親子は終わり、そして始まる
休憩を挟みつつ、ゆっくりとわたくしたちはエインズワース領に向かいました。王都から近いとはいえ、間に王領を挟んでいるため、一日はかかる距離です。領邸から王宮へ通えないと居住を王都邸に移したギデオン様の判断もわかりますわね。片道だけでこんなにかかるなんて……王都邸と王宮で育ったわたくしには新鮮ですわ。アークベリー領もエインズワース領と同じような立地ですから、むこうの家族がなかなか王都邸にいらっしゃらなかったのもわかります。行くだけで一苦労ですもの。社交期でもなければ行きたくありませんわね。
「すごいね」
「ええ、すばらしい眺めですわね、アディ。わたくしもこのような麦畑は初めて拝見いたしますわ」
エインズワース領に入ったわたくしたちの目に飛び込んできたのは、豊かな麦畑でした。高く澄んだ空の下、涼を運ぶ風は、さらさらとその金色の実りを撫でていきます。妙なる音楽のようなその音は、開けてあった馬車の窓から入り込み、わたくしたちの耳を楽しませていますわ。
フィリップ殿下の代わりの公務で農村に伺ったことはありますけれど、刈り取る前の麦畑は初めてです。わたくしの隣でわくわくした様子を見せるアディですが、わたくしも同じようにわくわくしておりますのよ。
「豊穣の地ですわね」
「そう称してもらえるとは嬉しい限りだ」
風にたなびく金色の麦の穂を眺めながらつぶやくと、アディではなくギデオン様のお返事が返ってきました。あら、馬車に揺られて眠っていたかと思いましたのに、いつの間に起きられたのかしら。
「いや、眠ってはいないよ。目を閉じて、あなたたちの話を聞いていた。興味深かった」
「……わたくし、声に出していまして?」
「いや、アデラインといるときのあなたは、自身で思っているより感情が顔に出ている」
思いがけない指摘に、わたくしは両手を頬に当てて確かめてみました。表情……出ていましたの? わたくしの感情を外に出さない術は完璧だと思いましたのに……恥ずかしいですわ。
「いや、王宮にいた頃のあなたは完璧な淑女だった。いつも微笑みをたたえていて、きちんと社交ができていたよ」
「……きちんとできていたなら、よかったですわ」
感情を表に出すのは淑女の名折れですから、わたくし、もっとしっかりしなくては。アディのお手本になるのがわたくしの使命ですもの。
「リディはいつもきれいよ?」
「まぁ! アディに褒められたら、わたくしとても嬉しいですわ!」
「わたしね、わたしね、リディみたいになるの」
わたくしを褒めてくださったアディは、きゅっとその小さな手でわたくしの袖口をつかみ、にっこりと笑います。
「リディみたいになったら、うれしい?」
「わたくしのように……」
目指していただけるのは嬉しいのですが、わたくし、婚約破棄された使い勝手の悪い駒ですので……リディがわたくしのようになっては、困るかもしれません。
「ねぇ、アディ。憧れてくださるのはとても嬉しゅうございますけれど、アディはアディでよろしいのですよ? わたくしはこうやってエインズワース家に来てアディに会えて幸せですけれど、アディはアディが求める幸せを探していただかなくては」
「わたしも、いつかどこかに……行くの?」
離れることを考えたのでしょうか。アディの雪空の瞳が不安げに揺れます。まぁ、不安になることなんてございませんのよ、アディ。
「いえ、アディはエインズワースの後継者ですので、お婿様を迎えてこの領地を守っていくのですわ。だから、わたくしとは方向性が違います。でもね、いいこともございますのよ? アディがお嫁に行かないから、わたくしはずっとアディの顔を見れますの」
「! いっしょ?」
「ええ、一緒ですわ」
ギデオン様から不要とされない限りですけれど、それはアディに告げることではございません。
「アデライン」
わたくしたちのやりとりをご覧になっていたギデオン様が、口を挟まれました。
