第16話「目覚めの兆し」
山を越え、森を抜け、道なき道を三日。
僕たちは風の継承者がいるという東の国、《アスレヴァーナ》を目指して進んでいた。
ルグレ高原での戦いからは、まだ一週間も経っていない。けれど、あの瘴気に覆われた日々が、もう遠い記憶のように思えた。
「ねぇ、リオ。こっちの道で合ってるのよね?」
ミラが小走りで僕の横に並ぶ。柔らかな髪が揺れ、陽光を弾いた。あの時、死の縁から戻ったとは思えないほど、彼女は元気そうだった。
「うん。封印の文献によれば、この辺りの風が導いてくれるって……って、まぁ、具体的には書いてなかったけど」
「風が導く、ね。おとぎ話みたいだな」
背後でザイクが低く呟いた。その声には、どこか影が差していた。彼はあの日以来、少し口数が減っていた。
「でも、風が本当に導いてくれるのなら、継承者の力も近づけば反応するかもよ」
エリナが前を歩きながら、片手に小さな封印石を掲げた。七賢人の力を宿すその石は、かすかに温かな光を帯びていた。
「……それにしても、静かだね、この辺り」
僕は足を止めて、周囲に耳を澄ませた。木々はそよぎ、風は穏やかで――瘴気など微塵も感じられない。
ミラも立ち止まり、空を見上げた。
「こうして歩いていると……何でもない旅をしてるみたい。封印とか、使命とか……忘れちゃいそう」
その言葉に、僕の胸が少しだけ痛んだ。あの日、ミラが傷ついたのは、僕の判断が遅れたせいだ。セレスティア・ブレスで救えたからといって、それが帳消しになるわけじゃない。
「……ごめん、ミラ。あの時……僕が、もっと早く――」
「言ったでしょ? あたし、もう大丈夫だって」
ミラはにっこりと笑い、そっと僕の腕を叩いた。
「それに、リオの魔法、すごく優しかった。……あの光の中で、ちゃんと感じてたんだよ。あたし、絶対に死なないって、思えたもの」
思わず言葉を失う。ミラの瞳はまっすぐで、微笑みに嘘はなかった。
――そうだ。僕たちは今、生きてここにいる。
「……ありがとう、ミラ」
それ以上は何も言えなかった。けれどそれで十分だった。
「……へぇ、いい雰囲気だな」
後ろで、ぽつりとザイクが呟いた。冗談とも皮肉ともつかないその声に、エリナが振り返り、じと目を向ける。
「何よ、あんた。嫉妬でもしてんの?」
「まさか」
ザイクは肩をすくめて、それ以上は何も言わなかった。
昼を過ぎた頃、道は岩場混じりの斜面へと変わった。
空気が少しずつ乾き、風が肌を撫でるように通り過ぎていく。高原とは違う、透明で軽やかな風――この先に《風の継承者》がいることを、どこかで確信させてくれる空気だった。
「……リオ」
エリナが足を止め、小声で僕を呼んだ。すぐ隣にはザイク。その目が、ある一点を射抜いていた。
視線の先には、一面に広がる断崖と、その先にぽっかりと開いた大穴。まるで風にえぐられたようなその地形は、自然が作ったものとは思えないほど異様だった。
「風の――継承者の力?」
「かもな。でも、少し引っかかる」
ザイクは短く答えると、懐から短剣を取り出して身構える。彼の顔には、明確な警戒の色が浮かんでいた。
ミラも僕の肩越しに覗き込み、声を潜める。
「この感じ……風の気配はあるけど、なんか……濁ってる」
「瘴気じゃないけど、何かが混ざってる。……まるで、魔菌の残滓みたいな」
エリナが言う。僕はごくりと唾を飲んだ。
「魔菌はまだ動いてないはず。でも……これが予兆なら、急いだ方がいい」
頷くと、全員の視線が自然と一致した。
「先を探る。リオ、オレが前に立つ。お前はミラと後ろを頼む」
ザイクがそう言った時、彼の表情がほんのわずかに揺れた。
(……あれは)
エリナがふとザイクを見つめたまま、黙り込む。僕も同じ疑念が胸をよぎった。
――ザイクは何かを隠している。
戦いの後から、ずっと。
彼はミラを助ける場面にも立ち会っていた。それなのに、あの時からどこか距離をとるようになっていたのは――何か、後悔があるのかもしれない。
「行こう。ここで止まってても仕方ない」
僕の声に、皆が頷いた。
斜面を降りていくと、地形は一転し、石造りの道が現れた。風紋が刻まれたその道は、古代の封印術に由来するものだとすぐに分かった。
「……これは、七賢人の時代のものだね」
ミラがつぶやくように言い、周囲を見渡す。風がここだけ、妙に冷たかった。
「この奥に、継承者が……」
そう言った瞬間――。
ひゅうう、と空気が震え、突風が渦を巻いて地面から吹き上がった。
「っ……来るよ!」
叫ぶ間もなく、風の塊が形を取り始めた。人型でも獣でもない、ただ刃のように鋭利な風の魔物。
「くっ……!」
エリナがすかさず前に出て、炎の剣で風を切り裂く。しかし、次の瞬間にはまた別の風刃が巻き起こった。
「これ……自然の風じゃない!」
ミラが叫ぶ。風に、微かに混ざるのは――呪気のような黒い粒子。
「やっぱり……魔菌の影響だ!」
「……奴ら、もうこの地にまで?」
ザイクが低く呟きながら、鋼の腕で風刃を受け止める。その表情には怒りとも悔しさとも取れる感情が滲んでいた。
(このままじゃ――まずい)
僕は手を掲げ、再び魔力を練った。癒しの力では戦えない。けれど、支援はできる。
「《聖風の結界》!」
風を遮る結界が広がり、仲間を包み込む。その中で、エリナとザイクが呼吸を整え、再び前線に立った。
――僕たちは、まだ旅の途中だ。
けれど、この出会いが、次なる封印の鍵になる。
《風の継承者》が、この先にいる。




