無能と婚約破棄された地味令嬢はチェンバロを弾くことしかできない
「エリーゼ・アシュレイ。私はお前との婚約を破棄する」
華やかな夜会の中央、婚約者である王太子エドガー殿下の冷ややかな声が響き渡った。
突然の言葉に心臓が張り裂けんばかりに傷んだ。
彼の隣には、砂糖菓子のように可憐な令嬢が寄り添っている。ラベンダー色の髪と涼しげな水色の瞳を持つ彼女は、水に溶けてしまいそうなほど繊細で美しかった。
「なぜ……私が何かしましたか?」
「何かしたか、だと……」
地獄の底から湧き立つような低い声音に、私は思わず肩をすくませる。
「白々しい! 恥を知れ!」
激昂した殿下は右手を振りかぶる。
その指先は私の肩に当たった。
「……きゃっ」
衝撃に耐えられず、私は無様に磨かれた床に倒れる。
近くに寄るものはいない。
「理由はただひとつ。お前が王太子妃に相応しくない、無価値な女だからだ」
……そんな。
鏡のように磨かれた床に映った自分の惨めな姿がどんどん滲んでいく。
十二歳で王太子妃候補として選ばれて、十年。
王太子妃になることを信じて疑わず、彼だけを支えてきたと思っていたのに。
そう思っていたのは、私だけだったというの。
「器量もない上に、愛想もない、地味で面白みもない。魔力もない。加えて嫉妬深く、彼女——アイリスを虐めたと聞く」
誰に聞いたのかは、想像がついた。
アイリスというこの令嬢とは、初めてお会いしたというのに?
「アイリスは違う。彼女はお前のように家柄だけの女ではない。彼女は私がレッドドラゴンの討伐に出た際の魔道士だ」
魔力のない私よりも、彼女の方がパートナーに相応しいのですね。
「私は、真実の愛を選ぶ」
そこまで言われてしまっては、引き下がるしかなかった。
私が行っていたことなど、他の誰かがいくらでも出来ることなのだ。
「かしこまりました」
私は静かに立ち上がると、ドレスを摘んで淑女の礼を送った。
エドガーを横切る瞬間。
「……泣いて縋ると思っていたのに」
彼の低い声が落ちた。
ガタガタと揺れる馬車の中で、私は冷えた自分の手を見つめていた。
王家のために全てを犠牲にしてきた。王室の品格を重んじる彼に合わせ、髪を地味に結い、地味な色のドレスを着て、娯楽を捨て、政務の補佐に没頭した。
彼に願わくば愛されたかった。叶わないならせめて、パートナーとして努力を認めてほしかった。
「でも私……あの方のことを愛していたのかしら」
疑問に思うことすら憚れたので、考えたこともなかったが、愛されたいと願った割に、彼に対する執着が自分の中にないことに気づいてしまった。
そんな恐ろしいことに慄いていると、ふとドレスの色が気になった。
王家の気品がどうのこうのと言われて着せられた、グレーのようなベージュのような色。
まだ淡い色なら救いようもあったかもしれないが、妙に濃いのが絶妙に野暮ったい。
大きなフリルは全く流行から外れているが、これが伝統の形なのだと言われて我慢してきた。
本当は、薄くて綺麗な色が好きなのに。
特に、自分の瞳の色に合わせて、薄い黄緑のドレスを着るのが好きだった。
「私、あの人のために……好きなことを諦めていたんだ」
そう独り言をこぼした瞬間に。
がたん、と馬車が大きく揺れた。
「なっ……!?」
次の激しい衝撃が走った。
雨でぬかるんだ崖道。馬車が傾き、浮遊感が全身を包む。
視界が回転し、私の意識は暗転した。
暗闇の中で、音が聴こえていた。
遠くで重なり合う、美しく透き通った声——聖歌隊の歌う讃美歌だ。
(ああ、ついに召されたのだわ……)
遠のく意識のなかで、記憶が遡っていく。
五歳の頃。初めて聴いた讃美歌の旋律に心を奪われ、一音も違わずに楽譜に起こし、夢中でチェンバロを叩いた。あの胸の高鳴り。世界が色彩を帯びて輝いた瞬間。
——同時に初めて殿下にチェンバロの演奏を聴かせた日の記憶が、黒い影となって蘇る。
