第一話 誘う桃色の瞳
アストレア孤児院の朝。
石造りの壁が昨夜の冷気を、そっと吐き出している。
物心ついた時から、薄墨色の壁がそばに居た。
シーツの暖かい匂い、廊下を叩く靴音。そして、シスターの蔵書。月に一度訪れる行商人が運ぶ古い紙の、湿った芳香。それだけが、ボクの世界のすべてだった。
指先はいつも、活字の海を泳いでいた。
遠い異国の名前。見たこともない果実の細密画。本を開けば、ボクの魂だけは、ここではない、どこか別の場所へと飛び出していく。
鏡を見ると、そこに映る黒髪の少女は、体温のある人形のようだった。
――ボクは、誰なのだろうか。
アストレアの地下で拾われた、出所の知れない命。
どこから来たのかという言葉は、喉の奥に仕舞っていた。
窓の外、城壁の向こう。
視線は無意識に、まだ見ぬ地平線をなぞっていた。
誰もいない廊下の隅で、ガラスを砕く陽光の欠片を数えていた。知識だけが積み重なっていく。
ボクという存在が、世界地図の余白のように空虚だった。
礼拝堂は、蜜蝋の甘い香り。
それと、静謐な空気が編み込まれている。
高い窓に嵌め込まれたステンドグラスは、
午後の光を透かして、石畳の上に極彩色の川を流す。
ボクはその光の川の畔で、古い書物に閉じこもる。
隣では、友達のメリアが彩の欠片を愛おしそうに見つめていた。
「 ねえ、エリン。海の向こうってさ、何色なんだろうね」
メリアの声は、静かな礼拝堂の空気を柔らかく揺らす。
ボクは視線を本から上げず、ただ「見たいね」と答えた。
それ以上の言葉は必要なかった。
賛美歌が始まると、ほかの子供たちの声が重なって天井へ昇っていく。メリアは天を仰ぐ、彼女の祈りは賛美歌に溶けていく。
ボクはその祈りの列から一歩引いたところで、足元を見ていた。ふいに、隣にいたメリアの掌が、ボクの手を包み込む。その手は小さい。けれど、暖かく心地よかった。
賛美歌の旋律に身を任せる彼女と、受け取るボク。
ステンドグラスの彩は繋いだ手の上に落ちていく。
――司祭の声が、高い天井に反響する。
十八歳。
アストレアの子供たちが、鳥籠の鍵を返却する日。
礼拝堂に並ぶ少年少女たちは、一人、また一人と名前を呼ばれるたびに、彼らはそれぞれの「場所」へと歩み出していく。
メリアは、迷いなく修道の道を選んだ。
彼女の背中は、陽光を背負い、清らかな決意に満ちていた。
ボクの手の中には、何も無かった。
推薦状も、誓いの言葉すらも。
ボクの存在が、一滴の黒いインクを落としたように淀んでいく。
儀式が終わり、人波が散っていく。
メリアが一度だけ、ボクの傍らに立ち止まった。
何も言わなかった。
ただ、彼女の小指をボクの小指に、一度だけ深く絡めた。
絡められた指が離れた瞬間、ボクの周りから音が消える。
手元には、冷たい空気だけが残る。
唯一の心地よい場所が、春の雪のように呆気なく消え去った。
そこに残されたのは、
名前のない少女と、空っぽの明日だけだった。
賑やかな儀式に居場所がなくて、逃げるようにバルコニーに出る。
夜の空気は、冷たくて落ち着く。
肺いっぱいに引きずり込んで、胸を冷やした。
見上げると、群青色の空に無数の星たちが瞬いている。
小さな星ですら、自分の居場所を誇示するように光っているのに、ボクは自己主張すらできなかった。――苦手だ。
不意に足元を黒い影がうごめく。
バルコニーの手すりの影から、一匹の黒い猫が音もなく這い出してきた。
「うわ……!!」
「ニャァ」
黒い猫は一度だけ、透き通った声で鳴いた。
夜闇を切り取ったような、艶のある毛並み。
その中で、桃色の瞳がボクを見ていた。
黒猫は優雅にしっぽを揺らすと、闇の向こうへ、石造りの手すりの隙間へと歩み出していく。
胸の奥の、淀みが弾けて消えるような音がした。
気付いた頃には、足が動いていた。
脱ぎ捨てたままの靴のことも、もう意識にない。
ボクは、夜闇に溶ける桃色の瞳を追いかけて、
裸足のまま、駆け出していた。




