろうと貴方の勝手。売ろうが捨てようが、よしんば円に攻め入ろうが好きになされば良い」

 







 走り去る馬車を眺めながら、永紅はしばし考えの淵に沈みこんだ。腰に佩いたのは、崔から貰った太刀。天光である。

 崔は永紅が望んだ通り、途中の宿場町で馬車を止めてくれた。円に行くとの確約どころか口約束すら求めず、別れも実にあっさりとしたものだった。永紅にごり押ししても無駄な事を、よくよく理解しているとみえる。誠に食えない男である。


「さて、これからどうしたものか」


 呟いて暁の空を見上げれば、月が見える。自分を追い出した馬鹿な男の横顔が不意に脳裏を掠めて、永紅は眉根を寄せた。


「分かっているのか、広達。私は怒っているんだぞ」


 怒りにまかせて文句を言えば、申し訳なさそうに月は薄雲に隠れてしまう。多少溜飲を下げて歩き始めると、いつしか月は永紅の後について共に進む。


「私の隣はお前の指定席だと、一体何度言えば分かるのだろうな」


 戦場だろうが王城だろうが、こんな名も知れぬ宿場の片隅であろうが。死ぬまでは傍に居ろと、離れるなと確かにそう命じたはずなのにあの男。

 自分自身が、さっさと広達を置いて死出の旅路につこうとした事など綺麗に忘れて、永紅は盛大に憤りながら大股で歩く。


 あの馬鹿な男は誤解している。


 永紅は名など惜しんだ事はない。周の名も、将軍の名も、永紅にとっては勝手にくっ付いてきた、言わばおまけの様な物に過ぎない。第一、幼いころから、家よ国よと大騒ぎする者共に囲まれて、挙句肝心な人の暮らしをなおざりにする愚かさを身に沁みて知っているのだ。

 永紅は貴族だろうが流民だろうが、どっちでも頓着しない。永紅が身を捨てて国を守ろうとしたのも、民の暮らしを思ったからで、莱の名を守ろうとしたわけではないのだ。莱が円に変わって民の暮らしが立ち行くならば、それもまた良しというのがこの周永紅という女なのである。王に詰め腹を切れと迫ったのも、つまりは同じ理由からであった。


 ―――兄上は、本当によく分かっておられたが。


 あの誰よりも聡い兄が、最後の最後まで本家に留まっていたのは家が欲しかったからではない。永紅がいつ名を捨て国を捨てても良いようにという、最大限の配慮だったのだ。


「さて、どうしてくれようか」


 まずは新しき名を決め、たつきを立てる必要がある。うかうかと莱に戻る事は叶うまいが、なにそれにしても方法などいくらでもあるのだ。

 永紅はニヤリと笑って拳を握りしめた。次に会ったら、取りあえずあのお綺麗な顔を思い切り殴ってやろう。

 永紅はそう決めて月を睨んだ。


 時は春。莱が円に併合される、丁度一月前のことである。






このお話は、続編及び番外編がございます。

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縁起屋

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