婚約破棄の成れの果て
「それで、その方と一緒になるために婚約を破棄したいと」
ハニーゴールドの髪を一つに纏めた髪飾りが揺れる。華奢だが華のある容姿からは想像できないような低い声で、セブリーヌ・エテックス公爵令嬢は目の前の二人に問いかけた。
「すまないセブ。でも、私は真実の愛を見つけた。君との婚約は破棄させて欲しい」
寄り添い合う男女の男の方、トニー・オブライエン侯爵令息がそう断言すると、オブライエン家の応接室にいた執事や侍女たちは息を呑み固まった。
トニーは隣にいる女の肩をしっかりと抱き、まるでセブリーヌの視線から守るように引き寄せた。
「エルザ嬢は、我がオブライエン家に嫁いでも何の問題もないマテネ伯爵家の令嬢だ。もちろん、彼女自身も学園を優秀な成績で卒業した。王宮では行儀見習いとして、第二王女付に抜擢されている」
セブリーヌは、トニーの隣で震えるエルザに視線を移す。
ピンクブラウンの髪にブラウンの瞳が揺れるエルザは、セブリーヌよりも小柄。細身のセブリーヌとは対照的に女性らしい体つきをしている。
彼女はセブリーヌの視線を受け、さらに肩を震わせると目を伏せた。
「それは関係ございません」
再びトニーに視線を戻したセブリーヌは、はっきりと言い切った。
「トニー様は、すべてを承知で婚約破棄と仰るのですね。だとしたら、大変愚かなことですが」
エルザの前で批判されたトニーは、ついカッとなりセブリーヌを怒鳴りつけた。
「バカにするな! 全て承知でお前とは婚約破棄をする」
二人が八歳の時、トニー側からの申し出で婚約が結ばれた。
エテックス公爵家からすれば益のない婚約だろうが、なぜかオブライエン侯爵家との婚約はすんなりと成立した。
それから十年。婚約者として過ごしていく中で、両家はとても良い関係を築いた。婚約解消による家同士の亀裂は一時的なもの。国内有数の資産家であるオブライエン家には、相応の慰謝料を支払う力もある。婚約解消は受け入れられるだろう。トニーはその優しげな見た目とは違いとても計算高いので、この先起こり得る問題を予想してから婚約破棄を言い出していた。
「そうですか」
セブリーヌは深く息を吐き、しっかりとトニーと目を合わせてから言った。
「婚約破棄は、できません」
***
セブリーヌが帰った後の応接室は物々しい空気が流れていた。
顔色を悪くさせたエルザの背中を、トニーが撫でて慰める。使用人たちは足早に応接室を出て、あちらこちらに走り回った。きっと父親であるオブライエン侯爵や、エテックス公爵家に連絡を取っているのだろう。
「トニー様。やはり婚約破棄は難しいのではありませんか?」
目を赤くしたエルザが上目遣いでトニーを見つめた。震えるエルザの唇に、トニーの庇護欲は一層掻き立てられる。
「元婚約者のことで悲しい思いをさせてごめんね。あくまで家同士の婚約だ。私が愛するのはエルザだけだよ」
トニーの中では、セブリーヌはすでに過去の婚約者である。そう伝えるとエルザの目からは歓喜の涙が流れた。そんなエルザを抱きしめながら、トニーは考えた。
セブリーヌは王国に二つしかない公爵家の一つ、エテックス家の長女である。
生まれた瞬間から王太子妃にと望まれるほどの家柄に、成長するごとに際立つ美しさと所作。さらに頭の良さは、不本意ながらトニーも認めるほどだ。
益のない婚約にしがみつくはずないと思っていたのに、まさか断られるとは思わなかった。
そこまで公爵令嬢としてのプライドが、婚約破棄を許さないということだろうか。
宰相の嫡男であるトニーは、幼い頃から公爵家のセブリーヌや第一王子とは王宮で遊ぶ仲であった。
他にも騎士団長の息子や、有力侯爵家の令嬢など、年の近い者たちがよく集められた。
