第14話:目覚めの兆し
ルグレ高原の朝は、どこか重く湿っていた。
空は晴れているはずなのに、草の香りの奥に、かすかな鉄錆のような臭いが混ざっている。
「……この辺り、昨日とは何か違う気がする」
先頭を歩いていたザイクが、眉間に皺を寄せながら立ち止まる。
「瘴気、かもしれませんね」
エリナが周囲に目を光らせながら、腰の双剣に手を添える。
続いて、ミラも静かに口を開く。
「地面の生命反応が弱まってる……植物の鼓動が鈍ってるわ」
――僕は歩みを止め、周囲の空気に意識を集中させた。
微かな、けれど確かな《嫌な気配》。どこか、過去に似た感触を覚えていた。
「……何かが、目覚めかけている」
その瞬間、風がざわついた。
一本の大木の根元から、ぼそり、と何かが囁いたように聞こえた気がした。
「聞こえた?」
ミラが肩をすくめる。彼女の瞳が揺れている。
「ああ。言葉じゃないけど、強い“拒絶”の意思を感じた」
「誰かが……何かが、入るなって言ってるのか?」
ザイクの問いに、僕は頷くしかなかった。
そして――その時だった。
「――来るよ!」
エリナの叫びとともに、地面から黒い影が噴き出した。
それは“影”と呼ぶには異質すぎた。
煙のようで、液体のようで、なおかつ意志を持っているような動き。
その中央に浮かぶ無数の眼――否、眼のような“穴”が、こちらを見ていた。
「退け! 一度体勢を整える!」
ザイクの号令に従い、全員が後方へと跳ねる。
僕は急ぎ詠唱を唱え、癒しの結界を展開した。
「《セレスティア・ブレス》!」
緑の光が花のように広がり、仲間たちを包む。
黒い影は僕たちの動きに応じて蠢いたが、一定の範囲から出ようとはしなかった。
「……結界、だな。あれ自体が“結界”の役割をしてるのか?」
「もしかして、内部に何か封じられているのかもしれない……」
ミラの声には、僅かな震えがあった。彼女の肌が粟立っているのが見える。
彼女の能力――自然との同調が、よほど強く“拒まれて”いる証拠だ。
僕たちは、慎重に円を描くようにして、影の発生源を中心に観察を続けた。
その時、風の中に異質な香が混じった。
薬草ではない。
魔力でもない。
それは――カビ。
朽ちた木の内部、封印された洞窟、あるいは禁じられた書物が眠る図書館の奥でしか嗅いだことのない、あの、古く、重く、そして“病んだ”匂い。
「まさか、これが……“魔菌”の瘴気?」
エリナが、驚きと怒りが混じったような声を出す。
そう、その名はあまりにも忌まわしい。かつて七賢人が命を懸けて封じた、世界を腐らせる存在。
だが、この場でそれが完全に解き放たれているわけではない。
――“兆し”。
封印の綻びが、既に現実に表れている。
「……引き返そう。無理に踏み込めば、封印を破る手助けになりかねない」
ザイクの提案に、僕たちは全員頷いた。
引き返すその足取りは重く、背中にまとわりつくような違和感が、しばらくの間消えなかった。
そして、リュクスの街に戻ったその夜。
宿の部屋で、僕はひとり“記録の書”を開いた。
七賢人のひとり、エルグ・ミストが残した断章に、こう書かれていた。
「魔菌とは、知性を持つ“死”である。
封印の鍵は、我らの血脈にして、未来の意志。
それを誤れば、再び“世界は終焉に向かう”。」
ページを閉じる手が、少しだけ震えていた。




