第22話「裂け目の目覚めと沈みし記憶」
アゼル岩山の空が、どこか重く感じられたのは、ただの錯覚ではなかった。
――バキィィン!
山肌を割くような音とともに、大地が震える。足元の岩盤が鈍い呻きを上げながら、音もなく口を開けた。見れば、岩盤の裂け目が幾筋にも走り、その奥深くから黒紫色の瘴気が、まるで溜め込んだ恨みを吐き出すように、ゆらりと立ち昇っている。
「っ……ここにも、封印の破綻が……!」
バルドが眉間に皺を寄せ、裂け目へと一歩踏み出す。その肩に止まっていた小さな風の精霊が、キィ、と甲高い声で警告するように羽を振るわせた。
「リオ、これは……?」
後ろから声をかけてきたのはミラだった。瞳に不安を湛えて僕を見つめてくる。すぐ傍ではエリナが剣を抜き、何かの出現に備えるように構えていた。
だが、そのときだった。
「やめろ!」
張り詰めた空気のなかに、鋭い声が響いた。
皆が一斉に振り向く。声の主――ザイクが、まるで何かに取り憑かれたように、裂け目を睨みつけていた。額には汗が滲み、右手は強く拳を握りしめて震えている。
「その奥には、何かがいる。近づくな……!」
「ザイク……?」
思わず口に出た僕の言葉に、ザイクは反応せず、ただ唇を噛みしめていた。目の奥にあるのは――恐怖。明らかに、彼の中に強い“記憶”が蘇っている。
バルドが静かに目を細めた。
「どうやら、お前は以前にも“裂け目”に触れたことがあるな。違うか?」
ザイクは答えない。ただ拳を握る力が増していくばかりだった。
「まさか……ザイク、あなた……」
ミラが心配そうに声をかけた。だが、それにも答えず、ザイクはつぶやいた。
「……俺は、前に……似たような場所で、誰かを……守れなかった」
その言葉に、僕の胸に痛みが走った。
彼はきっと、過去に――
「封印の瘴気に触れた者は、記憶の底にある最も脆い部分を揺さぶられる。そういうものだ」
バルドが言った。
「ここはただの地割れではない。“封印の綻び”だ。賢者の血を引く者にしか感じ取れぬ、深淵の気配がある」
ザイクは一歩、後ずさった。まるでこの場所にいること自体が苦痛であるかのように。
「俺は……進めない」
「どうしても?」
僕の問いに、ザイクは顔を伏せたまま答える。
「……また、誰かを……ミラを、傷つけてしまう気がしてならないんだ」
その言葉に、ミラがはっとした表情を浮かべる。
「ザイク……私は――」
「言わないでくれ、ミラ。俺は、自分の力を信じきれない。だから、今は……距離を置きたいんだ」
沈黙が流れた。誰も、すぐには言葉を返せなかった。
風が、静かに岩肌をなぞるように吹き抜ける。
その風に乗って、小さな光の粒――風精霊たちが、そっと舞い始める。
バルドが懐から一枚の古びた板を取り出した。それは翡翠のような光を宿した、“封印の破片”だった。
「これはこの地に埋められた古の封印石の一部だ。完全ではないが……残された封印の力が、裂け目を完全に開くのを防いでいる」
「……この封印が破られたら、何が出てくる?」
エリナが問う。バルドは空を見上げて言った。
「わからん。ただ、賢者の一人がこの地に拠点を築いたという記録がある。何らかの“鍵”が眠っている可能性はあるな」
鍵――その言葉に、僕の中で何かが引っかかった。
ザイクは何も言わない。ただ、ゆっくりと僕たちに背を向けた。
「少し……頭を冷やす」
そう言って歩き出した彼の背中を、僕たちは誰も止めることができなかった。
彼の中に沈んでいる“何か”を、僕たちはまだ知らない。だが、それが彼を縛っているのは確かだった。
ミラが、寂しそうにザイクの背を見送った。
「……あの人、ひとりで大丈夫かな」
僕は答えられず、ただ風に揺れる封印の破片を見つめた。
それは、過去と未来を繋ぐ“裂け目”だった。