幼いトニーはセブリーヌのことが好きだった。両親にセブリーヌとの結婚を強請った記憶はあるが、本当に婚約が成立した時は驚いた。力のあるエテックス公爵家に対抗する貴族は少なくなく、セブリーヌの婚約相手が見つからなかったのでは? と、少し大きくなった時のトニーは考えた。
見目の良いトニーは学生時代、婚約に響かない程度に女性と遊んだ。しかし、文官として勤め始めた王宮で出会ったエルザだけは特別だった。トニーは初めて人を愛することを知った。そして、エルザがどうしても欲しくなった。
ただ、すべてを捨ててエルザを選ぶのではない。エルザも手に入れたいと願った。
瑕疵がつく婚約破棄が嫌であれば、婚約自体がなかったことになる婚約解消なら受け入れてくれるだろうか。
いつの間にか泣き止んだエルザの額に口付けをしながら、トニーはニヤリと笑った。
***
「セブリーヌ嬢とは一緒にならない。それでいいのだな」
その夜。いつもよりもかなり早く帰宅した父は、真っ先にそれを確認した。
「はい。私が愛するのはエルザだけです」
本気だと伝わるように、トニーは力強く答える。
「婚約を……約束を反故にする。間違いないな」
エルザのことには触れずに父はもう一度確認するが、トニーはしっかりと頷いた。父の隣に座る母がわっと泣き出す。侯爵夫人の鑑のような母が取り乱すのは珍しい。トニーは驚いたが、母はセブリーヌを気に入っていたので仕方のないことだろう。
父の承諾を得られたことで気が楽になったトニーは、エルザとの明るい未来だけを考えた。
しかし、それからひと月経ってもセブリーヌとの婚約は解消されなかった。
エテックス公爵家から連絡はない。セブリーヌからの訪問もない。
毎日王宮へ出仕しているが、噂になっていないのか、婚約破棄に関して誰も聞いてこない。
今まで隠れて会っていたエルザと堂々と過ごしたい。しかしエルザは、婚約が正式になくなるまでは会えないという。罪悪感からなのだろう。なんともいじらしい。
エルザのためにも早くなんとかしなければ。そんな時、トニーに王太子から呼び出しがあった。
かつての幼馴染である第一王子、現在の王太子アレックスとは、最近ではたまに仕事で顔を合わす程度。いずれトニーが宰相になれば、再び顔を合わせる関係になるだろう。
そんなアレックスからの呼び出しだ。セブリーヌが泣きついたに違いない。
俺を説得するのだろうか。そんなことしても無駄なのに……トニーはため息をついた。
***
「よく来たな、トニー」
呼び出されたのはトニーだけだと思っていた。が、謁見室には厳しい顔をした父と母がいた。
それだけではない。何の連絡も寄越してこなかったセブリーヌの父であるエテックス公爵、公爵夫人、セブリーヌの兄である次期公爵がトニーを睨みつけている。
「殿下、これは一体……」
状況が掴めず怯んだトニーの後ろで、謁見室の扉が開いた。
振り向くと、飾り気の無い質素なドレス姿のセブリーヌが入って来るところだった。そのドレスはまるで死装束のようで、化粧を施さず髪も結わない様が余計にそう思わせた。
セブリーヌはトニーの隣に立つと、王太子に対し膝を折り頭を下げた。
「皆、揃ったか」
低く響く声と同時に、王太子がいる玉座の後ろの扉から、国王陛下と王妃陛下が入って来た。
「こ、国王陛下!」
固まっているトニーを無視して、王太子以外の全員が深い礼をする。
「トニー・オブライエン。其方はセブリーヌ・エテックス嬢との婚約を解消する、ということに間違いはないか?」
国王陛下が不機嫌そうな声を上げた。王妃は扇子で口元を隠しているが、その眉間の皺は不快さを隠さない。
「……は、はい」
震える唇からは辛うじて掠れる声が出た。
(なぜだ。たかが婚約破棄、あるいは婚約解消ではないのか。なぜ、こんなに大袈裟になっているんだ!)
