第2話:揺らぐ日常
人は、失ってから気づくものだ。
それが平穏という名の贅沢であることに。
静かに目覚めた朝――
リオ=ヴァルエルの世界は、何も変わらぬまま始まった。
日差しは優しく、鳥のさえずりは穏やかに響く。
遠くでは羊の鳴き声が聞こえ、聖堂の鐘が午前の祈りを告げる。
だが、彼の胸の奥では何かがざわついていた。
まるで、昨日の“夢”がまだ終わっていないかのように。
「――また会おう、リオ」
耳の奥にこびりついた声が、ふとした瞬間に蘇る。
鏡を見ると、自分の顔なのに、どこか他人のような気がしてならなかった。
洗面器の水面に映るのは、
淡い緑髪に金と緑の入り混じった瞳。
今までは気にも留めなかった容姿が、妙に異質に感じられる。
それは他人にそう見られるからではない。
自分自身が、自分を他人のように見始めたという事実だった。
午前中は、いつもと変わらぬ奉仕活動に費やされた。
老女の関節痛を癒し、子どもたちに簡単な魔法の読み聞かせをし、庭に生える薬草の手入れをする。
修道女のマリアは何も言わなかったが、時折、リオの顔をじっと見ることがあった。
「リオ。最近、夢を見たことは?」
昼下がり、彼女は不意にそう尋ねた。
「……どうして?」
「昔、私も見たの。言葉では説明できない、誰かに“呼ばれる”ような夢を」
リオの手が止まった。
「それは……どういう意味?」
「さあね。けれど、賢者の末裔には時折、“夢の声”が届くことがあるっていう話よ。封印が不安定になるとき、選ばれし者たちに何かが囁く――そんな伝承」
「僕は……ただの孤児だよ」
「本当に?」
マリアは、優しく笑った。
その笑顔が、いつもよりどこか遠くに見えた。
午後、村に異変が起こった。
「……なに、あれ」
村の子どもたちが指差した先――
聖堂の外、丘の向こう。森の入口に、黒い煙が立ち昇っていた。
リオが駆けつけたとき、森の地面が部分的に爛れていた。
草木は腐り、胞子のようなものが漂っている。
空気が粘りつくように濁り、呼吸をするだけで喉が焼けるようだった。
「下がって!」
リオが叫び、子どもたちを抱えるようにして後退させた。
その瞬間、腐食した大地の中心から――
何かが“這い出てきた”。
ぬるりと音を立てて現れたのは、異形の生物。
犬のような四足獣の骨格に、赤黒い粘菌がまとわりついている。
目も口もない。ただ、腐った肉と骨の隙間から、無数の触手がのたうつ。
「……魔菌の、魔物……」
リオの声が震える。
目の前の存在は、明らかに“自然”のものではなかった。
だが、逃げてはならない。
彼は癒し手であり、この地に生きる者として――
リオは、懐から聖印を取り出し、両手を構えた。
「――癒しの術式、転写」
掌から放たれた光が魔物にぶつかり、じゅっと音を立てて拡散する。
だが、効かない。
「……!? 癒しが……焼かれる?」
まるで相手の“存在そのもの”が、術式そのものを拒絶しているようだった。
魔物が跳ねる。
爛れた大地を蹴り、リオに飛びかかってくる。
寸前で身を捻り、地面に転がってかわす。
「くそっ……」
恐怖で足が震えそうになる。
だが――
「おらぁぁああああっ!!」
一閃。
炎の刃が、空気ごと魔物を両断した。
燃え上がる火炎が魔物の体内の菌核に触れ、黒煙とともに霧散する。
「……間に合ったわね」
現れたのは、一人の少女だった。
真紅の髪が風にたなびき、陽光を受けて焔のように揺れていた。
眼差しは琥珀のような深い橙色で、見下ろす視線には静かな覚悟と火花のような自信が宿っている。
彼女の衣装は移動に適した簡素な魔導装束だが、腰に下げた剣と全身に纏う熱気が、彼女が只者ではないことを証明していた。
体格は引き締まりつつも曲線を残すバランスで、年齢はリオと同じくらい。
姿勢も言葉も凛としていて、その佇まいからは“戦う者”としての誇りが感じられた。
燃えさしのような剣を肩に担ぎ、彼女は淡く笑った。
「あなたが……リオ=ヴァルエル?」
「え……?」
「やっぱり、あの時の夢は本物だったのね。まったく、面倒な役を引き受けちゃったわ」
「あなたは……」
「エリナ。エリナ=バーンハルト。火の賢者の末裔よ」
その言葉を聞いた瞬間、リオの中で何かが震えた。
“七賢の血筋、その末裔よ”
夢の声が、再び蘇る。
「目覚めなさい、リオ。世界は、もう動き始めているのよ」
少女の瞳が、まるで炎そのもののように、彼を射抜いた。
そして、彼の“日常”は、その瞬間、完全に終わりを告げた。
(第2話・了)