邂逅
秋のあさがおはマヌケにみえてしまう。いくらきれいな青を、ほこらしげにまとっていても、いまが夏じゃないというだけで、太陽の光がきびしくないというだけで、ひどく場違いで、滑稽ですらある。そろそろ衣替えでもとポケットをあらためていた。夏らしいからと思って買った白いジーンズ。何も入っていないだろうと手をつっこんでみると小さな感触が。じゃらっと、あさがおの種。さかりをとっくにすぎてしまったあさがおの花は、この時期にはひどく不釣り合いなのに、種のほうは、いくらか気持ちをゆさぶってくる。
すこしの喪失感みたいなものもあるように思う。それがいつもどおりな気もする。そんな思考になることだって、やっぱりいつもどおり。夏の暑い日には、日に二回はしていた庭の水やりも一日一度で十分になってきた。それだって、昨日まで降り続いた雨で楽はできていた。久しく感じられる植物たちは、錯覚ではなく確かな成長の証をみせてくれる。それは、ひどかった暑さからの解放であり、つかみ取った心地よさであり、来たるべき冬に向けて力を蓄えているのでもあって。
雪虫が飛んで、季節は確実に移ったのだと知らせてくれる。汗で紙にしみができるのを嫌い、夏は本から遠ざかっていた。雪虫は季節の変化と同時に、そろそろ読んだらいいんじゃないの、そのことも伝えてくれる。けれど、いったん離れていた気持ちはなかなかにもどっていかない。本は買うくせに、棚に飾るだけで読むことを積極的にしない。気が向けばするのだろうけど、その気持ちがやって来るのはいつのことやら。人は、本を買うと本を読まなくなってしまう生きものなのかな。積読だなんて、都合のいい言葉。本が好きなだけで読むのは好きではないのかもしれない。本は好きなのに、本屋のことはたいして好きではないわたしのこと、そういったことだってあるのかも。
昨日、買ってきたビスケットは、すこしばかり割れていた。それがいまの季節にも、わたしの心象にも、しっくりくるほど似合っている。秋はどうにも感傷的だ。来ることは来る、けれど、それがいつになるのかわからない事柄にだって、いちいち心の波はゆらゆら動く。つかれるけれど、わたしとはそういうものだ、との納得は、いまにはじまったことではない。
あさがおの種は、半分、庭にまいた。まいたことを忘れ、来年、あらぬところから芽を出してくるのだ。それがいささか迷惑な、けれど、予期せぬ出会いとは、得てしてそういったものなのかもしれない。