トニーは必死に考えた。考えたが、やはりよくある心変わりによる婚約破棄だ。
ちらりと父と母を見る。二人とも俯き、その表情は窺えない。その隣で、エテックス公爵家の面々は冷たくこちらを睨んでいる。
「なぁ、トニー」
王太子のアレックスが口を開いた。口調は砕けた感じだが、声は低く怒気を帯びている。
「これは、お前が望んだ婚約だったよな。それがなぜ解消になるんだ?」
「そ、それは私が真に愛する人に出会ってしまったからで。セブリーヌには申し訳ないが、お互い愛する相手と結ばれた方が……」
「はっ! 真実の愛か」
呆れたように言い捨てたアレックスに、トニーはエルザとの愛を馬鹿にされたようで腹が立った。
「殿下は幼馴染のセブリーヌを庇いたいのでしょう。しかし、これはよくある婚約破棄ではないのですか? それとも、殿下はすべての婚約破棄の仲裁をされているのですか?」
言い終える前に、父であるオブライエン侯爵が「黙れ!」とトニーを怒鳴りつけた。
「よくある、ね。確かによくあるが、婚約解消についての条件は、お前が言い出したことじゃないか。覚えてないのか?」
条件? トニーには心当たりがなかった。その条件とやらを俺が言い出したから、こんなことになっているのか……。考え込むトニーに国王陛下が言う。
「十年前。王子アレックスの将来の従者や婚約者を選ぶために、同じ年頃の貴族の子たちを集めて見定めていた。そこで私と王妃、貴族議会はセブリーヌ・エテックス公爵令嬢をアレックスの婚約者に選んだ」
トニーは息を呑んだ。その瞬間、当時のことが蘇ってきたからだ。
「エテックス公爵家とも話がつき、いよいよ婚約というところで横槍が入った」
トニーの呼吸は浅くなりハッハッと浅い息を吐く。嫌な汗が止まらない。そして、その顔からは血の気が引いた。
「お前だよ、トニー。お前が、セブリーヌが欲しいと泣き喚いたんだよ」
憎々しげに言うアレックスの言葉で、トニーはすべてを思い出した。確かに俺だ。セブリーヌがアレックスの婚約者になると聞いて、感情が爆発した。今から思うと幼い嫉妬だ。自分のものを取られてしまう、トニーはそう思ったのだ。それが恋心だったかと聞かれると、今となってはわからない。
「子どもの駄々、と誰もが最初は思っていた。しかし其方は大勢の貴族の前で言い切った。『王族だからといって、私の大切な人を奪うな!』と。それも、エテックス公爵に対抗する貴族たちの目の前で。おかげで、まんまと政局の材料にされたわ」
当時を思い出したのか、国王は一層苦々しい顔をした。
「其方が本当にセブリーヌを想っているのなら、アレックスが横から奪うと将来に遺恨を残すだろうとの声が上がった。結局は、これ以上エテックス公爵家に力を持たせたくない貴族連中の思うままになった」
いつの間にか、セブリーヌはトニーの婚約者になっていた。トニーは今の今まで、この婚約にそんな理由があったとは知らなかった。ただ、あの頃の感情だけは思い出していた。
「儂はセブリーヌ嬢をアレックスの婚約者にするのを諦めて、其方の婚約者とすることを認めた。其方が約束をしたからだ」
静かに、しかし威厳のある声で国王は言った。その言葉の先を、あの約束の内容を思い出してしまったトニーは、ブルブルと震え出した。
『セブリーヌを大切にできず婚約が解消された時は、二人で毒杯を賜う』
それは、契約という言葉をまだ知らなかったトニーが婚約を成立させたいが為に、幼い頭で精一杯考え出した「約束」だった。
