第3話「旅立ちの朝」
「まさか、本当に旅立つことになるなんてね」
朝日が差し込む教会の前庭。
エリナ=バーンハルトは、腰に剣を下げたままリオを見下ろしていた。
「まだ信じられないよ、昨日の出来事が現実だなんて」
リオ=ヴァルエルは荷袋を背負いながら、少しだけ呆然とした面持ちで返した。
癒しの力を使う日々から一転、魔菌の復活、そして七賢の血を引く者としての運命。
あまりに非現実的な展開に、心が追いつかない。
「信じられないのはあんただけじゃないわよ。私だって“火の賢者の末裔”なんて、自分でも笑っちゃうくらい唐突だったし」
「でも、君は強かった。あの魔物をあっさり倒して――」
「当然でしょ、あんなのは準備運動よ」
エリナはふんと鼻を鳴らして、リオの前を歩き出した。
焔のような髪が、朝の光を受けて揺れている。
リオは一歩遅れてその背を追いながら、そっと呟く。
「……でも、ありがとう。助けてくれて」
「礼なんかいらない。あんたと私、同じ使命を持ってる。それだけの話よ」
ぶっきらぼうな言葉の裏に、照れ隠しが見えた気がした。
エリナの口調は粗雑で、態度もどこか突き放すようだったが、根は優しいのだとリオは感じ始めていた。
「それにしても、教会を離れるのは寂しいな……」
「未練?」
「ちょっとだけ。子どもたちにも挨拶しておきたかったな」
「甘い顔してるとまた泣かれるわよ」
「泣かれても、僕のほうが泣きそうになるかも」
エリナが小さく笑った。
「意外と情に厚いのね、リオって」
「……そうかな」
「うん。まあ、そういうの嫌いじゃないけど」
リオは少しだけうつむきながら、その言葉を胸にしまった。
教会を後にして、二人は小さな村の外れを歩いていた。
土の道の両脇には、田畑が広がり、遠くに牛の鳴き声が聞こえる。
リオは草の香りを胸いっぱいに吸い込み、静かに呟いた。
「なんだか、冒険が始まったって感じがするね」
「そうね。あんた、旅慣れしてる?」
「いや、全然」
「私はある程度ね。訓練の一環でよく歩き回ってたから。……ま、頼りにしていいわよ?」
「それは心強いな……僕、地図読むのすら不安でさ」
「は? あんた賢者の末裔でしょ?」
「癒しの賢者だから、戦闘や探索は……」
「はぁ……しばらくは私が引っ張るしかなさそうね」
エリナは肩をすくめながらも、どこか楽しそうだった。
そのとき、草むらの中からガサッと音がした。
「っ……!」
二人は同時に足を止め、身構えた。
しかし現れたのは、小さなウサギだった。
「……ただの動物ね。ビビりすぎ」
「う、うん……ちょっと緊張してて」
「その調子で魔族と戦えるのかしら」
「い、今から慣れるよ」
エリナは呆れたようにため息をついたが、その表情は柔らかかった。
「ま、最初はそんなもんか。私も昔、魔物の影だけで叫んだことあるし」
「……え? 本当に?」
「言ったでしょ。昔よ、昔」
リオはクスッと笑った。
「あ、笑ったわね」
「ごめん。でも、ちょっと意外だったから」
「ふん、どうせ私は炎しか脳がないって思ってるんでしょ」
「そんなことない。君、ちゃんと周り見てるし……それに、優しいよ」
「~~ッ!」
エリナが顔を赤らめてそっぽを向く。
「バカ、急に何言ってんのよ……っ」
リオは慌てて「ごめん」と付け加えたが、エリナの照れた顔に少しだけ安堵した。
その日の夕暮れ、二人は小さな街道沿いの宿場町にたどり着いた。
宿は質素だが清潔で、老夫婦が切り盛りしているようだった。
「ここ、一泊いくらだって?」
「銀貨二枚。安い方だよ」
「よし、交渉してみるか」
「え、交渉?」
「当たり前でしょ。こういう旅は節約第一なのよ」
エリナは受付に向かい、あっという間に銀貨一枚に値切ってきた。
「……すごい」
「まあね。こういう時は女の武器ってやつよ」
「ど、どういう意味……?」
「べーつにぃ?」
にやりと笑うエリナに、リオはなんとも言えない苦笑を返した。
部屋に入ると、古びた木のベッドが二台。窓の外にはオレンジ色の夕日が沈んでいくのが見えた。
「……こうして見ると、まだ静かだね。世界が滅びに向かってるなんて信じられないよ」
「でも、確実に動いてる。魔菌は封印から漏れ始めてる」
エリナは真剣な目でリオを見た。
「私たちが動かないと、間に合わなくなる」
「……うん。僕も覚悟決めたよ」
リオの声は、朝よりも少しだけ強くなっていた。
エリナはふっと笑った。
「ま、頼りないけど、ついてきなさいよ。あんたは後ろで癒してくれればいいから」
「それだけでいいの?」
「……たまには、私を守ってよ。女の子なんだから」
不意にそう言われて、リオは目を丸くした。
「え……」
「なーんてね。ほら、早く休みなさい」
リオは苦笑しながら、ベッドに身を投げた。
旅の始まりは、意外にも穏やかで、どこかくすぐったかった。
だが彼らはまだ知らない。
数日後、最初の災厄が、彼らを試すかのように襲いかかってくることを――。