『音楽など無駄の極みだ。今すぐやめろ。二度とそんなものを聴かせるな』
吐き捨てられた冷ややかな言葉。
あの日から私は鍵盤を閉じ、自分の一番大切なものを封印した。彼に認められたくて、愛されたくて、自分を殺し続けた十年間。
なのに、最後は床に倒され、無価値だと捨てられた。
悔しい。
闇の中で涙が零れ落ちる。こんなところで、自分を偽ったまま死ぬなんて、絶対に嫌だ。
「私が、やりたかったことってなんだったっけ……」
ぽつりと呟くと、私の意識は急に現実に戻った。
雨の降りしきる、森の中だった。
馬車の窓から投げ出された私は、草むらで寝っ転がっていた。
ゆっくりと上体を起こしてみるも、痛みも何もない。
思わず天を見上げる。
あんな高さから落ちたというのに、無傷だなんて。
視線を下ろすと、無惨にひしゃげた馬車があった。
御者は——生きていないだろう。
瞼を閉じて、私は静かに神に祈りを捧げた。
また、あの讃美歌が脳裏に甦る。
思わずその旋律を歌い出していた。
「そう、私は……ずっと音楽をやりたかったの」
声に出した瞬間、覚悟は決まった。
私は足元に落ちていた馬車の破片で、長かった髪をバッサリと切り落とした。そして、身に付けていた家紋入りのペンダントとともに、激流と化した近くの川へ投げ入れる。
「さようなら、アシュレイ公爵令嬢……エリーゼ」
私は地味な色のドレスの裾を破って動きやすい姿になると、一度も振り返らずに森の奥へ歩き出した。
◇◇◇
エリーゼ・アシュレイの死亡の報告が王宮に届いたのは、婚約破棄を言い渡されてから五日後だった。
川から発見されたのは、切り刻まれた衣服の破片とアシュレイ家の家紋の入ったペンダントのみ。
彼女が王宮から消えて、三週間が経った頃には……エドガーの手は回らなくなっていた。
「……次の予定は?」
「午前十時より、外交局との会議。十一時から財務卿との面談。正午に昼食会。その後、軍務卿との――」
「待て」
黙って耳を傾けていたエドガーは顔を上げた。
「午前の会議は騎士団の訓練だ」
「いえ、以前から外交閣僚会議が」
「……そうか」
胸の奥が、妙にざわついた。
「では、今日の会議については?」
「資料が届いております。ただ……」
「ただ?」
「殿下がお目通しになるべき箇所が、どこなのか分かりません」
エドガーは眉を寄せた。
「全部読めばいいだろう」
「三百二十七ページございます」
「……」
エリーゼなら。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
彼女なら、この三百二十七ページを全部読んだ上で、重要な箇所だけを抜き出していただろう。
いやおそらく、その前に外交局へ確認を入れている。
何を聞けばいいのか。
どこが問題になるのか。
どの数字に矛盾があるのか。
自分が考える前に、彼女はすでに考えていた。
「……次」
「はい。十一時から財務卿との面談です」
「何の件だ?」
「王都の穀物税についてです」
「資料は?」
「こちらに」
差し出された書類に目を通す。
「この数字はおかしい。なぜ直していない?」
「エリーゼ嬢が亡くなられてから、財務局との確認が取れておりません」
「……」
まただ。
エリーゼなら。
そう思った瞬間、苛立ちが込み上げた。
「お前たちは一体、何をしていたんだ」
侍従は答えなかった。
答えられないのだろう。
エドガーは書類を閉じた。
「昼食会は?」
「先方から、予定を変更したいとの申し入れが」
「なぜ私に伝わっていない」
「……昨日、王宮へ届いております」
「昨日?」
「はい」
「誰も私に報告していないのか」
侍従が目を伏せる。
「これまでは、エリーゼ嬢が必要なものだけをまとめて報告しておりましたので」
必要なものだけ。
つまり。
自分が知らなかったことの大半は、知らなくてもよかったのではない。
エリーゼが、知らなくても済むようにしていた。