セブリーヌを害してまでこの誓いを違うことはない。それほどセブリーヌと婚約したいんだという強い気持ちを、幼いトニーが知る一番怖い言葉を用いて大人たちに宣言した。
「あれは子どもの戯言で、きちんとした両家の契約では……」
たかが子どもの口約束に過ぎない、契約は無効だ……トニーはこの追い詰められた状況に、何とか逃げ道を見つけた。
「その約束に基づき、王家と両家にて契約が交わされておる」
国王が言う。トニーはすぐに父と母、エテックス家を見るが、皆目を伏せたままだ。それは、肯定を意味していた。
「そ、そんな!? たかが一貴族の婚約に、どうして王家が契約まで結ぶのでしょうか!」
「其方は、ほぼ決まっていた王家の婚約を邪魔したのだ。王家のものを横取りする。これは立派な謀反に当たる」
謀反。その言葉の重さに、トニーは目を見開いた。たとえ子どもだとしても、王子の婚約に横槍を入れるのは許されないことなのだ。
あの時、トニーはアレックスからセブリーヌを奪いたかった。いや、アレックスより優位に立ちたかったのだ。
「しかも大勢の貴族の前でだ。侮辱行為により、その場で切り捨てられてもおかしくなかったぞ。実際、其方の父親は儂に其方の首を差し出すと申し出た。だから、王家は泣く泣くセブリーヌ嬢を諦め、其方の首の代わりに『約束』を三家で結ぶ『契約』としたのだ」
トニーは目眩に襲われ片膝をついた。
婚約したばかりの頃、大人たちにセブリーヌを大切にしろと言われた。その度に当然だと答えたトニーは、セブリーヌに選ばれた自分が誇らしかった。
「では」
国王の合図で、侯爵の部下である宰相補佐官がワゴンを押して入って来た。ワゴンには銀色の杯が二つ並んでいる。
「契約に基づき、杯を授けよう」
今まで一言も発することのなかったセブリーヌが、スッと杯に手を伸ばした。
膝をつき項垂れていたトニーは驚いてセブリーヌを見た。
「な、何をしているんだっ!」
杯に伸ばしたセブリーヌの細い腕を掴み、トニーは怒鳴った。
何の躊躇もなく、毒杯を受け取ろうとする姿に怒りが湧いた。セブリーヌは悪くない。自分勝手で理不尽な怒りだとはわかっているが、それ以上に自分に対して腹が立つ。トニーはそんな感情を、理不尽にぶつけるしかできなかった。
そんなトニーをセブリーヌは冷たい目で見つめていた。そして、トニーの手を払った。
「トニー様が勝手にお約束したのでしょう? 私と共に毒杯を賜ると」
落ち着き払った様子でそう言うと、セブリーヌは今度こそ杯を手に取った。
トニーの母とセブリーヌの母から小さな悲鳴が上がる。
「申し訳ありませんでした、陛下! すまなかった、アレックス! セブリーヌを返す、返すから!」
トニーは立ち上がり国王やアレックスに許しを乞うが、すぐ後ろに控えていた近衛に押さえつけられた。それでもトニーはアレックスに向かって叫んだ。
「セブリーヌのことが好きだったんだろう! だったら今からでもセブリーヌと婚約を……」
「何を言ってるんだ、お前は。セブリーヌはものじゃないんだぞ。俺は隣国の第二皇女と婚約する。それに」
アレックスは、毒杯を持ち視線を落としたままのセブリーヌをチラリと見た。
「手垢のついた女はいらない」
王国一の公爵令嬢と噂され、なにごとにも動じることのなかったセブリーヌの肩が一瞬だけ震えた。
「手垢など! セブリーヌとはまだ何も……」
「セブリーヌとは、ねぇ」
意味深に言い返され、トニーは失言を悟った。
「あの手垢のついた女。誰だっけ? マテネ元伯爵令嬢か」
エルザの名前が出て思わず声が出る。元? なぜ元伯爵令嬢なんだ?
