俠気
剛力を以て身を立てた男である。双腕は槐の木のように太く、全身を覆う肉は巌のように硬い。
元は卑賤の人であったが、その怪力を見込まれて、晋の君主、霊公の力士となったのが、この鉏麑である。
時に晋では、霊公の執政として趙盾という卿がいた。
しかし霊公は、君主として有すべき仁愛の心を持たず、暴虐であった。趙盾は当然のこと、霊公を諫めたが、幾度の諫言を以てしてもその素行が改まることはない。
それでも音を上げずに諫言を続ける趙盾を、霊公は段々と疎ましく思うようになった。といって、性根が悪辣で、正道を歩むつもりなどないのが霊公という君主の性情である。諫める者がいなくなれば、日々、小言の煩わしさに耳を悩ませずにすむと考えた。
そこで鉏麑に白羽の矢を立てたのである。趙盾の邸に行き、その頸を刎ねて来いと命じた。
力を買われて一国の君主に仕えることとなった鉏麑であるが、この下命には、内心、嫌気を覚えた。いかにその身が卑賤の出であっても、夜陰に潜み、白刃を以て他者を脅かす下劣な刺客にまでその身を落魄させようとは思えなかった。
しかし君命である。仕方なく鉏麑は、趙盾の屋敷に向かった。
この巨躯剛力の大男は、自尊心が高く、恥というものを知っている。それだけに、いかに己の真意に適わぬものであろうとも、禄を受けた君主からの命を受けたとなれば、その遂行に対して全霊で挑むのであった。
せめてもの矜持として、夜更けではなく晨を狙った。刺客となった身を愧じる気持ちはあれど、その姑息な行動を夜闇で隠すと、なお一層、自分の中で後ろめたい感情が大きくなるような気がしたからである。
行動が卑怯であっても、せめて振る舞いだけは堂々としていたかったのだ。
さて、趙盾の邸に向かい、墻塀を越え、庭を歩いていると、寝所の門が開け放たれているのが見えた。この中に趙盾がいると見た鉏麑は、懐から短剣を取り出す。
するとそこでは、趙盾が坐ったままに寝ていたのである。
だがその身は寝衣ではなく、すでに朝廷へ参じるための盛服をまとっていた。晨といっても、まだ鶏鳴が朝を告げるよりも早いのである。そんな刻からすでに、礼装を改めて朝廷に立つための備えをしているのを見て、鉏麑は手にした短剣をさっ、と離した。
「あの人は、身を正し、君主を敬い仕える心を持っている。民の執政に相応しき人であり、それを殺すのは不忠である」
嘆息して、鉏麑は、自らがなんと愚かしく、のこのことここまでやってきたことだろうかと、その短慮を悔いた。といって、殺すはずであった相手に感服して、主命を投げ出すこともまた不忠である。
「私に一つだけ道があるとすれば、死ぬより他にあるまい」
そう叫ぶと、鉏麑は、趙盾の家の庭に生えていた一本の、大きな槐の木に向かって走り出した。そして勢いよく頭をぶつけ、自ら命を絶ったのである。
今では俠気と言えば、弱者を見捨てず、巨悪に対して果敢に向かう男気のことを指す。
だが元来、俠の精神とは、己の言葉を決して違えてはならぬという誓約であり、如何なる事情があろうとも、己の言葉に偽りが生じたとなれば、死を選ぶより他にないという、凄絶なものであったのだ。