初めて、その事実に気づいた。
「……エリーゼの代わりをアイリスにやらせろと言ったはずだ」
侍従は答えに迷ったあと、静かに口を開いた。
「お言葉ですが……アイリス様は、魔導士としては優秀なものの、貴族社会の社交や複雑な書類仕事などは……」
難しいかと。
彼の苦々しい顔にはそう書かれている。
「……アイリス様はお試しで執務室に入られた際、『こんな暗い部屋で細かい数字ばかり見ていると、私の繊細な肌が荒れてしまいますわ』とお泣きになり、それ以来いらしておりません」
「なっ……」
「さらに、先日の他国大使との茶会でも、相手国の礼法を『古臭くて退屈』だと一蹴され、大使をお怒りにさせてしまいました。現在、アイリス様はドレスの仕立てでサロンに入り浸っておられます」
彼女は、王太子妃としての責務など何ひとつ果たす気がないということか。
エリーゼなら、王室の品格を守ってサロンなどに行ったりしなかったのに。
「……あの女は、エリーゼは何をどこまでやっていたんだ」
執務室の机を叩きながら尋ねると、従者はすっと息を吸い、口を開いた。
「殿下がお休みになった後に翌日の予定を確認され、朝は殿下がお目覚めになる前に、変更事項を確認されていました」
淀みなく紡がれる言葉を聞いているうちに、エドガーの頭は痺れ、白くなっていった。
「外交文書については、殿下がお読みになる前に専門用語をすべて調べられ、殿下がお嫌いな食事会は可能な限り短時間で済むよう、事前に先方と話をつけておられました」
そんなことまで。
知らなかった。
いや、知る必要がなかった。
滞りなく、彼女が全てやっていたから。
「……馬鹿な女だ」
口から漏れた言葉に、侍従が顔を上げる。
「どうして、そんなことまで……」
答える者はいなかった。
エリーゼはもう、ここにはいない。
叱ることも、尋ねることも、礼を言うこともできない。
エドガーは机の上に積まれた書類を見つめた。
「……エリーゼ」
◇◇◇
「おい、待てアイリス」
エドガーはアイリスの白く細い腕を掴み、引き寄せた。
「痛いわね! 強く掴まないで」
「オーランド伯爵に何を言った?」
「豚に豚まんじゅうって言って何が悪いのよ」
「豚まんじゅう……」
あまりに低俗な悪口に、エドガーは目を丸くし、言葉を失った。
「醜い豚まんじゅうごときが私のことをいやらしい目で見たのよ、気色悪い。貴方も貴方だわ。去年の貴方なら怒ってくれたのに!」
かつての自分を指摘されたエドガーは、何も言い返せなかった。
身も心も疲れ果てたエドガーは、気晴らしのために訪れた王都の大劇場で、言葉を失っていた。
『謎の天才チェンバロ奏者、テレーゼ』
観客からの割れんばかりの拍手の中、舞台上で優雅に一礼する女性。
肩の位置で短く整えられた美しい亜麻色の髪、気品に満ちた立ち姿、そして何より、聴く者の魂を揺さぶる圧倒的な旋律。
「……エリーゼ」
終演後、エドガーは警備を押し切り、楽屋へと押し入った。
鏡の前で身支度を整えていた女性が、ゆっくりと振り返る。
「何の用でしょう、見知らぬお方」
「エリーゼ! 生きていたのか! 探した……探したぞ! 頼む、戻ってきてくれ! 私にはお前が必要なんだ! 私は、お前がいなくなって初めて――」
なりふり構わず縋り付くエドガーに、彼女は心底可哀想なものを見るような目線を向けた。
「人違いではありませんか。私はただの演奏家です」
彼女は気だるげに首を傾げ、極上の微笑みを浮かべる。
そんな顔で、笑う女だっただろうか。
「私は……」
彼女は瞳の色に合わせた薄い黄緑色のドレスを衣擦れさせ、静かに立ち上がった。
そして前だけを見てエドガーの横を歩き去って行く。
「チェンバロを弾くことしかできませんわ」
パタン、と軽い音を立てて楽屋の扉が閉まる。
取り残されたエドガーの耳に、二度と手に入らない美しい旋律の余韻だけが、虚しく響いていた。