「第二王女付きの行儀見習いらしいな。婚約者がいるとわかっていて、お前を受け入れ婚約解消に加担した。その事実を知った第二王女、妹がえらく怒ってな。あいつはセブリーヌと姉妹のように仲が良かったから」
そうだ。セブリーヌは、一つ年下の第二王女と姉妹のように過ごしていた。
トニーとの婚約後、王宮に行く機会が減ったセブリーヌに、第二王女から頻繁に手紙が届いていたと聞く。
「昨晩、マテネ伯爵家から知らせがあった。元伯爵令嬢を籍から抜いた上で、他国の修道院に送ったと」
(嘘だ! エルザが修道院に!?)
トニーは脱力した。自分が恋に現を抜かしたせいで、とんでもないことになった……トニーはようやく悟った。
(考えろ! この窮地から逃れる方法を! 今を乗り切れば、いつかエルザを探し出せる。そして結婚は無理でも、愛妾としてでも共に過ごしていける……)
必死に考えていたトニーは、あることに気がついた。約束は、『婚約が解消された時は、二人で毒杯を賜う』だ。トニーは一筋の光を見た気がした。
(不本意だが婚約を継続すれば、何も死ぬことはないだろう。セブリーヌに誠意を見せて謝れば、きっと許してくれるはず。なんせ、十年も婚約者だったんだから)
「セブリーヌ、すまなかった! 俺がどうかしていた。婚約はこのまま継続する。予定通り、来年に式を挙げよう!」
トニーは近衛を振り切り、隣にいるセブリーヌに跪いて大声で叫んだ。
トニーの行動に、その場は静まり返った。トニーは額に汗をかきながら、セブリーヌを熱のこもった目で見つめる。今まで、セブリーヌをこんな目で見つめたことがあっただろうかと考えながら。
黙ってトニーを見ていたセブリーヌは、コトリと銀色の杯をワゴンに戻した。思い直してくれたと、トニーに安堵の表情が浮かぶ。セブリーヌはゆっくりと体をトニーに向けた。そして小さく息を吸った。
「お断りします。婚約は解消します」
セブリーヌの言葉に、トニーは狼狽えた。
「トニー様が勝手に結んだ約束、どうして反故にされるのですか。トニー様の間違いを正すこと、それを婚約者としての最後の務めといたしましょう」
とても冷たくて綺麗な笑みを浮かべたセブリーヌは、幼い子を説くようにトニーに言い聞かせた。
「そ、そんな。セブリーヌは俺を愛しているのだろう? 大切にするから末長く二人で暮らそう!」
言い繕うのも忘れ、終いには縋り付き懇願するトニーの姿に、セブリーヌは眉を顰めた。
「愛している? 私が、トニー様を? 可笑しなことを仰るのね」
ふふふ、あははとセブリーヌが笑い出す。狂ったように笑うセブリーヌを、トニー以外のその場にいた全員は痛ましそうに見守った。
笑い疲れたのか目尻の涙を拭い、ふうっと息を吐いたセブリーヌは一転、トニーをキッと睨みつけた。
「誰がお前なんて愛しているのよ! 初恋を、叶う筈だった私の初恋を粉々に砕いたお前なんかっ!」
初めて聞くセブリーヌの悲鳴のような叫びに驚き、トニーは息もできない。セブリーヌの慟哭は、やがて静かな啜り泣きへと変わった。
——知らなかった。セブリーヌはアレックスのことが好きだったんだ。俺が二人の邪魔をしたんだ。
微笑み合う二人を見て嫉妬したトニーが、セブリーヌの心を、想い合う二人の未来を潰したのだ。邪魔をしただけでなく他の女性に目移りして、セブリーヌを幸せにするどころか、その命さえ奪おうとしている。
セブリーヌの命は国王が、王太子が奪うのではない。あの時の、幼い俺の嫉妬と虚栄が奪うのだ……。
「トニー様。杯を」
項垂れるトニーに、いつの間にか冷静さを取り戻したセブリーヌが静かに言った。
泣き腫らした赤い目をしているものの、その姿は公爵令嬢として毅然としている。今さらながら、セブリーヌこそが未来の王太子妃に相応しい人だったんだと、トニーはそう思った。
