第四話 狭かったのです。
「そう、貴女が――おもしろい光を、持っていますのね」
濃密な甘い香りが、地下室の闇へ沈んでいった。
真鍮のランタンが微かに熱を帯びる。
光の中に佇む霞紫の髪の女――ベアトリクス。
彼女は自身の白い指先を眺め、ゆったりと唇を開く。
「狭かったですわ……とにかく狭い事が不快でしたの」
「永い眠りでしたわ……それ以上に狭かったのです」
誰に聞かせるでもない独白。
その声は、地下室の闇に溶け込むような滑らかさを持っていた。
「魔族とは、飢えを抱え、他者の依存を糧に咲く花。ですが、ワタクシは少々、飽き足りておりますの」
彼女が動くたび、濃密な甘い香りが揺れる。
「今はただ、この満たされた退屈を慈しみたいだけ……」
足元で、黒猫が音もなく座り直す。
桃色の瞳を細め、一度だけ、ゆっくりと長い尻尾を揺らした。言葉のない肯定。
エリンは、その光景をただ眺めていた。
(……うるさいな、この人)
不意に、ベアトリクスの動きが止まる。
何かを思い出したように、自身のこめかみあたりへ、しなやかな指を這わせる。
一拍、二拍と空白の時間が、部屋を打つ。
「…………あら?」
指先が、空を切る。
なだらかな曲線をなぞるはずの指が、行き場を失って彷徨った。
ベアトリクスの顔から、陶酔の色が剥がれ落ちていく。
「角が……っ、ありませんわ!!!」
先ほどまでの優雅さは霧散し、彼女は両手で自分の頭を何度もなで回した。
結い上げられた髪をかき乱し、縋るような視線を足元の黒猫へ投げる。
「スピカ! スピカ、見てくださいな! 」
「ワタクシの、ワタクシの矜持が、角がどこにも……!」
「……封印の代償では」
取り乱す主人を前にしても、髭一本揺れない。
「代償……? そんな、冗談ではありませんわ! どこですの、どこへやったのです!」
「……はい」
スピカは、ただ短く応じる。
「はい、ではありませんわ! スピカ!」
「……はい」
エリンは無言のまま、そのやり取りを眺めていた。
「……コホン」
ひとしきり騒いだ後、ベアトリクスは唐突に咳払いをした。
乱れた髪を指先で整え、すっと背筋を伸ばす。
何事もなかったかのような顔で、彼女はエリンを真っ直ぐに見据えた。
「見ての通り、魔族が角を失うということは、魔力の根源を失うに近いんですの」
凛とした声音が、昏い空間に響く。
「目覚めさせたのは貴女でしょ。探してくださいな」
「……ボクが?」
「ええ。代わりに、貴女が渇望するものを差し上げますわ」
エリンの視線が、わずかに泳ぐ。
頭をよぎったのは、高い城壁。
その向こう側に続く、名もなき地平線の色。
どこまでも続く空の青。そして、その向こう側。
ずっと胸の奥で燻っていた景色。
「……外を、見たい」
ベアトリクスの瞳が、怪しく光を帯びる。
周囲に漂う甘い香りが、熱を帯びて渦巻いた。
「……ほう」
ベアトリクスは、満足げに微笑む。
「我々魔族は、契約にはうるさいんですの」
仰々しく右手を掲げ、地下室の闇を塗り替えるような声で宣言する。
「我の名はベアトリクス。渇望を糧とする、冥府の底より君臨せし魔王」
「汝の渇望、確かに受け取りましたわ。汝はワタクシの角を取り戻す旅に同行する。ワタクシは汝に外の世界を見せ、傍に在り続ける。この契約、永劫に――」
「……初めて聞きましたね、それ」
スピカの冷ややかな声が静寂を切り裂く。
黒猫は、あくびを噛み殺しながら主人を見上げている。
ベアトリクスは眉一つ動かさず、優雅に扇を仰ぐような仕草を見せた。
「あら、形から入る方が良くてよ」
契約が結ばれた後の地下室には、元の静寂が戻っていた。
ランタンの微かな灯りが、エリンの横顔を淡く照らしていた。
エリンは、手元にある真鍮の器をじっと見つめる。
「……ひょっとして、ランタンに戻れるの?」
「……不本意ですけれど」
「そこに貴女の魔力を流しなさいな。私の糧にしますわ」
言われるがまま、エリンがランタンの持ち手にそっと手を添える。
自身の内側から、温かな何かが吸い出される感覚。
ベアトリクスの姿は霞のように消え、ランタンの芯にある炎がいっそう強く揺らめいた。
――沈黙が訪れる。
エリンが安堵の息を吐こうとした、その時だった。
((あーあ、ヒマですわ))
頭の中に、直接響く声。
((ねえ、まだ何か用はありませんの。ワタクシ、退屈で死んでしまいそうですわよ))
エリンの眉間が、わずかに寄る。
「……うるさいな、この人」
ポツリと、誰にも聞こえない声で呟く。
旅の始まりを告げる夜明けは、すぐそこまで来ていた。




