第19話「巡る風、揺らぐ心⑵」
風の神殿を出発してから、数日が経った。
ルグレ高原を越えた先に続く草原地帯には、まだ春の匂いが色濃く残っていたが、風だけは相変わらず冷たかった。昼夜の寒暖差に身体が馴染むには時間がかかる。だがそれ以上に、心の奥に引っかかった《幻視》の余韻が、僕の胸を静かにざわつかせていた。
――本当に、あれは“もしも”の未来なのか。
僕は歩きながら何度も、風の継承者・カイルが見せた幻の映像を思い返していた。仲間を疑い、誰も信じられなくなり、結果的に全てを失っていく自分の姿。冷たく、空虚で、そして何より――孤独だった。
「……あんなの、絶対に嫌だ」
小さく漏らした独り言は、風の中に吸い込まれた。空はどこまでも澄み渡り、浮かぶ雲はのんびりと風に流れていた。けれど、僕の心の中にはまだ、重たい雲が垂れ込めていた。
「……そんな顔してると、また風に吹き飛ばされるぞ」
突然、後ろから軽い声がかかった。振り向けば、ザイクが口元に苦笑を浮かべていた。風に舞う黒銀の髪と、真っ直ぐにこちらを見つめる琥珀色の瞳。いつも冷静で、無表情気味な彼にしては珍しい冗談だ。
「……ありがとな、ザイク」
少しだけ肩の力が抜けた。僕が礼を言うと、彼は「気にするな」と言わんばかりに肩をすくめ、視線を前方へ戻す。先を歩いていたエリナとミラが、何か楽しげに言葉を交わしているのが見えた。
「試練ってのは、心をえぐるものらしいな。……ま、俺は昔から自分の弱さは嫌ってほど知ってるけどな」
ザイクがぽつりと呟いた。過去のことを多く語らない彼が、自嘲気味にそう言ったのが印象に残った。
あの幻視が教えてくれたのは、仲間を信じることの難しさ、そしてそれでも信じ続けることの強さだったのかもしれない。
その夜、僕たちは林のそばに野営地を設け、焚き火を囲んでいた。木々の間を吹き抜ける風が、焚き火の炎をゆらりと揺らす。パチパチと薪が弾ける音だけが、静かな闇に溶けていった。
ふいに、隣に腰を下ろしていたミラが口を開いた。
「……リオ、今日のあなた、少しだけ優しかった」
「え?」
ミラは微笑みながら首を横に振る。
「ううん、変な意味じゃなくてね。なんていうか……雰囲気が、穏やかだった」
焚き火越しに見つめてくる瞳は、どこか柔らかく、そして不安げでもあった。
「……あの幻視を見たからかもな。あんな未来を……僕は絶対に、現実にしたくないって思ったんだ」
ミラはゆっくり頷くと、膝の上に両手を重ねた。
「私も、怖かったよ。だけど……あれを乗り越えたあなたなら、大丈夫だと思う。私は信じてる」
焚き火の明かりが、彼女の頬をほんのりと染めた。その表情に、不思議と心が温かくなる。
「ありがとう、ミラ。君がそう言ってくれるなら、僕は――」
言葉の続きを飲み込んだとき、ふと視線の端に映る影に気づいた。
焚き火の向こう側、ザイクが一人、焚き火の炎をじっと見つめていた。彼の手には、古びた金属片――かつての魔族との戦いの痕が残る、小さな装飾の欠片が握られていた。
「ザイク……?」
声をかけかけて、やめた。彼の横顔はどこか寂しげで、普段の冷静さとは違う、胸の奥に何かを押し込めているような影を帯びていた。
その金属片は、ただの記憶の象徴ではない気がした。まるで、近い未来に訪れる“何か”を予感させるような。
翌朝、太陽が東の空を照らし始めた頃、僕たちは次なる目的地――《大地の継承者》がいるとされるアゼル岩山へ向けて出発した。
「風は、もう我らを拒まない」
ザイクがぽつりと呟いたその言葉には、妙な静けさと、どこか決意めいた響きがあった。ミラとエリナも振り向き、彼を一瞬見つめるが、何も言わず再び歩を進めた。
試練を越えた先に広がるのは、ただの旅路ではない。過去と、未来と、そしてそれぞれが抱える“選択”の物語だ。
空を見上げると、澄んだ青の中を雲が静かに流れていた。
次に待ち受けるのは、大地の継承者――そして、また新たな運命のうねり。
僕たちは歩き続ける。誰もが、自分の歩幅で。