「……い、嫌だ! こんなことで死にたくない!」
それでも往生際悪く逃げようとするトニーを、近衛が再び押さえつけて無理やり立ち上がらせる。
無様な姿を晒していると自覚しているが、トニーは力の限り叫び暴れた。
「『こんなこと』で、お前と死ぬことになったセブリーヌの方が無念だろうよ」
アレックスが吐き捨てるように言った。
いつまでもバタバタと暴れるトニーを見ていたセブリーヌが、国王に向かって頭を下げる。国王が発言を促すように右手を上げた。
「国王陛下。トニー様が自ら杯を賜るのは難しいかと思います」
横目でトニーを睨みつけてから、国王が頷いた。セブリーヌは事前に預けていたのだろう、持ち込んでいた家紋入りの短剣を近衛から受け取った。
そして、その綺麗な髪を素早く左肩に纏める。
ザクッ……。
セブリーヌは一切の躊躇もなく、その髪を短剣で一気に切り落とした。
「!」
「セブリーヌッ!」
謁見室に声を呑む音が響き、母親たちからは悲鳴が上がった。国王の隣では、王妃も青い顔をして両手で口元を覆っている。
「トニー様と私の首を、どうぞお刎ねください」
セブリーヌが凛とした声で国王に乞う。
国王は近衛に向かって手を挙げた。刎ねよ、と。
「嫌だー! やめろ! 助けてくれ、助けてくれー! セブリーヌ!」
再び取り押さえられたトニーの背後で、近衛が鞘から剣を出した。そして、振り下ろした。
トニーの意識はそこで途絶えた。
***
動かなくなったトニーが連れ出された後の謁見室。
全員がふーっと長い息を吐き、各々の椅子の背にもたれ掛かった。
「不甲斐ない……。セブリーヌ嬢、エテックス公爵、次期公爵、夫人。申し訳ございませんでした。陛下、王妃殿下、王太子殿下。寛大なお心、痛み入ります」
額の汗を拭き拭き、トニーの父オブライエン侯爵が四方に頭を下げた。
侯爵夫人も泣き崩れていて、セブリーヌの母がその背中を摩って慰めた。
「セブリーヌ。あなた一体、その髪どうするの? 思いっきりやっちゃってるじゃない。結婚式までに伸びるかしら」
優しい目をした王妃が、セブリーヌに向かって呆れたように肩を竦める。
「大丈夫。セブリーヌはどんな髪型でも美しい。なんなら、ドレスは短い髪に似合うものを今からデザインさせよう」
アレックスが微笑みながらセブリーヌに言うと、セブリーヌはふふっと笑い、肩についていた髪をパパッと払った。
「しかし、こんなに長い間、忘れていたとは思わなかったぞ。侯爵よ」
国王は呆れたようにオブライエン侯爵に言う。
侯爵はまたまた頭を下げ、ばつの悪そうな顔をした。
「息子の、いや、息子であったトニーの廃嫡届は既に貴族院に提出しています。私の後は次男が継ぎます」
そんな会話がなされている間に、アレックスはセブリーヌの元に行き、髪を払ってやり椅子に座らせ労った。
まるで宝物を扱うようなアレックスと、幼い頃のように微笑むセブリーヌの姿を、皆はあたたかい目で見守った。
トニーがアレックスからセブリーヌを奪ったあの日。
国王、公爵、侯爵で話し合いが持たれた。
トニーとセブリーヌが生まれる前から、王家はエテックス公爵家と縁を結びたかった。叶わなかったのは政治のせいであり、トニーのせいではない。さすがに子どものわがままひとつで、王家の婚約は流れない。しかし、子どもながらにあそこまで立派な文句を垂れたトニーに期待し、先を見てみたいと国王は思ってしまった。
そこで国王は、トニーとセブリーヌが婚約を結ばせることにした。ただし条件付きで。
その条件こそが、トニーが「約束」として宣った『セブリーヌを大切に出来ずにこの婚約が解消された時は、二人で毒杯を賜う』だ。
