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第二話 霞紫の燈

――気付いた頃には、足が動いていた。


ボクは、夜闇に溶ける桃色の瞳を追いかけて、

裸足のまま、駆け出していた。


石床から伝わる冷気、音は深い黒に吸われて消える。


しなやかに闇を蹴る黒猫は、振り返らない。

揺れる桃色の残光をただ追いかけた。――それしか見えなかった。

荒い呼吸を肺の奥に押し込むようにして、真っ直ぐに駆ける。


青白い月光が窓を差し、黒い格子を床に描く。

ふたつの影が、格子を避けるように光を踏む。再び影に溶けては、また光を踏んだ。


黒猫の歩調は、決して速くはない。

けれど、指先が届かない距離を保ったまま、ボクを奥へ引きずり込んでいく。


荒くなった息遣いが、薄墨色の壁に吸い込まれていく。

そこは、廊下の突き当たり。


埃に埋もれた重厚な木製の扉の前に、黒猫は音もなく降り立った。

黒い尻尾が、一度空を凪ぐ。

心臓の音だけが、廊下の空気を埋めていた。


木製の扉は、長い時間に焼かれて黒ずんでいる。

鉄の取っ手は冷え切ったまま、その役割を忘れていた。

足元の黒猫は、桃色の瞳を鈍く光らせてボクを覗いていた。


震える指先を伸ばし、鉄の輪を掴む。

錆のざらつきが掌を撫でる。

力を込めると、ゆっくりと軋んで、蝶番がくぐもった声で鳴く。

わずかな隙間は、湿った空気と古びた木の匂いを吐き出した。


扉の向こうは、微かに甘い香りが漂っていた。

人が一人通れる幅の、石の階段が大きな口を開けたように待っていた。


つま先で、一段、また一段と確かめるように深い闇に降りていく。足の裏が触れる石は廊下よりも削りが荒く、湿気を帯びている。


背後の扉から漏れる月光が、階段の途中で闇に吸いこまれるように、消えた。


闇は、濃密で重い。

自分の吐息と衣擦れの音だけが、世界のすべて。


黒猫の爪が石を掻く音だけを頼りに、ボクは降りた。


階段を降りた先、瞳が闇に慣れ、灰色の世界が輪郭を微かに表している。

そこは音すらも沈殿する昏い静寂だった。――何も無い。


こんな場所が、地下にあるなんて。

書物にも、地図にも載っていない。

誰も、教えてはくれなかった。


湿った石の匂いの中に、甘い花のような香りが混じる。

その空間の、最も深い場所。

古びたランタンが、横たわっていた。


長い年月、そこに在ったのだろうか。

厚い埃がその表面を覆い、煤けた真鍮の枠の奥。

近づくと、じわりと滲む霞紫の光が揺れた。

火ではなく、もっと根源的で、呼吸のような拍動した光。


黒猫が、ランタンの傍らで足を止めた。

桃色の瞳が微かな光を反射して、ボクを見つめる。

吸い寄せられるように、その前へと歩み寄った。


手を伸ばすと、ランタンが纏う温い空気が、指先に絡む。


冷えた真鍮の枠へ、ゆっくりと近づける。

静寂が、不気味なほどに濃くなった。


指先が、冷えた真鍮の感触を捉えた。

次の瞬間――光が溢れた。


煤けたガラスの奥で微睡んでいた光が、白光となって弾け飛ぶ。音もなく。


目を開けているのか閉じているのかもわからない。

足元の黒猫も、自分自身の輪郭すらもが、光によって塗り潰される。


地下の匂いが消えた。熱いのか冷たいのか。

それすら判別がつかないまま、白い世界に浮いている。


耳の奥で、誰かの衣が擦れる音がした。

ボクは目を細めて、それを捉えようとしていた。

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