第五話 朝は紅茶と決めておりますの
真鍮のランタンの中で、霞紫の残り火が小さく燃える。
足元には、闇に溶け込んだ黒い毛並み。
桃色の瞳だけが、出口へと続く階段の先をじっと見つめている。
エリンはランタンの明かりを頼りに一歩を踏み出す。
古い石段を上がるたび、黴の香りが薄れてくる。
木の扉の隙間から、夜の廊下へ出る。
冷たい月光が廊下を照らし、石の床を青白く削り出す。
エリンは足音を殺し、長く続く回廊を歩く。
ランタンは、彼女の歩みに合わせて、影を不規則に描く。
孤児院の壁に、奇妙な紫と黒の絵画を産んだ。
自室の扉を静かに開ける。
ベッドの傍らに、ランタンを置く。
真鍮の底が木の天板と触れ合い、ゴトリと短く乾いた音が響いた。
身を横たえると、シーツのざらついた感触が頬に当たる。
横で丸くなったスピカの体温が、やけに温かかった。
枕元のランタンの中で、霞紫の光が、呼吸を繰り返すように小さく揺れていた。
ランタンの灯りが消える頃。
夜はちゃんと、夜の役目を果たしていた。
——そのまま、意識は沈んでいった。
翌朝。
窓枠の隙間から差し込む朝陽で目が覚める。
エリンは身を起こし、枕元に置かれた真鍮のランタンを見る。昨日の出来事を確かめるようにして。
傍らで丸まっていた黒い毛並みが、微かに動く。
スピカは桃色の瞳を一度だけ細めると、小さく欠伸をして、眠りの続きへと沈んでいく。
エリンは音を立てずにベッドを抜け出した。
麻のシャツを整え、彼女たちを部屋に置いて廊下へ出る。
廊下は、焼きたてのパンの匂いで満ちていた。
シスターの部屋まで続く、白い廊下を歩く。
朝の祈りを終えたばかりの、静謐な香油の匂いが漂う。
シスターの部屋の扉は、僅かに開いていた。
「シスター」
机の前に座っていた年老いた背中に声をかけると、
ゆっくりとこちらを振り向いた。
「エリン、どうしたのですか?」
シスターは微笑みを湛え返事をする。
「女神様から神託を頂くために、ボクも巡礼の旅に出たいと思います」
シスターは、息を呑んで眉を寄せた。
沈黙が、朝の光の中で引き伸ばされる。
シスターは小さく息を吐いてから、柔らかな笑みをその口元に浮かべる。
「……そうね、あなたの瞳は、もうずっと前から、ここには無かったものね」
彼女は棚の奥から羊皮紙と、革の袋を取り出す。
机の上に広げられたのは、
アストレア孤児院の刻印が押された巡礼証明書。
革袋の中で、硬貨が音を立てて重なる。
糊のきいた真っ白なウィンプルと、深い黒の修道服。
「メリアとは、仲が良かったわね。あの子と一緒に出発なさい」
シスターの指先が、エリンの肩に触れる。
「……はい」
エリンは短く答えると、シスターは机の上のものを差し出した。
エリンはそれらを抱えたまま、自室の扉のノブに手をかける。
ゆっくりと開かれた扉の隙間から、ベルガモットのような香りが鼻を突く。
絡みつくような、砂糖を焦がしたような甘ったるい香り。
エリンは、開けかけた扉の動きを止めた。
——自分の部屋のはずなのに、知らない空気が流れていた。
部屋の中央、木製の椅子に腰掛け、足を組んだ霞紫の髪の女が、優雅にカップを傾けていた。
傍には、見たことのない少女が一人、淡々と控えていた。
淡い桃色の髪に、ルビーのような赤い瞳。
濃紺のロング丈のエプロンドレス。
この孤児院には、存在し得ない服を纏っている。
――エリンは、静かに、音もなく扉を閉めた。
視界から紅茶の香りと、二人が消える。
エリンは一度だけ深く息を吐き、もう一度、扉ノブを回した。
ドアの向こうの光景は一切変わっていなかった。
ベアトリクスは組んだ脚を組み替え、カップをソーサーに戻す。乾いた陶器の音が鳴る。
「朝は紅茶と決めておりますの」「はい、ベアトリクス様」
ベアトリクスは、組んだ脚の先で黒いハイヒールを僅かに揺らし、満足げに微笑む。
「……スピカ、猫じゃなかったの……」