約束を違えたとて殺すつもりはない。そんなことで大切な国民の命を奪ったなんて噂が立つと、どんな狭量な王だと笑われてしまう。
『トニーの誓った通りに結婚まで辿り着いたなら、その時点で契約は終了。トニーとセブリーヌは夫婦となる。しかし、約束が反故にされた場合は、速やかに婚約を解消してセブリーヌをアレックスに返すこと。トニーを信じた三家からは罰を与えること』
これが三家で契約した本当の内容であった。
当初は婚約できたことに大喜びし、セブリーヌをとても大切に扱ったトニーだったが、長い年月と思春期、青年期を経た結果がこの有様だ。自分が請いに請うて結んだはずの婚約は、いつの間にか家同士の政略へと都合よく記憶を変えてしまっていた。
セブリーヌとアレックスは、十年間、お互い一切の感情を出さず王族と臣下という関係を全うした。
相手が誰であれ、結婚する相手を大切にしよう。二人は初恋を封印した。
セブリーヌはトニーに誠実に接した。
アレックスはどんなに勧められても、セブリーヌが結婚するまでは婚約者はいらないと言い張った。先ほど言った隣国の皇女との婚約は、どの王子に嫁いでも良いという条件のもので、実のところ皇女は第二王子といい関係を築いている。
「長かったが、やっと婚約者として迎えられるよ。私のセブリーヌ」
アレックスが目元を赤くしてセブリーヌの手をとり、その甲に口付けた。
セブリーヌも感極まった様子でそれを受け入れた。
「手垢がついたかもしれない私には、もう興味がないのだと思いました」
先程のアレックスの言葉を思い出したセブリーヌは、少し拗ねながら当てこすった。本当にごめんねと、アレックスはセブリーヌを抱きしめた。
「アレックスよ。少しセブリーヌ嬢から離れなさい。公爵が笑顔のままで怒っておるぞ」
国王はやってられんと嘆いた。が、アレックスはセブリーヌ嬢にはあんな顔するのかと思い笑いを堪えた。国王はずっと、アレックスが叶わぬ思いを秘めながらも公務に邁進している姿を傍らで見ていた。もし、トニーが誠実な青年に育っていれば、アレックスのこの嬉しそうな顔は見られなかっただろう。
突然、セブリーヌの兄がある疑問を口にした。
「ところで、元侯爵令息はどうなるのですか?」
「本人は斬られたと思っているだろうが、斬ると見せかけて薬を打っておる。丸一日はぐっすりだ」
国王が、いちゃつくアレックスとセブリーヌを横目で見ながら答える。
「息子……平民トニーは、遠い男子修道院にこのまま運びます」
その修道院には俗世の情報は一切入らない。淡々と、その人生が終わるまで神に仕えるのみである。
俗世を知ることの出来ないトニーは、自身が歩んだ人生を幻だと思うように壊れていくのだろうか。
「ま、三年の辛抱だ。三年耐えれば、元伯爵令嬢と引き合わせてやる。平民にはなるが、今度こそ誠実に生きることを願う」
国王が言うと、オブライエン侯爵夫妻は深々と頭を下げた。たとえ修道院から出られたとしても、貴族として何不自由なく育ったトニーが平民として生きていくのは茨の道だろう……。夫妻はトニーの未来を思った。
そんなオブライエン侯爵夫妻の元に、アレックスの腕から逃れたセブリーヌがそっと寄り添い、そして詫びた。
「私が至らないばかりに申し訳ございませんでした。お義父様、お義母様とは呼べなくなりましたが、この先ずっと、私には三組の両親がいるものだと思い生きてまいります」
「ありがとう、セブリーヌ嬢!」
侯爵夫妻とセブリーヌは本当に良い仲を築いていた。トニーさえ馬鹿なことをしなければ、侯爵家は安泰だっただろうにと、その場にいた皆は思った。
そんな未来を想像し、アレックスだけが苦々しく笑った。