「私は君をずっとひとりぼっちにしていた無能な父親だったが、これからは変わると誓った。だから、安心して家にいていいんだ。私も、リディアも、君の成長を願っている」
領地に向かう前、体調が回復されたギデオン様は、アディに改めて謝罪をなさいました。仕事をさばくのに手いっぱいで、他者に任せきりにして確認を怠った自分の失策でアディの生活が制限されていたことを悔いたのだと、公爵家当主であるというのにきっちり頭を下げられたのです。
本来ならアディと二人でお話したかったと思うのですが、アディとギデオン様からその場にあるよう願われて、その姿を拝見することになったわたくしは、きちんと家族の絆を結びなおそうとされるその姿に感動いたしましたのよ。
……まぁ、そのお姿をわたくしが見てもいいのかしらって、ちょっと気まずくありましたけれど。立会人として見届けさせていただきましたわ。
「もし君が大きくなって、他の家に嫁ぎたいと願うなら、それだって叶える。私たちが願うのは、君が健やかに成長することであり、君が幸せになることだ」
今までにない穏やかなまなざしで、諭すようにギデオン様はアディに告げます。アディも、それがわかっているのか神妙な顔をしていますわ。
「…………?」
なぜかしら。今、胸が痛む場所でした? ギデオン様がおっしゃるのは、わたくしも願っていることなのに。
嫌だわ、今度はわたくしの具合でも悪いのかしら。倒れるわけにはまいりませんから、気を引き締めて参りましょう。
ああ、でも……本当に美しい景色だこと。王宮の窓から望める花々に彩られた庭よりも、わたくしはこちらの方が好きですわ。
◇
わたくしたちは、領邸の門を入ったところで、一度乗ってきた馬車を下りました。
領都エインズワースにある領邸は、歴史あるたたずまいの、とても立派なものです。王宮もかくやという大きさで、さすが王家の分家たる──ギデオン様のお母様だけでなく、エインズワース家は過去幾度となく王家の血を取り入れておりますし、初代は王弟殿下であったとされております──公爵家ですわね。
白亜の王城とは違い、レンガ造りのエインズワース城はどこかあたたかな雰囲気を持つたたずまいですが、細かな装飾や整えられた庭を見る限り、大切に手入れされているようです。
「おしろ!」
門から屋敷へ続く道を眺め、アディは嬉しそうに顔を紅潮させてわたくしとギデオン様を振り返りました。きらきら輝く瞳が可愛いですわ。
「今日からここが家になる。私は定期的に王城に向かうが、アデラインはここで育つ」
「お、とぅさま、は?」
「……しばらく休養でこちらにいるが、すくなくとも一か月後には一度王都に戻る。アークベリー公爵が代理で動いてくださってはいるが、宰相室の整理をして、領主の仕事を主とできるようにしてから、またこちらへ戻る」
そう言うと、ギデオン様はアディからわたくしへ視線を移しました。
「リディア、戻るまでアデラインを頼む」
「ええ、お任せくださいまし。でも、まずは休暇ですわよ、ギデオン様。働きすぎは身体に悪いのですわ」
「それはあなたにも言えることだろう」
「……わたくしは、もうゆっくりさせていただいておりますわ」
たしかに王宮におりましたときは、わたくしも働きすぎだったと思いますの。
ええ、今になってみれば、わたくし働きすぎだったのですわ。お日様より早く起きて、公務や教育にいそしんで、深夜数時間の睡眠を取るまでずっとお仕事をしていた生活は、もう二度と戻りたくはありませんもの。ええ、二度とですわ! ゆっくりと睡眠を取り、おいしいお食事を堪能して、アディと共にいるこの生活は、ギデオン様から離縁状をいただかない限り続けたいと思っていますのよ。
「アディ、領邸に入る前にやることがございますわ」
本来なら馬車は門を抜け、屋敷の玄関口まで行くはずでしたが、わたくしたちに付き添ってきたものとは別の馬車に乗る一人の女性は、この屋敷には踏み入れることが許されていない人です。
