第13話「白翼の余韻と、静寂の断章」
瘴気の霧が晴れ、ルグレ高原に静けさが戻る。
夜露を帯びた草原の匂いが微かに風に混じり、かつての平穏を取り戻したかのようだった。
だがその中心にいる――リオ=ヴァルエルの身体は、今なお熱を帯び、膝が地についたまま動かない。
「リオ! しっかりして!」
ミラの声が耳元で響いた。
水色の髪が僕の頬に触れ、彼女の華やかな香りが意識を繋ぎ止める。
彼女の豊かな胸元が揺れているのが視界の端に映ったが、そんなことを意識する余裕は今の僕にはない。
「大丈夫……ちょっと、力を使いすぎただけ……」
言葉にするのも辛いが、ミラの必死な顔を見れば、弱音は吐けない。
彼女は僕の身体を抱きかかえるように支えてくれた。
その向こうから、エリナが沈黙をまとって近づいてくる。
「……やっぱり、貴方は普通じゃないわね」
彼女の赤い瞳が、僕とミラの間を静かに見つめていた。
その表情には、安堵と……ほんの僅かな嫉妬が混じっていた気がした。
祭壇跡には今もなお、淡く青白い光が残っていた。
そこに浮かぶ“セラフの印”――七芒星を核に、天使の翼を模した紋章が石に刻まれている。
「これが……セラフの印……」
僕はそっと手を伸ばし、指先でその輪郭をなぞった。
どこか懐かしい……けれど、恐ろしくもある力が指先から伝わってくる。
「この模様……七芒星が中心にあって、左右に翼が伸びてる……羽根の数は七枚ずつ。七賢人を象徴してるのね」
エリナが呟く。
彼女の声は穏やかだが、知識の深さを感じさせる確かさがあった。
あの時、僕が放った《セレスティア・ブレス》は、明らかにこの印が力を引き出してくれた結果だった。
導かれるように、というよりは……試されていた、そんな気がする。
夜。高原の外れにあった避難小屋にて。
僕たちは焚き火を囲み、静かに身体を休めていた。
「……なあ、リオ。あれは……何だったんだ?」
横になったまま、ザイクが話しかけてくる。
彼の銀髪が月明かりを反射し、淡く光っていた。
「僕にも……正確には、分からないんだ。ただ、あの印が……僕に力を貸してくれた気がする」
「“力を貸してくれた”?」
「うん……封印を維持する意志の残滓、みたいなものかも。けど、それだけじゃない。“問われた”んだ。僕が、癒しを選ぶ者であるかどうかを」
エリナが薪をくべながら顔を上げた。
「“癒しを選ぶ者”……?」
「……そう。戦うでもなく、断ち切るでもなく、癒すという選択。過去も、痛みも、すべてを抱えたまま」
言葉にしながら、僕は自分自身の過去を思い出していた。
孤児だった僕を拾ってくれた修道院。誰にも必要とされず、でも誰かのために魔法を学び続けたあの時間。
心の痛みを癒すのが、自分の存在理由だと思っていた。
だからこそ、僕はこの力に応えたかった。
癒しを拒まれたこの世界に、もう一度手を差し伸べるために。
夜更け、眠れなかった僕は、ひとり小屋を抜け出し再び印のもとへと戻った。
風が冷たく、草の香りが心を静かにさせる。
月の光に照らされたセラフの印は、さながら祈るように地に刻まれている。
その前に膝をつき、僕は手を合わせる。
「僕は、癒したい。この世界を、そして……僕自身の痛みも」
印が淡く光り、風がそっと吹き抜けた。
(ありがとう……)
誰かの声が、確かに聞こえた気がした。
翌朝。
ザックリとした朝露の中、僕たちは旅支度を整えていた。
「次の目的地は……王都、だな」
ザイクが肩の傷を押さえながら呟く。
ミラが明るく笑う。「情報では、王都の旧大聖堂に次の封印があるらしいよ」
「地下だ。しかも、魔族も動いてる可能性があるわ」
エリナが真剣な表情で地図を差し出す。
僕は頷いた。
セラフの印に問われた“選択”の答えを、僕はもう見つけている。
「行こう。世界を癒す旅を、止めるわけにはいかない」
その背に、高原の風が静かに吹いていた。
――続く。




