第三話 霞紫の魔王顕現
目を開けているのか閉じているのかもわからない。
それすら判別がつかないまま、白い世界に浮いている。
その空白の中で、嗅覚だけが生きていた。
地下の湿った土の匂いを、甘く重い香りが塗り替えていく。熟れすぎた果実、いや、夜の底で蜜を湛える花のように濃厚。
耳の奥で、衣擦れの音がした。
滑らかで、重みのある布地が床を這うような、柔らかな衣擦れ。自分のではない、誰かの音。
静寂を侵食するその音は、ボクのすぐ目の前で止まった。
――白が、引いていく。
部屋の四隅から、闇がゆっくりと這い戻ってくる。
足元にいたはずの黒猫は、ボクの傍から一歩だけ距離を置いて、闇の底で佇んでいる。
ランタンの奥、ぼんやりと明滅する光の中から、ひとつの影が浮き上がる。
影が、ゆっくりと輪郭を得ていく。
まず捉えたのは、黒い靴先。
鋭く床を穿つ黒いハイヒール。
次に、夜の闇を織り込んだようなドレスの裾。
滑らかなシルクの光沢が闇に揺れる。
深いスリットから覗く磁器のように白い肌。
視線を上げれば、霞紫の長い髪が、ふわりと揺れる。
その隙間から、冷たく美しい紫の瞳がボクを見つめていた。
地下の空気は、花の蜜を煮詰めたような、
濃密で逃げ場のない甘い香りに満たされていた。
ボクは呼吸を忘れて立ち尽くしていた。
女は、長い睫毛をゆっくりと伏せる。
そして、わずかに唇を動かした。
「――目覚めましたわ、スピカ」
黒猫が音もなく動く。
闇と同化しそうな体躯が、ゆっくりと女の方を向く。
尾の先まで、静止する。
「お待たせいたしました、ベアトリクス様」
静寂を裂いて、鈴を転がすような音。
それは、猫の喉の奥から発せられた言葉だった。
女は霞紫の髪をわずかに揺らし、目を細める。
「ええ――快適な生活でしたわ」
その唇から零れたのは、柔らかな皮肉。
言葉の端々に、長い眠りを経た重みが混じる。
ボクは、握っていたランタンを無意識に引き寄せていた。
真鍮の冷たさが、強張った指先に食い込む。
「……猫が、喋った」
視線が、黒猫と女の間を行き来する。
女が、顔を上げる。
伏せられていた、長い睫毛が持ち上がる。
その奥に潜んでいた紫の瞳が、初めて真っ直ぐにボクを見据える。
深い淵からこちらを覗き込むような、静かな圧。
ボクは、ランタンを離さなかった。
視線を逸らさない。ただ、受け止める。
女の薄い唇が、淡く弧を描く。
「そう、貴女が――おもしろい光を、持っていますのね」
濃密な甘い香りが、闇の奥へと沈んでいった。
ボクは、その瞳から目を逸らせなかった。