そして、アディはここで彼女とお別れをする。
「……はい」
アディには、エルマとはもう会えないのだと伝えております。本来なら教育の始まるよりもさらに前、乳離れと共にお別れするはずだった乳母。女主人の不在と当主の多忙が彼女を長年アディの側に据えてしまいましたが、それは許されない状況です。
「お手紙を渡して、きちんとお礼を申しましょう。わたくしも彼女にありがとうとお伝えしたいの」
エルマのやり方は間違っていたけれど、彼女がいなければアディは一人きりだった可能性もございます。エルマが去ったとしてもその後のことはケリーたちがきちんと手配してくれたとは思いますが、親と慕う存在が側に在ったことは、きっと、アディのためにはよかったはずだから。
自分の領分を多大に踏み越えてしまったエルマには、罰が与えられるのが正解なのかもしれません。正しい養育をさせず、本来受けるべき教育すら奪ったエルマ。でも、そこにあった愛を否定するのは、わたくしにはできなかったのです。
「…………っ」
侍女たちが乗っていた馬車のさらに後ろ、荷物と同乗する形でついてきていたエルマが呼ばれてわたくしたちの前に姿を現しました。幾分痩せたかしら。アディのための料理を食べていた頃はふくよかだったその姿は、地階に戻ってから下働きの手伝いをしていたというだけあり、多少引き締まったように思えます。
きっと彼女もまたきつく言い含められていたのでしょう。アディの前に出ても、彼女は顔を上げず頭を下げたままです。本来なら言葉を交わすことも許されなかった二人ですが、それでも共にした時間はなかったことにはならないから。
「顔を上げよ」
温度の感じられないギデオン様の声を受けて、エルマはそろそろと顔を上げました。初対面の頃のような自信にあふれた表情はそこにはなく、おどおどとした様子です。
「直答を許す。アデライン、話したいことがあるのだろう」
ギデオン様に背を押され、アディは手にしていたリボンで巻かれた筒状の紙をぎゅっと握ります。すっと背筋を伸ばすその小さな背中は、エルマの後ろに隠れた時の幼さは消え、立派な淑女に見えました。
「エルマ」
「!」
ママと呼ばれていたその声が自分の名を呼ぶのに、エルマの表情が歪みました。一歩踏み出すアディは、深呼吸を一つすると手にしていたその手紙をエルマへ差し出します。
「いままで、ありがとう。わたしをそだててくれて」
目の前に差し出された手紙を見つめるだけで、エルマはそれへ手を伸ばさず、ふるふると震えていました。アディは、受け取られない手紙の先のエルマの顔を、一心に見つめています。
「ここにね、わたしと、マ……エルマを、かいたの。あのへやを、かいたの。絵をかくことが好きなのはエルマが、エルマがよろこんでくれたから。わたしに、おしえてくれて……ありがとう」
「あ、ああ、あぁ……」
エルマの震える手が、紙を綴じる銀のリボンに伸ばされました。
幼い頃のアディが使っていたこのリボンは、あまり使われることはなかったせいか、きれいに残っていました。髪を結う技術がなかったエルマは、リボンでアディの髪を飾ってあげることができなかったのだろうとケリーは言っていましたが、ドレスの共布で作られたリボンはすべて大切に保管されていたのです。
わたくしは、そのリボンをエルマに渡したかった。別れの際に残された最後の贈り物は、その後の人生の支えになるのを、わたくしは知っております。
「エルマ、今までアディを守ってくださり、ありがとう存じます。アディの義母として、これからはわたくしがアディを守ります。わたくしは乳母であったあなたに恥じることがないよう、精一杯努めますから、どうか、見ていてくださいまし」
わたくしは、エルマを忘れないで努力いたしましょう。過ちも、愛情も、すべて忘れることなく。
「ありがとう、ママ。元気でね」
さようならの言葉は告げることなく、アディは微笑みました。




