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第六話 城壁の外、旅立ちの日

アストレア孤児院の鉄門が、重い音を立てて開く。

石の壁が昨夜の空気を吐き、朝露で湿った土の匂いが混ざる。


エリンは小さく息を吐き出した。


門の傍ら、影のように佇むシスターの視線だけを背中に浴びながら、歩を進める。振り返らずに。


「エーリーンーー!」


突き抜けるような声が、街道の静寂を割った。

黒い修道服を翻して駆け寄ってくる人影。

金色のポニーテールが、陽光を弾いて揺れる。


「良かった……また一緒に居られるんだね」


息を切らしながら、メリアがエリンの両手を握りしめる。


「……メリア。お待たせ」

「エリンっ、でもなんで急に修道の道に……?」

「……いや、それが。説明が難しい」


首を傾げるメリアに、エリンの視線が泳ぐ。


「まあ……見てて」

エリンはそう伝えると、真鍮のランタンに指を添え、自身の魔力を流し込む。


霞紫の火が、渦を巻いて膨らんでいく。

渦の中から、夜の香りを纏った女が、気怠げに姿を現した。


「なるほど、説明が難しい……わね」


メリアは目を大きく見開いた。


「そうかしら……説明が難しいことなど、よくある事ですわ」

「はい、ベアトリクス様」


ベアトリクスは、霞紫の髪を指先で弄びながら、微笑みを浮かべる。


「情報過多! 猫が喋った!! てか、ベアトリクスって……」


エリンは首を傾げながら、メリアを見つめる。

「ベアトリクスの事……知ってるの」

「シスターがよく話していた、御伽話の魔王の名前……」


ベアトリクスは優雅に扇を仰ぐような仕草をして言う。


「その昔、魔王と呼ばれていたことはありますわよ。あまりに品がなくて、ワタクシは名乗っていませんけど」

「……はい、ベアトリクス様」


メリアは引きつった笑いを浮かべたまま、呟いた。


「いや、その名前の呼び方まずいでしょ」


「じゃあ……トリクシー」


エリンがポツリと、その名を落とす。

ベアトリクスの動きが止まった。


「ベアトリクス様、この時代……愛称で呼ばれることは普通ですよ」

霞紫の髪が、風に一度だけ揺れた。



都アストレアの城壁を出る。

——内と外を隔てていた何かが、背後で静かに閉じた気がした。


石造りの閉鎖的な響きが消え、代わりに圧倒的な解放感が一行を包み込む。


メリアの饒舌な声がふっと途切れる。

街道には、乾いた風が揺らす枝の音だけが残された。


エリンは、ウィンプルを取り、目を動かす。

足元の石畳に刻まれた古い蹄の跡。

露を含んだ土が、午前の陽光に焼かれて立ち上る濃密な草の匂い。

頬を打つ強い風が、黒髪の毛先を踊らせる。


どれも、城壁の内側にはなかったものだった。


ふいに、ベアトリクスの歩調が乱れる。


彼女はこめかみに指を当て、深く吐息する。

「はあ、角が無いと、疲れやすいんですの……」


光の粒子が霧散し、霞紫の髪が虚空へと溶けていく。


「なるほど……出入り自由だ」

メリアが赤い瞳を輝かせてランタンを覗き込む。


(あーあ、この中はヒマですわ)

ランタンから不自然に響く、艶やかな声。


「……うるさいな、ほんと」

エリンは一度だけ空を見上げる。


どこまでも、青が広がっていた。



それから、いくつかの道を越えた頃。

夕暮れが街道を橙色に染め上げていた。

ようやく小さな宿場町へ辿り着く。


石造りの門を潜り、宿の扉を押し開ける。

カウンターに立つ若い女性が和かに一行を迎えた。


暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音。

料理の匂いが厨房から漏れる。


客室に着いた途端に、メリアが「お風呂!」と言ってエリンの手を引く。

荷物を置いてすぐに、ふたつの影が大浴場に向かった。


「ふーーーーー。シスターの監視がないって最ッ高ー!」


湯船に飛び込まんばかりの勢いで、メリアが声を上げる。

湿り気を帯びた石鹸の匂いが立ち込めている。


エリンは湯気に目を細めながら、湯船の端に静かに腰を下ろした。


「……よく泳いで怒られてたね」

「あはは、バレてたか」


メリアが勢いよく水面を蹴り、白い飛沫を上げる。


「……ボクは、泳げないけど」

エリンは膝を抱え、水面の波をじっと眺めていた。


湯気を背負ったまま、部屋に戻る。

そこには既にベルガモットの華やかな香りが満ちていた。


椅子に腰掛けたベアトリクスが、優雅にカップを傾けている。その傍らには、桃色の髪をなびかせたメイド姿のスピカが立っていた。


「誰ッ!? 猫じゃないの!?」


「……また……ですか」

「ワタクシの僕なのですから、当然の姿ですわ」


ベアトリクスは、組んだ脚の先で黒いハイヒールを揺らし、満足げに微笑む。


エリンは無言のまま、脱ぎ捨てられたメリアの修道服を拾い上げ、壁のフックに掛けた。


夜の帳が宿を包む。

窓から差し込む星光が、淡い彩りを床に描いている。


ランタンの火は小さく絞られ、霞紫の光が呼吸のように微かに揺れる。

その傍らで黒猫が、尻尾を枕にして丸まっている。


隣のベッドでは、メリアが穏やかな寝息を立てていた。

エリンは窓の外の世界を見つめていた。


指先に触れる、冷えた真鍮の感触。

ランタンの奥に沈む、気怠げな気配。


「明日からの旅路が心配だ……」


ポツリと。

誰にも届かないエリンの独白が、夜の空気に吸い込まれて消えた。

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